松美の言絵(いえ)

私は誤解されるのが好きだ。言い訳する手間が省けるから。

猿倉人形芝居

2016-04-23 16:24:49 | 日記・エッセイ・コラム

 昭和55年頃のことです。まだ若かったです。五月の連休直後に監査、というパターンが結構よくありました。これほど意地の悪い監査委員会もありません。日記によると、この年は4月後半からずっと残業していました。

 4月27日も、日曜でしたが仕事をしていました。当時は宿直と日直と夜警がおりました。この日の日直は丹さんでした。丹さんは朴とつな方で、余計なおしゃべりはしません。だから丹さんの日は仕事がやりやすいのです。しかし花見シーズンでもあり、真上がお城なので、上から景気のいい音楽が聞こえてきます。日記には、「公園から景気のいい演歌が流れ続けて、調子よかった。ああ近くでお祭りがあると、かえって落ち着いて仕事ができた。」と書いてあります。普通は腰が半分浮いているような状態なのに、この年は悟りの境地でした。

 練習試合に他校の女子バレー部が来ていて、マネージャーへの電話を取り次いだ、とあります。「オレ一人の部屋に来て、彼女は電話をしていた。そう美人ではなかったが(メガネをしていたし)、欲望を感じた。」こういう文章は、私の日記には良く出てきます。なんせ20代でしたから。

「丹さんは公園に行って、団子をオレに持ってきてくれた。二人して食べた。アナウンスが聞こえてきて、きょうは1時から猿倉人形があるという。ちょうど金庫の中にカメラもあったし、見に行った。今まで仕事をしていた人間が、花見の人ごみの中でブラリと、200mmのカメラを下げて、歩いているのだった。」

 この年は結局、12時間労働を繰り返して、風邪を治してしまった、とあります。

 連休を利用して、どこかへ宿泊旅行をしたという記憶はありません。皆無です。ああ、タイトルに偽りありですね。あの地区の先輩たちは芸達者がそろっていて、猿倉人形芝居も完コピできる人が少なからずいました。だから木内勇吉一座が解散すると言った時には、オレがやろうかな、という先輩が冗談にしろ、いたことは確かです。

コメント
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