作品を購入した婦人が語り掛けた…
「…「印象派」とか呼ばれている画家たちのことを、どう思って?」
テオは顔上げて「これはまた…新興の画家一派が、
あなたのお目に留まったとは。意外ですね。」
「あら」と夫人は、 「あたくし、流行には敏感なのよ。
おかしな画家たちが世の中を騒がせていることくらい
承知していますわ」
いろいろと彼らの絵について・・・会話が続き~
「・・・あんなおぞましい絵を見るために、わざわざ展覧会に
行くほど、私ひまじゃなくってよ」
テオ 「もちろんですよ、マダム。
印象派…あんなものは、芸術の範疇には入りません」
そして、皮の手袋をはめた手に、請求書を軽く握らせた。
1878年5月1日 21歳の誕生日を、テオはパリで迎えた。
5月のパリは比するものなく美しいと~まさしくその通りだった。
大通には、マロニエの街路樹が緑陰を作り、うっすらと緋色がかった
綿毛のような花をほころばせている。
21歳になる直前に、テオは、パリへ行くことになった。
「グーピル商会」パリ本店がパリ万博に出店する際、その担当に
配属されたのだ。
世界中の人々が、パリを、万博を目がけて押し寄せてくる。
そして「グーピル商会」へ、自分のもとへとやって来るのだ。
テオは張り切って接客した。
あるとき、大勢のお付きの者たちを従えて、シルクハットと
フロックコートを身に着けた、いかにも居丈高な男が、万博の
「グーピル商会」の展示所に立ち寄った。
時のフランス大統領、パトリス・ド・マクマオンであった。
大統領は、テオにふいに質問をしてきた。
…これは、アカデミーの画家かね?
--はい、大統領。アレクサンドル・カバネルのものです。
「ビーナスの誕生」
神話や歴史に題材を求めて、完璧な人物と風景を描き出せる、
まことに稀有な芸術家です」
…そっちは誰だね? 初めて見る画家だ。
何の変哲もない「波」の絵のようだが…。
ーーいいえ、大統領。おそらく、どこかでご覧になったはずです。
ギュスターヴ・クールベという、社会主義レアリスムの画家です。
おっしゃる通り、一見、何の変哲もありません。
しかし、、極力無駄なオブジェを除外して、純粋に「波」
そのものを描いたこの画家の意図は…。
テオはほとんど緊張することなく、はきはきと答えた。
大統領は、満足そうにうなずいて、その場を去った。
その頃、テオの興味を強く引きつける画家の一派があった。
それは、グーピルで扱っているアカデミーの画家たちとはまったく違う
表現方法を見出した画家たちだった。
世間では、落ちぶれた画家の吹きだまりのような一派だとか、
見るもおぞましい堕落した画家たちとか、散々に言われていた。
その画家の一派は、「印象派」と呼ばれていた。
きちんとデッサンもせず、構図も決めず、色彩の配置もよく
練られていない。つまり、画家の「印象」だけで描かれた、劣悪な、
絵とも呼べぬ、たんなる「印象」にすぎないものなのだと。
しかし、テオは、この一派に魅かれていた。
まるで、新しい恋に落ちてしまったかのように。
そして、兄・フィンセントが、やはりこの一派に関心を覚え
やがて絵を描くようになることを、21歳のテオは、まだ知らずにいた。
ここでゴッホの人生を、時間軸に沿って辿ってみます。
彼の生涯は37年という、当時から考えても短いものでした。
画家を志したのは27歳、それから亡くなるまでの時間はたった10年です。
◆1853年3月30日 オランダ ズンデルトに生まれる。
◆1869年7月~1876年4月(16~23歳)
ハーグ、ロンドン、パリ、 グーピル画廊で働く。
画商の叔父の紹介で、老舗の画廊「グーピル商会」に就職
職業柄、多くの美術作品に触れる機会があり、その頃から
少しずつ絵を描いていたようですが、プロの画家になるなど
想像すらしなかったと思います。
オランダのハーグ支店勤務中は、近くの
マウリッツハイス美術館で
レンブラントやフェルメールなどの
( 夜警)
フェルメール(真珠の耳飾りの少女)
オランダ黄金時代の絵画に触れ、美術に興味をもつようになったと。
1回目の印象派展が、写真家ナダールのスタジオで開かれたのが
1874年
ナダルのスタジオ (ここで第1回 印象派展を開催した)
この展覧会は、
ブーダン、 セザンヌ、 ドガ、 ギョマン
モネ、 ベルト・モリゾ、
ピサロ、ルノアール、 シスレー など、
アカデミーの審査員が選ぶサロンに落選した、印象派の画家たち30名
で構成されていました。
この展覧会は社会に全く受け入れられず辛辣な批評家が、
モネの「印象・日の出」という絵のタイトルにかこつけて、「印象派」と
揶揄して読んだので、この年で知られるようになったのは有名です。
◆1876年4月~1880年8月(23~27歳)
イギリス、オランダ、ベルギー
伝道師を志す
◆1880年8月(27歳)
美術に人生を捧げる決心をする
◆1880年8月~1886年2月(27~32歳)
オランダ、ベルギー 画作を続ける
◆1886年2月~1888年2月(32~34歳)
パリ
1888年2月~1889年5月(34~36歳)
アルル
◆1889年5月~1890年5月(36~37歳)
サン=レミ=ド=プロヴァンス
◆1890年5~7月(37歳)
パリ、オーヴェル=シュル=オワーズ
◆1890年7月29日
オーヴェル=シュル=オワーズにて永眠
*自画像と年代・年齢とは関係なく私が並べたものです。
彼は生涯、自画像は40点以上も描いています。