海側生活

「今さら」ではなく「今から」

ありがとう!異常なし

2012年03月13日 | その時を覚悟した

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今、ココロも身体も小躍りしている。

思わぬ病気の発見以来、気ままに「海側生活」を続けて来たが、手術後五年の検査で何ら異常は無いとの結果が出た。
五年前、ウエブでこの病気の五年生存率9%の文字を眼にしてココロが乱れて以来、一つの大きな区切りが付いた。

素直に、身近な人に“ワガママに過ごさせてもらい、ありがとう!”と大声でお礼を言いたい。

それにしても何と言う運が良さか。
振り返ってみれば、好きな所で好きな事をしたいと身近な人にも我が儘を聞いて貰い、ビジネスを中締めして、海側に住まいを移したのも、ついこの前みたいな気がする。生活の環境を大きく変えた。そして歴史散策と森羅万象に好奇心を全開にして方々を歩いた。しかしタバコだけは、止めてストレスを感じるぐらいなら吸ったほうが良いと、手元から消える事は無かった。

勿論その時を覚悟して、身の回りの整理なども済ませた。
主治医M,Mさんとは手術前から今日まで折りに触れ身体、健康、生き様、趣味、住まいなどについて議論もした。
今、彼から“おめでとう!”とダルマを頂いた。

ただ本当に迷っている。
予定には無かった「今から」の時を、どう生きるか、まだ文字としてはまとめきれない。
「海側生活」から「山中生活」又は「街中生活」に大きく生き方の舵を切るか。何をするかで、どこに住むかが決まる。

もうストレスは要らない、感じるような状態に身を置きたくない。
しかし生きている限りストレスがゼロになる事はあり得ない。出来るのは、どのストレスを選ぶか、そしてそれといかに付き合って生きていくかを模索するだけだ。


予定が狂った年だった

2011年12月28日 | その時を覚悟した

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当たり前のように思っていた日常が、大きく姿を変えた2011年も間もなく大晦日を迎える。


自分も節目の年だった。節目と言うよりも大きく予定が狂い、これからどう生きるかと迷っている。


五年前に思わぬ病気の発見があり手術を受けた。
膵臓でも部位が膵頭だと言う事で、十二指腸も同時に切除してしまった。ウエブサイトでこの病気の5年生存率は9%の文字を目にした時はココロが乱れた。


ノンビリ生きなさい!と、何かの啓示なのかとも考えた。そして覚悟した、自分の寿命は後三年と。
そして周囲の皆に我がままを言い、走り続けてきたビジネス人生も中締めして海側生活を始めた。


海側での生活を通じて改めて自然に感謝し、多くの友からの善意を頂いた。また「何をするか」ではなく、更に「何をしないか」を求めた。この間、万が一の覚悟はとうの昔にしているはずなのに、体のチョットした変化に敏感に反応し「その時が来たか!」と身構える事も度々だった。


今、五年間が過ぎようとしている。主治医も異常は無いと言う。
当初の予定では、今頃はとっくに皆に「さらば!」と言っていた筈だった。
そして欲が出た。五年生存し、その後をどう生きるか、さらにどこに向かうか。


迷った末に、遠い昔の忘れ物を取りに行くと同時に、自分の現在の気力と体力の言わば残高確認をしたくて、この初夏に東海道五十三次の歩き旅をした。そして目的地の京都・三条大橋に着けた。その間改めて様々な想いが湧き上がった。


予定には無かった「これから」を、どう生きるのか、まだ文字としてはまとめきれない。まだ迷っている。
取りあえず三年間を記載できる一冊の新しい日誌を買った。


「生まれ変わる」と言う言葉があるが、想うほど単純な感情ではない。
いずれにしても従来とは全く違う覚悟が必要だ、行動も伴う事になるだろう。


でも分る。人生の素晴らしさは、この今の時にあるに違いない。


友へ!明るい新年をお迎え下さい


欲が出てきた

2009年05月10日 | その時を覚悟した

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最初の口腔底癌の発見から三年半が過ぎた。
膵臓癌の発見から二年半、手術から二年と三ヶ月経った。
海側生活を始めてから、早一年も過ぎた。

人生の中締めを決意し、この海側で春・夏・秋・冬を一回ずつ経験し、そして又春を迎えている。

退院は再発との闘いだと自分に言い聞かせていたものの、日常生活において身体にチョットした変化があっても「来たか!再発か!」と、毎月の定期検査・診断の結果を、受験結果の発表を見る高校生の心境みたいに医師の一言一句に耳をそばだて、思わず身が引き締まってしまう。
人生の中締めをした一年前、あらゆる事を整理し、そして覚悟してこの海側生活を始めたではないか、と自分に言い聞かす。
しかしこの瞬間だけは決して慣れる事は無い。

診断によると特別の変化は無いと抑揚の無い声で医師は言う。
途端に重いバッグを下ろしたときのように肩が急に軽くなったような気がする。

この病気が発症した以上は高をくくるわけには行かない。
ファイティングポーズだけは、いつも取っておこう。
手を下げるわけにはいかない。

欲が出てきた、生きたくなった。
改めて為す事すべてに「今さら」ではなく「今から」と強く思う。


お手のもの

2009年03月16日 | その時を覚悟した

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通院と薬の服用が生活の中心で、この儘の状態ならばビジネス仲間にもいつか迷惑を掛けてしまう事になるだろう、
そうなる前に、ビジネス人生の中締めをしよう、と考えた。
更に人生の“中締め”もしようと決心した。
このチャンスを、自分の力が及ばない何かが呉れたのだ、とも思った。
その生活の中心を好きな海の側にしよう。
そして人生をやり切ろう。

決断するのは早かった。
行動も素早かった。

多分終の棲家になるだろう海側の“住まい“を探し始めた。
不動産を見る、探す、造る事等はお手の物だ。
思えばずいぶん長い間この関連業界に携わって今日まできた。

条件はやはり暖かい気候の土地で、「海側生活」が絶対条件だ。
土地だけでも良い、建物は造ればよい。
古家でも良い、自分向きに手直しをすればよい。
浜近くに立つ漁師小屋でも良かった。
沖縄やオーストラリアも検討した、しかし余り遠く離れていると友達も簡単には遊びにも来難い。
外房や伊豆半島は交通インフラが自分向きではない。

ずいぶん物件を見た。このマンションと出会うまで2ヶ月掛かった。
そして決めた、逗子・小坪に。


人生の“中締”を

2009年03月11日 | その時を覚悟した

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退院から一年経った頃、抗癌剤の副作用はいろいろと起きているものの、この状態で日々を過ごして良いのかと考えた。
毎月行う生体検査や三ヶ月毎にCT検査の結果は、特に異常を示す数値は出てこない。

しかし自分のビジネスも生活も、身体と通院優先で全てが中途半端になっていた。
情報を全く発信しないのだから、当然受ける情報は従来の20%以下ぐらいに減っていた。
この状態の儘だったら、ビジネスの仲間達に、関係者に又友人達にも迷惑をいつか及ぼしてしまうであろう事を
心配した。

そして決心した。
ビジネスの中締めも今がチャンスだ。
更に、人生の“中締め”もしよう。
その生活の中心を好きな海の側にしよう。
そして人生をやりきってみよう。

久しぶりに気持が晴れた。

すぐ実行に移した。


優しくなったのかな

2009年03月06日 | その時を覚悟した

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接する人も自分に優しくなったような気がする。

膵臓癌の手術だったと聞き、「大変だったですね」と言ったまま急に話題をそらす人、身内にもこんな療法を行った人が居ると教えてくれる人、現代医療は進みましたからと励ましてくれる人、あなたは過去のデータは参考にならない人だからと元気付けてくれる人等---。
言葉遣いまで何だか優しくなった人等様々だ。

ただビジネス面において突っ込んだ話、複雑な話、時間が掛かりそうな話は、殆どの人がしなくなった。
接する人たちの心遣いに有難くも有り一抹の寂しさもあった。一方、しんどい時だろうからこそ、気を紛らわさせようと敢えて次の案件をぶっつけてくる人も有り嬉しく感じてしまう。

人に会うと言う時間ががこんなにも楽しいものかと改めてしみじみと感じる。

自分も優しくなったと思う。


退院は“再発”との闘い

2009年03月03日 | その時を覚悟した

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退院後もチョットした胃辺りのシクシク感にまた体調の変化に“再発“かと考えてしまう。

結局、抗癌剤は服用と点滴を通算一年間した。
抗癌剤の副作用はいろいろと経験した。
駅の階段を上るのに息切れがして苦労した。
スッと立ち上がると目眩がした---。
当然だろう。赤血球と白血球の数値も平均よりかなり下回っていた。

街を歩いている時でも従来見えなかったモノが見え始めたり、従来感じなかったモノに神経をとられたりする事が増えた。
石垣の石の一つ一つが何かを語り掛けて来るような気がしたり、鉢植えの小さな植物に目を奪われたり、どこにでもあるような町並みについ見とれたり、又何所からともなく漂ってくる花々の香りについ立ち止まったり、生垣の木々たちに触れてみたり----と。
何に触れても、それが愛おしく感じてしまう。

テレビから流れてくる歌謡曲の歌詞にフッと耳をそばだててしまう。
人との雑談中にも、その人となりが良く観え、従来と違った聞き方をしてしまう、聞き上手になったのかな。

自分は優しくなったのかな---。

その時の覚悟は出来ているとはいえ、体のチョットした変化に敏感に反応してしまう。


東京タワーに昇ってみたかった

2009年02月13日 | その時を覚悟した

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退院の日が来た。入院から65日振りだ。
いつもより早く目が醒めた。体重が入院時より12㎏落ちていた。

海に行きたい。
そして広い、青い海を見たい。
潮風にも当たりたい。

その前に病院から近い、毎晩眺めていた東京タワーに上ってみたかった。
高い場所から遠くを眺めて見たかった。
何かあるような気がした。

天気は快晴だ。

歩く練習も病院内でした積もりだったのに足が地に着いていない、すぐよろめいてしまう。人の歩きの早さについていけない、ユックリ歩いた。東京タワーに登るのはいつの日以来だろう、タワーが竣工して間がなかったから----計算が出来ないくらい前の事だ。

チケット売り場には長い列が出来ていた。

タワー完成50周年記念で何かのイベントをやっていた。

上るのを次回にする事にした。

腹からは、まだ管が一本体外に出ていた。


友は有り難い

2009年02月09日 | その時を覚悟した

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手術後は鼻、首、腹などから5本の管が体外に出ていた。
鼻からの管が取れた頃、初めて友人達に入院している旨をメールした。

何気ない励ましの言葉に胸が詰まりそうになる自分の気持を幾度となく抑えた

この頃何気なく見ていたテレビから「千の風に乗って」の曲を聞いた。

歌詞の中の“死んでなんかいません----思わず聞き入ってしまった。

窓からは街中の大小のビルだけが、10階の部屋から見えていたが

通りを歩く人の姿は見えなかった。

食事が四週間ぶりに僅かの椎茸スープから始まった

手術の前日から今日まで口からは何も食していなかった、水さえも。

東京タワーは夜になるとライトアップされていた。

色は日によって、又時間によって様々な色に変わっていく。上って見たくなった。


幻聴、幻覚を経験する

2009年01月28日 | その時を覚悟した

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手術直後5日間は集中治療室にいた。
今思い出しても例えようの無い何とも言えない感覚の5日間だった。
体の自由が利かないし節々が痛い、上手く口も利けなくて自分の意思が伝えられない、時間がわからない、いつも眠っているような、起きているようなボーとした感覚。

あれは幻聴だった。
どこからともなく音楽が流れてくる。微かだが男達の声だ、聞き覚えのある曲だ。
側に居るものに聞いた。
「聞こえてくるあの曲は何の曲だった?」
「---何にも音楽は聞こえません---」
「良く聞いてよ、微かに聞こえてくるでしょう!」
「-----」

幻覚もあった。
見上げる天井の格子が微かに左右に揺れている、ある時は上下に揺れる。
何度見ても動いている。どうして動いているのかと思わず聞いた事もあった。

4日目だったと思うが、ある検査のためベッドから起こされ車椅子に乗ろうとした時、意識を失い倒れた、二度も。
耳元で自分の名を呼ぶ医師の大きな声で我に返った。
周りには医師が2人と、看護師3人が自分をジッと見ていた。

覚悟しているとは言え、今まで経験の無い例えようの無い不安が頭を始めて過ぎった。