海側生活

「今さら」ではなく「今から」

ジェントルマンの秋

2010年09月27日 | 季節は巡る

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分煙室に入らなくても、外に出なくても堂々と悠々とタバコが吸える建物があった。

厄介な病気をして以来、毎月行く病院で検査の結果が出るまでの時間を利用して、病院の隣の高層ビルの一階にあるカフェに喉を潤しに行った。
このビルは、通りからビルまでの広い公開空地には大きな樹木が30本ぐらいあり、小さな林と言った趣がある。その林の中に四人がけのベンチが八つ設えてあり、しかも一つのベンチには二個づつの灰皿が設置してある。愛煙家にとっては有難いな等と考えながらビルの中に入った。
建物の中央部分は、四方を高さ30メートルはあると思われるガラスで覆われた吹き抜けがあり、その中は池になっていて、浮かぶ彫刻「たわむれる二つの球体」がある。吹き落ちてくる風に、丁度親子の白鳥がじゃれ合うように緩慢に動いている。
吹き抜けの周りの広いロビーには、三人がけの椅子が三個づつ置いてある喫煙所が三箇所もある。今の法律に抵触しないのかと考えながら座ってタバコに火を点けてみた、何となく落ち着かない。やがて解った、万全の排煙装置が目立たないが設置されたいた。

さすが日本の唯一のタバコ会社の本社だ。

愛煙家にとってはずいぶん窮屈になった。
神奈川県では、この夏は海水浴場でも禁煙になった。
居酒屋でも禁煙だ。カウンターだけの10人も座れないような小さなお店では条例では努力目標としているが、しかし吸わない人が一人でもいると自分だけ吸うわけにはいかない、やはり気を使う。吸わない人の権利が優先されるようになったと思う。

自分の担当医師は「タバコは医師にとって憎い存在で身体に悪い。しかし貴方の心には必要かも知れない」と言う。
食後とか、何かを成し終えた時の“一服”には思わずホッとする習慣を持っているが、しかし改めて思うがタバコを吸わない人は、どうやって“一服”するのだろう。

イギリスのジョークに「インテリは殆ど吸わなくなった。しかしジェントルマンは相変わらず吸っている」と言うのがあるらしい。
自分はどちらだろう。どう客観的に考えてもインテリではないし、暫くはジェントルマンで過ごそう。ただ人前では相手が誰であろうと吸わないと、タバコ値上げの秋に思う。


月影の富士

2010年09月21日 | 季節は巡る

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いよいよ待ちに待っていた満月の日がやってくる。
十五夜だ、中秋の名月だ。
24日の早朝は昨年から待っていた自分にとっては特別の瞬間が来る。

満月と言っても、月を見て狼男に変身しようと言うのでないし、平安貴族のような舟に乗って水面に揺れる月を観たり、杯にそれを写して歌を詠もうと言うのでもない。
富士山頂に入る満月をカメラに収めたい。

太陽が富士山頂に沈む日は一年に二回ある。そして満月は一年に12~13回あるが、この内、月が富士山頂の近くに入るのは一年に5,6回ある。これまでの三回は四日月だったり、新月だったり、半月だった。またこれからの11月1日は下弦の月だ。

自分の住まいからでは、満月が富士山頂に掛かるのを見ることが出来るのは、24日午前6時頃で今年はこの時以外は無い。
この現象を「パール富士」とか「月影の富士」と呼ぶらしい。

ただ天候が気掛かりだ。予報ではその時間は曇るとか、雨が降るかもと言っている。
人は中秋の夜に雲で月が隠れて見えない事を「無月(むげつ)」、中秋の晩に雨が降ることを「雨月(うげつ)」と呼び、月が見えないながらも何となくほの明るい風情を賞すると言うが、自分はそこまでは至らない。

満月を過ぎると月の出の時刻は段々夜遅くになって行き、十六夜(旧暦16日)、立待月(17日)、居待月(18日)、寝待月(19日)などと呼ばれるようになる。段々北寄りに月は入り、富士山からは遠ざかって行く。

さて、どの月を撮ることが出来るのか。一日前の待宵月でも撮っておこうか。

毎日その表情を変える月。
月は満ち、月は欠け、時は流れる。


「らしい」人

2010年09月15日 | ちょっと一言

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猛暑と民主党代表戦報道に隠れて、事件としてはあまり尾を引かなかったが、呆れる事件が相変わらず報道されている。

政治家らしい、役人らしい、教員らしい、医師らしい、警官らしいなど、絶対「らしい」人であって貰わなければならない人達が「私も人間ですから怠けもします、遊びもします、金も欲しがります」と言わんばかりの、倫理と言う義務を放棄したのではと思われるような事件の報道だ。
社会には、そのように見える人がいて貰わないと困る。皆が「らしさ」を捨てることは顔なしになる事だ。

自分の場合、子供の頃、男らしくあれとか子供らしくあれ等と、「らしく」あれと躾けられたのは、男だから又は子供だから許されると言う特権ではなく、最低の倫理を守れと言う厳しい義務だったと思う。

また男らしい、女らしいと感じる人達にも滅多に出会わなくなった。いや居なくなったのかも知れない。

そして最も困るのが、社会人らしい人が少なくなっている事だ。
社会で顔なしになる。面前で誰かがハレンチな不幸に遭っていても、らしい行動を発揮する人は滅多にいない。ひたすら見えない人になろうとする。

こんなことを考える自分も「らしく」ないのかな。


夏が終わらないのに

2010年09月09日 | 鎌倉散策

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鎌倉に「星月夜の井」と言う名前の井戸がある。

鎌倉は古来より水に恵まれない土地であった。質の良い水が湧き出す井戸は貴重な水源であり、中でも伝説や謂れが残る代表的な古い井戸を「鎌倉10井」と呼ばれている。その中の一つに「星月夜の井」がある。長谷から極楽寺へと抜ける道の傍らの虚空蔵堂の端に残っている。

その昔、この井戸を覗き込むと昼でも星影が水面に映ったためこの名が付いたと言う。「星月夜」が平安後期より鎌倉にかかる枕詞となったのはこの井戸が鎌倉にあったためだ。

われ一人鎌倉山を越えゆけば 星月夜こそうれしかりけれ(永久百題 肥後)

月の出ない秋の夜空は星月夜。数を増した星が月の明かりのように明るく輝く夜の呼び名だ。
ここ数日、月は全く見えない、新月だ。

空気が澄んで来たのか、空の高さが高くなったような気がする。
雲の合間に見える星の数は、空の高さが増した分だけその数を増したようにようにも見える。

秋が忍び寄る、夏が終わらないのに。


空から変わる

2010年09月05日 | 季節は巡る

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朝の目覚めが良くなったのは、年齢のせいではない。体力が充実し、気力も溢れているからだ、と思うようにしている。

ベランダに出ると寝起きの身体に海からの風がなんとも心地よく、思わず深呼吸しながら富士山を眺める。
今までは日の出と同時に上昇し始める気温が、海面からの水蒸気を瞬く間に雲にして、富士山が見える事は無かった。ここ数日は壊れかけた入道雲のような雲が多少は掛かっているものの、お昼近くになっても、その頂を覗かせている。

それにしても今日も気温の上がり方が早い。
陽に当たると、まるで自分だけを目掛けて光線が降り注いでくるようだ。

地球が何だかおかしいよねと感じ始めたのは、もうずいぶん昔になる。自分たちは感覚だけで花の咲き方、風の吹き方、陽の射し方、雨の降り方等を、どうも本来とは違っているようだと感じる。特に日本と言う風土で生まれ育った人間は、連日“暑い”と報道されなくとも、それに通じる心持ちと言うものをDNAとして誰もが持っている。

飼っている鈴虫にも昨年までと違って変化がある。
盛りの頃は、一度に7~8回リーン・リーンと鳴くが、3~4回に減ってしまった。その状態は昨年は九月中旬頃だった。鳴く回数がここまで減り、 餌も食べる量が減った。後二週間もしないうちに、彼らは命を次に引継ぎ、卵を産み、次々と土に返っていくだろう。 
この秋の夜長には、まるで風の精のような鳴き声は聞けそうにも無い。命の営みとは言え、普通でない早い終わりは何とも寂しい。

裏山で、初秋風とは言えない生暖かい海風に揺れる銀色の尾花が鈍く光っているのを見つけた

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空を見上げると、夕日を浴びた鰯雲が一面に広がっていた。空も高くなった。季節は空から変わる。

ありふれた今日に潜む新しさを見つけたい。