黄昏どきを愉しむ

傘寿を過ぎた田舎爺さん 「脳」の体操に挑戦中!
まだまだ若くありたいと「老い」を楽しんでま~す

あの「ゴッホ」を追いかけてみよう! (№.5)

2020-10-14 | 日記
       
その絵 モネの「印象・日の出」というタイトルは、
ル・アーブルの港、その水平線のかなたにたったいま太陽が
昇った瞬間をとらえた作品である。
 船々は黒い影となって水面に浮かび、
 風景は薄もやに煙って、しっとりした朝の輝きに満ちている。
それは写実を超えて、まさに「印象」がそのまま「絵画」
というかたちになって表出したかのようである。

 ところがこの展覧会を見た批評家ルイ・ルロワが、
風刺新聞(ル・シャリヴァリ)に「印象主義の展覧会」と題し、
散々”こきおろした”記事を発表した。・・・・
      ルイ・ルロワ (フランスの版画家、画家)
         
 皮肉なことに、この画家たちをおちょくってつけられた「印象派」
という呼び名が、その後、広く一般に受け入れられ、定着したのだった。

 オペラ通りに面した会場は、好奇心に駆られてやって来たパリ市民で
ごった返していた。

展示室の中に足を踏み入れた瞬間…
 これは、、まるで、光の洪水のようだ。

テオはそのとき、押しとどめようのない衝動が
湧き上がってくるのを感じた。
これこそ、新しい絵だ。
自分たちの時代の美術だ。
自分が扱いたいのは、こういう作品だ。
(その頃、テオはすでに、金持ちを相手によそ行きの笑顔を作り、アカデミーの画家たちの
  作品がいかに価値があるかを説明する自分に、いつしか腹立たしさを覚えていた。

しかし、テオの現実はこの仕事をやめるわけにはいかなかった。
両親や兄を養うためにも…
やりたいことと、実際にやっていることのあいだの溝の深さ。
ときどき我が身を顧みると~おぞましい気分が込みあげて来るのだった。

 あるとき、テオは、フィンセントへの手紙の中で胸の内を吐露した。
「 今、興味を掻き立てられているのは、日本美術
  もうひとつは印象派だ。」

この時期
フィンセントは伝道師になる道は、結局あきらめ。
なぐさみに近所の人々や風景をスケッチするようになり、
次第に絵を描こうという意識が強くなってきていた。

 テオは、兄も、関心を寄せてくれればいいと…
日本の美術、印象派について…。
手紙で語った~
 「この前、アルフォンス・ポルティエという人物の画廊に行ったよ。
   彼の画廊の壁には、浮世絵と印象派の絵が一緒に掛かっていた。
   斬新な構図、鮮やかな色。すばらしい調和を生み出していたよ。
   ほんとうに興奮した。
   その日はなかなか眠れなかったくらいだ…

   兄さんにも見せたいと 心から思ったよ。」

     ~しかし、兄からの返事は、ついに得られなかった。

 ここで「ゴッホの手紙について」
  兄フィンセントと弟テオとの間を含めて
現在、オランダの「ゴッホ美術館」には、現存する手紙は819通。
(テオとの手紙が651通。)
  
        

 手紙の整理と書簡集は
 弟テオがなくなった後、
 妻(ヨハンナ・ファン・ゴッホ=ボンゲル(ヨー)
 により(1914年書簡集(3巻)を刊行。
 事後、改定も重ね現在に至る。
                
 *フィンセント・ウイルム・ファン・ゴッホ(テオの長男)
             (1890 ~1978年)   
             
  ゴッホ美術館の設立に尽力し、ゴッホの手紙の編集・出版も行った。

   母ヨーに抱かれるフィンセント・ウイレム
             

    「花咲くアーモンドの木の枝」(フィンセント・ゴッホ)
      ゴッホがウイレムの誕生を祝って弟テオに送った作品
        
  

   画家との間での手紙も 「エミール・ベルナール」               
                                 
      *ゴッホがアルルからベルナールに送った手紙と
          そこに描かれたスケッチ

       

 フランスのポスト印象派の画家
 ベルナールは、ゴッホの手紙をヨー(テオの妻)から借り出して
 権威ある雑誌{メルキュール」誌に、テオの書簡の抜粋を掲載
 前衛美術に関心のある読者に大きな反響を呼んだ。

    代表作に「草地のブルターニュの女たち」
   
       


 ◆ ゴッホは 手紙の中にスケッチをたくさん入れて
        送っている~
            虫のスケッチ
       
      
        アルルの黄色い家を描いたもの
         
    
1 
ついつい手紙で長くなりましたが~

 ポルティエの画廊の応接間に通されたテオ。
 新しの好きなパリジャンたちが得意客・・・
 浮世絵や印象派の作品も早くから取り扱っており今では業績も
 右肩上がり…。

 そのポルティエに特別な作品を見てもらおうと持参していた。
  「いったい、誰の作品だね?」

  「アカデミーの大家のものではありません。
    ・・・まったく無名の画家のものです

   「無名の?」

   テオはうなずくと、カンヴァスをテーブルの上に載せ、
  ゆっくりと」包みを解いた。

  茶色の油紙をがさがさと広げる。
   ぐっと身を乗り出す。・・・息を凝らしているのがわかる。
  
 
   1885年 {じゃがいもを食べる人々}   ゴッホ美術館蔵
       ゴッホ  32歳 初期の代表作

「・・・これは・・・」
   不思議な光をした目をテオに向けて 彼は尋ねた。

 「これはまた、みたことがないたぐいの絵だ。・・・誰の作品かね…?」

  できるだけ静かに。けれどじゅうぶんな熱を込めて、テオは答えた。

 「・・・ファン・ゴッホ。
   フィンセント・ファン・ゴッホと言います。
         ・・・私の兄です」

そのひと言は、いつまでもテオの胸の中でこだましていた。
浮世絵同様、いままでにない「新しい絵」だと担保されたような気がした。

そして、テオは・・・まだ時期尚早かもしれないが・・・あの男
林忠正にならば、見せていいかもしれない。
忠正に対して強い警戒心を抱くと同時に、
不思議な親しみを覚えてもいた。
ひょっとすると、フィンセントは、あの男に導かれて、
新しい「窓」を開けることになるのではないだろうか?

 先の「じゃがいもを食べる人々」
ずいぶん暗い絵ですね。
「ひまわり」を描いたゴッホのイメージてゃ全然違います。 
絵の中の登場人物も、誰一人として笑っていません。

同じ年に描かれた「籠いっぱいのじゃがいも」の絵は
        

さらに暗くて、じゃがいもを食べる人間すらいない。
じゃがいもオンリーです。
堅牢な構図で安定感はあるのですが、色彩は暗く
くすんで見える絵が多い。
オランダやベルギーの地方都市で暮らしていたので、
華やかな色彩のものが自分自身に入ってくることが
少なかったのだろうと思います。
 さらに牧師になろうと模索していた時代があった
ゴッホは、信仰心が篤く、聖書の世界観を現実に置き換え
追及していく求道師、もしくは哲学者のような一面がありました。
ですから、とりわけこの時期、
思慮深い作品を描いていたのだと思います。  
              (原田マハ<ゴッホのあしあと>より)
   

コメント (1)
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続 黄昏どきを愉しむ

 傘寿を超すと「人生の壁」を超えた。  でも、脳も体もまだいけそう~  もう少し、世間の仲間から抜け出すのを待とう。  指先の運動と、脳の体操のために「ブログ」が友となってエネルギの補給としたい。