日本美術がパリにもたらされた直接的なきっかけは、19世紀後半の
「パリ万博」です。
ちょうど日本は、大政奉還があり、その翌年の1868年に明治政府に。
維新直前の1867年に開催されたパリ万博に、日本は初参加します。
万博は、世界各国の産業の見本市です。
ところが日本は鎖国をしていたので、海外にアピールすべき産業が何もありませんでした。何を見せたらいいか~そこで考えたのが美術工芸品です。
・・・と、言う訳で日本美術がはじめて西洋人に披露されることになりました。
これを見た西洋人たちはあっと驚かされました。
またたくまに魅了され、つういに日本ブームが到来します。
これが「ジャポニズム」と言われるものです。
このマーケットを紹介したのが、この物語の主人公「林忠正」でした。
前に紹介した 雑誌 「イリュストレ」日本特集号
などは 多大な貢献をしています。
フィンセント及び弟テオと関係、そしてパリで活躍していた多くの画家や
画商との密接な繋がりを大いに活用し、パリはもちろんのこと広く世界に向けて「日本の美術」の普及に寄与した人物でした。
原田マハさんはこの本の中で、フィンセント・ゴッホや弟テオとの
日常的な会話の中に、「日本」を深く理解してもらうべき挿入部を
それこそもっともらしく沢山使っています。
読者の一人としても、「う~む、実際、こんな会話したのかも?」と
うなずき、感心し、最後は納得」…
林忠正の心と、ゴッホ兄弟の
篤い篤い心の襞に触れることができました。
*文中で 登場するそれぞれの人物の微妙な葛藤については、私の
表現ではできません。 従って、この連続ものの内容に物足らなさ
は否定できませんが掲載する「ゴッホの絵」をご覧になって
その心を読み取っていただきたい…。
フィンセント・ファン・ゴッホという画家を
もっとも理解しているのはテオである。
画家としての力量を推し量り、将来性を信じ、経済的にも精神的にも
全力で支えている。
けれど、兄弟の中で衝突もある・・・
酒におぼれる兄に文句を言ったり、売れない絵についての愚痴、
世の中に認められない…もどかしさからの 喧嘩も度々~
テオは思う。
兄さんはガラスのように繊細で傷つきやすいのだ・・・
追い込まれて、傷ついて、ひょっとすると・・・
そんなある日、兄弟は喧嘩をして、
フィンセントはそれっきり出て行ってしまった。
また ふらりと戻ってきて~ よほど空腹だったのであろう…
フィンセントは林と同じ食卓で瞬く間に平らげてしまった。
そして、林に、日本の浮世絵や、屏風の 美しき日本を語り
すべてに憧れていると~。
と
*ここで二人の会話の中に…こんな突拍子もない言葉を入れる。
「日本へ行きたい!日本なら、もっと自由になれる~」とゴッホは言う。
ゴッホが「日本」に憧れている心情を、こんな型で表現した。
忠正は1枚の紙を・・・地図だった。
「たとえば、ここに」
フィンセントの目の前に差し出した。
Arles (アルル)
売れない絵
ゴッホにはたった一人、絵を見てくれる人がいました。
弟のテオです。
ゴッホは、描いた絵をすべてテオに送っていました。
「売ってほしい」と。
しかし、絵は売れない・・・。
二人の中にも~ジレンマが・・・
テオも、画家としての兄を支えたい、そして彼の才能を信じたい と、
思う反面、少しずつ重荷に感じるようにも~
ゴッホは、自分がパリに居ることが、
かえってテオも苦しめるということに気づき、自分も疎外感や孤独を覚え、
だんだん追い詰められていく~
1888年 2月19日 パリ リヨン駅
鉄の列柱とガラスのドームで覆われた駅の出発ホームは、これから旅立つ人々とそれを見送る人々であふれ返っていた。
ドームの上にはしんしんと雪が降り積もっている。
その中に、フィンセント・ファン・ゴッホの顔があった。
テオは、こんなに明るい表情の兄を見るのは久しぶりだった。
やはり、アルル行きを決めたのはフィンセントのためによかったのだと、
ようやく心の底から思えたのだった。
【 ~俺は アルルに行く。 そこに、おれの「日本」があるんだ。
昨年末、ふいに戻ってきて、テオの顔をみるなり言った。
あまりに唐突だったので、本気にはしていなかったが・・・
フィンセントは本気だった。
まずは自分一人でアルルに行って、
そこに芸術家仲間を呼び寄せ、
共同でアトリエを運営して、芸術村を創る。
アルルは健康的で、あたたかい南の町だ。
新しい芸術村にふさわしい土地だ。
・・・はしゃぎまくる様子に~テオはあっけにとられるばかり。】
薄汚れたトランクとイーゼルを抱えて、
フィンセントが車両に飛び乗った。
汽笛が鳴り響き、ゆっくりと汽車が動き出した。
*参考までに=
当時の駅の様子、汽車はこんな風…(煙、もうもう~…)
ゴッホがアルルに行く 10年前に
画家モネが描いたのが、「サン・ラザール駅」(シリーズの中の1枚)
~ いよいよ、アルルへ ~
パリを立つときに雪が降っており、
南の方へ清澄な日本的な光を求めていったら、思いがけず
アルルも雪でした。
ゴッホはそれでも喜んで、日本の浮世にも雪がある。
まるで日本の雪景色のようだ。と、すぐにテオに手紙を送り、
<雪景色>という作品を描いています。
<浮世絵> 広重 東海道 蒲原 雪景色
独りぼっちで 右も左もわからない。 お金もない。
下宿屋に落ち着いたけれど・・・知り合いもいない。
そんな状況で フィンセントのアルルでの生活が始まった~