梅雨の季節となり、これまでと生活リズムが違ってきた。
一度だけ小雨に煙る紫陽花を鎌倉・成就院まで観に行ったが、雨の日は、部屋の大きな窓から刻々と変化をする海を見やりながら、写真集に使う写真の選別をする。それと「吾妻鏡」の自分なりの“まとめ”も始めた。
「吾妻鏡」に拠れば、『建久4年5月28日(1193年6月28日)、源頼朝が行った富士の巻狩りの際に、曾我十郎祐成(21歳)と曾我五郎時致(19歳)の兄弟が父親の仇である工藤祐経を討った事件があった。』後に言う、赤穂浪士の討ち入りと伊賀越えの仇討ちに並ぶ、日本三大仇討ちの一つである。
『兄・十郎は仇を討った後、討ち死にし、弟・五郎は捕らえられ、翌日、打ち首になった。』
また『「お虎さん」が亡夫の二十一日目の忌日を迎え、黒髪のまま黒衣の袈裟を着けた姿で、十郎から今生の別れの際に形見として与えられていた葦毛の馬をお布施代わりに充て、箱根権現社で法要を行った。そして「お虎さん」はそのまま出家を遂げ善光寺(長野県)に赴いた。19歳だった。見聞きしていた者で悲しみの涙を拭わないものはいなかった』と書いてある。
この事件は、その背景には、源頼朝を亡き者にしようとする陰謀説などがあるが、自分は兄・十郎の恋人「虎」に興味を持ち「お虎さん」の菩提寺の延台寺(大磯)を訪ねた。
住職の奥さんの説明によると、『延台寺の始祖は、曽我兄弟が父の仇討ちの後、この地に小さな庵・法虎庵を結んだ「お虎さん」です。十郎・五郎兄弟に遊女として出会ったのは17歳の時、今で言う16歳です。十郎とは三つ違い。
早くから父親の仇討ちを打ち明けられていた「お虎さん」は、兄弟が本懐を遂げた後、善光寺へ赴き「虎石庵」を結び、毎日如来堂に参詣して、念仏三昧の日々を送った。そして二年後に京へ上り、法然上人の下で修行し、故郷の大磯に戻って「法虎庵」を結び、五十五歳で没するまで、十郎・五郎の菩提を弔い続けたそうです。』
又住職の奥さんは『「お虎さん」の名誉の為にお話しますが』と続けた。
『現代人は遊女というと江戸時代の、例えば江戸・吉原の暗くマイナスなイメージを強く持つが、室町時代以前の遊女はむしろ知識人であり歌舞などの技芸を厳しく長者と言われる元締めのような存在の女性から躾けられ、教養も身につけた女性達で、神聖な存在として巫女の代わりをするような事もあった。遊女が自らの性で商売するだけの存在になったは戦国時代以降だと、私は考えます。』
又『当時は戸籍などないので、明確な婚姻の定義はないと思いますが「お虎さん」は十郎の妻としてその生涯を送りました』。
今でも、十郎と五郎の兄弟が父を仇討ちした際、傘を燃やして松明(たいまつ)代わりにした、という故事にちなんで、城前寺(小田原)では「傘焼まつり」が行われている。
また、延台寺でもこの時期になると「虎御石祭り」で境内は賑わうそうだ。
しかし後世の人々は、過去を上手に現代に甦らせるものだと思う。
旧暦の5月28日に降る雨に、「お虎さん」の悲しみを重ねて、俳句などでは「虎御前(とらごぜ)」とか「虎が雨(とらがあめ)」という言葉がある事も知った。
また広重の浮世絵の東海道大磯宿も雨が降っているが、この「虎が雨」を描いている。
思いの深い女性だ。「お虎さん」は十郎に出会ってしまった。
出会っていなければ、また別の人生があっただろう。
様々な愛がある、