黄昏どきを愉しむ

傘寿を過ぎた田舎爺さん 「脳」の体操に挑戦中!
まだまだ若くありたいと「老い」を楽しんでま~す

あの「ゴッホ」を追いかけてみよう! (№.4)

2020-10-13 | 日記
 作品を購入した婦人が語り掛けた…
「…「印象派」とか呼ばれている画家たちのことを、どう思って?」

テオは顔上げて「これはまた…新興の画家一派が、
        あなたのお目に留まったとは。意外ですね。」

「あら」と夫人は、  「あたくし、流行には敏感なのよ。
    おかしな画家たちが世の中を騒がせていることくらい
                承知していますわ」

    いろいろと彼らの絵について・・・会話が続き~

「・・・あんなおぞましい絵を見るために、わざわざ展覧会
  行くほど、私ひまじゃなくってよ」

テオ 「もちろんですよ、マダム。
     印象派…あんなものは、芸術の範疇には入りません」

      そして、皮の手袋をはめた手に、請求書を軽く握らせた。


1878年5月1日 21歳の誕生日を、テオはパリで迎えた。
 5月のパリは比するものなく美しいと~まさしくその通りだった。
  大通には、マロニエの街路樹が緑陰を作り、うっすらと緋色がかった
綿毛のような花をほころばせている。
      

      

          

                             

21歳になる直前に、テオは、パリへ行くことになった。
   「グーピル商会」パリ本店がパリ万博に出店する際、その担当に
配属されたのだ。

 世界中の人々が、パリを、万博を目がけて押し寄せてくる。
 そして「グーピル商会」へ、自分のもとへとやって来るのだ。

        テオは張り切って接客した。

あるとき、大勢のお付きの者たちを従えて、シルクハットと
フロックコートを身に着けた、いかにも居丈高な男が、万博の
「グーピル商会」の展示所に立ち寄った。
 
時のフランス大統領、パトリス・ド・マクマオンであった。
              

   大統領は、テオにふいに質問をしてきた。
  …これは、アカデミーの画家かね?
        
        
 --はい、大統領。アレクサンドル・カバネルのものです。
                                 「ビーナスの誕生」
    神話や歴史に題材を求めて、完璧な人物と風景を描き出せる、
    まことに稀有な芸術家です」
                  

                     
  …そっちは誰だね? 初めて見る画家だ。

    何の変哲もない「波」の絵のようだが…。
                         
 ーーいいえ、大統領。おそらく、どこかでご覧になったはずです。
   ギュスターヴ・クールベという、社会主義レアリスムの画家です。
                                       

   おっしゃる通り、一見、何の変哲もありません。
    しかし、、極力無駄なオブジェを除外して、純粋に「波」
   そのものを描いたこの画家の意図は…。                           

    テオはほとんど緊張することなく、はきはきと答えた。
 
大統領は、満足そうにうなずいて、その場を去った。

 その頃、テオの興味を強く引きつける画家の一派があった。
それは、グーピルで扱っているアカデミーの画家たちとはまったく違う
表現方法を見出した画家たちだった。
 世間では、落ちぶれた画家の吹きだまりのような一派だとか、
見るもおぞましい堕落した画家たちとか、散々に言われていた。
 
 その画家の一派は、「印象派」と呼ばれていた。

きちんとデッサンもせず、構図も決めず、色彩の配置もよく
 練られていない。つまり、画家の「印象」だけで描かれた、劣悪な、
 絵とも呼べぬ、たんなる「印象」にすぎないものなのだと。

しかし、テオは、この一派に魅かれていた。
     まるで、新しい恋に落ちてしまったかのように。

そして、兄・フィンセントが、やはりこの一派に関心を覚え
 やがて絵を描くようになることを、21歳のテオは、まだ知らずにいた


 ここでゴッホの人生を、時間軸に沿って辿ってみます
彼の生涯は37年という、当時から考えても短いものでした。
画家を志したのは27歳、それから亡くなるまでの時間はたった10年です。
            
◆1853年3月30日 オランダ ズンデルトに生まれる。
◆1869年7月~1876年4月(16~23歳)
 ハーグ、ロンドン、パリ、 グーピル画廊で働く。 

  画商の叔父の紹介で、老舗の画廊「グーピル商会」に就職
  職業柄、多くの美術作品に触れる機会があり、その頃から
  少しずつ絵を描いていたようですが、プロの画家になるなど
   想像すらしなかったと思います。
   オランダのハーグ支店勤務中は、近くの
   マウリッツハイス美術館          
   レンブラントやフェルメールなどの
      ( 夜警)


        フェルメール(真珠の耳飾りの少女)

  オランダ黄金時代の絵画に触れ、美術に興味をもつようになったと。
  1回目の印象派展が、写真家ナダールのスタジオで開かれたのが
        1874年

       

   ナダルのスタジオ (ここで第1回 印象派展を開催した)
  

 この展覧会は、
ブーダン セザンヌ  ドガ、 ギョマン

 モネ、 ベルト・モリゾ

ピサロ、ルノアール、 シスレー など、

 アカデミーの審査員が選ぶサロンに落選した、印象派の画家たち30名
 で構成されていました。

  この展覧会は社会に全く受け入れられず辛辣な批評家が、
 モネの「印象・日の出」という絵のタイトルにかこつけて、「印象派」と
 揶揄して読んだので、この年で知られるようになったのは有名です。
   
 

◆1876年4月~1880年8月(23~27歳) 
   イギリス、オランダ、ベルギー
 伝道師を志す                                                      

◆1880年8月(27歳) 
  美術に人生を捧げる決心をする

◆1880年8月~1886年2月(27~32歳)
 オランダ、ベルギー  画作を続ける                

◆1886年2月~1888年2月(32~34歳)
         パリ                                        
 1888年2月~1889年5月(34~36歳) 
                 
         アルル                                 

◆1889年5月~1890年5月(36~37歳)
       サン=レミ=ド=プロヴァンス

◆1890年5~7月(37歳) 
       パリ、オーヴェル=シュル=オワーズ
◆1890年7月29日                                           
        オーヴェル=シュル=オワーズにて永眠

          *自画像と年代・年齢とは関係なく私が並べたものです。
       彼は生涯、自画像は40点以上も描いています。

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続 黄昏どきを愉しむ

 傘寿を超すと「人生の壁」を超えた。  でも、脳も体もまだいけそう~  もう少し、世間の仲間から抜け出すのを待とう。  指先の運動と、脳の体操のために「ブログ」が友となってエネルギの補給としたい。