海側生活

「今さら」ではなく「今から」

春近し

2018年01月31日 | 季節は巡る

(海蔵寺/鎌倉)
「春近し」という言葉が好きだ。
最低気温がマイナスになる日が続くとひたすら春を待ちわびる気持ちが強くなる。手足が冷えて身体も固くなっている。考え事も上手くまとまらなくて、頭まで硬直しているのだろう。寒がりのせいかもしれない。

節分もまだ来ていないというのに、春が近づいて来るのを感じる。
甘い芳香を放っていた蝋梅が色を落とし、健気に茎をスクッと空に伸ばし、横向きに咲いてた水仙も頭を垂れてしまった。しかし、からわらには梅の蕾がずいぶん膨らんできた。ところどころにポツンと一輪、二輪と花を咲かせている。これを見ると寒い日が続いても、たとえ雪が降っても、あと少しの辛抱だと我慢も出来る。
間もなく手袋やマフラーを外し、ヒートテックの肌着も厚手の靴下だって薄手のモノに替える時が来るだろう。また鎌倉・小町通りあたりでも道行く女たちの服装にも春を感じることだろう。彼女たちは長い足を見せ始めるのだ。
日一日が変化に富んでゆく。

数年前の一月から二月は度々信州の病院を訪れた。いつも一面の雪化粧の風景の中、道路も凍っていた。親しい友人が入院していた。もう助からない命だったが、本人はそれを知らずに桜の開花を待っていた。早く退院してキラキラと光る海の側に行きたいとも言っていた。しかし日々衰えていった。それは痛々しいばかりだったが、彼がこんこんと眠り続けるのを呆然と見ていた。
節分の頃、彼は逝ったが、そんな冬があったのを思い出すと頭のどこかがキリっと痛む。半面、自分は生き延び有難いとも思う。

春を待つときソワソワするが梅を待つとき、更に桜を待つときは、もっとソワソワした気持ちになる。そんな時期が四季を通じてあるだろうか。遥か昔に経験した恋人からの手紙や電話を待つかのようである。

だが、今はまだ「春近し」。春はまだ少し先で思わせぶりにぐずぐずしている。


寝る子は育つが 

2018年01月21日 | 感じるまま

    (蝋梅/浄智寺・鎌倉)

「寝る子は育つ」という言葉がある。
日常の暮らしの中から自然に語り継がれた言葉であろう。泣いてばかりいて親を困らせるような赤ん坊ではなく、乳を飲ませればすぐスヤスヤと眠ってしまうような幼児は親にとっても有り難い。そんな子は元気にスクスクと育ってくれるに違いないとの願望を込めた気持ちが、その短い言葉に込められているに違いない。

と当たり前のことを思ったのは、それならば、よく寝る年寄りはどうなるかが気になったからだ。
子供はよく寝ることで良く育つだろうけど、では年寄りはよく寝るとその先はどうなるのか。今さら育つ余地は残っていないのだから、せいぜい老化の速度が鈍るとか、病気に罹ることが少なることぐらいで満足しなければならないのか。

振り返ってみると、ここ幾年かのあいだに急によく寝るようになった。夜間の睡眠の事ではない。昼間の居眠りの話である。ずいぶん以前から乗り物に乗ったら電車だろうと飛行機だろうと、あの振動で心地よくなり、夢の世界に誘われたものだった。最近はそれに食事を摂ったら必ず眠くなる。また気持ちの集注を切らした時にスッと眠くなる。本を開いても睡魔に襲われる。しかし夜の睡眠時間が不足しているとは思えない。今も朝は目覚し時計に起こされる。

総じて老いた人は若い人より居眠りすることが多い。そしておそらく居眠りの時間も長いだろう。これほど眠くなるのは若い頃の不摂生や寝不足のツケが回ってきたのかとも思ったが、今はその原因よりも、こんなによく眠る老人の今後が気掛かりだ。
あまりにもよく眠ったら、その先の眠りの時間がなくなったり、眼を覚ますことを忘れてしまったりしないかと気に掛かる。

同じ日は一日としてない

2018年01月10日 | 海側生活

(江の島を望む)

相模湾の冬の夕陽が今日もキレイだ。
一日として同じ夕陽を見ることがない。この時間に何をしていようと、例え待ち望んだテレビ番組の途中であろうと、来客中であろうと、また寒さには弱いけど、必ずベランダに出て陽が沈む瞬間をみる。

たくさんの一瞬が積み重なり明日が訪れる。この一瞬に価値が見えなくても、いつか振り返ってみれば、あの一瞬が価値になる。それに気付かないまま時は流れるから厄介なのだ。物語はいつの間にか人生に刻まれ、人はいつの間にか年老いてゆく。

人には夫々自分なりの死への旅への心づもりがある。例え意識していなくても、ある意味で、人が行うことは生まれたその日から、死に向けての準備ではないだろうか。子供を産むこともそうである。ある種の生き物は子供を生むなり自らの死を遂げる。鮭や昆虫に見られる営みだ。また性愛も死の暗闇を照らす灯明である。快楽と死は深い所でしっかり結びついている。一夜の性愛の翌朝、力尽きて死に果てたおびただしい羽蟻を毎年のように蓼科の夏に見てきた。それらに比べれば人の寿命は長く、その営みも悠長に思える。

しかし宇宙の営みの悠久さに比べれば、人の一生も羽蟻の一夜の饗宴と大差ない。銀河系の大きさときたら気が遠くなる。我々が生きている銀河系など、点のように霞んでしまう。
それなのに我々は自分が属する銀河系すら旅をすることが出来ない。それは単にロケットなど乗り物の問題だけでなく、我々の寿命の問題だ。自分の銀河系すら端から端まで行くのには、人間の命は短すぎる。
羽蟻から見れば悠長のように見える人間の寿命も、宇宙の星たちに比べれば、瞬く間の出来事でしかない。だが一生は一生だ。

人生には一日として同じ日がない。出会う人も同じ人がいない。大切にしたい、そう思うと素直に謙虚になれる。今日の夕陽が又教えてくれた。
そろそろ自分も心して、永遠の眠りにつく準備をしなければならない。