松美の言絵(いえ)

私は誤解されるのが好きだ。言い訳する手間が省けるから。

募金協奏曲

2016-04-20 17:05:58 | 日記・エッセイ・コラム

 地元さきがけ新聞がテレビ局と一緒になって募金受付を開始しました。その方々の名前と金額が載っています。初日だから83件122万円あまり、片隅4段に収まる大きさです。年賀状を欠かさない先輩の名前もありました。ご家族連名で真っ先に持参したのでしょう。

 これを見て実は「しまったあ」という気持ちの方が私の中では勝(まさ)っていました。町内の名前を売る絶好の機会だったからです。確か1団体、町内会の名前がありました。実は総会の場で、そのことが話題にもなりました。5年前は1万8千円、共同募金会を通じて送ったと、先〃代の会長から発言がありました。今回も送り先は1本に絞りましょう、ということに落ち着きました。

 この赤い羽根共同募金で有名な募金会は全国組織で、各支部から依頼の文書が来るのです。シロウト考えだと、その赤い羽根の分を回せばいいじゃないか、ということになります。しかし始めから使途は決まっているのでしょう。だから今回も「熊本」という名義が大事なのです。これ以外に使ってはならないという縛りです。

 募金というか負担金というやつは、羽根の色違いや、市民憲章、防犯協会、社会福祉協議会、途中カットして最後に歳末たすけあいと、わが方では9つの団体に納めています。決算額の中で一番大きな数字です。ほかも似たり寄ったりなのでしょう。

 国民は必ず何らかの団体に複数所属していて、その都度奉加帳が回ってきます。その前に国民として税金を納めているのですから、政府の方針に口を出す権利もあるというものです。私個人としては、上限を設けないで援助して欲しいと思います。

 新聞に戻りますが、東日本の時は送別会前で、ほとんどの会合が自粛されました。それで浮いた積立金を、それぞれの団体が寄付したのですが、例えば8,000円会費の送別会を予定していたなら、100人の職員がいる学校では80万円を寄付することが出来ます。あの時は誰も異論を唱えませんでしたし、毎日載ってくる名簿を眺めながら、他人の財布をのぞき込むような心境で、「遅れてはならじ、皆続け!」的感覚でした。

 あすの新聞には3倍以上に名前が並び、あさってはもっと増えるでしょう。早いほど目立つので、きょうもそういう意味でチャンスなのですが、じっと成り行きを見守るしかありません。

 最終的に日本赤十字か中央共同募金会に寄付することになるでしょう。この文章が被災者の気分を害したなら、ごめんなさい。そういうつもりは毛頭ありませんので。

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桜のある風景(はなのあるけしき)

2016-04-19 16:33:58 | 日記・エッセイ・コラム

 秋田で満開宣言が出ました。うちの近所はこんなもんです。秋田市北部ですから。というか、田舎ですから。

 なんのかんの言っても、枯れ木にしか見えなかった桜に花が咲くと、いいもんです。

 下新城岩城館から始めて、上新城の五十丁、道川。戻って下新城長岡、小友、そして金足下刈。なにしろ桜の木しか、色がついてないから、遠くからでも分かります。

 町内会総会が終わって、力が抜けています。近づくにつれ、胃が痛くなり、やっぱりプレッシャーを感じていたのかと、情けなくなりました。

 元々声が出ないので、村下孝蔵でカラオケの練習をして、「初恋」「踊り子」をUチューブで歌いまくりました。大した効果はありませんでした。

 でも去年よりはマシだったと思います。去年は会計報告だけだったのに、自分でもがっかりしました。

 退職の数年前から今までで、一番体調はいいです。今は誰かに飲みに誘われたら、喜んで行きます。誰か誘ってちょ。

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線路にキジ

2016-04-18 16:17:17 | 日記・エッセイ・コラム

 「とと姉ちゃん」の浜松弁がおかしいじゃないか、という論説があります。今頃、気づいたんですか。それを言ったら、今までまともな方言がありましたか。ずーーっと、「イメージ」でしゃべっていたんですよ。浜松の人が考える「東北弁」みたいに。たかが「ドラマ」の中での出来事じゃないですか。それはテレビに向かって「おかしいでしょ」と、ドラマなことを忘れて、展開に異議を唱える妻と一緒です。

 震災報道が視聴率合戦になっているそうです。これは確かに一理あります。停戦協定を結ぶべきです。ヘリから撮っている映像を見て、心配になります。助けを求める声が、かき消されなければいいが、と。それと派手な映像より、本当に困っている例えば井上晴美さんのような生の声が聞きたいです。

  すごく近くで、やけにキジが鳴くので、上からのぞくと、線路上にオスがいます。危険な天敵が現れたようです。どうもネコが迫っているらしい。なんかどこかで見たネコだ。あれ、うちのネコ。ムコじゃないか。あんな所まで出張しやがって。

 そのあと、特急が通過して行った。

 昔の俺たちみたい。線路に耳をつけて、「来た、来た」と言って遊び、枕木を積んだ山を渡り歩いた。

 蒸気機関車の時代ですから。

 

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私の霊魂物語(後編)

2016-04-17 13:50:54 | 日記・エッセイ・コラム

そうやって、次第に、学校が落ち着きを取り戻して

行くかに、見えた直後から、妙な話が聞こえてくる

ようになりました。寮に泊まる教師の中に、尻込みする

人間が出てきたのです。A君の家は、学校から遠く、

校舎裏の寮に、他の10人ほどの男子と、寝起きを

共にしていました。教員の宿直は、当番制で、前の晩の

様子を聞かされているので、怖がって、代わってくれという

教師がいると、いうのです。何でも、夜中じゅう、ドアをドンドン

叩くので、じっとしていると、いつまでも、音が止まないと

言うのです。「A君だが」と言うと、ピタッと止むそうです。

日中も、異変は起きていました。寮母さんが炊事の支度を

していると、廊下で、ピシッと金属音がするので、誰かが

エアガンで遊んでいると思い、声を掛けたそうです。

スッと、影が、動くのを見たそうです。

私はピンときました。それはおそらく「ラップ音」という

霊が現れる時に出す、特有の音だろうと思いました。

大概は、気味が悪いと、いうよりは、気の毒に思う

気持ちが強かったので、逃げ出す生徒もおらず、年配の

教師は、彼が、自分が亡くなったことを知らずに、いつもの

ように振舞っているのだから、ひと声掛けてあげろ、と言いました。

私は事務職で、生徒を監督する権限がなかったので、代わってあげる気持ち

だけはありましたが、週末の金曜日、友達と飲むことになり、

その日の当番に、今夜、寮に泊まらせてもらってもいいか、と

尋ねました。二つ返事で、了解をもらいました。て、いうか、

泊まる口実で、段取り付けたのです、実は。

さて、いい加減に酔っ払い、二人で帰ってきたのは、12時を

軽く回っていました。それでも起きて待っていてくれ、布団を

出してくれました。

恐る恐る、今夜はどうだったか、尋ねると、今日はまだ何も起こらない

ということでした。僕らも2階の広間の真ん中で、いつの間にか

寝込んでいました。

A君の家を、たびたび訪問している校長から、やはり家でも

物音がにぎやかだと、いうことが、分かりました。

A君の部屋で、物音がすると、あー、帰ってきたんだなあと、

声を掛けてあげるそうです。不思議と月曜になると、音は

しなくなり、週末の金曜から、騒々しくなるというのです。

つまり、まったく、いつもと同じ、リズムで、行ったり、来たり、

していたのです。道理で、あの日、静かだったわけです。

彼には、妹がいて、当時から、入学希望だと、聞かされて

いました。その後、転勤した私は、妹が実際に兄を慕って

入学し、同じマリンスポーツ部に入り、女子の部で

活躍するようになり、男子と同じように、ダイビング技能コンテストで

上位に入る、常連になったと、聞きました。

以上ですが、何? 怖い話じゃない?

そう、とても人間らしい、

家族の愛情を感じる

いい話、なのです。

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私の霊魂物語(再掲載)

2016-04-17 10:30:50 | 日記・エッセイ・コラム

 たまたまなのでしょうか。きのうの物語の元になった、東北学院大学金菱教授の文章が掲載されています。

 「なぜ、被災地で幽霊がたくさん出るか」

 東北人の死生観を、良く考察していらっしゃいます。

 

あれは今から10年ほど前のことでしょうか。

私は、ある水産系の高校に、おりましたので、ございます。

そこの、マリンスポーツ部で、事件は、起きましたので、ございます。

すでに、「海猿」がヒットした直後で、テレビでは伊藤英明が人気だった

こともあって、我が校の海猿と、彼らは呼ばれておりました。

とても不幸なタイミングで、それは発生しました。

彼らは、水深10mのプールで練習するのですが、

酸素タンクなしで、プールの底まで自由に行き来、できます。

底で、大の字で、寝っ転がって、上がってきたり

していた時に、あいつ、いつまで寝てるんだ、と

いうことになって、初めて部員が、異変に気が付いたのです。

A君を助けに行ったのは、B君で、すぐに先生を呼び、救急車が

来ました。私はプールから最も遠い、正面玄関脇の事務室に

おりましたので、音を聞いてようやく、何かが起こったことを

知りました。心肺停止状態で引き揚げられたA君は、すぐに人工呼吸

、心臓マッサージが施され、病院へ向かいました。

その救急車の中から、付き添いの教員の、第1報が、入りました。

それは、自力呼吸を開始した、というものでした。

職員、生徒は、居残りして連絡を待っていたので、

「あー、良かった」と安堵して、家路についたのです。

ところが、翌日、学校へ行ってみると、状況は一変して

いました。A君が亡くなったというのです。

にわかには、信じられませんでした。

記者会見と、いうものを、初めて経験しました。

校長の対応は、素早く、しかも真摯に保護者宅を

往復し、ご両親は、学校側を責めることもなく、

事態は進行しました。テレビカメラの前で、一瞬でも

ほほの筋肉を緩めようものなら、袋叩きに遭っても

おかしくない状況の中で、校長は沈痛の表情を

変えませんでした。あまり好きではない校長でしたが、

あの対応だけは立派だったと思います。

A君の家庭がどうにか、結果を受け止めて下さったので、

次に職員が心配したのは、仲間を引き揚げたB君です。

彼は努めて陽気に振舞っていました。

彼は彼なり、我々に心配かけまいと、

必要以上に快活な態度を取って、

大丈夫だよと、我々にメッセージを

返すのでした。

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