海側生活

「今さら」ではなく「今から」

十三夜

2015年10月25日 | 思い出した

                 (円応寺/鎌倉)
家の裏山で採れた栗を送ります。

独立した時、自分も参加したいと前職場を飛び出し、新たな仲間になってくれた、かっての部下から思いがけず宅配便が届いた。同封された相変わらず短い手紙には、年金を貰うようになりました。また、実家に新たに田舎暮らしが出来る家が完成しました。遊びに来てください、未来を語り合いたいですとも書いてある。
コロコロと大きく茶褐色に光を放っている栗が箱一杯に詰まっている。

栗と言えば栗名月とも言う十三夜・旧暦の9月13日は今夜だ。
亡き母から幼い頃に聞いた覚えがある。中秋の名月を観たら、後の月と呼ばれる十三夜も観るの。どちらか一方のお月見しかしないことを「片見月」と呼び、縁起が悪いと言われているのよ。そして秋の収穫に感謝をするのよと。
当時は母が言っている意味が分からなかった。常にお腹を空かせていたし、美味そうな栗をススキなどと一緒にお供えしなくて、すぐにでも食べたいと強く願った。そして考え実行した。一度寝たふりして、十三夜が天空に差し掛かった夜半に起き出し、皆が寝静まっているのを確かめ縁側に足を運び、お供えしてある栗を一個、ガブッと口に入れた。それは何と生の栗だった。
あの瞬間を思い出すだけで今でも口中に例えようのないあの独特の渋さがジガッーと広がって来る。

彼が好きだったバーボンをぶら提げて岐阜・関を訪ねてみたい。バーボンに焼き栗などは合うかもしれない。
母の話を懐かしく思い出しながら黄色の月を眺めている。
月の光は全ての色を殺してしまっている。

天も地もどことなくシーンと静まり返って息を呑んでいるようだ。秋だ、まさに秋の盛りだ。

奇縁か?必然か?

2015年10月14日 | 鎌倉散策

                        (大巧寺/鎌倉)
必然だったのか?

鎌倉の街の東方面を歩いた。今は行事らしい行事も無く、紅葉を愛でるには一か月以上もまだ早い。人影もまばらで修学旅行の学生も見かけない。紫外線も強くなく、柔らかい陽射しが体の中まで入って来るのが心地良い。
銀杏の黄葉が進み、楓も枝先から紅葉が始まった。歩道には落葉がサラッサラッと早くも冬支度を始めたようだ。
途中、西御門の源頼朝の墓所に立ち寄った。ここに立つと、いつも鎌倉の原点に舞い戻った気がする。同時に日本の中世から現代に至る社会構造の変化の源に触れるような思いだ。

ほぼ毎週見るNHKの「花燃ゆ」では、幕末の京都を舞台にした、朝廷を巡る複雑な政争の展開もアッサリと描かれてしまった。早くも主人公は群馬県に行ってしまった。
禁門の変(1864年)では、長州藩が京都での復権を目指して会津藩の排除に挑んだ武力衝突で京都御所付近が最大の戦闘地となった。
幕府側の薩摩藩と長州藩は敵味方となり多数の戦死者を出した。長州藩は大敗し戦死者は265名、幕府軍は会津藩や薩摩藩など97名と記録に残る。結末は、長州藩は御所に向けて発砲した罪で朝敵となり、この事が第一次長州征伐へと繋がる。この頃京都は人口50万人、洛中は三日三晩燃え続け、2万8000戸が焼失したと伝えられている。

薩摩藩の始まりは島津忠久で、「大阪の住吉大社境内で忠久を生んだ丹後局は源頼朝の側室で、忠久は頼朝の落胤」とする説が、『吾妻鏡』には記述がないが、島津氏作成の史料である『島津国史』や『島津氏正統系図』などに記されて居るという。少なくとも現在の島津家自体はこの頼朝落胤説を「公式」な出自としている。
現在でも頼朝祭(頼朝の命日・4/13)では列席者の最初に玉串を奉納している。

長州藩の始まりは、鎌倉幕府・頼朝の側近の大江廣元・政所初代別当の四男・大江季光を祖とする一族。

1600年の天下分け目の戦い・関ヶ原の戦では両藩とも敗れた西側に味方した。
西軍に不信を抱いていた薩摩藩・島津義弘は、犠牲者を出しながらも戦わず敵中突破を敢行し海路逃走し鹿児島へたどり着いた。島津家は減地されることなく本領安堵を得ることができた。しかしあくまでも外様藩だった。江戸時代になってからは徳川家と三度も婚姻関係を結んだ。一方幕府から木曽川などの治水工事を命じられ薩摩藩関係者に多数の死者が出た「宝暦治水事件」などがあった。これが後の倒幕運動に繋がったのか。

西軍の総大将に就任した毛利藩・毛利輝元であるが、結果として元々あった毛利領現在の山口県、広島県、島根県(120万石)から山口県だけ(36万石)まで一気に減らされた毛利家は、その後江戸時代を通じ徳川家に対する遺恨を抱き続け、その恨みは260年後の幕末に「倒幕運動」となって爆発することになったのか。

禁門の変の後、政治的・軍事的同盟である『薩長同盟』が結ばれた。仲介役として大きな役割を果たしたのが土佐藩浪士の坂本龍馬と中岡慎太郎だった。
明治維新はなるべくしてなったのかな、奇縁を感じる。

今、源頼朝の墓のある大倉山の、やや東側の高台に大江廣元・季光と毛利忠久の墓が三基並び佇んでいる。

おわりーっ!

2015年10月05日 | 感じるまま

親しい友人がオリンピック競技を一緒に見に行こうと言う。

東京オリンピックの事だ、五年後だ。
お互いに病を抱えている身、友人が言っているのはそれまで今の健康状態で過ごしたいという決意か希望かを言っている。

かつて若い頃、自分はマンションを創り、販売する仕事をしていた。
マンション事業は建設用地を選定する段階から、どんな人に買って貰うか、つまり土地価額から判断し、購入予定者の年齢や収入や好み等を決め付ける。そして彼等の心に届くキャッチフレーズを考える。その際、広告制作会社から様々な販売促進のための提案を受ける。

提案の一つに『マンション選び、おわりーっ!』があった。
初めてマンションを買う人は5~10ヵ所のマンションに足を運び見て比較する。それは当然だ。価額や環境や駅からの距離も違う。さらに仕様・設備や管理もそれぞれに違う。

聞いた瞬間はドキツとした。
凡庸なクリエーターだったら「駅から近いです」とか「今日から新生活を」などと、つまらないメッセージを思いつくだろう。しかしこの広告の若い作り手は『マンション選び、おわりーっ!』と言うワンフレーズで人生の全てを言い尽くしてしまった。

人生は多分、「おわりーっ!」の連続である。
学生は試験が終われば「試験、おわりーっ!」と心の中で叫び校門を出る。会社員は仕事が終われば「仕事、おわりーっ!」と呟いて帰りの駅に向かったり、行きつけの居酒屋に向かうだろう。人間は人生を「○○おわりーっ!」のために生きている。だから「○○、おわりーっ!」と言う言葉ほど快感を伴うものはない。

人生に最後の瞬間になんの未練も哀しさもなく「人生、おわりーっ!」と叫んで、あの世とやらに行ける人が最も幸せかもしれない。

ある時、突然風が吹き、我が身も運び去られるような時が来る。その時はこの親しい友人にも深い感謝の気持ちを込め、言葉少なに「人生、おわりーっ!」と告げたい。