海側生活

「今さら」ではなく「今から」

おジイちゃんとおバアちゃん

2011年06月02日 | 東海道五十三次を歩く

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船旅は東海道を歩き続けた旅人の骨休めになった事であろうが、現在『七里の渡し』の海は多くが埋め立てられ、現在渡しは無い。
桑名までの海上七里は、満潮時には陸地沿いの七里を渡る四時間の船旅で、干潮時には沖を渡るので十里になる事が多かったそうだ。
自分も昨夜の二日酔いの骨休めとばかりに、歩き始めて初めての電車で桑名宿に移動する。乗車時間はわずか20分間。
今日は、昨晩の激励会の幹事を務めたK,Uさんが一緒に歩く事になった、しかも奥さんも同行して頂ける事になった。

先ず腹ごしらえと桑名名物の蛤をご馳走になる。

桑名宿の『七里の渡し』跡には天明以来の伊勢神宮の一の鳥居が建っている。東から来た旅人には伊勢神宮への第一歩であった。

これまで通ってきた城下町、宿場町に比べ曲がり角と寺が多い。城下の道は何処も防衛の意味から屈折しているのが普通だが、岡崎宿も二十七曲がりもある城下町だった。

寺の一つ、海蔵寺の境内で「知らなかった--」と、奥さんが呟いている。
寺の入り口には(薩摩義士墓所)と案内板があった。
「薩摩義士とは、この地方に度々水害をもたらした木曽・揖斐・長良三大河川の治水工事による薩摩藩85名の犠性者を言います。この工事は宝暦3年(1753年)幕府より薩摩藩に命じられ、一年半の工期で完成した」と説明板があった。
幕府の目的は、外様大名である薩摩藩の財政弱体化が目的だったとも言う。工事完了後、大幅な予算超過と多数の藩士を失った責任を負い切腹した奉行平田靱負(ゆきえ)の墓碑を中心に、幕府に抗議し、また責任を取って切腹した23名の人達の墓がある。
思わず、この出来事が明治維新の際の薩摩藩の原動力の一つだったのかも知れないと思った。

二人をカメラで撮るうちに、二人との出会いが昨日の事のように思い出された。
会社では同じ課に所属し、結婚までは高いハードルがあった。時は流れ、この4月に孫が誕生した。昨日まで孫達は家に遊びに来ていたのに、今日また孫の顔を見に行きたくなる、今や二人は完全におジイちゃん、おバアちゃんだ。

雨が降り始めた。雨の中を歩くのは苦手だ。今日桑名宿を一緒に歩いたK、Uさんと同期で、昨夜の歓迎会で自分をサカナにしていたS、Kさんに、彼が手配してくれた湯ノ山温泉まで送って貰った。

別れ際、奥さんにOL時代と変わらぬ、何とも言えぬ甘い声で「お気を付けてぇ」と見送られた。

お互いに多くを語らなくとも、意思の疎通が図れる。彼らとのこんな友情は、今後は二度と得られることは無い。生涯の自分の財産だ。