海側生活

「今さら」ではなく「今から」

無党派層

2016年06月27日 | 感じるまま

(浄妙寺/鎌倉)
投票日が近づくと、決まって新聞などに選挙予測が出る。
先ずは政党の議席数の増減数、ついで各地区の情勢分析。具体的な数字をあげて優劣を予測する。締め繰りに必ず次の一行が付く。無党派層の動向がカギ、と。

確かに周りをみても特定の政党に所属せず、支持政党をハッキリと決めていない人は多い。
しかし、人は政治に限らず、人は党派的である。会社や団体や自治体はもとより、どのような形であれ、常に党派性が働いている。日常の判断や行動なりに、気が付くと党派的に考え、党派的に振舞っている。

しかし各組合は従事者の高齢化や非正規雇用の増加によっていずれも構成員が減少傾向にあると聞く。それ以外にも、度重なる政治家の汚職やセコサなどによる政治不信などが有権者の政治に対する無関心を増大させつつあるのだろうか。組織票には勝てないと諦め、選挙に行くこと自体が無意味と考える人々が多いとも聞く。そのため、さらに投票率が下がるという悪循環に陥ってしまう。また個々人の価値観が極度に多様化していることも特定の政党を支持しづらいことに繋がっているのだろう。

政党は無党派を取り込むための策として、またもやタレント候補を立てている。多くは比例代表制非拘束名簿式の候補者名簿に置かれ、そのファンなどの票に期待するものである。まるで街の声を集める人気投票みたいだ。期待する人を選ぶ責任は我々にある。政党がタレント的な候補者を立てるのは、我々の判断力がその程度だと政党からなめられている言う事だろう。正に我々自身の意識が問われている。有権者の政党離れは世界的に広く見られる現象だと言う。

選挙と国民投票とでは性格が異なるが、先日の英国のEU(欧州連合)に残留か離脱かの国民投票では、まさかの僅差で離脱派が勝利した。予想外の出来事だった。
離脱を選んだ人の多くは現状に不満を抱える高齢者と労働者層だったとの結果も発表された。やはり彼等には離脱を望む強い動機があったのだ。当日は大雨だったのにも関わらず彼等は投票所に足を運んだのだ。

この結果を受けて世界中は大慌てだ。もちろん見通しを誤った、無党派層の自分も大きなショックと痛手を受けた。マイナス影響は、どこまで、いつまで続くのか。計り知れない。


紅一点

2016年06月20日 | 鎌倉散策

(妙法寺/鎌倉)
ある寺で紫陽花を撮るのに夢中になっていた。大きな花ばかりを目で追い気が付かなかったが、目を上げると、背はそれほど高くない木に薄緑色の茂った小さな葉の中に、枝先に小さな鮮紅色の花が点々と鮮やかだ。柘榴(ざくろ)の花だ。

まさに紅一点!の趣。
大勢の男性の中に女性が一人混じっている、また多くのものの中で異彩を放っているのを紅一点と言うが、女性の中に男性が一人混じっている状態を何と言うのだろう。
その場合は黒一点とでも言うのだろうか。

住職が聞いてきた。実は紅一点は女性を花に例えているが何の花に例えているか知っているかと。知らなかった。間をおいてカンで「バラか牡丹」と答えると、答えはノー。住職が教えてくれたのは、中国の宋代のある詩人の詩から来ていて柘榴の花との事。

更に住職が時間はありますかと尋ねた後、話してくれた。
柘榴の果実は人肉の味に似ていると言う説がある。鬼子母神は本来、人間の赤ん坊を食い殺す魔神だった。この鬼子母神を戒めるために、釈迦は彼女の500人の子供の末っ子を隠した。必死に探す女神に「一人ぐらいいなくなってもいいだろう」と釈迦は言う。鬼子母神は「とんでもない。親にはどの子も可愛い」と答えるが「それでは、お前に子供を殺される人間の親の身になり考えてみろ」と釈迦に言われ、彼女は悔悛した。それで釈迦は彼女の子供を返し、以後は人間の子供ではなく、柘榴の実を食べるように教えた。こんな伝説が仏教にはあると。

しかし、さすがの住職も紅一点の反対語には首を傾げていた。次に会う時が楽しみだ。

神社仏閣を巡っていると、歴史上の登場人物の関係や起こった出来事の時間のつながりなどが、まるで空白だったパズルのヒトマスが突然埋まる感覚を持つ瞬間がある。
また思わぬ道理や雑学に触れられてハッとする気づきもある。

辞書を捲ってみたら、柘榴には花と実それぞれに花言葉が付けられていた。「円熟した優雅さ」と「愚かしさ」だった。


天気占い

2016年06月12日 | 海側生活

(英勝寺/鎌倉)
梅雨の晴れ間の青空がすがすがしい。海からの撫でるような優しい風を身体全体で受けながら、朝コーヒーに出掛けた。

普段は風を感じることのない素足が妙にくすぐったい。親指と人差し指の間の鼻緒も新鮮な刺激となり気持ちを浮き立たせてくれる。
漁港の入り江に沿って真っ直ぐに伸びる300メートルの道の両側の街路樹の椰子の葉が、見上げると微かに揺れている。並行する歩道は板張りのウッドデッキ風だ。花壇には紫陽花やサルビアやサンパチェンスなどが彩っている。カラン-カタ、カラン-カタと乾いた下駄の音が響く。音は椰子の木を伝わって青空に吸いこまれて行く。
犬と散歩中のオバちゃんやおネエさんがすれ違いざまに声を掛けてくる。「下駄は気持ち良さそうですね!」、「久し振りの音です」。さらに音を響かせカラン-カタと歩く。この快感は子供の頃、初めて長靴を買って貰った時、嬉しくて水溜りを見つけては水飛沫を上げながらジャバジャバと歩いた以来かもしれない。

毎年行っているOB会を来月に控え、「今年はどんな趣向で行いますか?」と後輩の幹事が尋ねてきた。いろいろ希望を言った後、最終的に「下駄を預けて下さいますか?」の問いにOKを出した。後で、いつも予算をオーバーする後輩の計画が不安になった。「下駄を預けて下さいますか?」の下駄という言葉が引っ掛かり、その言葉だけが頭の中を駆け巡った。
今思えば、自分の思考回路も理解できないけど、結果として収納庫からわざわざ下駄を引っ張り出した。そして履いた。

あの後輩の運営は下駄を履くまでは分からない。

まだまだ鬱としい天気が続くだろう。しかし梅雨が無かったら、自分は何か物足りなさを感じるに違いない。今は春と夏との間の特殊な風情がある季節を創っている筈だ。

コーヒーを飲み終えたら、下駄を放り上げてみたい。明日の天気を占ってみよう。