フィンセントはようやく落ち着いて絵筆を取るように~
院長は外出許可を出してくれた。
フィンセントは喜び勇んで、イーゼルを担ぎ、絵の具とパレットと絵筆を
たんまり用意して出かけて行った。
風が彼の友達だった…この地では、 村の道をどこまでも歩いていった。
パリにない素朴な風景が~
オリーブの木々~遠くに アルピーユ山脈が…
この世界のすべてが、画家、
フィンセント・ファン・ゴッホの味方だった。
夢中になって、画布に絵筆を走らせた。
ゴッホが描いた「アイリス」の絵は有名で、療養院に入院して
すぐに描いたのが・・・これ。
自分を迎え入れてくれた~そのアイリスを。
「アイリス」 1889年 ポール・ゲティ美術館蔵
サン=レミで描かれた絵は、深い孤独を感じさせない~
明るい光を感じます。
フィンセントも、後ろ向きの気持ちでは描けないと
だからこそ、「ようこそ」と迎えてくれた アイリスの花も
あんなに美しく描けたのではないでしょうか。
オリーブの畑 も 何枚も描き続けました。
特に彼が心を奪われたのは、村のあちこちに佇む糸杉だった。
こんな不思議な、凛として 孤高の姿をした木立を・・・
フィンセントは見たことがなかった。
それから、何日も、何時間も・・・糸杉と向かい合った。
糸杉はどことなく不吉な木、地面から突然立ち上がり~
手に繋がっているような…
ヨーロッパではお墓の木と呼ばれ、キリストが磔になった
十字架は、この木でつくられたという伝説があります。
この糸杉に 心を奪われました。
糸杉は、いつしか画家自身に重なり合ったのだ。
「糸杉」
「糸杉と二人の女性」
「糸杉のある麦畑」
「糸杉と星の見える道」
*1890年5月・12~15日 レミでの最後の作品
「星月夜」
ニューヨーク近代美術館(MOMA)蔵
この絵が~
箱の中に残された最後の一枚を、テオは取り上げた。
なぜだろう、その市間は特別なものだという予感があった。
生き絵お留めて、包み紙を広げる。
現れたのは、星月夜を描いた市間の絵だった。
明るい、どこまでも明るい夜空。それは、朝をはらんだ夜、
暁を待つ夜空だ。・・・・・
僕は、もう長いこと待っていたんだ。・・・・この一枚を。
星月夜の絵を、テオはそっと胸に抱きすくめた。
なつかしい兄の匂いだった。
この風景が見える場所は、サン=レミにはありません。
空が渦巻いたり、月もあのようには見えない。
「星月夜」は、ゴーギャンの
「自分の空想したように描けばいいんだ」とい言葉をゴッホが
風景を頭の中で組み合わせて作り上げた想像の風景です。
これもゴーギャンとのアルルでの共同生活を経験したからこその作品
とも言えるのではないでしょうか。
以前に、作中で・・・林忠正はゴッホに
「本当に描きたいものを描けばいい」というメッセージをしています。
一番か描きたかったものはセーヌ川でした…
しかし、運命がそうさせなかった…それを、この「星月夜」の姿を
借りて描いたのではないか~と、原田マハさんは解釈しています。
糸杉は、セーヌのほとりに佇み、いつか訪れる朝を待つ
ゴッホその人。
本当のところ、ゴッホが何を思って「星月夜」を描いたのか
誰にもわかりません。
でも、原田マハさんは、林忠正、テオ、らの心情を作中に織り込んで、
最終的には著者自身が「そういう解釈があってもいいのではと」
小説ならではの・・・力で。
フィンセントと
「たゆたえども沈まず」の表紙は これだ! ってね。
ゴッホの セーヌへの思いを・・・
この言葉と共に 込めて筆を走らせた。
=Fluctuat nec mergitur =
ラテン語を 誰が訳したのか?
大変美しい日本語で「たゆたえども沈まず」と訳されています。
「揺れはしても、決して沈まない」という意味です。
この言葉は、かなり前からあるそうで何世紀にもわたり
パリの市民から愛されています。
パリ市内の中心を流れるセーヌ川はたびたび氾濫し市民は
治水に苦慮したそうです。
氾濫するたびに、セーヌの川の真ん中に浮かぶ船のような中洲の
シテ島が水中に埋没してしまいます。
けれども一度水が引くと、島は甦って姿を現します。
パリはそのたびに、たゆたいこそすれ、沈むことはなかった。
不死鳥のようによみがえった。
パリを象徴するような、この言葉が長く愛されています。
「星月夜」を描いた翌年の1月、
テオと奥さんの
ヨーとの間にフィンセント・ウイレムが生まれます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/8d/0f99d3dbabed9d21181c384ba3c187af.jpg)
甥っ子のために描いた
「花咲くアーモンドの木の枝」
ゴッホはその誕生をお祝いするためにこの絵を描いて贈りました。
ゴッホは、新しい生命の象徴として、この木を選びました。
生命観に満ちており、完成度の高い、名作の一つです。
サン・レミ時代は、ゴッホにとって一番辛い時代です。
入院中のフィンセントは、たびたび失神したり、
一時的な健忘症になったりにも~
それでも、たったひとつ続けていることが…
絵を描くことだった。
そんな状態になってすら絵を描くことをやめることはしなかった。
何度蹴落とされても、そのつど這い上がり、
どんどん絵はよくなっていく。
その計り知れない力には驚くばかりです。
オーヴェル=シュル=オワーズへ
サン・レミでの療養が少し回復したゴッホは1890年5月
パリへいったん帰ります。
そしてテオ家族とたった三日間ですが、一緒に暮らします。
プラットホームをすっぽり覆い尽くして組み上げられた鉄骨の屋根、
ガラスの天蓋の向こうには澄み切った五月の空が広がっていた。
「兄さんお帰り、待っていたよ…!」
なつかしい油絵の具の匂いに胸を衝かれた。
南仏から送られてくる荷物を開けるたびにテオの胸をいっぱいにする、
兄のえのにおいだった。
「心配かけたな。・・・・いろいろ、すまなかった」
テオは言葉に詰まってしまい、黙って首を横に振った。
ようやくパリへ~テオのもとへ帰ってきた。 が、フィンセントは
パリで画家としての活動を再開するために戻ってきたわけではない。
ぱり近郊の村。
オーヴェル=シュル=オワーズへ転地療養することが決まり、
彼を受け入れてくれる美術愛好家の精神科医、ポール・ガシュがその到着
を待っていてくれた。
フィンセントは初めて、ピガール通りにあるアパルトマンへ、
ヨーにも、そして息子のフィンセント・ウイレムにも合う。
寝室のドアーを開けると、最初に目に飛び込んでくるのは、
正面岡部に一点だけかけてある絵。
薄青色の空を背景に、のびのびと枝葉を広げるアーモンドの木。
枝いっぱいについた白い花は、春の到来を告げて清々しく咲いている。
フィンセントが送ったものだった。
その絵の下に、レースを被せたゆりかごがあった。
テオの家での滞在は、ほんの数日立ち寄ったに過ぎない。
オーヴェル=シュル=オワーズで ゴッホが暮らしたのは
駅から歩いて五分ほど、村役場の向かいの レストラン「ラヴー亭」
1階カフェ兼酒屋、2~3階は宿泊施設で・・・
ゴッホが泊まった3階の2~3畳の屋根裏部屋は当時のままに
保存されています。
目の前に「村役場」があります。
ゴッホが描いた「オーヴェルの村役場」
そのままの趣を残し。建物は現在も役所と郵便局として使われています。
「オーヴェル=シュル=オワーズの教会」
フィンセントがオーヴェル=シュル=オワーズへ移住して、
二か月が経過した。
何もかもすべてが順調で、快適に過ごしている~と、まもない頃、
フィンセントからの手紙が矢継ぎ早に届いた。
オーヴェルは実に美しい。
とりわけ美しいのは、古い草屋根がたくさんあることだ。
実際、非常な美しさだ。特徴ある絵画的な、本当の田舎だよ。
あの日 オーヴェルに行く朝。
「まともになったんだ。 フィンセントは
きっともう、心配は無用だろう・・・・そう信じよう。」
駅まで送らせてほしいとテオは懇願したが、フィンセントは
どうしても首を縦に振らなかった。
馬車に揺られて一人で行きたいんだと、言って。
最後くらい風に吹かれて行きたいんだよ、と。
一番後ろの席に座ったフィンセントは、振り返って手を振った。
テオは、しばらくの間放心して、風に吹かれていた。
「最後くらい、とフィンセントは言った。
なんの、「最後」だったのだろうか。
最後のパリ?
いや、まさか、そんなはずはない。
だけど・・・・・。
ずっと心に引っ掛かっていた。・・・・あの最後のひと言だけが。
私の、「ゴッホ」明日で終わりに~