(東慶寺境内)
燕が舞い飛ぶ暖かさになった。
二週間ほど前まではワカメを干す香りが辺り一面に漂っていた港には、今はシラスを釜揚げする匂いがどこからともなく漂ってくる。今年は海水温度が例年よりも上昇するのが遅く、逗子ではシラス漁も一ヶ月ほど遅く始まり水揚げも無かった。
道の脇にもタンポポや名も知らぬ小さな花々が色とりどりに咲き乱れている。
港に寄り添うように位置する裏山からは、梅の頃と比べ鳴き方も随分上手くなった鶯の鳴き声も時折、聞こえてくる。
燕がペアーになり忙しそうに飛び回っている。
冬の間、暖かい東南アジアの島々で過ごした燕は、海を何千キロも超えて日本に帰って来た。
聞けば、海面スレスレを集団ではなく一羽ずつ飛んでくるそうだ。何故危険をおかしてまで海を渡ってくるのか・・・
それは生まれ故郷の日本がやっぱり好きで懐かしいのかも知れないと知人は言う。
ジッと観ていると、地面に降りることが滅多にないのに、春の雨で湿った泥を啄ばみ飛び去ると、すぐ舞い戻ってくる。何度となく同じ動作を繰り返している。きっと枯れ草も運んでいるに違いない、愛の巣を作るために。巣が完成したら卵を産み、卵を抱いてから2週間で雛が誕生するそうだ。雛が巣立つまでに3週間だと言う。そして秋の涼しい風が吹き始めると旅立ちの季節。
ふと考えさせられた。
無事に渡って来たものだけが目の前に居て視界に映っているのだ。その陰には途中で脱落したものもいるだろう。飛べなくなっても誰も空中では助けられない。眼に映るツバメは一羽残らず自分で飛んで来たのだなと眺めている内に気付いた。誰も手荷物の一つも持っていない、そんな長旅なのに手ぶらだ。
数日の旅でも着替えや薬などこまごまとした物を携行しなければならない自分。嫌気が差してきた。しかしそれが人間の在りかたなのだ。鳥に中に入って生きられる訳がない。飛び立つ時季が来ればアッサリと置いていかれるだろう。
春は待たなくとも確実にやって来た。
イノチあるものは無限に悲しく思う時がある。
しかしイノチあるものを感じるのは無限に楽しい。