松美の言絵(いえ)

私は誤解されるのが好きだ。言い訳する手間が省けるから。

私の霊魂物語(後編)

2016-04-17 13:50:54 | 日記・エッセイ・コラム

そうやって、次第に、学校が落ち着きを取り戻して

行くかに、見えた直後から、妙な話が聞こえてくる

ようになりました。寮に泊まる教師の中に、尻込みする

人間が出てきたのです。A君の家は、学校から遠く、

校舎裏の寮に、他の10人ほどの男子と、寝起きを

共にしていました。教員の宿直は、当番制で、前の晩の

様子を聞かされているので、怖がって、代わってくれという

教師がいると、いうのです。何でも、夜中じゅう、ドアをドンドン

叩くので、じっとしていると、いつまでも、音が止まないと

言うのです。「A君だが」と言うと、ピタッと止むそうです。

日中も、異変は起きていました。寮母さんが炊事の支度を

していると、廊下で、ピシッと金属音がするので、誰かが

エアガンで遊んでいると思い、声を掛けたそうです。

スッと、影が、動くのを見たそうです。

私はピンときました。それはおそらく「ラップ音」という

霊が現れる時に出す、特有の音だろうと思いました。

大概は、気味が悪いと、いうよりは、気の毒に思う

気持ちが強かったので、逃げ出す生徒もおらず、年配の

教師は、彼が、自分が亡くなったことを知らずに、いつもの

ように振舞っているのだから、ひと声掛けてあげろ、と言いました。

私は事務職で、生徒を監督する権限がなかったので、代わってあげる気持ち

だけはありましたが、週末の金曜日、友達と飲むことになり、

その日の当番に、今夜、寮に泊まらせてもらってもいいか、と

尋ねました。二つ返事で、了解をもらいました。て、いうか、

泊まる口実で、段取り付けたのです、実は。

さて、いい加減に酔っ払い、二人で帰ってきたのは、12時を

軽く回っていました。それでも起きて待っていてくれ、布団を

出してくれました。

恐る恐る、今夜はどうだったか、尋ねると、今日はまだ何も起こらない

ということでした。僕らも2階の広間の真ん中で、いつの間にか

寝込んでいました。

A君の家を、たびたび訪問している校長から、やはり家でも

物音がにぎやかだと、いうことが、分かりました。

A君の部屋で、物音がすると、あー、帰ってきたんだなあと、

声を掛けてあげるそうです。不思議と月曜になると、音は

しなくなり、週末の金曜から、騒々しくなるというのです。

つまり、まったく、いつもと同じ、リズムで、行ったり、来たり、

していたのです。道理で、あの日、静かだったわけです。

彼には、妹がいて、当時から、入学希望だと、聞かされて

いました。その後、転勤した私は、妹が実際に兄を慕って

入学し、同じマリンスポーツ部に入り、女子の部で

活躍するようになり、男子と同じように、ダイビング技能コンテストで

上位に入る、常連になったと、聞きました。

以上ですが、何? 怖い話じゃない?

そう、とても人間らしい、

家族の愛情を感じる

いい話、なのです。

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私の霊魂物語(再掲載)

2016-04-17 10:30:50 | 日記・エッセイ・コラム

 たまたまなのでしょうか。きのうの物語の元になった、東北学院大学金菱教授の文章が掲載されています。

 「なぜ、被災地で幽霊がたくさん出るか」

 東北人の死生観を、良く考察していらっしゃいます。

 

あれは今から10年ほど前のことでしょうか。

私は、ある水産系の高校に、おりましたので、ございます。

そこの、マリンスポーツ部で、事件は、起きましたので、ございます。

すでに、「海猿」がヒットした直後で、テレビでは伊藤英明が人気だった

こともあって、我が校の海猿と、彼らは呼ばれておりました。

とても不幸なタイミングで、それは発生しました。

彼らは、水深10mのプールで練習するのですが、

酸素タンクなしで、プールの底まで自由に行き来、できます。

底で、大の字で、寝っ転がって、上がってきたり

していた時に、あいつ、いつまで寝てるんだ、と

いうことになって、初めて部員が、異変に気が付いたのです。

A君を助けに行ったのは、B君で、すぐに先生を呼び、救急車が

来ました。私はプールから最も遠い、正面玄関脇の事務室に

おりましたので、音を聞いてようやく、何かが起こったことを

知りました。心肺停止状態で引き揚げられたA君は、すぐに人工呼吸

、心臓マッサージが施され、病院へ向かいました。

その救急車の中から、付き添いの教員の、第1報が、入りました。

それは、自力呼吸を開始した、というものでした。

職員、生徒は、居残りして連絡を待っていたので、

「あー、良かった」と安堵して、家路についたのです。

ところが、翌日、学校へ行ってみると、状況は一変して

いました。A君が亡くなったというのです。

にわかには、信じられませんでした。

記者会見と、いうものを、初めて経験しました。

校長の対応は、素早く、しかも真摯に保護者宅を

往復し、ご両親は、学校側を責めることもなく、

事態は進行しました。テレビカメラの前で、一瞬でも

ほほの筋肉を緩めようものなら、袋叩きに遭っても

おかしくない状況の中で、校長は沈痛の表情を

変えませんでした。あまり好きではない校長でしたが、

あの対応だけは立派だったと思います。

A君の家庭がどうにか、結果を受け止めて下さったので、

次に職員が心配したのは、仲間を引き揚げたB君です。

彼は努めて陽気に振舞っていました。

彼は彼なり、我々に心配かけまいと、

必要以上に快活な態度を取って、

大丈夫だよと、我々にメッセージを

返すのでした。

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