海側生活

「今さら」ではなく「今から」

異空間に入る

2019年04月11日 | 季節は巡る
            
(表参道/東京)
日常とは違う雰囲気を五感に感じながら神宮前駅から歩いた。

古都グラファーとして活躍中の我が写真の師・原田寛さんの個展を観に出掛けた。『古都櫻』出版記念の個展だ。鎌倉と奈良それに京都の桜だけを撮った写真30数点が展示されていた。自分の眼に映る風景の切り取り方と、作品は全く大違いだ。圧倒されて息苦しくなった。来週(4/9~4/14)は京都でもこの個展を開催するという。

外に出て呼吸を整えながら歩くと、高くはないビルの間に満開の桜がチラチラと見え隠れする。表参道を横切り通りに沿ったガラス張りのビルの二階でコーヒータイム。街路樹の欅の若葉が逆光を浴びて鮮やかな薄緑色が爽やかだ。

明治神宮への参道の一つが表参道だが、神宮前や青山を含めこの地区は、銀座と並んで高級ブランド店の集積地でもあり、若者文化や流行の発信地として活気を得ている。窓の外を見ながら、クリスマス時の街路樹への電飾は当時としては珍しく、ステキな空間の演出だなと、通りの端から端までそぞろ歩いたのを思い出す。

ビルの横の狭くて車は通れない道に多くの人が往来している。なんのアテもなく、興味本位で入って行った。
原宿・表参道には可愛くてプチプラな雑貨屋さんや、海外からセレクトされたお洒落なアイテムを揃えた店が並んでいる。見るだけでもワクワクする人も多いだろう。しかし路地を進み時間が経つにつれ、何だか妙に落ち着かない自分に気が付いた。アンタの居場所はここではないよと言われているような感覚だ。

狭い道を往来している若者たちは、凡そ半分ぐらいが外国人だ。皆が若い。やがて落ち着かない理由に気が付いた。居並ぶ店の看板やカフェのメニューに漢字や平仮名・片仮名などのいわゆる日本語の表記が殆どない。改めて野次馬根性で歩みを進めると、行列が出来ている店に行き当った。並んでいるのは殆ど全員が外国人で、しかも白人だ。看板を見上げると大きく太く墨字で描かれた店名があった、「○○ラーメン」と。
何となくホッすると同時に再び落ち着かなくなった。

2019年03月31日 | 季節は巡る

          (浄智寺/鎌倉)
やっと春が来たと言う事を実感として感じるのは、人間、ある年を経てからではないか。

日一日と暖かくなってきた。裏山を見ても、一週間ぐらい前までは気が付かなかったが、山肌の一部分に枯れ木に交じって、樹の全体に白っぽく花が見て取れる、山桜だ。改めてその樹の左右にゆっくりと眼をやると方々に白っぽい花を付けた樹が点在している。

以前も書いたが、柄にもなく西行法師の歌を思い出して苦笑する。『願わくば花の下にて春死なむ その如月の望月のころ』。一時期、夢中になって西行法師に関する書物を読み漁った。その頃はただ良い歌だと思ったに過ぎないが、今は自分の夢である。夢のまた夢かもしれない。

桜の頃になると、気もそぞろにカメラ片手に寺社仏閣を歩くのは、儚い夢を追っているからに違いない。

散らない花は花ではない、枯れない花は花ではない。散るから花と言う、枯れるから花と言う。切なさと限りが入り混ざり 満開の一瞬を花は永遠の美に変えるのだ。特に桜にそれを感じる。

今年もまあ元気に桜を見ることが出来た。来年は果たして---。思うことは毎年同じである。
ちっとも進歩しない。しかし桜に限り、これで良いのではと思う。

静かな夜

2018年09月29日 | 季節は巡る

                 (彼岸花/宝戒寺)
小料理屋の戸口に“鍋物始めました”なんて張り紙がしてあると、真っ直ぐ家に向かうつもりが、つい暖簾をくぐり、ガラス戸を開け、カウンター席に座ることになる。
暑くも寒くもない。好きな魚や野菜を鍋から取り皿に取り、口に運ぶ。

今年もあと三か月。日が長かった時と、日が短くなった今も、一日は同じようにあっという間に過ぎてゆく。差し迫ったことは何もないのに、なぜだかあたふたと時間に追われている感覚が付いて回っている。

昼間のカメラ片手の散策を思い出す。
秋の寺の境内には、萩、藤袴、彼岸花、秋明菊やコスモスなどや、その傍らには名前すらまだ知らない小さな花々が様々な色して方々に咲き誇っている。春と違うのは赤、黒、茶色や青色の実が野イチゴみたいに彩を添えていることだ。
また小さな花々をしゃがみ込み見ると、なんだか切なさと可愛らしさが入り混ざり、小さな花でも満開の一瞬を永遠の美に変えている。それにしても今日の散策は、まるで絵本のページをめくるたびに楽しい世界に入って行くような幼い頃の感覚を持った。

鍋の具が空っぽになる頃、雑炊を作ってもらうよう頼んだ。
お腹が夕食にちょうどよくなった頃、昼間の歩き疲れを背中に感じた。

明日も又、長くなった自分の影を踏みながら進む方向には何があるのだろう。

静かな夜だ。


三暑四涼

2018年09月19日 | 季節は巡る

    (紫式部/大巧寺)
朝夕の涼しさにホッとして、やっと猛暑から解放かと気を緩めているとまた暑さがぶり返してくる。
残暑は夏の思い出探しの時、という何かのコマーシャルコピーに出会っても、それどころではない行動が鈍る暑さだった。

でも、この涼しくなる季節だと、過ぎし日に想いを馳せる。
酒場で飲んでいると、十時ころまでは時間は遅々として進まない。時計を見てまだこんな時間かと思う、夜は長い。十時ころまでは酒場では時間はユックリ流れる。隣り合った人も同じ感じを持っていた。ところが十時を過ぎると十二時までは、アッという間である。乗り物の終電時間である。なぜ時間が変身したようになるのかは分かっている。十時頃になると、酔いも適当に回り、酒場のママがまるで天女のように見えてくる。カラオケも自分の声がまるでプロが歌っているのかと上手に聞こえるような錯覚をする。しかもカウンターの左右の客が無二の親友のように思われてくるからに違いない。そうなると家がなんだ、女房子供がなんだ、男は仕事第一だ、付き合いが大事だと酔っ払う事を正当化する。終電に間に合わなくても良い、タクシーで帰る。

秋の夜長は酒がシミジミ美味い。蕎麦屋で飲む熱燗、イタリア料理屋で飲むワイン、酒場で飲むウイスキー、縄のれんで飲む焼酎などどれも良い。
しかし今年もあと三か月余りしかないことを肌でヒシヒシと感じている。日一日が加速してゆくように早く過ぎるのを意識してしまう。
何が秋の夜長か。そうではあるが、客が皆去ってしまった酒場で、一人ウイスキーの水割りをチビチビ飲んでいると、シミジミとした気分になる。少年老いやすく、人生は儚いなどと当たり前のことが頭を過る。

さっきまで天女みたいだったマダムも疲れた中年女に戻っている。
幸いにも急げばまだ終電に間に合う。酒場を出ると駅に急ぐ人がゾロゾロ歩いている。ふと見上げれば雲間から半月が何だか寂しげに顔を出している。街中なのにコオロギや鈴虫の鳴き声が聞こえてくる。

秋、九月。一年で一番好きな月だ。
ノンアルコールしか飲めない今は、酒場には足が自然に遠ざかってしまった。

今日はまた暑い。春先に使われることが多い言葉の三寒四温ならぬ、今を、三暑四涼とでも名付けよう。

「さよなら」の代わりに「ありがとう」

2018年03月05日 | 季節は巡る

(円覚寺/鎌倉)
ゆっくりとその手紙を三度も読み返した。
いよいよその時が来たのか!と複雑な思いで読んだ。彼女はこんなにも文字が上手だったのかと思うぐらいの綺麗な字だ。四つ葉のクローバーが刷られた便箋一枚に丁寧に自筆されていた。決して長くはない文面だ。
読み返すうちに、過ぎ去った様々な出来事が時間軸に関係なくグルグルと頭を過る。

「この度、昭和から平成時代と三十六年間、続けてまいりましたお店ですが、四月十日をもちまして閉店することにいたしました。
皆様からも励まされ、Yoちゃんと二人で頑張ってきましたが充分に歳も重ね、夜の神様方にもどうやら見放されたようです。
---中略--
いよいよ先の見えない老後への出発です。

貴方には長い長い間応援して頂いて感謝の気持ちでいっぱいです。
楽しい思い出を沢山、本当に沢山ありがとうございました。
どうか、いつまでもお元気でいて下さいね」

以前にもふと思ったことがあった。
お店が何故30年以上も続いているのか、不思議だ。またお店は星の数ほどあるのに、まるでどこかの田舎の駅近くにあるような古くて小さなビルの一室でレトロな内装に包まれたお店に自分は足を運んだのか。お店側からは無駄な問いかけも無く、店内は静かで居心地が良く、料金も六本木の街の割には安かった。見方を変えれば、彼女達は会話が苦手で、我侭が言え、サービスが良くない分料金も安い店だったと言えるかも知れない。
今、思えば、自分にとっては昼間のビジネスと夜のプライベートの間に位置し、ビジネスの熱を覚ませる場所だった。また帰宅するまでの一日のココロや気持ちを落ち着かせる居間みたいな存在だったのではないか。

あと10年も続けたら、世界遺産ならぬ六本木歴史遺産に認定されるかも知れないと冗談を言い合っていた。
身体に異常の発見があり治療しているとも聞いていた。

リタイア―したら、今が最高!と言えるような時を存分に楽しんで欲しい。
例えば小さな旅を重ね、また久し振りに郷里に帰り、忘れかけていたものを気持ちの中に取り戻して欲しい。これまでとまるで違った何かが見えてくるかもしれない。

こちらこそ本当に長い間お世話になりました!
そして「さようなら」の代わりに「ありがとう」。

春近し

2018年01月31日 | 季節は巡る

(海蔵寺/鎌倉)
「春近し」という言葉が好きだ。
最低気温がマイナスになる日が続くとひたすら春を待ちわびる気持ちが強くなる。手足が冷えて身体も固くなっている。考え事も上手くまとまらなくて、頭まで硬直しているのだろう。寒がりのせいかもしれない。

節分もまだ来ていないというのに、春が近づいて来るのを感じる。
甘い芳香を放っていた蝋梅が色を落とし、健気に茎をスクッと空に伸ばし、横向きに咲いてた水仙も頭を垂れてしまった。しかし、からわらには梅の蕾がずいぶん膨らんできた。ところどころにポツンと一輪、二輪と花を咲かせている。これを見ると寒い日が続いても、たとえ雪が降っても、あと少しの辛抱だと我慢も出来る。
間もなく手袋やマフラーを外し、ヒートテックの肌着も厚手の靴下だって薄手のモノに替える時が来るだろう。また鎌倉・小町通りあたりでも道行く女たちの服装にも春を感じることだろう。彼女たちは長い足を見せ始めるのだ。
日一日が変化に富んでゆく。

数年前の一月から二月は度々信州の病院を訪れた。いつも一面の雪化粧の風景の中、道路も凍っていた。親しい友人が入院していた。もう助からない命だったが、本人はそれを知らずに桜の開花を待っていた。早く退院してキラキラと光る海の側に行きたいとも言っていた。しかし日々衰えていった。それは痛々しいばかりだったが、彼がこんこんと眠り続けるのを呆然と見ていた。
節分の頃、彼は逝ったが、そんな冬があったのを思い出すと頭のどこかがキリっと痛む。半面、自分は生き延び有難いとも思う。

春を待つときソワソワするが梅を待つとき、更に桜を待つときは、もっとソワソワした気持ちになる。そんな時期が四季を通じてあるだろうか。遥か昔に経験した恋人からの手紙や電話を待つかのようである。

だが、今はまだ「春近し」。春はまだ少し先で思わせぶりにぐずぐずしている。


手ですくいたい

2017年09月24日 | 季節は巡る

(寶戒寺/鎌倉)
万葉集で一番多く、詠まれている花は萩だと言う。

万葉集には約4500首の歌が数えられ、その約3分の1が何らかの植物を詠んでいるといわれる。150種をこえる植物が登場するが、最高歌数を誇る花は萩の137首、次いで梅119首、
桜は思いの外に少なく42首とされている。

昨日、観た時よりも花の数が多い。
昨夕から今朝までの雨で、細い枝の下には無数の花が散り、文字通り参道に花を添えている期待を抱いた。直射日光の無い、雨に濡れ、シットリとした石の参道をカメラで撮りたかった。この雨上がりを狙って、朝食も野菜ジュースとパンで済ませ、急いで寺の開門と同時に境内に入った。
しかし期待していたほどは散っていなかった。

春の七草よりも、秋の七草が好きだ。自分の生まれた月だから自然に感覚に刷り込まれているのかもしれない
七草はいづれも野分けの風になびき、雨に打たれ倒れても、やがて起き上がり咲き始める、しなやかで強かな可憐な花々だ。また色とりどりに気持ちを惹きつけられる。
中でも萩は毎年株が大きくなり、枝も長く枝垂れる。咲いた花の長く枝垂れた成りや、風に吹かれ咲いたまま散ってゆく花の風情は、なんだか手で掬い取りたくなるような名残惜しささえ感じる。

散っても可憐で散り際の良い花である。

宝戒寺の白萩は見事だ。株も大きく、花もパッチリして参道はまるで白い波のようになる。境内の方々に咲き誇っている。
今、盛りだが10月下旬になってもパラパラと咲く。盛りを過ぎても心に残る。

艶めく萩が一層深まり行く秋を感じさせる。

必要のない過去はない

2017年09月10日 | 季節は巡る

(オシロイバナ/由比ヶ浜)
寂し気な横顔だ。若さ特有のキラキラが全く無い。
季節野菜の炊き合わせに箸を運びながら、梅酒サワーを一口飲む度にグラスの中の氷が、くぐもった音をカラッカラッと静かなカウンターに響かせている。

朝夕の心地よい涼風に秋の到来を感じながら、行きつけのカウンターだけの小さな小料理店での事。時間が早いせいか、客は先客が一人だけだ。

店主は客が注文するなり何かを尋ねない限り、自分から口は開かない。尋ねれば自分の長い人生経験から料理に関することはもちろん、あらゆる分野で自分の意見や見識を聴かせてくれる。

彼女はただ話し相手が欲しかったのか、或は不意に心情を吐き出したい気分になったのかは解らない。
彼女は、この駅近くの裏通りでお店の前に打ち水がしてあり、暖簾の色が自分好みな濃紫色だったので、躊躇いながら暖簾を分けて初めて入ったとの事。
右手を添えたグラスを見詰めたまま、自分の失敗したこれまでの話が続く。「学生時代はなかったことにしたい」、「あの結婚はなかった事にしよう」、「あの会社に就職したために散々な人生になった」。と自分の過去を全部、或は一部かもしれないが否定している。全く生きているパワーが感じられない。

黙って聞いていた。
しかし、歳月を経て、刑務所に入る以外はあらゆる事を体験してきた今なら言えるし断言出来る。必要のない過去はないと。

心のどこかに、自分の過去を裁いたり、否定したりするのは、前に向かって進もうとする気持ちを、過去の亡霊が引っ張り戻しているようなもの。手の中にある「今」と言う時と、それに続く「未来」を創ることは出来ない。過去に起こったことを学びとして未来に生かす事は出来るが、過去の否定は自分の大事な部分を否定する事。幸せからは遠ざかってしまう。
そんな時は、「過去は全て予定通り!と割り切り、過去へのエネルギー浪費を止めよう。起こってしまった事に「ああでもない」、「こうでもない」とか、起こらなかった可能性に「たら」「れば」の話をしても意味がない。

野には薄の穂が顔を出し、秋の趣がひとしお感じられる頃。朝夕の心地よい涼風に、幾分の肌寒さを感じさせる冷風が混じり始めた。
季節が、人を、郷里や思い出を堪らなく恋しくさせているのかもしれない。


初物

2017年06月16日 | 季節は巡る

(円覚寺)
行きつけの小料理店のカウンターに座るなり、オヤジが言う「初物が入っています、鮎です」。続けて「天然ものです」。

一箸入れたら塩焼の鮎は独特の香気を発している。初物には野菜や果物であれ心を和やかに落ち着かせる作用がある。

オヤジが聞いてくる。
「この鮎と言う漢字を使う別の魚を知っていますか?」考えつかない、記憶を総動員したが解らない。「鮎魚女とか鮎並と書きます」。漢字を見てやっと読めた、アイナメだ。何度もアイナメ釣りはしたことがあったのに漢字での表記は知らなかった。アイナメは煮魚が一番好きだが刺身でも美味い。しかしアイナメは、どこと言って鮎には似ていない。大きさも色も、ただ脂肪分が多い白身だ。
食べ終わる頃、勧めたビールを飲みながらオヤジが又聞いてくる。口元が気のせいかニヤけている。「アイナメは魚偏に”六九“とも表記するそうですよ」。カウンターの上に指でなぞりながら、言われた字を書いてみた。思い当たらなし見たことも無い。オヤジは一層ニヤけて「六九をアラビア数字で書いてください」。「69と」。-----これ以上は文字にするのは憚られる。

鮎の話だった。オヤジの話は続く。
鮎は年魚とも呼ばれ、寿命は一年です。もっともメスの中には越年するのも珍しくありません。人間に限らず鮎だって女性の方が長生きするのですね。五月ごろから海から川へと上り始め六月には自分の縄張りを持ちます。川石に付着した藻を食べて育つので独特の香気を発散します。
オヤジは暫く間を空けて、眼を細め、次の定休日には又、伊豆の狩野川に鮎釣りに出掛けます、と真顔になっていた。

さらに、鮎は獲ったらすぐに食べねばならない。たった一日活かしていてもワタが抜けてしまい、いわゆるワタ抜けになってしまいます。しかし最近養殖モノが多くなった。やはり鮎は天然ものでないと---。ではどこで見分けるか?天然ものには黄色の斑があり、そして顔つきが違う。また鼻ペチャが多い。

店を出る間際に、オヤジの次の定休日の翌日に来店の予約をしたのは言うまでもない。
もう一度、鼻ペチャに合うのが待ち遠しい。


シラウオとシロウオ

2017年03月25日 | 季節は巡る

また勘違いしてしまった。

午前中に弱い雨が降り、まだ乾き切っていない裏路地を、立春を過ぎたと言うのに冷たい北風にジャンパーの襟を立てながら、ドアーを開けた小料理屋での出来事。
去年も、花散らしの雨で、どこから飛んできたのか、路地に張り付いたピンク色の小さな花びらを避けて足を運びながら、同じ店に向かった事を思い出していた。

「今日のオススメは?」。自分の好みを充分に分かっているオヤジが、すかさず「シラウオです」。自分も間髪入れず「いただきます!」。

郷里に近い福岡の従兄弟を訪ねた折にご馳走になったシロウオの「踊り食い」を連想し、口の中でピチピチと跳ねながら咽喉を通り過ぎる感触と三杯酢が口中にジワッと広がる味を思い出していた。「お待ちどう様」と差し出されたのは、身体の色も白い「シラウオ」だった。刺身感覚で山葵を軽く付け醤油味で「どうぞ」と。

漢字で〝白魚“と書けばシロウオと読みそうだが、”白魚”はシラウオで、シロウオは“素魚“と書く。シラウオ(白魚)はシラウオ科、シロウオ(素魚)はハゼ科で別の魚ですと、親父に改めて教えてもらう。オヤジはついでですが、「シロウオ」は額に薄く見える紋様が葵の御紋に似ている事から、霞ヶ浦付近ではトノサマウオとも呼ぶそうです。

オヤジの話を黙って聞いていた、俳句も嗜む隣に座っている友人が「---白魚のような指---」とボソッと呟いている。白木のカウンターに置かれた彼の手の指を改めて見ると、まるで鱈子のようにフックラと、ふくよかに指に肉が付き、赤ちゃんの指のように関節が凹んでいる。
皿にセンス良く盛られた「シラウオ」と、彼の鱈子のような指との対比が面白かった。

シロウオ漁もそろそろ終わる頃、春本番を迎え、土筆も盛りだ。