海側生活

「今さら」ではなく「今から」

一枚の切り絵

2009年09月30日 | 海側生活

Mado

今朝のベランダ越しに見る空は青く、雲が無いだけに、海もその青を移したかのように青みを増して目に飛び込んでくる。
所々に青黒っぽく見える部分がある、そこは浅瀬になっている。漁師がサザエ漁・ボウチョウを早朝からやっている。
風が小さな細波を立てながら海を渡っていく。山側から風が吹く時はこの細波が立つ。
思い切り深呼吸をして部屋を出た、都心に向けて、人に会う。

虎ノ門駅を地上に出ると、見慣れた風景なのに何かが違う。
歩きながら空を見て気が付いた。空が狭い。
街路樹を見て、それからユックリと目を空のほうに移しながらビルを良く見ると、ビルの色も形もデザインも違っている、特に高さはバラバラだ、と言う現実に改めて気が付く。
ジグソーパズルなら、絵面の下の方は勿論、左右も殆ど組み立てられ、絵面の全体の上の中央部分だけを残して、後は隙間無くパーツを組み立ててしまったような僅かな空間しか無い。太陽もどっちの方角にあるのか解らない。
都心はこんなにも空は狭かったかと思う。

夕方、部屋に戻り、改めてベランダ側の窓から見える景色を、そのまま切り取って、“一枚の切り絵”に見立ててみると、下側の五分の二ぐらいがベランダを含め簡単なパーツで埋まり、残りは海と空に太陽だけだ。何処をパーツにしても変化が少ない。
ただ江ノ島の上空から伊豆山脈に掛けて低い雲がかなり出ている。
それにしても空が広い。

この“一枚の切り絵”は空と海ばかりでパーツが少ないから、ジグソーパズルなら組み立ても楽だなと考えていたら、やがて夕焼けが始まった。この夕焼けを様々な形のパーツにしたら、都心のビル街よりも複雑なパズルになり、難しくなる。
刻一刻と変化する雲の色と形、どこかで瞬間を切り取らねば“一枚の切り絵”にならないし、ジグソーパズルは完成しない。

ふと思う。
ジグソーパズルは、途中何が起きようと出来上がりの絵が解っている。
人生はどんな絵になるやら、最後までわからない---。


ロックフィッシュ 

2009年09月23日 | 魚釣り・魚

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早朝浜に行ったら珍しく「オコゼ」が網に掛かっていた。

自分が育った九州北部では、フグが食べられない時期は「オコゼ」を食べる。秋の涼風にはこの魚はよく似合う。
食べ方はフグと良く似ている。薄作りした刺身で子葱を巻き。ポン酢と紅葉おろしで食べる。皮や胆もフグと同じ、から揚げも美味い。

最初にこのグロテスクな魚を食べた人間はよほど空腹だったのではないかと思う。
ナマコや蛸もそうだが、ほかに食べ物があったら先ず手を出さなかったに違いない。生きるか死ぬかの思いで手を出した結果、一人ほくそ笑んだに違いない。
かつてダイビングをしていた時にもたまに「オコゼ」に出会った。この魚に味で参った者には、海の中でも素直な気持で眺める事が出来なくなる。この魚は滅多に泳いではいなくて、皿の上の活き作りと同じ格好で岩の上に乗っかっている。岩に化けている。だから英名はロックフィッシュと言う。
はっと気が付くと手をついたすぐ横に「オコゼ」が居たと言うことも度々で、背びれには強い毒があり、海の中で瞬間的に冷や汗をかいたりするが、冷や汗の次に出てくるのが唾液である。目の前の「オコゼ」を刺身や、から揚げにして皿に盛るのを想像してしまう。
岩のかけらのようなグロテスクな魚を見て、タンクを背負って潜っている人間がゴクリと生唾を飲み込む姿は異常か、又は食文化の一端なのか。

この時期に食する事が多いから「オコゼ」の季語は秋だと考えていたら夏だった。

また、自分の友人達には、所謂ハンサムはいない。
オコゼみたいな個性的な美味を持っている人が殆どだ。


鎌倉将軍と材木座海岸

2009年09月16日 | 鎌倉散策

9月になり海岸を吹き渡る風は夏のそれのように脂っぽくベタつきもせず、かと言って初冬のそれのように冷たすぎもせず、火照った頬に優しい。
風向きが海からの風が少なくなり、山側の北や東からの風に変わるからだろう。
材木座海岸を歩きながら、改めて鎌倉時代の海岸での出来事に思いを馳せる。 

Photo すぐ目に飛び込んで来るのが「和賀江島」だ。「吾妻鏡」に拠れば執権・北条泰時の頃防波堤として築いたらしい。
島の着工は7/15で竣工が同年の8/9だと言うから今でも考えられないスピード工事だ。凄い人海戦術だったのか、或いは記事自体が誤りなのか、嘘だったのか。記録によれば多い時は数百の船が艫綱を解いていたとあるから港としてはかなり賑わっていたに違いない。
今の「和賀江島」には当時の面影は全くない。基礎工事に使われたと思われる丸っこい石が無数に散乱しているようにしか見えない。しかし、今でも町名に材木座の名を残している.

頼朝時代に鶴岡若宮の造営のため材木等が浜に着いた。                                      09041016p4100003_3 

頼朝が度々、御家人や若い武士達に牛馬の芸(牛追物)を披露させたのもここら辺りだ。                                    

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また、頼朝が精進のため海水を浴びたのもこの浜だ。

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義経と静御前との間に生まれた赤ちゃんは男子だったゆえ、頼朝は赤ちゃんを静から取り上げ、この浜に棄てさせた。 
静は“決め事”だったとは言え、取り上げの使いが来ても数刻の間、泣き叫び渡さなかったと言う。そして静の母の磯禅師が赤ちゃんを奪い取り使いに渡したと言う。妻・政子は嘆き頼朝に宥めたが叶わなかったと言う。

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二代将軍・頼家が幼少の頃、小笠懸で遊んだのもここだ。

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沖に目をやるとサーフィンを楽しむ若者が多く、休日ともなると数百人が季節を問わず真冬でも、この辺りから七里ヶ浜にかけて早朝から夕暮れまで海を楽しんでいる。

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若者と言えば、鎌倉三代将軍・源実朝が数え年22歳の時に詠んだ歌が好きだ。

大海の磯もとどろに寄する波 割れて砕けて裂けて散るかも(金槐和歌集)

鎌倉で生まれ、鎌倉に住み、鎌倉の海を見詰める青年の率直な感性が、今の若者と同じようであったのかも知れない。
或いは、若き将軍・実朝は幕府内の勢力争いの中で味方が敵になり、敵が味方となる陰謀・術策が渦巻く時代になんとも言えぬ孤独の思いが籠もっているのではと言う解釈もあるらしい。                                     
                                                           

12歳で将軍になり、その後右大臣の地位を得、その御礼のため八幡宮参詣の帰途、甥に当たる公暁に襲われて若い命を失ってしまう。同時に「源氏」の頭領の家も断絶してしまう。28歳だった。

それでも実朝の歌は残った。
                                 

                                                               


一人で入院し、二人で退院

2009年09月12日 | 感じるまま

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一ヶ月に一度は病院にいく。
手術後の経過やその他の変化を診て貰うためだ。
都心の大きな病院だが、どの科目の診察室でも順番を待っている人は高齢者の割合が多い、特に男性が多い。どこの高齢者施設でも女性が多いのとは対照的だ。

いづれにしても病院と言う所は楽しい所ではないと、いつも感じていたが、ある時こんな光景に出会った。
診察の予約時間までは間があったので地下のレストランでコーヒーを飲んでいた時の事だ。すぐ前の席に若い夫婦がやって来て向かい合って座った。緑色っぽい妊婦服らしいワンピースを身に着けた女性の腹は下に向けて重そうに張り出していた。メニューを見ながら手を後ろに回してしきりに腰を擦っている。中年のウエイトレスが注文を聞きに近づいて来て何か小声で言ったらしい。腰が痛むのか、とでも聞いたのか。「もうすぐ生まれるのですよ」若い女性の声だけが歌のようにハッキリと聞こえてきた。腰が痛むからなのか、やや苦しげだったのに、その言葉には強い宣言みたいな響きがあった。こんな時の女性がどんな気持なのか、自分はただ想像してみるしかないが、想像しても上手く思い描けない。男性の声は低く殆ど耳に達してこない。ウエイトレスは二言、三言のやり取りの後、注文を伝えに立ち去った。
女性は又伸ばした腰を擦っている。

産科のある病院は良いなと何故だかホッとした気持になった。
病院は病人が来る所だが、妊婦や新生児は病人ではない。
命の衰えを心配して受診や検査に出掛けて来る高齢者達の目に新しい命の灯が灯る光景が映るのは心安らぐ事だ。

一人で入院し二人で退院する健康な人達も多くいるのだなと思った。


何をしたいのですか②

2009年09月01日 | ちょっと一言

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多くの方からご意見とお小言も頂いた。
当ブログの8/20付け「何をしたいのですか」をご覧になった多くの方からだ。

「田舎暮らし」は、確固たる目的を持って始めないと、環境・気候が激変する事はもちろん言葉のみならず文化の違い、習慣の違い、或いは医療レベルの違い等でこんなはずでは無かったと泣きを見るのは必至だ。と言う事を自分は言いたかった。

それでも方法はある。

日本を代表するような大手不動産会社が30年以上前に別荘地として開発し、既に500人以上が生活を営んでいるような完成した別荘地で、生活に関する全てのサービスが網羅さえているようなエリアだ。便利さと快適さを手に入れるのは費用が掛かるが---

しかしこれは別荘生活であって「田舎暮らし」と言う移住生活ではない。

また自然環境と調和した生活を志向した「ロハス」とか「スローライフ」と言ったライフスタイルを持ちたい、しかし都会にも住み続けたい人のために「移住・交流推進機構」なる団体がある。尤も関連業界団体の思惑と地方自治体の地域活性化対策の感があるが。
或いはマイホームを終身借り上げて、移住・住み替えを応援すると言う「移住・住みかえ支援機構」という団体や、定年者等が故郷に帰り地域社会を再構築できるようなシステムを創ろうと言う目的で、行政も参画している「ふるさと回帰支援センター」もある。

これらの方法での「田舎暮らし」なら、他の移住者とも価値観等もかなり共通しているはずだし、そうした仲間が多ければ多いほど疎外感や孤独感からも救われるのではと思う。しかしよそ者同士の結束が固まれば固まるほど地元住民の人情に触れる事はない。

「田舎暮らし」に求められる事は、自分の事は自分でやると言う強い決心と体力だと思う。実際に移り住んでから都会の便利さと比較しボヤいてみても始まらない。何でも自分でやってのける事が楽しみの一つになるようでなければ、わざわざ不便な土地で生きる意味はない。
そして貴方が本気なら、貴方がこれまで都会で数十年間自分を殺して生きてきた感覚を、この不便さが貴方を正気に戻し、本来あるべき貴方の姿に仕立て上げるのだと思う。

「これから何処に住まうか!」と言う事は、「これからどんな後半人生を送るか」という問題だ。
やはり覚悟が必要だ。