棚からぼた餅--岩淵龍王丸

信州の山郷での暮らしと、絵本と無縁になってしまった大人に向けた創作絵本や、芸術活動をお話します。

奴さん

2008-07-26 18:01:21 | エッセイ・随筆
親ゆずりのヤッコ好きで、3日も見ないと一ヶ月もお眼にしなかったほど。
好きがこうじてつくったほどだ。

今夜は久しぶりにご対面し、一杯やれる。
そおーー。ヤッコといっても凧ではなくて奴豆腐のことです。
充填豆腐であろうが、なんたら能書きをいう豆腐であろうがなんでもOK。
京都の有名店で食したが、わが松本の豆腐はウマイと思った。

蕎麦すきが色々能書きをたれて、蕎麦を打ったり、食ったりするとはちがう。
あればいい。できるならば絹ごしではなく、木綿こしがいい。それもカタイのが。
お皿などを重い石にして、水をきって食す。
パックに入っている水は甘みであり、味噌汁にいれてもいい。
だが、痛風にはヤッコはよくないらしいが、諸説あります。

むかし、ちょっとした割烹料理店で冷奴といったら、親父が
「そんなものは料理ジャーネーから、うちにはありません」ときた。
「こんなうまい料理をだすんだから、手作豆腐に決まってるジャーネーカー」
と、大見得切ったら親父はだまってしまった。
面白いもので、それから親父とはきがあってしまった。

そろそろヤッコで、カーチャンからの形見の薬缶で、焼酎をおかんする時間だ。

赤貧だった芭蕉

2008-07-26 10:33:10 | エッセイ・随筆
私とくに俳句に造詣があるわけでなく、むしろ知らないのですが、思い浮かぶのはほとんどが芭蕉の句だ。
すごいことだ。優れた物体ならば文化財として保存されていくが、忘れ去られてもいく。
ところが、実体の無い「ことば又は文字」によるものは、永遠に続いてゆく。
理解の仕方は時代によって 変化してしまうのは当然だが、そのものは変わらない。変わりようが無い。
そんなすごいものを表した松尾芭蕉さん(1644-1694)は、具体的にどおやってオマンマを得ていたのであろう。
芭蕉の句からは生活臭はなく、苦悩も無い。
といって、自然を歌い上げても 万葉人のような、素朴な自然への驚喜・畏敬ではなく、自然の本質に徹している深さだ。
生活ぶりが判らないのである。
芭蕉を尊敬していた良寛の歌は、深遠な精神の禅境を表しながらも、酒がのみたいだの、腹が減ったの、彼女が来ないだのと生活観が読める。

先日投稿した昭和17年「奥の細詳講」ばかりでなく、他の解説書も眼をとうしてみた。

「もろうて喰ひ、乞ふて喰ひ、飢えや寒さをどうにか逃れて、めでたき人の数にも入らん年の暮れ」
いやはや、赤貧もいいところだった。
ホームレスに近い生活で、弟子たちの添削や教室で わずかな金銭を得ていたのだ。
スポンサーといっても大した資産家はおらず、ほとんどが貧乏弟子ばかり。
大富豪の「太鼓もち」てきなお金目的のことは一切しなかったようだ。

後世に残る大芸術家は 精神は豊かでも、懐は寂しかった

ryusun

つぶやき

絵本と無縁になった大人に

子供たちに向けたというより、内なるものを呼び覚ます大人への絵本