海側生活

「今さら」ではなく「今から」

忘れられた日本の色

2017年09月30日 | 感じるまま

         (建長寺にて)
今日も鶴丘八幡宮の境内には和服姿の女性がチラホラと目に付く。
境内には、鳥居や建物は魔よけの朱色が多く使われ、それらを囲む常緑樹を主にした木賊色(とくさいろ)の樹木、長い参道や本殿に上る階段は錫色(すずいろ)の石畳みが---
神社の雰囲気と環境には和服姿は良く似合う。正に一幅の絵画を見るように感じ、思わず足を留め魅入る瞬間がある。

真夏の浴衣姿も今年は多かった。
しかし、あの和服の色やデザインは何とかならないものなのか。自分のイメージでは和服姿は境内でも風景にシットリと溶け込み、近寄らないと女性の存在すら気が付かないような、もっとシックなものだろう!って思い込みがあった。
若い女たちが身に付けている和服は、白地にイエロー、ピンク、グリーン、ブルーなどのプリント柄だ。まるで熱帯魚が群れをなして参道や境内を回遊しているようだ。中には人力車に乗った熱帯魚もいる。レンタル着物だから貸す側にも借りる側にも限度があるのかもしれない。またアニメや漫画などの影響か、外国人の女も同じようなカラフルな和服を身に付けている。きっと彼女たちは、きっとこれらが日本の伝統的な文化や色だと思い込んでいるに違いない。浴衣を海外ドラマや映画などでガウン代わりとして使用されている様子は以前より多く見る。

そう言えば、自分もそんな色使いのパジャマを着ていたことがある。しかし、ここ数年の様々な災害時にパジャマ姿のまま外に出たシーンを度々テレビで見た。それ以来、自分の身に置き換えて、万が一の場合でも、さすがにこの色使いのパジャマで人前には出ていけないと思い着るのは止めた。

また、カメラやプリンターでも 色の名前を見ると「シアン」「マゼンタ」・・・とある。なんか馴染めない。この色は日本では何色というのだろう?藍と赤紫色?

日本固有の伝統的な色名称は千百余色あると言う。
四季の移ろいの中に美の心を生み出した様々な伝統色。日本では古来より暮らしの中に多彩な色合いを取り入れ、繊細な色の世界を見出し、その豊かな情趣を愛でてきた。それらは多くの絵画、染織物、陶芸、詩歌、文学として、生活や文化の中に深く息づいている。例えば、平安の女性達の聡明で繊細な感性が産み出した襲(かさね)装束の配色美、武家社会に見られる極彩色に満ちたきらびやかな彩、山紫水明との調和を求めた閑寂な風流、そして、侘び・寂びの世界などなど。

歴史の流れの中でつけられた和の色は、名前も美しく風雅だ。

しかし女たちが特別な時を除いて和服を着なくなった現代は、日本語と同じように、日本の色の名も滅びてしまうに違いない。

今朝の空気はいつになく冷たかった。
きっと、夕焼け雲が茜色に照り映えるに違いない。 

手ですくいたい

2017年09月24日 | 季節は巡る

(寶戒寺/鎌倉)
万葉集で一番多く、詠まれている花は萩だと言う。

万葉集には約4500首の歌が数えられ、その約3分の1が何らかの植物を詠んでいるといわれる。150種をこえる植物が登場するが、最高歌数を誇る花は萩の137首、次いで梅119首、
桜は思いの外に少なく42首とされている。

昨日、観た時よりも花の数が多い。
昨夕から今朝までの雨で、細い枝の下には無数の花が散り、文字通り参道に花を添えている期待を抱いた。直射日光の無い、雨に濡れ、シットリとした石の参道をカメラで撮りたかった。この雨上がりを狙って、朝食も野菜ジュースとパンで済ませ、急いで寺の開門と同時に境内に入った。
しかし期待していたほどは散っていなかった。

春の七草よりも、秋の七草が好きだ。自分の生まれた月だから自然に感覚に刷り込まれているのかもしれない
七草はいづれも野分けの風になびき、雨に打たれ倒れても、やがて起き上がり咲き始める、しなやかで強かな可憐な花々だ。また色とりどりに気持ちを惹きつけられる。
中でも萩は毎年株が大きくなり、枝も長く枝垂れる。咲いた花の長く枝垂れた成りや、風に吹かれ咲いたまま散ってゆく花の風情は、なんだか手で掬い取りたくなるような名残惜しささえ感じる。

散っても可憐で散り際の良い花である。

宝戒寺の白萩は見事だ。株も大きく、花もパッチリして参道はまるで白い波のようになる。境内の方々に咲き誇っている。
今、盛りだが10月下旬になってもパラパラと咲く。盛りを過ぎても心に残る。

艶めく萩が一層深まり行く秋を感じさせる。

必要のない過去はない

2017年09月10日 | 季節は巡る

(オシロイバナ/由比ヶ浜)
寂し気な横顔だ。若さ特有のキラキラが全く無い。
季節野菜の炊き合わせに箸を運びながら、梅酒サワーを一口飲む度にグラスの中の氷が、くぐもった音をカラッカラッと静かなカウンターに響かせている。

朝夕の心地よい涼風に秋の到来を感じながら、行きつけのカウンターだけの小さな小料理店での事。時間が早いせいか、客は先客が一人だけだ。

店主は客が注文するなり何かを尋ねない限り、自分から口は開かない。尋ねれば自分の長い人生経験から料理に関することはもちろん、あらゆる分野で自分の意見や見識を聴かせてくれる。

彼女はただ話し相手が欲しかったのか、或は不意に心情を吐き出したい気分になったのかは解らない。
彼女は、この駅近くの裏通りでお店の前に打ち水がしてあり、暖簾の色が自分好みな濃紫色だったので、躊躇いながら暖簾を分けて初めて入ったとの事。
右手を添えたグラスを見詰めたまま、自分の失敗したこれまでの話が続く。「学生時代はなかったことにしたい」、「あの結婚はなかった事にしよう」、「あの会社に就職したために散々な人生になった」。と自分の過去を全部、或は一部かもしれないが否定している。全く生きているパワーが感じられない。

黙って聞いていた。
しかし、歳月を経て、刑務所に入る以外はあらゆる事を体験してきた今なら言えるし断言出来る。必要のない過去はないと。

心のどこかに、自分の過去を裁いたり、否定したりするのは、前に向かって進もうとする気持ちを、過去の亡霊が引っ張り戻しているようなもの。手の中にある「今」と言う時と、それに続く「未来」を創ることは出来ない。過去に起こったことを学びとして未来に生かす事は出来るが、過去の否定は自分の大事な部分を否定する事。幸せからは遠ざかってしまう。
そんな時は、「過去は全て予定通り!と割り切り、過去へのエネルギー浪費を止めよう。起こってしまった事に「ああでもない」、「こうでもない」とか、起こらなかった可能性に「たら」「れば」の話をしても意味がない。

野には薄の穂が顔を出し、秋の趣がひとしお感じられる頃。朝夕の心地よい涼風に、幾分の肌寒さを感じさせる冷風が混じり始めた。
季節が、人を、郷里や思い出を堪らなく恋しくさせているのかもしれない。