棚からぼた餅--岩淵龍王丸

信州の山郷での暮らしと、絵本と無縁になってしまった大人に向けた創作絵本や、芸術活動をお話します。

久しぶりの散歩-サクラ

2008-07-15 18:50:31 | 賢犬さくら
お父さんが腰痛騒ぎになって私はつながられたまま。マー娑婆では当たり前のことなんでしょうが、歩けないなら放してくれた方がいいとおもうのですが、ナニカあったら対応できないンだそうです。
昨日、痛み止めの注射をしてもりい、杖を突きながらも歩けるので久しぶりの散歩となりました。
道は雑草と枝が追いかぶさり、緑色のトンルネ。
いたるところイノシシのにおいがする。休耕田はヤツラが好き勝手に暴れ周り、掘り返された工事現場のごとくになっている。
自由にさせてくれたら、きっと追い立ててくるのですが、お父さんはダメダといいます。
実は私も調子が今ひとつ。
どうも、カイセンのきざしがあり、ときどき物凄いカユミに襲われます。
かいたところが、小さな点のように出血するのですが、それが全身にできてしまうのです。
知らないと目立たないのですが、毛が点々と抜けた後があり、美しい毛並みが残念です。
お父さんが通っている整形外科のお医者さんは(私も知っている)
「人間はどうにかするが、犬は自分でなんともできないから・・」と、お父さんのことは次いでで、いい薬をみつけるからと、心配して電話をくれました。
サンキューだワン!!

仏の眼を描く

2008-07-15 13:08:46 | 創作活動
私の描いた仏に「あまり優しいお顔をしていませんねー」と言われることがあります。
そう・・、私が描き出したい仏の姿は、よく言われ 求められている「慈悲・慈顔の癒しの顔」ではないかもしれない。
それは、私の佛教解釈にあり、断定的にいってしまえば「現世利益or浄土思考ではなく、自己と向き合い、内面凝視する姿」である。
それだけですと、自己陶酔・オナーニーになってしまいますが、自分をより高い次元へと導き、自分もその姿に成り得る姿なのです。
「お前の心身はそれでいいのか! もっと高き次元に至れる」と観る者の恩奥に 射込む光の眼 を描きたいのです。
「天上天下唯我独尊」の真意をよくよく考えると、生命の尊厳・存在する意義を歌っているのです。

目標の尊顔があります。
東大寺三月堂 不空絹索観音 厳しく堂々とした体躯からは圧倒されますが、負けてはならないとエネルギーが湧いてきます。
鋭いのですが、決して明王佛のように屈従させる眼光ではありません。

ガンダーラ彫刻の中で最高傑作とされる「苦行するブッタ」
日本での特別展でも、パキスタン・ラホール博物館でも見ました。
背筋に冷や水といいますが、正にゾッ!とする迫真があります。
骸骨のごとき落ち込んだ眼孔から、内部から針先が飛んでくるような力。
人間がそのまま神域に到達した(大乗佛教では菩薩という)尊顔にうごけなくなってしまう。

両者を比較した場合、佛教教理の解釈背景はまったく違うといえます。
初期の仏教をベースにした、西域の仏の姿は、生身の人間くささがありますが、日本の表現は次第に人間味を整理して「願望佛」となっていったと思います。
私の描く仏の顔も次第に「優しさ・癒し」が見て取れるようにしてきました。

ryusun

つぶやき

絵本と無縁になった大人に

子供たちに向けたというより、内なるものを呼び覚ます大人への絵本