黄昏どきを愉しむ

傘寿を過ぎた田舎爺さん 「脳」の体操に挑戦中!
まだまだ若くありたいと「老い」を楽しんでま~す

暖かな日差しを受けて~

2020-10-30 | 日記
今、ちょっと遅めに咲いています。
 「酔芙蓉」の花。

いつもは、夏の暑い頃からなんですが、今年はつい先日。
もしかしたら私が気が付かなかった…いえ、そんなことはないとも。
 今年、思い切って枝を丸坊主に切り落としたのが
               開花を遅らせたのかも?

 紅葉の便りも、ちらほらの頃…えっ? 
  
 でも、綺麗ですよ!
   早朝の姿がこれ。      
  なんとも爽やかな 白でしょ。 これあお、清々しい!

   今年は、虫食いの葉が多いのは  散布不足かな?

 「酔芙蓉」・・・実は、変化(へんげ)の花なんです。
          「酔」の字がついているように~「のん兵衛」なの?。
         小原庄助さん? のように「朝」飲んで、「昼」
          そして、「夜」まで 飲んで・・・・
  
  この朝は、飲み始めの顔、 だからまだ (^_-)-☆

   ちょうど昼過ぎに 会いに行くと・・・こんなほろ酔いの顔に。 

  しかし、飲むのをやめません・・・

 夕方、ご機嫌伺いをしてみると~・・・

 この晴れやかな、そして仲間みんなと 笑みを浮かべて嬉しそう~
    だいぶ、お酒も回ってそう~顔に筋さえも・・・
       

    と、まぁ、1日で終わりのこの花。
  なんてドラマチックなんでしょう。

   少し酒の弱いのは・・・お付き合いができずに (右側の花)
   お先にと、昼過ぎには 真っ赤になって しょぼくれていきます。
       


  さて、ちょうど今頃、花壇では~

  「オキザリス」が華やかに咲いています。

  「オキザリス・アーティキュラータ」(イモカタバミ)

  フェンス越しに、道を歩く方々…眺めて楽しんでくれています。
       

  
    左に白い花は ゼフィランサス「タマスダレ」(玉簾)
         

   こちらは、オキザリス・ボーウイー(ハナカタバミ)
        茎がちょっと長めに育ちます。 

  これから冬にかけて~庭を席巻するのが・・・
 「オキザリス・ブルグレア」

 近寄って~ほら、こんなに可愛いく、小さな花の集まりが

  オキザリスは雑草であるカタバミの仲間、世界中に800種類以上にも。
 他にも、「トリアングラリス」(紫の舞)
   今、鉢植えで、もう少しで花開きますが・・・

  資料から… 参考までに、こんな素敵な花ですよ。
   

  そして秋と言えば 野草 「ホトトギス」ですね。
  庭の隅に密かに咲いている~
    そうなんですよ、いつも、咲いているのを忘れて…
        蕾の頃のしっかりとした姿を見逃している。
    でも、秋には欠かせない花のひとつです。

  花草「ホトトギス」を俳句にした、俳句集の中から、1句拝借

   「活ける間も 花のこぼれる 杜鵑(ホトトギス)」 松沢氏
  


  野草を花器に活けると秋の風情が~さらに増しますね。

  句を拝借させていただき…
     ちょっと 備前の壺に 活けてみました。

   本当に、花が咲いてしまうと~こぼれてきます。

       


   こうしてコロナ禍の秋も、やがて冬になり

    心配なのは…「冬こそコロナ拡大」
           なんてことにならないよう 祈るばかりです。

年1回必ず「MR検査」を・・・なぜって?

2020-10-29 | 日記
人生100年時代と言われる今日
 本当に寿命は延びている?
  「こう生きたい」と願ってみても
叶えられる保証はどこにもない…。

 しかし、「健康な状態で日々過ごすこと」
自分自身の身体のことに注意しておけば、
何かがあっても慌てたり、
嘆き悲しんだりはしないと思うが?

長生きをしたいとも思っていない。
現在78歳、まぁ平均的には普通の老人の仲間であろう。
そして、この年齢は
このところなにかと「片道切符をもらい帰ってこない旅に出る」
ニュースが多く感じるのは私だけか・・・・。
同じ年代の動きには少し気になる・・如何?

「未病」は自慢にならない。
「予防」は決して悪くない。
「病気」はおおよそ回復には時間が掛かる。この年代ではね。

高齢になって考えなければならないのは、
「自分」だけのことじゃなくて、
「家族」「他人」に大いに迷惑を掛けることになる
ということを自覚すること。
 どこかの首相は、「自助」を盛んに宣うが~
これは、どうもいただけないね。
「公助」がしっかり整っていて、社会的に「共助」の精神が
生まれてくるような安心した世の中を実践していくことがまずは先決。
その上での「自助」はもっともなことだが。

「元気」なときは、自分のことだけ考えていても、
それはそれでよいのだが、いったん倒れて動けなくなったとき
家族、周囲・・・
のことを少し早目に考えることもいいのではないか。
…でないと、この国では高齢者にとって、決して
「いい国、美しい国」でもないからね~。
また、自分が 自分の身の回りのこと無関心だったり
できないなんて~宣っていたら…
きっと、後悔するからね。

現在は申し分ないほど健康。
足腰も心配ない。食欲あり、晩酌も欠かしたことはない。
運動も庭仕事でこの年齢では頑張ってる方だと~

しかし、「脳」だけは、無言なので…自分で調整ができない。
人間が確かな動き、判断ができるのは、脳に異常がないからだ。

そんな訳で、脳の検査 「MR検査」を年1回を実施している。
現在、小倉の「クリニック」に診てもらっているのですが
 先週の木曜日行ってきました。

脳組織の解剖的構造の把握から、脳腫瘍・脳梗塞・脳動脈瘤の
 検出をするための検査

病院には事前に検査の予約をして、当日指定された時間に行き
  服を検査用に着替えてすぐ開始だ。
        
   この機械の台に乗り、頭を台の上の方に。
   検査の時間は、15~20分程度…
   なんとも微妙な時間ですね。
    ウーン、ガタガタ、カチカチ、躰は、頭は動かしちゃいけません。
   脳の部位の動きに影響するので~の説明に緊張しながら~
    途中席でも出たら…と、ビクビク。

   終了すると、主治医から検査の結果の説明が・・・

   こんな具合いに~
               

    パソコンの画面に、たった今、映した「自分」の脳の画像が出て
    脳の具合を画像を医師と一緒に確認しながらの解説を聞く。

  例えば、*(これは私の実物写真ではありません。資料からです)
            
こうした脳の丸きり? を
上から、前から、横から・・・と何十枚もこまかく詳細に撮影された
脳の動きを説明してくれます。 
毎年撮影していると、脳の動き(変化)が瞬時にわかる。
例えば、脳静脈瘤が去年より大きく膨らんで瘤ができているとか~)
脳の影が広がっている、部位に箇所への転移が多くなっているとか~
アルツハイマー型認知症であれば、
脳の一部の「海馬」が、皴の数が少ないとか、スカスカ状態だとか
もう、はっきりと「白」「黒」で自分にも納得できるのが
この機械の優秀なところだと思っています。

 先生曰く、「まぁ、今年の状態は、所謂、「高齢者」としては普通、
        異常があるとは言えないようですね。
        また、来年、しっかり様子を見ましょう。」

 この先生の明るく、はきはきとした声で、一安心です。

 さぁ、こう聞けば・・・急に腹が減ってきた~。
 う~ん、やっぱり凡人。

 小倉銀天街、皆さんご存じの「回転すしの 京寿司」へ。
  ここ回転すしでは 日本一になった店なんですよ。
  この日は、本当に珍しく、待ち時間ゼロ ラッキー
  普段は、とてもとても~我慢の待ち時間ありです。
        
    
        

        

        

満腹まで、あれこれと「ネタ」選び・・・

本当に、新鮮で生きのいい魚を調理してくれる~
この値段では、まぁ、他所には引けを取らない、「ネタ」がいい。
今日は、マグロの中トロが最高でした・・・
ついつい 欲張って~えっ、〇皿も…

そうそう「のどぐろ」2貫で 000円!と。(*その日の時価で変わります)
 他、今日のおすすめのメニューが掲示されています。
 でも、私は、メニュー見ただけ ですがね・・・

 それから、私の楽しみの一つは、例のパン屋さんへ。
 小倉井筒屋内 「ポンパドール」へ。
 おなじみの あの、赤い包装紙です。     
 
          

   いつ行っても、賑わっており、行列が絶えないほどの人気店
  

  そして、いつも同じパンを・・・
 そう、この写真の ちょうど真ん中に 屹立しているやつ。
  「バケット」    「バタール」 そして「レーズンパン」を。   
               

  これを抱えて帰路に就くのが、何よりの幸せなんです。
  「安いもんでしょう…、可愛いもんでしょう」

 菓子パン類は、一切距離を置いています。
 このフランスパン独特の、外パリパリ感、中しっとり感を
 味わうのが最高。
    私の町には、残念ながら、この感じのパン屋がない。

    さらに、チーズとワインを合わせて食卓に~
    もう病気のこと 完全に 忘れております!

 病気って、「気」でしょ。
 だから、先生のひと言は、「元気」に、そして「陽気」に。
 自分がなれる、 又、そのことで
 何かことを始めるには、「本気」で、そして「根気」よくと。
         いいことだけですよ。

   皆さんも、「病」を神経質に考えるのではなく、
   自分への「気」を引っ張り出す 
   そんな気分で 素直に「検査」はお受けになり、
  「予防」は必要のこと頭に入れておいた方がよろしいようで。

      本日は、これにてお開き・・・。

威風堂々の天守閣(熊本城)を間近に!

2020-10-28 | 日記
 10月27日(火)
 私たち郷土史研究会メンバー22名

今月は現地見学で熊本へ~
「地震からの復旧工事「熊本城」をこの目で確かめるための勉強会」。

特別公開で、高さ約6ⅿの特別見学通路を通っての場内見学。
現地ガイドさんの案内で地震後の姿、今しかみることができない城の復旧工事の様子などを見ることができました。
 
 さて、この天下の名城 城主は誰? 
先ずはそんなところから…

 熊本城を築城したのは加藤清正(1562~1611年)なんですが
             
この地、熊本は室町時代から戦国時代にかけて「隈本」と呼ばれていました。
 現在のお城がある茶臼山には古来からの名族菊池氏一族の出田秀信が室町時代に千葉城を築き、その後、天正15年(1587年)豊臣秀吉による九州征伐
                                                                                   
後、越中富山城主佐々成正が肥後一国を与えられ隈本城主となりましたが、 
             
成正の強引な領民政策に肥後国人衆が反発して一揆が起こり、成正はその責任を問われ切腹させられる。
 翌天正16年肥後の国は二分され、南半国は宇土城に入った小西行長に、
北半国は加藤清正に与えられ清正は隈本城主に。
慶長5年(1600年)の関ケ原の合戦で清正は東軍、 (家康)

小西行長は西軍 (秀頼)
についたため、
清正は宇土城を攻め落とし、その戦功で肥後一国52万石の大大名になった。

 清正は、この茶臼山の千葉城・隈本城を中心に全体を大規模な築城工事で
要塞化した新城を築き上げ、城の名も「隈」から「熊」に改め、「熊本城」としたのです。
 清正は築城の名手といわれ、彼独特の縄張りで、この城全体を7年の歳月を費やして完成させた。

 清正は天正16年病のため城内で50歳の生涯を閉じた。
清正の子加藤忠弘が後を継いだが、徳川幕府の豊臣恩顧の大名取り潰し政策で謀反の疑いをかけられ出羽庄内城主酒井忠利にお預けの身となる。

 加藤氏改易の後、豊前小倉城主細川忠利が肥後54万石の城主に。
          
忠利の父細川三斉(忠興)も肥後八代城に移った。
                                     
 以後、細川氏11代の居城として明治維新を迎える。
明治10年に西郷隆盛が引き起こした西南戦争に際して、
                 
熊本鎮台司令官の谷干城(たてき)以下3400名が守る
               
熊本城を薩摩軍13,000名が攻撃するが、落城には至らず撤退した。

 清正が築いたこの城は近代戦争にも耐えうる要害堅固な城であることを世に知らしめたが、この西南戦争で天守以下多くの建造物が焼却してしまった。
  因みに 現在の細川家当主第18代目は この方 (第79代内閣総理大臣)
        細川護熙氏
          

熊本城は400年に亘る日本の様々な歴史の重要な舞台に、また歴史に名を刻んだ歴史ドラマの主人公たちが繰り広げるのも熊本城です。

 そして、平成28年(2016年)4月に発生した熊本地震では天守閣や石垣などが大きな被害を受けましたが、
 
                   
                        現在、再建に向けて復旧工事が進んでいます。

 そんなドラマチックな歴史を持つお城、往時をしのばせる数々と、復旧による近代の姿を合わせてしっかりと確認してきました。

 熊本城内に入ってバスは桜の馬場駐車場へ、ヴァイキングレストラン
でのランチ。 なかなかスマートなメニューと味で、みなさんしっかり
食欲を満たしたみたい⁈
それぞれ食後は、コーヒータイムでゆっくり体力調整~その後見学開始!

城内ガイドさんの誘導で~
特別見学通路に入ります~鉄骨を組み合わせて延々と続きます。     
    

  (数寄屋丸二階御広間)」

  
 まだまだ手付かずの状態… もし、また地震が来たら? 心配!
   櫓の板塀も少ししなっているようにも見えますよ・・・

   城内には、楠が多く、
     
   樹齢800年ものも… 凄い! 
            えっ、鎌倉前期の頃だよ…この茶臼山の自然木だったのかな?
      
     

    「二様の石垣」
 隅が2か所あり、両方の石垣の反り方が違っている。
 東側はそのゆるやかなカーブと石組みから加藤清正時代のもの、
 西側は細川氏時代のものと言われているのですが、このような珍しい
石組みは熊本城独特の物だそうです。
  それにしても本当に目を奪う姿ですよね~
       

  もう少し、ズームすると、境界がはっきりしますね。
   石積みの「石」の古さまで 分かります。
  独特の勾配を持つこの高石垣は清正流「三日月石垣」または、
「武者返し」とも呼ばれ、場内の随所に残っています。

        この石積み方法~当時の石工さんたちの高度な技術には
   頭下がりますよね。
   上の行くほど、工事も大変、足場組みと石を上げる操作?
   そんな当時の仕事模様って・・・見てみたい!
   現在では便利な重機を使っての工事のようですが…。
   
       

   熊本城の石垣は、下から緩やかで、簡単に登れるように見えますが
 上に向かえば向かうほど反りかえりが激しなり、上ることができません。
 武士はもちろん、身軽な忍者でさえも引き返すことから「武者返し」
 呼ばれています。
                        


  本丸御殿の方へ~廊下を歩き~エレベーターもありましたが、階段を
上り、通路より  本丸へ・・・。
 
        
  

  本丸御殿の天守閣の雄姿~ほぼ完成…2021年春には、全体の復旧が完了し、天守閣の内部まで入れるようになる。

   工事の櫓がちょっと邪魔ですよね~
 こちら側からの眺めは… いいいねぇ。
   

   震災直後の 天守閣の様子 

  本丸御殿の広場にある大イチョウ。
        

        

   清正公のお手植えと伝わっています。
   今回は、まだイチョウの葉も 少し早かったのですが
   この熊本城は『銀杏城』とも呼ばれています。
    因みにこの木は、雄木なので実はならない。

    こんな日に出会えば・・・最高でしたが。
                             

   このイチョウの傍に深さ約40ⅿの井戸が残っていました。
 清正は、朝鮮出兵の際、「泥水をすすり、死馬の肉を食らう」という
 苦しい籠城戦を強いられ、その経験を活かして場内のいたるところに
 120余の水量豊かな井戸を掘っていました。
  現在もなお、17の井戸が残っている。

 櫓の内部で大木と石垣を組み合わせた武骨な姿ですが
  日本全国の御殿建築んあかでも異例のもので御殿への正式な入口も
 地下にあったみたいです。
 しっかりとした通路。
 「闇り通路(くらがり)」と呼ばれています。
         

   この日は風はなく、太陽の光線はまるで夏日のよう~
 歩いているうちに、上着を脱ぎ、汗を拭きながらの見学です。
 万歩計の数も・・・普段歩かない足を先へ先へと進めることに。


  そんな中、涼しげな景観、いや、最高だ!
  思いっきり、シャッターを押しました。
   「宇土櫓、本丸、天守閣」の優美なパノラマです。
 

   左「宇土櫓」     天守閣     本丸御殿
  第3の天守閣とも…

        


   まだ手付かず? こんな危なっかしい姿が~

        

    
 
                

  崩壊した積み石も・・・まだ 周辺には そのままに~
       

  
 いやいや、地震のニュースの時は、テレビの画像を通してのみ。
 現場で、この被害の状況をまざまざと見せつけられと、ため息ばかり。
  その凄さを実感いたしました。

  復興にはまだまだの時間が必要だと聞いています。
  復元、再建。 石垣の修理や積み直しにも 
  、熊本城全体が元の姿に戻るには、まだ20年近くがと~

  熊本県民の愛する「熊本城」、いや、全国の人々も一日も早い
  復旧を願うばかりです。

   復旧工事も進み、天守閣の内部の公開が令和3年には予定とのこと
  また機会があれば是非の思いで、場内を後にしました。

      
  その後、「田原坂西南戦争資料館」へ向かい、戦争の記憶を

      「弾痕の家(復元)」
        

        
        
   今に伝える 数々の資料を見学し 今回の勉強会を終わりました。




あの「ゴッホ」を追いかけてみよう! (№.14)

2020-10-24 | 日記
フィンセントからの手紙には~

世話になっているガシェ医師と意気投合したこと、
           (医師の肖像画は何枚も描いています。そして「庭」や婦人も。)
           「ガシェ医師の肖像」
       
         「ピアノを弾くマルグリット・ガシェ」
              
         「ガシェ医師の庭」
         

        「シャルル・フランソワ・ドービニーの庭」
         
村役場前にある食堂の三階の下宿屋に落ち着いたこと、

描きたい画題がいくらでもあること、 

 ゴッホはオーヴェル=シュル=オワーズでも盛んに作品を描きました。
 二日に一枚という驚異的なペースでした。

素朴な教会、オワーズ川の清流、
                                  「オーヴェルのオワーズ川の川岸」

                                 
 
             「夜の白い家」
         

             「藁ぶき屋根の家々」
         

             「ヒナゲシのある風景」
         

はるかに見渡す麦畑
====
        ( 収穫の時期になると広い麦畑は黄色に染まる)
           

  ゴッホ描く 「麦畑」の中から~
          「麦束の山を刈る人」
           
          
          「小麦を背景に立つ若い女性」
            
          「荒れ模様の空のオーヴェルの麦畑」
            

           「荒れ模様の空の麦畑」
          

          「ヤグルマギクがある麦畑」
         
                          =====
畑の中の小径、
四つ辻に舞い飛ぶカラスの群れ。 

====
           名作 「カラスのいる麦畑」

 3本の道がある
    真ん中の道~カラスが不気味に舞う…まっすぐどこまでも、ゴッホは?
     どの道を選んで歩こうとしているのか・・・」
    
  ◆余談ですが~
    ゴッホの自画像の中で、気になる1枚があるんです。
    私、洋画が好きで、若い頃よく映画館通いを~
    ちょっと古いんですが この方 「カーク・ダグラス」さん。
                    
     なんと、103歳でお亡くなりになった。 名優の一人でした。
 このゴッホの自画像~
           よく似ていると思いません?

      そうですよね。 だからこんな映画が~
       
           「炎の人ゴッホ」
         
          

         こんなポスターも
          
                                   ====
戻ります。

病気の影を微塵も感じさせない冴え渡った文面を読んで、
テオは、やはりフィンセントをオーヴェルに行かせて
良かったのだと安心した。

6月になって、テオの家族はそろってオーヴェルへ。
 ガシェ医師は一行を大歓待してくれた。
 
 フィンセントとテオ、二人並んで麦畑を散歩した。
四辻に立った時、フィンセントは立ち止って麦畑を眺め渡した。
・・・と、その場を離れようとしない~

 画題がひらめいたのか?

~フィンセントを残してみんなは引き返していった。

  *きっとあの絵でですよ…間違いなく、ね、ほら
      


7月1日 、フィンセントが
 テオの勤務先(パリ、ブッソ・エ・ヴァラドン)にひょっこりと現れた。
 なの前触れもなく店に現れたことがテオを困惑させた。
  経営陣は、みすぼらしい姿の貧乏画家など店に入れるなと激怒した。

  テオは、フィンセントを店の外に引っ張り出した。
  ~何しに来たんだよ⁈ なんで電報ぐらい先によこさないんだ!
  かっとなって、テオはどなりつけた。 
                                       
   フィンセントは、ぴくりと身をすくませた。

     二人のやり取りがしばらく続いて・・・

   ああ、帰るよ。いますぐに。 力なく言った。
        …悪かったな。突然来てしまって…じゃあ。

                                    
 あれから、ひと月近くが経っていた。


テオは店に出勤した。
 店に入ると、待ち構えていたかのように、彼の助手アンドレが
 駆け寄った。
  「オーヴェルから、友人が来られています」
    朝、一番の汽車でこられたということですが・・・」
  
    一瞬、テオの胸を悪い予感が矢のように貫いた。

  テオを待ち構えていたのは、フィンセントの隣室のオランダの画家
  ヒルシッフであった。

  「テオ・・・」 ヒルシッフのこぼれ出た言葉が
               テオを打ちのめした。

   フィンセントが、自分の脇腹を、撃った。
       息はまだある。来てくれ、いますぐに。 
            オーヴェルへ。
                                                                  君の兄さんのもとへ。

7月30日 オーヴェル・シュル・オワーズ

 抜けるような青空が、村落の上に広がっていた。
 がらがらと乾いた音を立てて、フィンセントの棺を乗せた荷馬車が
 ゆるやかな坂道を上っていく。
 その道は村はずれの墓地へと続いていた。

 棺のすぐ後ろにテオが続く。
 ガシェ医師、タンギー親父、幾人かの画家仲間たちがついていった。
 きらめく真夏の陽光とは裏腹に、どの顔も悲しみで曇っていた。

 墓地に到着した。ガシェ医師が喪服の上着のポケットから
 弔辞を取り出し、ぼそぼそと読み上げた。
   
 別れの言葉は、テオの耳にはまったく届いていない…
 神父の姿もなく、祈りの言葉もないまま~ 
               永遠の別れの時が訪れた。


 棺は二回の部屋の中央に据えた作業台の上に安置され、
 パレットやイーゼル。そしてフィンセントのすべての絵を
 この部屋に移動し、黙々と飾り付けた~ 
 「兄さんが、この前、手紙を送ってきて…
   ・・・いつの日かどこかのカフェで展覧会ができたらな~ってさ。

       こんなかたちで、実現するなんて…
    そこは、さながら小さな美術館のようになった。

 今まで紹介した1枚、1枚の絵は こんな風に表現しています。

 「コバルトブルーの空を背景に佇む教会。
  したたる緑を映して流れるオワーズ川。
  青い炎のようなアザミの花。
  革命記念日の万国旗を飾り付けた村役場。 
  花々が咲き乱れる、画家ドービニーの家の庭。
  鳥が舞い飛ぶ、刈り入れが終わった後の麦畑。
   ごつごつと武骨なかたちをさらけ出す木の根。」

  ~こんなものまで…描いていたのか
     木の根が描かれた横長のカンヴァス…そう、それはただの
   木の根に肉泊して描かれた絵だった。
                      遺作:「木の根と幹」
 
      
  芳しい花でもなく、照り輝く青葉でもない、木の根。
 ただただ、木の根ばかりをフィンセントは描いたのだ。
 もはやは何も青葉にも心を動かさない、画家の堅牢なまなざし。

   この絵は、画家の最後のアトリエとなった屋根裏部屋、
     そこに置かれたイーゼルに遺されていた最後の1枚だったと。

 現在、絵のモデル? 今も パリ郊外の森にゴッホが描いたという
           樹木の根が・・・
        
   
        研究者により場所の特定を~証明
         

7月30日 午後6時。
   村の教会の鐘が かっきり6回、鳴り響いた。
            
 
            
 もともと病弱だったテオは、兄の死をきっかけに衰弱し、
その半年後の 1891年1月25日、
ゴッホの後を追うように、33歳でユトレヒトの精神科病院で
で亡くなりました。

  今、オーヴェル=シュル=オワーズにゴッホとテオ
  二人の墓が並んでいます。
     

       誰だろう? 花を添えてあげたのは・・・・
     
 「見たことがないものが出てくると、初めのうちは戸惑う。
   なんだかんだと文句を言う。
   けれどそのうちに、受け止める」

    浮世絵も、印象派も、そうだった。
   
     きっと、いつか、そうなるだろう。
     ~フィンセント・ファン・ゴッホも。
                  忠正も。


    ・・・・フィンセント、いつか帰ろう。 パリへ。

 「パリという街は、なんであれ、
   最初は拒絶するかもしれないけど、最後には
         受け入れてくれる街なんだよ」  



 セーヌは滔々と、とどまることを知らず、橋の下を流れ続けている。  



 「あの、「ゴッホ」を追いかけよう」 №1~14
   
 原田マハさんの小説「たゆたえども沈まず」
  と共に、ゴッホの作品(本文中の作品及びの私の選んだ作品)を
  挿入をし、少しばかりの資料の収集と個人的な感想を入れ編集
  シリーズ編  14話で終了です。
                 ご愛読ありがとうございました。

あの「ゴッホ」を追いかけてみよう! (№.13)

2020-10-23 | 日記
フィンセントはようやく落ち着いて絵筆を取るように~
 院長は外出許可を出してくれた。
フィンセントは喜び勇んで、イーゼルを担ぎ、絵の具とパレットと絵筆を
たんまり用意して出かけて行った。

 風が彼の友達だった…この地では、 村の道をどこまでも歩いていった。
 パリにない素朴な風景が~
 オリーブの木々~遠くに アルピーユ山脈が…
     
 
  
  
  
   
この世界のすべてが、画家、
  フィンセント・ファン・ゴッホの味方だった。
  夢中になって、画布に絵筆を走らせた。

  ゴッホが描いた「アイリス」の絵は有名で、療養院に入院して
すぐに描いたのが・・・これ。

  自分を迎え入れてくれた~そのアイリスを。

 「アイリス」 1889年 ポール・ゲティ美術館蔵 

  サン=レミで描かれた絵は、深い孤独を感じさせない~ 
   明るい光を感じます。
  フィンセントも、後ろ向きの気持ちでは描けないと

   だからこそ、「ようこそ」と迎えてくれた アイリスの花も
 あんなに美しく描けたのではないでしょうか。


  オリーブの畑 も 何枚も描き続けました。
       
      
 特に彼が心を奪われたのは、村のあちこちに佇む糸杉だった。
 こんな不思議な、凛として 孤高の姿をした木立を・・・
 フィンセントは見たことがなかった。
      
 
 それから、何日も、何時間も・・・糸杉と向かい合った。

  糸杉はどことなく不吉な木、地面から突然立ち上がり~
  手に繋がっているような…
   ヨーロッパではお墓の木と呼ばれ、キリストが磔になった
   十字架は、この木でつくられたという伝説があります。
  この糸杉に 心を奪われました。
       糸杉は、いつしか画家自身に重なり合ったのだ。


      「糸杉」
         
       
      「糸杉と二人の女性」
         

      「糸杉のある麦畑」
           

      「糸杉と星の見える道」
         
              *1890年5月・12~15日 レミでの最後の作品
 


   「星月夜」
         ニューヨーク近代美術館(MOMA)蔵
       

 この絵が~
 箱の中に残された最後の一枚を、テオは取り上げた。
 なぜだろう、その市間は特別なものだという予感があった。
 生き絵お留めて、包み紙を広げる。
 現れたのは、星月夜を描いた市間の絵だった。
 明るい、どこまでも明るい夜空。それは、朝をはらんだ夜、
 暁を待つ夜空だ。・・・・・

  僕は、もう長いこと待っていたんだ。・・・・この一枚を。
 星月夜の絵を、テオはそっと胸に抱きすくめた。
          なつかしい兄の匂いだった。


    この風景が見える場所は、サン=レミにはありません。
   空が渦巻いたり、月もあのようには見えない。
 「星月夜」は、ゴーギャンの
  「自分の空想したように描けばいいんだ」とい言葉をゴッホが
 風景を頭の中で組み合わせて作り上げた想像の風景です。
  
 これもゴーギャンとのアルルでの共同生活を経験したからこその作品
 とも言えるのではないでしょうか。

  以前に、作中で・・・林忠正はゴッホに
 「本当に描きたいものを描けばいい」というメッセージをしています。

 一番か描きたかったものはセーヌ川でした…
  しかし、運命がそうさせなかった…それを、この「星月夜」の姿を
  借りて描いたのではないか~と、原田マハさんは解釈しています。
  糸杉は、セーヌのほとりに佇み、いつか訪れる朝を待つ
  ゴッホその人。

本当のところ、ゴッホが何を思って「星月夜」を描いたのか
誰にもわかりません。
でも、原田マハさんは、林忠正、テオ、らの心情を作中に織り込んで、
最終的には著者自身が「そういう解釈があってもいいのではと」
小説ならではの・・・力で。   
    


   フィンセントと
  「たゆたえども沈まず」の表紙は これだ! ってね。
            
  ゴッホの セーヌへの思いを・・
     この言葉と共に 込めて筆を走らせた。
          
   =Fluctuat nec mergitur =

   ラテン語を 誰が訳したのか?
    大変美しい日本語で「たゆたえども沈まず」と訳されています。

   「揺れはしても、決して沈まない」という意味です。
  この言葉は、かなり前からあるそうで何世紀にもわたり
  パリの市民から愛されています。
   パリ市内の中心を流れるセーヌ川はたびたび氾濫し市民は
  治水に苦慮したそうです。
  氾濫するたびに、セーヌの川の真ん中に浮かぶ船のような中洲の
   シテ島が水中に埋没してしまいます。
   けれども一度水が引くと、島は甦って姿を現します。
  パリはそのたびに、たゆたいこそすれ、沈むことはなかった。
  不死鳥のようによみがえった。
   パリを象徴するような、この言葉が長く愛されています。


 「星月夜」を描いた翌年の1月、
 テオと奥さんのヨーとの間にフィンセント・ウイレムが生まれます。
     
 
 甥っ子のために描いた「花咲くアーモンドの木の枝」 
 
     
ゴッホはその誕生をお祝いするためにこの絵を描いて贈りました。
ゴッホは、新しい生命の象徴として、この木を選びました。
生命観に満ちており、完成度の高い、名作の一つです。

 サン・レミ時代は、ゴッホにとって一番辛い時代です。
入院中のフィンセントは、たびたび失神したり、
一時的な健忘症になったりにも~
 それでも、たったひとつ続けていることが…
絵を描くことだった。
そんな状態になってすら絵を描くことをやめることはしなかった。
何度蹴落とされても、そのつど這い上がり、
どんどん絵はよくなっていく。

その計り知れない力には驚くばかりです。


オーヴェル=シュル=オワーズ

 サン・レミでの療養が少し回復したゴッホは1890年5月
パリへいったん帰ります。
そしてテオ家族とたった三日間ですが、一緒に暮らします。

プラットホームをすっぽり覆い尽くして組み上げられた鉄骨の屋根
ガラスの天蓋の向こうには澄み切った五月の空が広がっていた。 
     

 「兄さんお帰り、待っていたよ…!」

  なつかしい油絵の具の匂いに胸を衝かれた。
  南仏から送られてくる荷物を開けるたびにテオの胸をいっぱいにする、
  兄のえのにおいだった。

「心配かけたな。・・・・いろいろ、すまなかった」

  テオは言葉に詰まってしまい、黙って首を横に振った。

 ようやくパリへ~テオのもとへ帰ってきた。 が、フィンセントは
パリで画家としての活動を再開するために戻ってきたわけではない。
ぱり近郊の村。
 オーヴェル=シュル=オワーズへ転地療養することが決まり、
彼を受け入れてくれる美術愛好家の精神科医、ポール・ガシュがその到着
を待っていてくれた。

  フィンセントは初めて、ピガール通りにあるアパルトマンへ、
 ヨーにも、そして息子のフィンセント・ウイレムにも合う。
 寝室のドアーを開けると、最初に目に飛び込んでくるのは、
 正面岡部に一点だけかけてある絵。
   薄青色の空を背景に、のびのびと枝葉を広げるアーモンドの木。
 枝いっぱいについた白い花は、春の到来を告げて清々しく咲いている。
         フィンセントが送ったものだった。
         
      その絵の下に、レースを被せたゆりかごがあった。

 テオの家での滞在は、ほんの数日立ち寄ったに過ぎない。

  オーヴェル=シュル=オワーズで ゴッホが暮らしたのは
駅から歩いて五分ほど、村役場の向かいの レストラン「ラヴー亭」
1階カフェ兼酒屋、2~3階は宿泊施設で・・・
ゴッホが泊まった3階の2~3畳の屋根裏部屋は当時のままに
保存されています。
           

   目の前に「村役場」があります。
                 

ゴッホが描いた「オーヴェルの村役場」
                                     
         
 そのままの趣を残し。建物は現在も役所と郵便局として使われています。

   「オーヴェル=シュル=オワーズの教会」
               

  フィンセントがオーヴェル=シュル=オワーズへ移住して、
 二か月が経過した。
 何もかもすべてが順調で、快適に過ごしている~と、まもない頃、
 フィンセントからの手紙が矢継ぎ早に届いた。

 オーヴェルは実に美しい
 とりわけ美しいのは、古い草屋根がたくさんあることだ。  
  実際、非常な美しさだ。特徴ある絵画的な、本当の田舎だよ。

あの日 オーヴェルに行く朝。
「まともになったんだ。 フィンセントは
   きっともう、心配は無用だろう・・・・そう信じよう。」

駅まで送らせてほしいとテオは懇願したが、フィンセント
どうしても首を縦に振らなかった。
馬車に揺られて一人で行きたいんだと、言って。

最後くらい風に吹かれて行きたいんだよ、と。

 一番後ろの席に座ったフィンセントは、振り返って手を振った。

 テオは、しばらくの間放心して、風に吹かれていた。
  「最後くらい、とフィンセントは言った。
 なんの、「最後」だったのだろうか。
 最後のパリ?
 いや、まさか、そんなはずはない。
  だけど・・・・・。
 ずっと心に引っ掛かっていた。・・・・あの最後のひと言だけが。

  
                私の、「ゴッホ」明日で終わりに~


あの「ゴッホ」を追いかけてみよう! (№.12)

2020-10-22 | 日記
1888年12月 ゴッホが自分の耳を切る事件を起こします。
喧嘩や議論の絶えない二人。

ゴーギャンがアルルのホテルに泊まった。
一人家に帰ったゴッホは、左耳の耳たぶの一部を切り落とし、
その肉片を自分の馴染みの娼婦に届けて警察沙汰になりました。

ゴッホの耳切り事件は新聞沙汰になり、さらに話が大きくなっていきます。
 一般市民の野次馬根性に、ゴシップこそ書きたいジャーナリズムの
性質が重なり、ゴッホはたちまち「狂気の人」に仕立て上げられてしまい
ました。

入退院後、徘徊して意味不明なことを口にし始めたゴッホ。
もう一度病院に入院させてくれと警察に通報されたほか、いろいろな
噂が立ち、ゴッホはアルルに居ずらくなってきたのです。
               (頭に包帯をした自画像 ゴッホ)


 市立病院のレイ医師
 「サン=レミという近くの町に修道院があり、付属の療養院がある。
   そこだったら絵も描ける。
   行ってみたら~」と提案された。

  ゴッホはたった一人で行く決心をする。

  おそらくゴッホはまともだったのではないでしょうか。
   医師から、「絵が描けるところに行くべきだ」
  普通の考え方ができる、狂人だったら・・・
   とても言える言葉ではないでしょう? …

  その環境に飛び込んでいくことが、彼の選択でした。
  きっと、自分の起こしたことで大騒ぎになったこと。
  まずいという気持ちもあったと~
   絵を描き続けることしか自分にはできない。
  前向きな選択だった。
  それに、もうひとつ、テオのためを思ったからでは?…。


 アルルでの作品をすべては無理なので~前回から続いて・・・
  ここでゴッホがアルルで描いた作品を鑑賞しましょう。
  
    「アルルの病院の中庭」
       
  ゴッホのメモリアル
     現在が当時そっくり復元したもの
        

 ゴッホは、ここでわずか15か月の滞在中に300点を超える作品を残す。

     
                  「 自画像 パイプをくわえ麦わら帽子をかぶったもの
          

     「自画像 坊主としての自画像
          

     「アルルの老女」
        
 
      「ラ・ムスメ、座像」
        

      「男の肖像」
        
   
      「花咲く果樹園」
           
        

      「オリーブ畑」
        

      「アルルの跳ね橋」
        
        
       「アルルのダンスホール」
        

       「売春宿」
           

 
  サン=レミ修道院の精神科病院へ

  ゴッホは、たった一人で馬車に揺られてアルルからサン=レミへ。

    サン=レミへは…プラタナスの並木道が延々と続く~
  


  修道院の門をくぐったのは1889年5月。

   門をくぐると、入口からまっすぐ修道院の教会に向かって
   小径が続きています。
   その小径の花壇に、アイリスの群生が咲き乱れている。
   たった一人のゴッホを迎えてくれたのは~
     この「アイリス」だった。
       
         
         
            (中庭)
    
       

糸杉街道を通って、
修道院付きのサン=ポール=ド=モゾール療養院に到着。

        

   サン・レミ修道院には、
 今でもゴッホが入院していた部屋が残されています。
        
   冷たい」石畳の三畳一間くらいの狭いもの。
   窓には 講師が嵌められています。
        

   この窓からは、アルピーュ山脈、そして修道院で働く農民たちが
 耕す畑の様子が・・・・

  サン=レミの修道院で過ごしているあいだに回復してきたゴッホは、
キャンヴァスを持って屋外に出かけていきました。

アルルとは違って、誰も話しかけない代わりに、後ろ指を指す人もいない。
きっと、心の中で木や山々と会話をしながら絵を描いたことでしょう。

ゴッホのここでの一年間は、彼の作品の中で、最も優れた作品が
生み出されています。
素晴らしい風景画を残しています。
                        続く

人生何が縁に繋がるか…

2020-10-21 | 日記
 驚いた!
 こんな奇遇が起こるなんて…

 昨日の火曜日 恒例の「火曜いきいきサロン」という地域の
コミュニティセンターで講演をしてきました。

コロナ禍の時節でしたが、皆さんしっかりマスク、部屋の喚起
会場の席は1テーブルに1人、その後ろは2人と並び 交互に
「三蜜」対策も万全。

講演終了後に、ランチタイムに初めて参加された方たちから
「お呼びがかかり」ご一緒させてもらいました。

 その参加者の中の一人が、私の高校時代の同級生のお姉さん。
いろいろ昔の話が出てきて・・・
現在、小倉で画家として活躍中との話・・・おやおやと弾んで~
機会があれば、お会いしたいなぁ~が、
 偶然にも、今日から北九州市門司区のギャラリー「オリーブの木」
で個展が始まるのだと・・・

 今朝、思い出して、先方の都合を聞こうと 電話を掛ける。
電話口から「女性ならではの、高い声が飛び込んできた」

 こちらの事情を話すと…覚えてくれていたよう~
 (時々、姉から あなたのこと聞いていたわよ) だって…。

と、途中ですが、今から、私、会場に行くバスに乗らなければならないから
との言。 
了解、またね・・・と電話を切った。 が、
個展は、25日までとか、予定のカレンダーを見つめ

「うっ、今日しかない」

電話? まだ 携帯お番号も聞いてはいない・・・

今度は、「ギャラリー オリーブの木」に電話し、彼女に繋いでもらい
 今日は終日会場にいるとのことなので、
 「じゃ、今から、行きます!」と、
あわただしく支度をして列車に乗る。

門司駅に到着  改札を出て~海岸側の通路を歩き、下りエスカレーター
         
  文字駅の看板を後ろに

 
 きれいなタイルの道をまっすぐ
交差点左には昔風のしゃれた赤レンガの建物
そこを左に曲がって 並木道を真っ直ぐ   

 そう、5分程度か… 
「ギャラリー オリーブの木

 今日が初日なのか・・・ すでにお客さんが入口からはみ出していた。
 いや、それほど大きくない場所で、
う~ん、会場としてはちょっと
 狭い感じだなぁ~。

 またまた微妙な・・・昨日お話をいただいた、本人のお姉さんが
また、ここでも偶然が重なったのだ…。

 彼女(本田さん)は、すぐに分かってくれた・・・
 でも、僕は、一瞬、頭の中を駆け巡り、昔の彼女の面影を必死に・・・
 いや、正直、変わっているのだ・・・
 でも、彼女が僕を理解してくれてているのだから~。

  昭和35年以来なんだもんね…指で数える? いや、計算してみると
 60年以上も前なんだ!  変わらない方がおかしいですよ。

 狭い会場、次々に、仲間や御贔屓の方たちが挨拶~
 こりゃ、 ゆっくりできないわぁ~・・・

 大急ぎで作品をカメラに収めました・・・これでゆっくり鑑賞とね。

会場で、作品展の案内状を
 その表紙絵がこれ。

 この絵は、最後にウズベキスタンを訪れたとき、今まで歩いた国が
 自分自身の内面で繋がりを感じた作品だと、本人は言う。

       「繋がる」油彩


  立ち話をしながら・・・えいやっ! て シャッターを次々に。
   説明は省きます~  
  あなたの イメージを 膨らませて下さい、「心象」ですよ。

    感性で、鑑賞して下さい。

         

         

         

         

         

         

         

         

          
     
 これっ! 絶対に、 カッパドキアのイメージだね。
  
 それでは、ここで 中東イスラムの匂いを少し嗅いでみてください。

         「アヤソフィア」
 

        
            大聖堂の中 
       
        
          繊細で緻密なモザイク画

        
          アヤソフィアのミフラープ
 

  これがかの 「カッパドキアだ!」

 4世紀ごろから、多くのキリスト教徒が住むようになりました。
しかし。、9世紀の頃から強まったイスラム教の圧迫から逃れるために、
岩を削った洞窟に教会や、聖堂、修道院を造り、ひっそりと信仰を深めて
いたと言われています。
    

        

        



  彼女、本田絃代 現在小倉で活躍中。

まだまだ穏やかだったころのイスラム国を訪れたときの心象風景を油彩、
グワッシユ・オブジェで表現した作品展です。

トルコやモロッコ、カタール、ウズベキスタン、チュニジアなどを訪れ、
モスク内外のタイルの繊細な装飾の記憶を手掛かりにイメージを膨らませて内なるものを抽象的に表現。トクニトルコのカッパドキアの林立する奇岩群の面白さから、今回の作品「妖精の煙突」は、ここから始まる。

        
 帰り道の風は~ほんに気分が清々しい…甘い香りが…
    青春って、やっぱり振り返って 思い出がなければダメだな。

    彼女は、ずっ~と、この道を持続できる力がある
     エネルギーとは、年齢には関係がなさそうだ・・・

    「好きこそものの 上手なれ」 だが、なんといっても

    踏ん張れる、何か?  それがキーワードなんだろうね。

  後期高齢者 諸君!  元気なうちは?   頑張ろう!

あの「ゴッホ」を追いかけてみよう! (№11)

2020-10-20 | 日記
11月下旬

日曜日の朝、パリの街に雪が降った。
       

道沿いの市場が切れる角を曲がった瞬間、小柄な女性とぶつかった。
あっと小さく叫び声が聞こえて、彼女が提げていたかごから
林檎が転げ落ちた。
はっとして、テオはとっさに雪が降り積もった石畳の上を転がっていく
果物を拾い集めた。

「すみませんでした、マドモアゼル。
     ・・・お怪我はありませんでしたか」

見覚えのある顔が、テオの胸の中で心臓が激しく鼓動を打った。
彼はささやいた。
「・・・君は・・・ヨーじゃないか・・・!」
故郷の友人の妹、ヨハンナ・ボンゲル
 ずっと昔、テオがほのかな恋心を抱いたことのある少女が、
   美しい女性になって、目の前に立ち尽くしていた。
          
         

12月中旬 

テオ重吉を芝居に誘った。
                      
 コメディフランセ-ズ劇場では 今、
モリエールの喜劇「人間ぎらい」が~   

 重吉は、なにせ、君に芝居に誘われるなんてことは、
いままでついぞなかったからな・・・
何かいいことでも起こったのかと思ってね」

        =====
「お待たせ、テオ、ごめんなさい、遅くなってしまって・・・」
細い肩で息をつきながら、可憐な女性がたたずんでいた。

お互いの紹介が終わって~テオは、彼女との再会について
話し始めた。

        =====
 そして…。
「・・・きのうの夜、僕は、彼女に結婚を申し込んだんだ」

次の朝 
夜の間に本格的に降り積もった雪は、一夜にしてパリの街なかを
 真っ白に染め上げた。
           
ロンドンの出張から帰った来た忠正に 
重吉は「その…急に テオが結婚をすることになって…」と。

忠正は~「それはまた、急な話だな」

いままでの経過を説明を 最後まできいてしまうと、
「フィンセントは知っているのか」そう尋ねた。
重吉は首を横に振った。
「その・・・いまだけは、後回しにしたいようでした」

忠正は、「・・・フィンセントは、このままでは破滅するな

そう忠正は、あの絵に漂うそこはかとない孤独感を感じ取っていた…    
    

 アルルに行けば、風光明媚な風景を追求して、フィンセントが憧れる
 「日本の絵」のような作品の中で際たたせられるはずだと、
  俺はよんでいたんだ。 
  だが・・・実際は、そんな単純なものではなかったようだな」
 
       ====

 その日、ヨーと共に彼女の郷里の町、アムステルダムへ
 旅立つ日だった。
    重吉は~「いま、どのあたりを走っているのだろうか」

  通りの向こうから、黒いコートをまとった男の影が近づいてきた。
   「テオ!」
  「テオ、 どうしたんだ、いったい何が」
 
   「兄さんが、に。い、さん…が…」

 その手には、一通の電報が握られていた。
 アルルのポール・ゴーギャンから…。

      フィンセントが自分の耳を切り落とした
      すぐに来られたし
 

 12月25日 アルル 市立病院

 フィンセントは眠っていた。やすらかに。~死んだように。

 テオの嗚咽が収まるのを待って、若い担当医
 フェリックス・レイは「兄上の病状についてお話しましょう」と。
 別室に彼を誘った。
 説明しましょう~穏やかな声で話し始めた。
 「兄上の傷は、命にかかわるほどのものではありません。
  一緒に住んでいたムッシュウ・ゴーギャンによれば~
  おととい、何か兄上と口論になったようで、
  喧嘩別れしたそうなんです。
  それで、ムッシュウ・ゴーギャンは駅前の宿に泊まり、翌朝
  家に帰ったところ、大騒ぎになっていたということなんです」

  ゴーギャンは、フィンセントが無茶な行動にいたった
  直接的な原因について、じぶんはわからない。
  と、警察に言った。
   一緒に過ごす時間が長いから、諍いも起きる。
  きのうだって、いつものように口喧嘩したにすぎない。
  自分はパリに引き上げようと思っていたから
  そのことを伝えたのだ

  
  医師は、ゴーギャンはこうも言っていました。
  彼は感情の浮き沈みが激しい男で、かっとなると何をするか
  分からない。
   しかし、…
   【いままで誰も見たこともないような、まったく新しい絵を描く。
     彼の絵は新しすぎて、いまはなかなか認められないだろうが
     いずれ必ず見出されるだろう】
  確かに、おかしなやつです。
  そして、それ以上に、とてつもなく優れた画家なのです。
   彼は、そう言い残してアルルを去った。

  フィンセントは目を覚ました。
  かすれた声で~ここはどこだ?
  アルル? パリだろう?
  
 テオは、ここはアルルの病院だよ。と答えた。

 ・・・なぜだ? なぜ パリじゃないんだ?
     どうしておれはパリにいないんだ?

     意識が朦朧としている…彼には説明しても無駄だろう。

フィンセントは、つぶやいた。
おれは・・・一番描きたかったものを、まだ描いちゃいないんだから。

描きたかったものとは、なんですか…
テオは、兄の口に耳を近づけて、その言葉を聞いた。

              Fluctuat nec mergitur  
                      ラテン語だった。
 言葉の意味は、すぐにはわからなかった。
 それっきり、また 眠りに落ちてしまった。
 

あの「ゴッホ」を追いかけてみよう! (№.10 )

2020-10-19 | 日記
…文中からの引用を続けていきます。

油絵の具のにおいがふっと立ち上がり、中から二枚のカンヴァスが現れた。
それぞれに椅子が描かれていた。

      
    ゴーギャンの椅子      ゴッホの椅子

ひとつは肘掛椅子で、座面に置かれたろうそく立てに
ろうそくが1本灯されている。
心細げに揺らめく炎。 
その傍らには2冊の本が投げやりに置かれている。
そのうちの1冊はいまにも座面からずり落ちてしまいそうだ。
緑色の壁に取り付けられていた燭台のろうそくも灯されていることから、
夜の室内だとわかる。
一日の終わり、安息の時間を迎えたはずの部屋。
しかし、そこにいるべき人の姿はなく、そこはかとない孤独感が
漂っている。

もう一つの椅子は、肘掛のついていない粗末なもので、
座面にはパイプが転がっている。 (このパイプはゴッホの愛用のもの)
その傍らには包み紙がほどかれた刻みタバコが見える。
ここに座るはずの誰かは、パイプに葉を詰めようとしながら~
出かけてしまったのだろうか。
後ろの本箱には、やはり長い間放置されているのだろう、玉ねぎが青い
芽を出しているのが見える。
室内は白っぽい均一の光に満たされているため、昼間だとわかる。
誰もいない静寂がひたひたと押し寄せてくる。

    座るべき誰かが、そこにはいない。
       孤独なざわめきが。ふたつの絵にはあった。
   ふたりの画家は、いったい、どこへ行ってしまったのだろう。

 
 初めのうち、フィンセントが送ってくる絵は、どれも南仏の光を
まとった明るい画面だった。
しかし、どの絵もどこか孤独の匂いがした。
それは、フィンセントが絵を描く始めたごく最初の頃から
必ずつきまとっていた。

 もっともっと明るい絵を。光あふれる絵を。        
 テオはそう願っていた。
 ところが、送られてくる絵が日を追うごとに孤独の気配を
 強めていくのをテオは見逃さなかった。

 テオは、覚悟を決めた。

 その頃、テオに会うために、
    ゴーギャンがパリにやってきた。  

 そして「アルルに行ってみるのも悪くないと思っていますよ。
      なぜって、私には、パリじゃないところが必要だからね」

  ーーー  この人に、フィンセントを任せてみよう。
           テオの心は定まった。

  10月下旬、ゴーギャンはついにアルルへと旅立った。

昼も夜も、ふたりはイーゼルを並べて制作に励んだ。
 紅葉の並木、星の輝く川辺、ゆっくりと馬車が通り過ぎる跳ね橋、
 収穫の始まった麦畑、風の吹き渡る田園。

 夢のような共同生活。充実した制作の日々。
 ワインを飲み交わし、芸術について語り合い、笑い合う二人の画家。

  フィンセントの絵に漂っていた孤独の匂いは、
               まもなく消えてなくなる。
 その代わりに、彼の作品は、充実した幸福感に包まれるはずだ。
  そうだ、まもなく。 きっと~
  そうなるとはずだと、信じていた。


 ここで アルルで描いた絵を見ていきましょう~
 「ひまわり」
  フィンセントゴーギャンを歓迎するためにアルルに咲いていた
  ひまわりの絵を沢山描きながらゴーギャンの来るのを待っていました。
   それほど、ゴッホはゴーギャンとの生活に期待を持っていました。
              

         ゴーギャンが描いた
    「ひまわりを描くゴッホ」1888
        

 
 「夜のカフェテラス」1888年
          
    この店は、町の中心部にあり、賑やかな広場に面しています。
 でも、なんだか、「寂しさ」を感じますが・・・。

         

  「ファンゴッホの寝室」
         
                                         1888年9月   ゴッホ美術館  

         
           1889 最初の物を複製 シカゴ美術館
        
         
           1889年9月 

  *絵の左側の扉はゴーギャンの部屋につながっていたとされる。
        
  この絵も、日本美術の影響を大きく受けた作品で、完全に
  自分の作風に取り入れたものになっている。
  まず影がない。浮世絵的な平らな場面として描いています。
  そして大胆な構図。
  ベッドを横にして、水平と垂直をとらずに、
  思い切って背板を手前に大きく描き、ベッドが奥に
  ぐっと引っ込んでいるように見える極端な遠近法を取っています。
             
   現在、ゴッホの家で 再現され展示、絵と同じように。   
          

 
 アルルで暮らした家の2階の寝室を描いたもので、
 この家は「黄色い家」と呼ばれていました。
          
 
 「耕す人と家の見える畑」
            
  「麦畑」素描
             


「種を蒔く人」も同様です。
タイトルやモチーフはミレーそのものですが…
構図は、間違いなく歌川広重の浮世絵「亀戸梅屋敷」から来ています。

 まず、尊敬するミレーのもの。
          

  ゴッホの描いた 「種を蒔く人」 ミレーの原画の模写(素描)  
   
          
   
  次に 油絵で描いたもの。
             
                
  上の絵の構図は 浮世絵からのもの
      「手前に木を大きく描いています」
  元の浮世絵「亀戸梅屋敷」を模写したもの。並べて。 

      

      
                      クレラーミュラー美術館蔵

        
 * ゴッホは、「種を蒔く人」
   油彩画、素描を合わせて48点も描いています。          

1888年6月 テオ宛の手紙に~ゴッホはこう書いている。
 「正直なところ、僕は田舎が嫌いではない。
  僕はそこで育ったのだ。心の中に突然浮かび上がる昔の思い出や
  あの無限なものへの憧憬~種蒔く人や麦畑はその象徴なのだ。
   いまでも僕を魅了するのだ。  

 「ローヌ川の星月夜」
         
  
    実際の風景は
         

    「ラ・クローの収穫風景」

         
 
 ゴーギャンのアルルでの風景画を覗いてみましょう・・・。

    
   
        「アルルの農園」
       
       
     「アルルの病院の庭にて(アルルの老女たち)」
       

       

       「アルルの夜のカフェにて」
        
     
                

ゴーギャンがなぜ、変わり者のゴッホの声に応えたかというと
ゴーギャンも偏屈物で変わり者だったかもしれません。
ゴーギャンはパリ生まれでパリ育ち。
純粋に、パリじゃないところに自分を置いてみたかった。
ゴーギャンのみならず、都会の人たちはエキゾチシズムへの憧れが強く、
特に芸術家たちは異国情緒あふれる画題を求め、体験したことのないもの
に対する憧れを強く抱いていました。


 アルルから送られてくる二人の絵を毎週見るうちに、
絵の完成度は双璧と言えるほどに高まっているように感じてはいた。
しかし、二人の画家は強調しながら制作しているというよりは、
互いにそっぽを向いて、それぞれ好き勝手に描いているような気配があった。

 林忠正は、あの二枚の「椅子」の絵を見て…
 「何かあったのだろうな?」・・・・

 ほんとうにうまくいっていたなら
 「空っぽ」の椅子を描く必要はないだろう~
           
ゴッホとゴーギャンはよく論争をしました。
 ゴッホはミレーの影響もあり「見えたように描くべきだ」と
 リアリズム的な主張を・・・

 ゴーギャンは「アートは想像のもので、空想こそがアートだ」と
  反論する。

   ゴッホは、ゴーギャンの主張にも一理あり、描いている絵が
  素晴らしいことは認めていました。

  喧嘩や議論の絶えない二人~


 その後、ゴーギャンが                   
 「もう君との共同生活は続けていけない」とゴッホに告げ、
                    家を出ていった。・・・・・


あの「ゴッホ」を追いかけてみよう! (№.9)

2020-10-18 | 日記
フィンセントがアルルに行ってから半年後のパリ。

大通の街路樹に新緑が萌えいでる季節になった。
                               
ここ「ブッソ・エ・ヴァラドン」(旧グーピル商会)の展示室は
大勢の人たちでにぎわっていた。

画廊を引き継いだオーナーは、支配人のテオの提案を受け入れ
新しく新興の画家たち・・・すなわち「印象派」の画家たちの作品
中心に展示販売することを承諾したのだ。
 華やかな交歓のさなかに、テオは、印象派の画家たちを顧客に紹介するのに忙しかった。
 その中の一人のマダムに…
  こちらいま話題の画家、ムッシュウ・クロード・モネです。
           
   モネは、白いものが混じる豊かなひげの持ち主で。物腰も
 やわらかに婦人の手を取り…挨拶を~。

現在、ジヴェルニー村にお住まいです。
        
      
            モネの庭
       

 マダムとの話に…
  印象派の画家たちは、屋外で制作するのが基本ですから、
  題材を求めてさまざまな土地へ旅をしているのですよ」と

テオは解説をした…モネも満足そうにうなずきながら婦人と歓談を。

 その後 モネは ここジヴェルニーにて名作「睡蓮」の連作を     
 生涯描き続けていくのである。
  *モネについては(「ジヴェルニーの庭がカンヴァス」4・15
           「モネ1枚に精魂込めて」4・16
           「睡蓮の池のほとり」4・17
           「筆のタッチは踊るように」4・18
                   ブログにアップしています。

こうした催しで興味を広げつつあるが、彼らの作品はいまだに
富裕層に絶大な人気を誇るフランス画壇の権威たちの絵に比べれば、
格段に安く手に入れられる。
 まだまだ評価は定まってはいない。

 モネ、               ドガ、            ピサロ、     ルノワール    等
  

徐々に勢いを増しつつある印象派の画家たち。
彼らの行く手にはようやく日が差し始めている。

 では、彼らに続く~画家たちは?

 例えば、セザンヌ、         スーラ、      ベルナール、  ゴーギャン、
                         

そして 今、独りぼっちでアルルにいて必死に自分だけの形を、
色を、表現を追求している画家。 
         我が兄、フィンセント・ファン・ゴッホ。
                                                                     
 
                                                         
  「やぁ、テオ、新展示室の開設、おめでとうございます」
  声がしたほうへ向けた。
            タキシード姿の林忠正が。

この人には心の底から礼を・・・
昨年末、立ち寄ったフィンセントに、忠正の心からの助言に対し
  兄はどれほど感謝していることだろう…アルルへの一言
                                               

兄はすっかりこの人にすべてを開いた。
そののち、単身でアルルへと行ってしまった。
その結果が吉と出るか凶と出るか・・・まだわからない。
けれど、フィンセントは、もう以前のフィンセントではない。
 彼は、彼だけの「日本」をアルルで見つけたらしい。
ほとんど毎日、まるで日記のように手紙が、絵が送られてくる。
          アルル
       

         アルルの街並み
       

燃え上がるように明るいひまわりの花、
                       

                ゴッホによる「ひまわり」数々の中から・・・
      

清らかな流れの上に掛かる跳ね橋

      
           モデルとなった跳ね橋
 
  ゴッホが描いた~「アルルの跳ね橋」

       

 その上に広がる青すぎるほどの空、 
   素朴なカフェの女たち・・・・。

            

 アルルでの知り合い~
 「郵便夫ジョゼフ・ルーラン」
         

                                「ルーランの妻」
         

             「ジニエ夫人」
           
  近所の人々。
  通りすがりの人たちが優しくしてくれることはあっても、
  本当の家族でも友達でもない・・・・
   ゴッホは仲間を求めていました。

  
 パリで劇的に変わった。そのフィンセントがもう一段、上がった。
絵を見れば、彼が水を得た魚のようにアルルを泳ぎ回り、
自在に絵筆を操り
絵の具で旋律を生みだしているのがわかる。

しかしそれは、楽しんでいる、というよりも、孤独と闘っている
ようにも見える。

  ゴッホ自身、繊細で真面目。
なんでも笑い飛ばせるタイプの人ではない。
虚勢をはっていても心の奥は寂しい。
でも惨めだとは思いたくない。   

それをただ一人、テオは応援してくれる。 と、信じ。

ゴッホの凄いところは、この後、さらにどん底に落ちても~

 こん傑作が完成するのです。

   「星月夜」 1889年
      

 林は、「フィンセントはどうですか?
      アルルでの政策は進んでいるのでしょうか」
 テオは 「それは、もう」と、思わず笑みをこぼした。
       ほとんど毎日、手紙も絵も・・・」
 林   「それはたのもしい」 きらりと目を光らせた。

 そのとき、「やぁ、テオ」と親しげな声で~
 ふさふさとした黒髪と口ひげに、
 ボヘミアン風のよれた上着を着こんだ男。
  ポール・ゴーギャンであった。       

  テオに紹介されて、林はゴーギャンと握手を交わした。
  ゴーギャンも笑みを浮かべて
    「あなたのことは、知っていますよ」と。

テオは、ゴーギャンの絵に、とてつもない可能性を感じ取っていた。
「この画家は伸びる」と直感したテオは、絵を安く購入した。

また、その絵を見せられたフィンセントは、またたくまに魅了された。
彼はゴーギャンに自分と同じ匂いを嗅ぎつけたようだった。
それはすなわち、日本美術への憧れと、世間に背を向けて画布と向き合う孤高の姿勢であった。
 タンギーの店にも出入りしていたゴーギャンとゴッホ兄弟は
すぐに意気投合した。

 林忠正はゴーギャンを見つめながら・・・こう話した。

 「仲間です。
   彼には、ともに理想郷を創出する画家の仲間が必要だ。
   たとえば、あなたような・・・・

    アルルでひとり孤独と闘うフィンセントが、
     いま、最も飢えているもの。
    それはともに切磋琢磨し合う仲間だった。

 
 1888年 9月初旬 パリ 
 
 街路樹のマロニエの葉が黄ばみ~秋の一層の美しさを醸す。

 
 斜陽に輝くマロニエの葉             

           
その日、テオと林忠正は~ マチルド・ボナパルトのサロンを訪れた。
              
先の皇帝・ナポレオン3世の従姉妹であり、
                                                     
 かのナポレオン1世の姪にあたる。
                     

パリで最も華やかなサロンを開き、そこには名門貴族や裕福な商人
らが誇らしげに出入りしていた。
彼女のサロンに招かれるということは、それだけで名士の仲間入りを
果たしたことに等しかった。

 林忠正をこのサロンに招待したのは~エドモンド・ゴンクール
 (フランス美術評論家)
                                         

    彼は、「若井・林商会」の最重要顧客のひとり。
 本格的な日本美術の研究者となっていた。その背景には林忠正の
存在があった。

 忠正は、ゴンクールの影響力を利用し、日本美術に対する正しい知識と
正当な評価を勝ち得ようと考えた。
だからゴンクールに
「歌麿に関する研究書を書きたいので協力してほしい」と言われたとき、
これを受け入れた。
 十返舎一九著、喜多川歌麿筆「吉原青楼絵抄年中行事」
ゴンクールのためにフランス語に訳す、という大変な作業を
引き受けたのである。     


                       

             

  1804年 江戸時代著 十返舎一九・喜多川歌麿
四季折々の吉原の風俗についての歌麿の絵を交えて明らかにすることに主眼があったことが伺える。文は、絵によく対応しており、その有様を知り知識を得るための恰好の案内書として人気を博した。

 「新吉原の四ツの時、をりふしの花紅葉のあはれに
     おかしきさまを集て、堤のなげふし歌麿のはなやぎたる
           筆を、ふるへるものなり」とあり。

 そんなこともあって、忠正は、ゴンクールにとっていまや
  なくてはならない存在となっていた。

  すでに何度か、マダム・ボナパルトのサロンを訪れていた忠正は、
いまや直接マダムからの招待状を受け取る立場となっていた。


 1888年 11月  パリ モンマルトル大通り

  「ブッソ・エ・ヴァラドン」の店

  「いつもの小包です。 ここにサインを」
   受け取ったばかりの小包を抱え、店の奥にある自分の事務室へ
 それをもって入った。

  いつも通り、アルルから送られてきたフィンセントの絵である。

  二枚の絵は室内画で、それぞれに椅子が描かれてあった。
  どちらも空っぽの椅子の絵、だった。

   ふたつの作品には、それぞれ題名がつけられていた。
         <ゴーギャンの椅子>
        
         <ファン・ゴッホの椅子>
        
 
   …それぞれの椅子に、座るべき画家たち。
      しかし、その姿はどこにもない。

    いや、正確には「空っぽ」ではない。
    それぞれの椅子には、人の代わりに小さな「もの」
    置かれてある。

            *よくご覧になってください~
                   なんだかわかりますか? 後ほど ね。

  腕組をしたまま~テオは、 いつまでも絵の前を動かなかった。

  フィンセントとポール・ゴーギャンの共同生活が始まって、
  ふた月と経っていない。
  それなのに、彼らの椅子は、
  座るべき主をなくしてしまったのか====。


続 黄昏どきを愉しむ

 傘寿を超すと「人生の壁」を超えた。  でも、脳も体もまだいけそう~  もう少し、世間の仲間から抜け出すのを待とう。  指先の運動と、脳の体操のために「ブログ」が友となってエネルギの補給としたい。