海側生活

「今さら」ではなく「今から」

山、人を見る

2019年03月12日 | 鎌倉散策

(東慶寺)
パソコンを見つめる目をしばし休めさせたくなった。椅子を回転させ背中側の窓から、やや離れたところに雑木林の小高い山が見える。
雑木ながら大きく育って梢を上に伸ばしているものや縮まるように枝を横に広げているものがある。まだ落葉したまま白い枝をむき出した樹もあれば、枝先にうっすらと新芽を出し始めた樹も見える。また常緑の葉を茂らしている樹もある。樹々は共生しているように見えるが、そこに生きて育つためには共に精いっぱいの力を奮って競い合っている。
ふと思う。競い合っている樹同士がお互いに自分の姿を見合ったら、いったいどんな想いを持つのだろう。

春一番が吹いた翌日、東慶寺に行った。
広くはない境内には名残の梅の他、三椏(ミツマタ)やラッパ水仙や山茱萸(サンシュユ)の他、緋寒桜や白木蓮なども色とりどりに蕾を膨らし始めていた。
あまりの可愛らしさに思わず「今年も咲いたね」と声を掛ける。帰ってくる返事に期待をかけるが、当然何の返事もない。しかしこの時は花から見られている感じがした。

「山、人を見る」という言葉を思い出した。大智禅師の言葉だと思うが、山を見ても花を見ても、その度に自分が見ているものから見られている考え方だと記憶している。自分は自分であるが、その自分には、見られているもう一人の自分があると言う事だ。花を見て可愛いと思う自分が、花の方から眺めて、果たして可愛いと見えるのかどうか。まして山のような巨大なものから自分が見られるとしたら、その見る目はきっと厳しい。

雑木林の樹々からも、草花からも常に自分は見られていると思うと、自分に納得が出来る自分でありたいと願う。

柔らかな手

2019年02月22日 | 鎌倉散策

(佐助稲荷神社/鎌倉)
息が上がり長い階段の途中で立ち止まり、後ろから上がってきている若いオネェさん二人に道を譲った。二人も肩で息をしている。

佐助の谷戸の奥深く、高台にたたずむ佐助稲荷神社。平家との戦いで頼朝を歴史的勝利に導いた神様だとの縁起がある。成功成就や立身出世の神様として、受験生・就活生・起業家などが参拝に訪れる。一人旅らしき参拝者を見かけることも多い。
今日は初午だ。ここは赤い鳥居群がとても幻想的で鎌倉の出世開運スポットでもある。本殿までは長い上り階段がある。無数の鳥居を潜りながら歩を進める。鳥居の両側の柱には奉納された赤色の旗がそれぞれに結ばれている。赤い前掛けをした狐像が途中で迎えてくれる。まるで異空間に続く道にも思える。最初は坂も緩やかで踏面も広く蹴上げも低い。坂は緩く右に左にくねっている。京都の伏見稲荷大社の長く連なる赤い鳥居を思い出しながら半分を上ったあたりから坂は直線になり、勾配もきつくなる。歩調もユックリになる。やがて踏面も狭くなり、逆に蹴上げは高くなる。特に最後の50段ぐらいは登りが急だ。誰もが一休みしたくなる。腿が悲鳴を上げている。咽喉はカラカラになる。カメラが重く感じる。

すでに狭い境内には溢れるばかりの老若男女が式の始まりを待っている。話し声は聞こえない、静かだ。帽子と手袋を脱ぎ、息を整え拝殿でお参りのあと寺務所に目を向けると、巫女姿の若い女性と言うより少女が甘酒を振舞っている。思わず「下さい」と言う。紙コップに注がれた甘酒を受け取ろうと手を出すと、少女は出した手を下から支えるようにやや持ち上げ、笑顔でコップを手に乗せてくれた。その瞬間にいつもとは違う感触を感じた。手が温かくて柔らかい。忘れかけていた感触だ。

床几に腰を下ろし、久し振りの温かい甘酒は優しい甘さだ。冷えた体も暖まり、腿の悲鳴も治まった。落ち着いた。そして改めて自分の手を見た。手の甲を返しながら繰り返し見た。

少女の手の柔らかさは手ばかりではなく、これから変化の時を迎えても何事も柔軟に対処できるに違いないと感じさせる。

経験からくる先入観だけで全てを判断するのを少しだけ変えよう。もっと何事も柔軟に発想しよう。それだけのキャパシティーは、まだ持っているはずだ。少女の手の柔らかさが当たり前のことを想い起こさせてくれた。

苔むした境内にはどこに置こうと自由と言う小さな白い狐が所狭しと奉納されている。


ココロ変わり

2019年02月12日 | 鎌倉散策

(浄智寺/鎌倉)
目にした瞬間、ビクッと弾かれたように自分の気持ちまで奪われた。

毎月の勉強会に提出する作品が今月も定数に足りないと自覚しながら、何か感動を覚えるような瞬間に出会いたいと、北鎌倉界隈を歩いていた12月のある日。そこは見慣れたれた風景のはずだった。総門の奥に古びた石段が遥か先の方まで続いている。ここは鎌倉禅林の黄金時代に創建された浄智寺。仏殿の脇にそびえる高野槇は鎌倉随一の巨木と言われ、仏殿前の佰真や山門横には高々と枝を伸ばして春には見事な美しさを見せてくれる立彼岸桜、更に奥には白雲木があり、五月になると葉陰に白く群がり咲く花を観賞できる。裏庭には竹林や小径を辿って進むと岩壁をうがった深い横井戸や古い五輪塔群がある。洞門を抜けた洞窟には鎌倉七福神の一つに数えられる布袋尊も祀られている。一瞬小さな別天地に身を置いている想いに包まれる幽寂境である。

しかしその瞬間は見慣れた風景とは違った。今まで目にしたことが無いような色鮮やかな紅葉・黄葉が目に飛び込んできた。夢中で階段の途中まで歩を進め、この感動をどんな風に切り撮ろうかと考えた。太陽はほぼ正面に位置している。ファインダーを覗きながら自分の立つ位置を微妙に右に左に、また前に後ろにと構図を決めている間にも木漏れ日がファインダーに差し込んでくる。 

シャッターを押しながら想った。
秋と言う字の下に心と付けて愁と読ませるのは、誰がそうしたのか。心憎いほど良く考えたものだ。もの想う人は季節の移り変わりを敏感に感じ易いだろうし、中でも秋の気配が立ち込める様には、人一倍しみじみと感じるだろうと。また、人は季節や天候によって心が移ろうし、色や形によっても意思が変わったりする。人の言葉によっても気が変わるものだ。
この瞬間に紅葉・黄葉達の声が聞こえてくるようだった。「今日の、この時間が我々は一番煌めいています。しかし、これ以上は赤くは染まらない、染められないと決めました」。
久し振りに気持ちが昂る経験だった。

この時の一枚の写真が、20回目となる写真展(2/23~27)の案内状やポスターに採用された。鎌倉芸術館のギャラリーには120点を超える作品が展示される。

写真のタイトルは『ココロ変わり』と名付けた。



冬の匂い

2019年01月22日 | 鎌倉散策


好きな白ワインに似た、少しツンとしたコーヒーの香りに交じり、蝋梅の甘い香りがほのかに漂っている。先月は水仙が添えられていた。

季節にはその季節ごとの匂いがあり、一番鮮やかに嗅ぎ分けられるのは、もちろん春だけど、冬の季節の匂いは、街を歩いていたりする時、突然何の前触れもなく鼻の奥から脳天に突き抜けるように広がり、ふと自分の脚の運びを止めさせてしまう時がある。きな臭いようなそれでいて甘酸っぱい匂いの感覚が、それは何だったか又誰だか忘れてしまった誰かを思い出させる。

正月風景の撮影を止め、早々にお気に入りの茶寮で一休みしながら、先ほどの匂いは何だったか、誰だったかと、座って静かにコーヒーを楽しみながら記憶をたどってみた。結局は分からない。遠い過去の出来事だろう。
蝋梅の香りを引きずりながら、庭に出て腰を屈めると福寿草が小さな頭を出し始めている。

いつもとは少しだけ違う装いをして、いつもとは違った食べ物を食べ、いつもとは違う分厚い新聞に一通り目を通し、そして年賀状を一枚ずつ読んだ正月も、松の内を過ぎたらいつもの日常に戻った。

季節はいつものように巡っている

着物姿

2018年04月29日 | 鎌倉散策

                 (仏行寺/鎌倉)
ツツジの群落の中の小径をユックリと歩を進めながら若い娘が、何やら口ずさんでいる。彼女自身はそのことに気付いていないようだ。

黒地に花や木など様々な模様が浮き出た着物を着ている。その着物がよく似合う。姿の良い娘だった、スッキリしているのに艶やかだ。三年ぶりにツツジを一通りカメラに撮り納め、本堂の裏のベンチに腰を下ろし、彼女と、そして彼女からやや遅れて歩くもう一人の初老の女性を見上げ眺めていた。二人は親子らしいが似てはいない。母親らしい女性もまた気品があり背筋がシャキッと美しいのだ。
二人が赤や白色の中に浮かび上がって見える。まるで襖絵の美人画から抜け出したような、なんて絵になる光景なのだろうと一人絶句する。遅咲きで赤紫色のオオムラサキツツジや斜面一面のツツジ色の中で見ているからかもしれない。或は鎌倉の人混みの中で目にするパジャマを連想させるレンタル着物姿が刷り込まれているためなのか。

鎌倉・仏行寺は今や鎌倉一番のツツジ寺だ。しかし駅からもバス停からも遠く観光コースから外れているから参拝者は少ない。今はまるで全山を貸し切り状態だ。

やがて母と娘らしい二人は軽く会釈をして立ち去った。辺りが少し暗くなったような気がした。もちろん気のせいだろう。二人はこれからどこに行くのだろう、北鎌倉に出てアンミツでも食べるのだろうかなどと想像した。

その夕方、久し振りに会った友人が大船の小料理店に案内してくれた。店に入って驚いた。午後の仏行寺で出会った二人の女性たちがいたのである。
「お母さん、早くしてぇ-」と娘が言っていた。「そんなこと、言ったてぇ-お前」と母親は答えながら。急ぐ気配もない。

酒を飲みながら、友人は「今年もユックリとは桜も見られなかった」とぼやいた。自分より若く働き盛りの友人はいつも忙しい。「桜よりもこの着物姿の娘がはるかにキレイじゃないか」と自分は彼を慰めた。すると娘が私達に振り返り、「今、何とおっしゃったの?」と尋ねた。友人と自分はただ顔を見合わせニヤッとした。




艶やかな髪

2018年04月16日 | 鎌倉散策

           (海蔵寺/鎌倉)
鎌倉女子大学の事務局に行った。
往復はがきで申し込みをすることになっているが、他の用のついでに直接窓口に初めて足を運んだ。来月から今年も始まる『吾妻鏡』の受講申し込みだ。もう七年目になる。

事務局内の部屋は静かだ。受付カウンターで用向きを伝えると若い女性が対応してくれた。物静かで丁寧な対応だ。年のころは三十七、八の人だった。黒い艶やかな髪が目を引いた。髪に目がいったのは前髪に桜の蕊(しべ)が付いていたからだ。花が散ってしまった桜の枝には無数の蕊がガクに付いている。やがて蕊も散ってしまう。桜の木の下を通る時など、蕊が肩や頭に降って来ることを感じることもある。
艶やか髪に紅の桜の蕊が付いた中年の女性というのは、なかなか風情がある。そこはかとない色気が漂っていていた。自分の話も途絶えがちになる。だから髪に蕊が付いていることは彼女には告げなかった。
申し込み手続きは五分も掛からずに終わったが、足を運んだ甲斐があったと気分も良くなった。

彼女はネックレスもイヤリングも付けていなかった。口調もそして服装も気持ちが良いほどスッキリとビジネスライクだったことに外に出て暫くして気が付いた。ただ一つ、桜の蕊が彼女の女らしさを自ずと表していた。雰囲気からしてお洒落な人だと感じたけど、意識して桜の蕊を髪に散らしたわけではないだろう。それは天の恵のようなものだったに違いない。そういえば彼女は左手の薬指に指輪をしていた。

それから一週間ほどたった土曜日の昼下がり、海蔵寺で満開の山吹と石楠花を写真に撮り終え、小町通りを駅に向かっていたら、偶然に彼女を見かけた。中学生らしい小柄な娘と一緒に何やら楽し気に会話をしている。「ママは---」という母親似の娘の弾んだ声が聞こえてきた。

桜の旅路

2018年04月07日 | 鎌倉散策

(光明寺/鎌倉)
桜並木を歩くと不意に記憶が蘇る。
父母に手を引かれた歩いた事、一人で足早に通り抜けた十代、恋人とゆっくりと歩いた記憶、綿アメを持った息子の手を引き園の途中まで歩いた思い出、そして今こうして立ち止まり、しみじみと遠くの又目の前の桜に想いを馳せている。自分の人生を早送りで見るような思いがする。視界が桜色に染まるこの季節ならではの感覚かもしれない。

材木座海岸から近い光明寺境内の古木で大きい一本の桜の木の下で、やや腰が曲がりかけた老婦人が両手を目の高さで合わせている。ついていた杖は数歩後ろに佇む娘と思しき女性が手にしている。まるで何かを拝んでいるように見える。神社仏閣で風景写真を撮ることが多いから本尊に向かい手を合わせる光景はよく目にするけど、桜に向かって手を合わせる人は初めて見る。

人が桜に魅せられるのは、目の前に咲く花だけを見ているからではないだろう。きっと、あの世に向う旅路には、桜の花が咲いているのだ。初めて歩く旅路に、自分が観てきた桜、大好きだった桜の全てが見事に咲き誇っている。そのことを私達は知っているから、毎年花が咲くと駆けつけて、心を花で満たすのだ。

ここ数年、行く春を惜しむ思いが強くなっているのは、季節への思いだけではない。来年の春が私に巡って来るかどうか。桜を見たい気持ちが今年、より強かったのは、この想いがあったような気がする。行く春を惜しむのは、わが命を惜しむということだったのかも知れない。

今年も足早に桜は通り過ぎて行ってしまった。




どうぞ、イッパイ

2017年11月30日 | 鎌倉散策

(明月院/鎌倉)
紅葉が本番を迎える季節になると鍋料理が恋しくなる。

今日から公開という明月院の本堂後庭園の紅葉を観に出掛けた。数種類の楓が庭園の平坦部分の全体を取り囲むように黄色や紅や赤色で染まっている。また庭園を包むように位置している周囲の山々には落葉樹の黄葉の中に点々とツツジ、ニシキギ、ウルシ、ナナカマドなどの紅葉も見え隠れしている。しかし近寄って観ると楓の葉の先が白っぽくなり、縮れているのが多い。そう言えば今年の銀杏も色付きが良くなかった。先の台風による塩害だという寺の関係者が多かった。初日だからか人影は疎らだ。太陽は出ていない。
一通り写真を撮り終える頃、急に空気の冷たさがキンと首回りに入り込んできた。指先からも気温が下がってきたのが分かる。温かいモノを食べたくなった。

春の花々に対して秋の紅葉は、いつからか自分の美意識の根底をなしている。

紅葉鍋と言えば鹿の肉の鍋料理である。花札の紅葉の上には鹿があしらってあるからだ。また猪の肉の鍋料理は牡丹鍋という。しかし花札で猪が描かれているのは萩である。牡丹が描かれているのは蝶である。なぜ猪料理を萩鍋と言わないのか。これは屏風絵などに好まれた「牡丹に唐獅子」の絵柄からシシがイノシシになったという。

しかし花札のような鉄火遊びではなく雅な百人一首の”奥山に紅葉ふみわけ鳴く鹿の声を聞く時ぞ秋は悲しき”。
作は猿丸太夫(さるまるだゆう)作と言われている。伝説の歌人で、三十六歌仙の一人。しかし古今集では「詠み人知らず」として紹介されている。
人里離れた奥山で、散り敷かれた紅葉を踏み分けながら、雌鹿が恋しいと鳴いている雄の鹿の声を聞くときこそ、まさに秋は悲しいものだと感じられる。
これが”紅葉鍋”の由来であると思いたい。

テーブルの上の鍋から湯気が立ち上り、ほど良い熱気が顔から体中へとホッテリと暖かくなる。
やはり鍋料理は一人で食べるのは侘し過ぎる。「熱いィ」と独り言を漏らし、「フゥ」と息を吹きかけながら鍋から取り出したばかりの熱々のモノを口に頬張る。そして眼の前の好きな相手から、「ハイ、どうぞイッパイ!」と銚子を指し出される。この雰囲気の中でこそ鍋料理は初めて成り立つ料理だ。

泣かない女

2017年10月19日 | 鎌倉散策

   (光明寺大聖閣/鎌倉)
楽しいオネェさんだ。酒の席で、偶然に隣り合わせた自分との会話を楽しんでいる。
「女とは」を諭され、また「男の本音」について、今も迷っていると言う、妙齢のオネェさんの話は続く。

昔から女に涙は付き物と考えられてきた。
勇猛果敢な女は勇猛果敢な涙を奮って男を屈服させ、臆病小心な女は小心のシクシク泣きで男を懐柔する。馬鹿垂れのクズ女は馬鹿垂れクズの涙をメソメソ流して男への恨みやつらみを四方八方へこぼして人の同情を引き、他人の助けを借りてかろうじて身を守ろうとする。女は涙が人生の武器だと言う事を本能的に知っている。

男は泣く女が好きなのよね。と何かを思い出しているようだ。目が遠くを追っている。
女の涙を見て心が動く。労わろう、守ろうという気になる。一方、危急の際にも、涙一つ見せず踏ん張り、男に頼らず立動かれると、男は楽した上に可愛げがないと捉えてしまう。泣く女がいいか、泣かない女がいいかと問われたら、泣かない女がいいと答えは決まっている。
しかし泣く女がトクか、泣かぬ女がトクかと聴かれれば、泣く方がトクに決まっている。そのためか泣く女は後を絶たない。

だが女が涙を見せれば男の心は動くというが、女は女でもバァさんが泣くと男は舌打ちする。それが又一層腹立たしいく情けない。オネェさんは一瞬、しかめっ面をしたかと思うとグラスの酒をチビッと口に運んだ。

誰かが言ったのか、或は何かの本で読んだのか忘れたが、オネェさんの話に耳を傾けながらこんな言葉を思い出していた。
『自分の思い通りに生きようとすると、必ず誰かを傷つけなければならない。傷つけることのできない人は改めて妥協する。そのどちらかだ、人生は』

でも口には出さなかった。オネエさんは充分に分かっている。

男の本音

2017年10月10日 | 鎌倉散策

 (シオン/海蔵寺)
オネェさんは今日もグラスで日本酒を飲んでいた。カウンターだけの小料理屋さんで。
妙齢の割に白い肌には艶があり、頬がホンノリと桜色に染まっている。

「全く男はいくつになっても女が理解できないのだから」と、かって、「女とは」を諭された、離婚して30年経ったと言う妙齢のオネェさんに久し振りに出会った。
あの時は「アンタも覚えておきなさい!」と、まるで幼子を諭すような口調で教えの数々が続いたのを思い出した。
今回もオネェさんが話を切り出した。
年下の子に相談を受けた。その子は、夫と意思の疎通がうまく計れないで、生活の全てがイヤになってしまうと言っている。
だから教えて上げた。
男の本音と言うものは
「これは男の話だ」--合理的な説明は出来ない、女にとって許しがたい行動をした時、男が言い訳に使う。
「夕食の準備を手伝おうか」--なんでテーブルに食事が出ていないんだ?
「ちょっとユックリしろよ、君は働き過ぎだ」--掃除機の音がうるさくてテレビの音が聞こえない。
「僕は家事を分担しているよ」--身体を拭いたタオルを洗濯籠の側に置いたことが一度だけある。
「最近、身体を動かすようにしているんだ」--リモコンの電池が切れただけ。
「良いドレスだ」--キレイなオッパイだ。
「疲れているみたいだね。マッサージしてあげよう」--今から10分位内にセックスしたいんだけど。 
さらに「愛しているよ」--セックスしよう。

アンタはどう?思い当たることはある?と、グラスを持ったままオネェさんが顔を自分の方に向け、真っ直ぐに見て聞いてきた。
迷いながら、いくつか身に覚えがあると答えると、やはりそうかとばかりに納得したように一人頷いている。

でもオネェさんは年下の子に相談を受けたと言ったけど、全てがイヤになっているのは、オネェさん本人ではないのかと思う、勘ぐりか。

男は女を理解できないし、女も男を理解できない。しかしこの事実を男も女も永遠に理解できない。