(象鼻杯/光明寺)
強い刺激性のある独特の香りがカウンター越しに香ってきた。
山葵(わさび)は清冽な水を好み、谷間の渓流の砂礫に栽培される。
しかし本物の山葵は高価だ。しかもあの香気と辛味は摩り下ろして暫くすると無くなってしまう。だからその都度摩り下ろさなければならない。白髪まじりの店主の請け売りだが、近年は粉わさびやチューブに密閉された練りわさびが出回るようになって久しい。これらは実はセイヨウワサビで、この根茎を乾燥粉末にしたものに葉緑素を混ぜて作られているか、又はこの粉末に西洋辛子と合成着色料を加えて作っているそうだ。
店主は問いに答えて話は続く。本物の山葵を摩り下ろす時は、葉つきの部分を鉛筆を削るようにクルリと包丁で削ぎ落とし、髭根を取り、タワシで表皮の汚れを丹念に掃除する。そして、いかに細かく細胞を破壊し、香り・辛みを出させるかです。香りを最大限に引き出すため、ゆっくりと「の」の字を書くように擦り下ろします。「山葵は笑いながら擦れ」とも言われるように力を入れずに鮫皮おろし器のような目の細かいおろし器で擦り下ろすと、本山葵の風味をご堪能いただけます。擦り下ろしたものは辛みを十分に出させるために、小さな容器に入れてふたをする、又は逆さにして置きます。擦り下ろして3~5分で香り・辛みはピークに達し、美味しく感じるのはその後30分程度です。
そう言えば、刺身を食べる時、醤油の中に山葵を入れるのは良くない。山葵の香りが抜けてしまう。刺身の上に山葵を乗せて、それを付けて食べるのが美味い食べ方である。また刺身につている穂紫蘇も、刺身の合間につまんで食べる、醤油の中に入れるものではない。日本酒が好きだったオヤジに聞いたことも思い出す。
しかし、自分の舌は山葵を口に出来ない。最初の口の底の癌手術の際、メスが味覚神経の一部に止むを得ず触れたらしく、それ以来、濃い目の塩分や酢、刺激のある薬味などに敏感に反応する。口にした瞬間に舌がカッと熱くなり、10秒後には目の周りが火照ってくる。そして額から頭にかけて汗が噴き出してしまう身体になってしまっている。つまり赤ちゃん舌に変わってしまっている。全ての食べ物は赤ちゃんの離乳食のような薄味で十分だ。もう10年以上も山葵や生姜などの薬味、寿司やカレーなどの食べ物は口にしてないし、また口に出来ない。
穴子の白焼きを注文した、もちろん本山葵を添えてもらった。眼の前の皿から、刺激性のある独特の香りが、舌の両横にジワッ~と沁みてくる。タップリと香りを舌に沁み込ませてから穴子の白焼きを口に運ぶと、穴子の柔らかさと山葵の優しい風味が口中に広がる。
やはり本物は香味も素晴らしく美味くて薬味には欠かせない。