海側生活

「今さら」ではなく「今から」

お寅さんの涙

2010年06月26日 | 鎌倉散策

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梅雨の季節となり、これまでと生活リズムが違ってきた。
一度だけ小雨に煙る紫陽花を鎌倉・成就院まで観に行ったが、雨の日は、部屋の大きな窓から刻々と変化をする海を見やりながら、写真集に使う写真の選別をする。それと「吾妻鏡」の自分なりの“まとめ”も始めた。

「吾妻鏡」に拠れば、『建久4年5月28日(1193年6月28日)、源頼朝が行った富士の巻狩りの際に、曾我十郎祐成(21歳)と曾我五郎時致(19歳)の兄弟が父親の仇である工藤祐経を討った事件があった。』後に言う、赤穂浪士の討ち入りと伊賀越えの仇討ちに並ぶ、日本三大仇討ちの一つである。
『兄・十郎は仇を討った後、討ち死にし、弟・五郎は捕らえられ、翌日、打ち首になった。』
また『「お虎さん」が亡夫の二十一日目の忌日を迎え、黒髪のまま黒衣の袈裟を着けた姿で、十郎から今生の別れの際に形見として与えられていた葦毛の馬をお布施代わりに充て、箱根権現社で法要を行った。そして「お虎さん」はそのまま出家を遂げ善光寺(長野県)に赴いた。19歳だった。見聞きしていた者で悲しみの涙を拭わないものはいなかった』と書いてある。

この事件は、その背景には、源頼朝を亡き者にしようとする陰謀説などがあるが、自分は兄・十郎の恋人「虎」に興味を持ち「お虎さん」の菩提寺の延台寺(大磯)を訪ねた。

住職の奥さんの説明によると、『延台寺の始祖は、曽我兄弟が父の仇討ちの後、この地に小さな庵・法虎庵を結んだ「お虎さん」です。十郎・五郎兄弟に遊女として出会ったのは17歳の時、今で言う16歳です。十郎とは三つ違い。
早くから父親の仇討ちを打ち明けられていた「お虎さん」は、兄弟が本懐を遂げた後、善光寺へ赴き「虎石庵」を結び、毎日如来堂に参詣して、念仏三昧の日々を送った。そして二年後に京へ上り、法然上人の下で修行し、故郷の大磯に戻って「法虎庵」を結び、五十五歳で没するまで、十郎・五郎の菩提を弔い続けたそうです。』

又住職の奥さんは『「お虎さん」の名誉の為にお話しますが』と続けた。
『現代人は遊女というと江戸時代の、例えば江戸・吉原の暗くマイナスなイメージを強く持つが、室町時代以前の遊女はむしろ知識人であり歌舞などの技芸を厳しく長者と言われる元締めのような存在の女性から躾けられ、教養も身につけた女性達で、神聖な存在として巫女の代わりをするような事もあった。遊女が自らの性で商売するだけの存在になったは戦国時代以降だと、私は考えます。』
又『当時は戸籍などないので、明確な婚姻の定義はないと思いますが「お虎さん」は十郎の妻としてその生涯を送りました』。

今でも、十郎と五郎の兄弟が父を仇討ちした際、傘を燃やして松明(たいまつ)代わりにした、という故事にちなんで、城前寺(小田原)では「傘焼まつり」が行われている。
また、延台寺でもこの時期になると「虎御石祭り」で境内は賑わうそうだ。

しかし後世の人々は、過去を上手に現代に甦らせるものだと思う。
旧暦の5月28日に降る雨に、「お虎さん」の悲しみを重ねて、俳句などでは「虎御前(とらごぜ)」とか「虎が雨(とらがあめ)」という言葉がある事も知った。
また広重の浮世絵の東海道大磯宿も雨が降っているが、この「虎が雨」を描いている。

思いの深い女性だ。「お虎さん」は十郎に出会ってしまった。
出会っていなければ、また別の人生があっただろう。

様々な愛がある、


思い出の香り

2010年06月22日 | 思い出した

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“時代をたどる日本の心”と言うチラシの文字がふと心に留まり、コンサートに出掛けた。
特に童謡、唱歌を聴くうちに自分の子供の頃や青春時代の様々な記憶が歌と共に甦ってきた。
甦ってくるのは、何故だか辛かった思い出は少なく、楽しかった思い出が次から次へと胸に舞い戻る。

思い出に浸っている最中に、ある唱歌の中の♪白い花が---♪と言う言葉を耳にした時、遠い思い出を呼び覚まされた。懐かしい思い出の香りが滝のように降ってきた。

青春時代の「会いたい人に会えない」もどかしさを思い出してしまった。
もう思い出す事など無いと、自分の胸のタンスの奥深く、しかもその小さな引き出しは、自分でも二度と引き出すことのできないほど奥に、何処にしまったのか自分でも判らないほど奥にしまった筈だった。しかし一つの歌を、一つの言葉を耳にした途端、この小さな引き出しに手が掛かってしまった。まるで、つい先日の出来事のように、遥か時を越えて、あの時の会いたかった人の笑顔や仕草までが浮かんできてしまった。

「愛」と言う言葉は知っていても、その意味すら解っていなかったあの頃、今思えば淡い「憧れ」だった、しかも片思いの。
そしてあの時は、ただ「さよなら」としか言えなかった。

今、改めて思う。
やはり、人は苦さを知って、初めて甘さを知るものなのか。

今、願う。
この「海側生活」と言う甘さがもっと続く事を。


その手は食わぬ

2010年06月18日 | 魚釣り・魚

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窓から見える目の前の海面には、海底は岩場であろう部分には空きスペースがないほどに蛸(タコ)網が設置されている。この漁師町でも蛸漁が最盛だ。これまで近場の漁の中心だったサザエ漁は、これから二ケ月間は資源保護のため休漁となる。 

日本人は蛸が好きだ、世界の蛸消費量の約6割を日本が占めると言う。

かつてイギリスでは「悪魔の魚 devilfish」などと呼んで、伝統的に殆ど全く食用にはされなかった。しかし地中海沿岸諸国では古来、蛸は食用であり、身近な存在であったらしい。お隣の韓国では日常的な食材である。特に、イイダコを生きたままぶつ切りにし、塩と胡麻油および胡麻と和えて踊り食いにするサンナクチは、上手に口を動かさないとイイダコの吸盤が咽喉に張り付いてチョットしたパニックを起こしてしまった経験がある。その時は張り付いた吸盤を剥がすため急いでお酒を咽喉に流し込んだ。だからサンナクチを食べるときは、いつも酔いが早い。

もっとも日本人でも関東人と関西人とでは蛸の食い方が違う。関東人は正月に酢蛸にして食べるのが粋だと思っている節がある。関西人は夏に刺身や、煮て食べるのが普通だ。実際に蛸が美味いのは夏だ。

頭が大きく、複数の吸盤が付いた8本の「足」を持つのが蛸だと思っていた。

しかし、一般に「」と呼んでいる部分は、学術書などでは「(触腕)」と表現されるし、英語でも「arm(腕)」と呼ぶらしい。

ジョークを思い出す。

タコが海岸で昼寝をしていた。そこへ猫がやって来て、蛸の足をご馳走になる。鈍感な蛸で七本の足が食われるまで眼を醒まさない。残り一本になった時、慌てて気が付いた蛸は陸上では猫に敵わないので海に飛び込み猫に向って残りの一本で「おいで、おいで」をした。猫を海に引きずり込んで、やっつけてやろうとした。

しかし猫は言った、「その手は食わぬ」。


恩師の墓参り

2010年06月13日 | 思い出した

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Y.Yさんの命日だ。

社会人になった一年目に仕事上ではない自分の不始末から、創業社長の義父で総務担当・専務取締役に、ふとしたキッカケから救われた事がある。Y.Yさんにはその後も業務に関して折りに触れご指導頂いた。また特にプライベートの面でも大事な節目毎に、二度三度とまるで父親のように何かと導いて頂き、同時にお小言も頂戴した。

今日は、同じ年に入社し、Y.Yさんの文字通りの仲人で美人と結婚したA.Sさんも一緒だ。
電車を降りて暫く歩き、途中の花屋さんでY.Yさんが好きだったに違いない小さな明るい色をした花々を大目に買い、寺に挨拶して線香を求め、水を汲んで墓石周りを掃除する。
墓前に最近の自分の体調と状況を報告した。
何処からか「限界は有るものではなく、自分で決めるものだよ」とY.Yさんの優しくも激励の声がまた聞こえてくるようだ。

ダンディな身のこなしで、穏やかな談笑の中でもY.Yさんの言葉には、いつも人を元気付けるエネルギーと、全身を包み込むような光りに満ちていた。

墓前に腰を下ろし、向かい合っていると、まるで昨日の事のようにY.Yさんの優しい笑顔が思い出される。同時に何事にも真っ直ぐにしか進む事が出来なかった自分が、困ったような表情をしてY.Yさんに諭されている姿も見えてくる。

透明なビニール傘を手に、墓参りに費やすユッタリした時間は気持が落ち着くものである。
墓前から立ち上がる頃には雨は上がっていた。

今年もここに来る事が出来て良かった。


自分は変わる事が出来た

2010年06月07日 | 海側生活

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海側生活を始めて半年が経過した頃、今まで経験し得なかった、この心休まる時間の一つ一つを、思い出として何らかの形で残したいと考えブログを始めた。そしていつの間にか100回目の投稿だ。

しかし投稿を始めて、思い知らされたのは、自分はこんなにも表現能力が無かったのかと痛切に感じた事と、言葉を知らな過ぎると言う事だった。
一方、嬉しく思う事もある。投稿回数が増す毎に、自分の今までの生き様のまとめと、今後の生き方がカタチとなって見え始めた事が何とも嬉しい。
それよりも拙い文章なのに、知人を始め、全く知らない方からも病気に対する多くの励ましやご意見を頂いた。一方、文中の事柄の間違いを指摘された事も度々あった。大変有り難い、感謝!

自分は変わった。
もし病気の発見がなかったら、あのままビジネスを続け、この大変化について行けず今頃は寂しい思いをしているかも知れない。
退院を契機に、掌をクルッと返すように、住まう環境を変え、更にビジネスの中締めをした。その際は病気がかってない強い力で背中を押してくれた。
今、海側生活も二年が過ぎ、今まで見えていた事が見えなくなった事柄もある。しかし一方、今まで見えなかったモノが見え始めた事柄も多い。

100回目の通過点を記念して、これまでの「海側生活ブログ」を一冊の本にまとめたいと思う。また本とは別に写真集の製作にも取り掛かった。
これからも何をするにつけ改めて「今さら」ではなく「今から」と思う。
101回目からの投稿も、森羅万象に好奇心を全開させ、自分が感じたままのものを記していきたい。

チョイ悪オヤジでも目指そうか。


水脈(みお)

2010年06月01日 | 海側生活

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白と黒の絵の具が有れば充分描ききれる今日の空の色、海の色だ。

朝からシトシトと降り始め、夕方になっても飽きることなく、まるで鈴虫の赤ちゃんの触覚みたいな細かい白い雨が音もなく降り続いている。しかも波が立ってない、と言うより全く無い。風も無い。まるで相模湾の海は波打つことを忘れてしまったかのようだ。
遥か前方に眼を転ずると、この時期はいつも眺められる伊豆半島も、近くの江ノ島さえも薄い靄(もや)が隠してしまっている。

漁船が行き交った航跡が白いラインになって、何本も縦に横に斜めにかなりの数が走っている。
俳句の世界では、この航跡・ラインを「水脈」とか「水尾」と表現し「みお」と読む事を友人に教わった。
眺めているうちに、楽しい「水脈」もあれば、寂しい「水脈」もある。遊んでいる「水脈」もある。急いでいる「水脈」もあれば、ノンビリしている「水脈」などと様々だ。

「水脈」はいろんな表情と時間を持っている。
その「水脈」達は、時間が経つにつれ灰色のキャンパスに、筆に白色の絵の具を付け、何となく意味もなく筆を走らせたような文様を見せてくれる。
夕暮れに差し掛かり、海面は全体が徐々に薄黒くなっていくのに「水脈」達だけは、他の海面と違って、何だか一段と白っぽく見え、いつまでも様々な形のライン状態で残っている。よく見るとある海面が、いつか正倉院で見た花鳥紋みたいな文様にも見える。
やがて帳が下りて海面の「水脈」たちも闇に飲み込まれ、空も海も全てが白から黒の世界に変わろうとする頃、靄の中から、時折、しかし同じ間隔でキラッと一際強い白い閃光が帳の向こうから目に入ってきた。

江の島の島影は見えなくとも灯台の明かりだけが光っている。

明日の「水脈」達は、どんな文様を見せてくれるだろう。
陽に染まる紫陽花のような彩をみたいものだ。