海側生活

「今さら」ではなく「今から」

「タローです」

2016年02月29日 | 海いろいろ

(ありし日のタロー)
「タロー」と思わず、今でも声を掛けてしまいそうになる。

住まいに通じる海岸通りに面した、ある一軒家の外側の日溜りの中に『タローです』と表札を掲げた犬小屋に、つい眼が向く。
「タロー」は昼間、家の中で過ごすのが嫌いだった。空気が冷たい真冬でも家人にねだって外に出ていた。犬小屋に入り、入口から僅かに差し込む陽に身体を委ねウツラウツラとしていた。家人は時間の経過と共に犬小屋の入口の向きを常に太陽に合わせていた。

ペットと言えば2/22は「ネコの日」だった。
興味本位でWEBを覗いてみると、日本では猫も犬も約900万匹飼われているそうだ。最近、猫の数が犬を逆転したらしい。昨年の国勢調査によれば子供の数は33年連続の減少で1633万人とある。子供の数が減る分だけ猫が新たに飼われているのか。また単身高齢者が急激に増えているらしい。同時に猫も増えている。

猫関連のツアーや商品が人気らしい。神田の書店が猫コーナーを設けたら売り上げが4倍になった。和歌山電鉄の貴志駅で初代駅長を務めた「たま」が大きな人気を集め、貴志川線が全国的に有名になった。猫が多く生息する離島が猫に合うために訪れる人々によって観光地化していると言うニュースも確かに耳にした。関連ビジネスも、今や全国に存在する「猫カフェ」やネコを対象にした保険やペットホテル、ペット葬儀など数限りない。

日本人が猫を愛するのは、現代社会のテンポが速く、殺伐とした人間関係に「猫が人に癒しを与えてくれる存在」、「日本人は忍耐や従属と言う文化の中で生きているため、気ままで自由と言う猫の性格が好まれる」と言う人もいる。

「アベノミクス」ならぬ猫が生み出す経済効果「ネコノミクス」と言う言葉があるらしい。
東京オリンピックの経済効果が3兆円と予測されているが、中国の爆買が3.5兆円、猫が2.3兆円の経済効果と言われていると知った。
好まれているのは可愛いだけではなく、不細工顔、変顔、ふてぶてしい顔つきの「ふてニャン」など、つまり飼う人との相性次第で何でも有りって感じだ。
確かに猫は犬みたいに散歩させなくても良いし、餌代も犬に比べ安い。共働き夫婦でも飼い易い。

「タロー」が逝って3年。
「タロー」は名を呼べば頭をもたげ、いきなり心の中に沁み入ってくるような優しい返事をする犬小屋に住む猫だった。今でもそこを通るたびに『タローです』が置いてあった場所に自然に眼を向けてしまう。

裕次郎灯台

2011年08月10日 | 海いろいろ

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好むと好まざるとを問わず、昔聞いた歌というものは、いやでも自分の過去を思い出させるものだ

葉山の景勝地・森戸海岸の岬に森戸神社がある。境内の海側には石原裕次郎の映画『狂った果実』の歌詞が彼の胸像と共に、500m先の灯台を望むかのように設置してある。その灯台は、石原裕次郎の三周忌を記念して兄・慎太郎が基金を募って建てられたと言う通称“裕次郎灯台”だ。
そこは、ただ静かな海面が広がっているようにしか見えないが、低潮時でも水面に姿を見せない危険な暗岩があり、それまではレジャーボート等が乗り上げ、度々事故があったらしい。

石原慎太郎・裕次郎兄弟がデビューした昭和30年代から40年代にかけて、その頃のヒーロー・石原裕次郎の映画を見た少年は、映画館を出る一瞬、石原裕次郎になった。どんなに短足の少年でも数歩は、膝から下を投げ出すようにして歩くヒーローの歩き方を真似、その気になった。今思えば滑稽であった。しかし、この滑稽さの良いところは、すぐに正気に戻ることで、周辺に映画館からの流れの人々がいなくなると、チョコチョコといつもの自分の短足なりの歩き方に戻ったものだ。

そんな雰囲気を経験したことがあるであろう従弟が奥さんと共に佐賀県・唐津から、10月上旬に遊びに来る。
当時、彼は運転していた機械とともに掘削溝に転落し、両足を複雑骨折した。その後六ヶ月間入院し、完治したものの、社会人として華々しくも痛いスタートを切った。横須賀の住宅地造成現場での出来事だった。
その後、彼は地元で職に就いた。そして、ある女性と恋仲になり結婚した。奥さんは、今でも一緒にいると不思議と心が安らぐ魅力を持った方だ。
彼の思い出を連れて、裕次郎灯台と彼の『My骨折記念地』も訪ねてみよう。

灯台は今でも、3秒に1回、白色光が点滅している。

思い出を手に取るようにして、それに触れた時、改めて明日からの自分が見えることがある。


虹を見た

2009年07月07日 | 海いろいろ

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久し振りに今朝、虹を見た。

今にも消え入りそうな儚い色をして、海面のやや上から右上に掛けてちょうど円の真上辺りで虹は消えている。このまま延びれば箱根連山、富士山をすっぽり包んでしまうであろう所に架かった虹だ。従来ならばあるだろう形の右端に目をやると、そこには同じ色をした虹が少しだけ顔を覗かせている。思わずシャッターを押した。

飽きずに眺めているとやがて微かに差していた太陽の光は殆どなくなり、厚くしかも低い雲が一面に現れてきた。そして虹は消えた。そのうちに霧が見る見るうちに漂ってきた。ベランダに立つ自分にも霧がまとわり付き、顔に水滴が付き唇も湿ってくるのを感じる。空と海との境も完全に見えなくなってきた。先ほどまで見えていた沖の釣り船も全く見えない、数十メートル先の堤防すら見えなくなった。鳥すら飛んでいない。

反対側のベランダから外を見ると、南から霧がかなりの早さで山裾を縫うように流れていくのが見える。100メートルの高さの裏山も殆ど見えない。時々、鶯の鳴く声だけがどこからともなく聞こえてくる。

まるで夏の高原で朝を迎えているような雰囲気の眺めだ。

30分も経った頃、又薄日が差してきたかと思うと、徐々に霧も晴れてきた。

こんな梅雨もあるのか、と思う。

沖に目をやると白波が立ち始め江ノ島も見え始めていた。

海側生活は今日も時間ごとに変化する、飽きる事がない。


海を見たい

2009年05月22日 | 海いろいろ

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Nさんは「海が見たい」と、ここに度々来る。 
ソファーに座ったまま、ある時はベランダから目を海に向け、「海がこの前と違って優しい表情をしている」、「あら、富士山にいつの間にか雲がかかってしまった」、「  あのサーファー、上手だね」、「雲の形が、色が次々と変わる---」などと一人呟いている。
紀伊半島の海側で生まれ育った生い立ちが何かを呼び覚ましているのか。

思い起こせば私も入院の二日前に海側に行った。
これから長い間、病院のベッドで過ごす事を考えると無性に海を見たかった。
海を目前にすると迷いが吹っ切れるような気がした。
そして晴れた日にこの逗子の近くの磯に出掛けた。 
車から降りる間も無く、どこからともなく磯の香りが鼻に飛び込んで来た。
その香りにドキドキしながら磯に出ると、目の前にはキラキラと光る海がずっと遠くまで広がっていた。まるで「待っていたよ」と両手を広げて歓迎されているような気がした。
打ち寄せる波の音が耳に入ってくる。
波打ち際まで歩を進めて片手で海水に触れてみた、冷たい。
海中の小石の横に小さな蟹がユックリと動いている。
思わず両手で海水を掬い口にした、やっぱり塩辛く、紛れもなくそれは海水だった。
頭上からの陽光と、波の反射光が体全体に降り注いでくる。
 
まるで、ここでは時が止まっているようだった。

この潮風までも心に焼き付けて磯を後にした。
そして心を決め病院に向かった。

「海」はこんなにも人を引きつけてやまないのか。

Nさんは二度目の手術はしないが、今日も抗癌剤の副作用に心も痛めている。
近い内に又一緒に海を眺めそして触れ、砂浜を歩きながら幼子のように桜貝を手に取る機会を創りたい。


表情が毎日変わる

2008年10月25日 | 海いろいろ

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この部屋の窓から見える今の海の表情は、昨日とは打って変わり、遠くに見える椰子の葉もピクリとも動いていないし空は曇っている。波は穏やかで昨日の白波が立つ様とは大違いだ。遠くのヨットも風が無くチョット可哀想だ。

この春から毎日この海を眺めているが、全く飽きる事が無い。

早朝・昼・夕方・夜と風の向きと強さが変わり、陽の差す程度が刻々と変わり、自分に飛び込んで来る陽光も、目を細めないと見られないときもあれば、今みたいに普通に眺められる時もある。

特に晴れた日の夜の月は眺めていて全く飽きる事が無い。

月光が海に反射し一条の輝きとなって自分に向かってくる様は、ボキャブラリーが満足でない自分にとって例え様の無いぐらい何かを感じてしまう。今までこんな見方をしたことがあっただろうかと考えてしまう事もある。

これからこの小さな所謂漁村での日々を感じたまま、また見たまま書いて行きたい。