黄昏どきを愉しむ

傘寿を過ぎた田舎爺さん 「脳」の体操に挑戦中!
まだまだ若くありたいと「老い」を楽しんでま~す

あの「ゴッホ」を追いかけてみよう! (№.9)

2020-10-18 | 日記
フィンセントがアルルに行ってから半年後のパリ。

大通の街路樹に新緑が萌えいでる季節になった。
                               
ここ「ブッソ・エ・ヴァラドン」(旧グーピル商会)の展示室は
大勢の人たちでにぎわっていた。

画廊を引き継いだオーナーは、支配人のテオの提案を受け入れ
新しく新興の画家たち・・・すなわち「印象派」の画家たちの作品
中心に展示販売することを承諾したのだ。
 華やかな交歓のさなかに、テオは、印象派の画家たちを顧客に紹介するのに忙しかった。
 その中の一人のマダムに…
  こちらいま話題の画家、ムッシュウ・クロード・モネです。
           
   モネは、白いものが混じる豊かなひげの持ち主で。物腰も
 やわらかに婦人の手を取り…挨拶を~。

現在、ジヴェルニー村にお住まいです。
        
      
            モネの庭
       

 マダムとの話に…
  印象派の画家たちは、屋外で制作するのが基本ですから、
  題材を求めてさまざまな土地へ旅をしているのですよ」と

テオは解説をした…モネも満足そうにうなずきながら婦人と歓談を。

 その後 モネは ここジヴェルニーにて名作「睡蓮」の連作を     
 生涯描き続けていくのである。
  *モネについては(「ジヴェルニーの庭がカンヴァス」4・15
           「モネ1枚に精魂込めて」4・16
           「睡蓮の池のほとり」4・17
           「筆のタッチは踊るように」4・18
                   ブログにアップしています。

こうした催しで興味を広げつつあるが、彼らの作品はいまだに
富裕層に絶大な人気を誇るフランス画壇の権威たちの絵に比べれば、
格段に安く手に入れられる。
 まだまだ評価は定まってはいない。

 モネ、               ドガ、            ピサロ、     ルノワール    等
  

徐々に勢いを増しつつある印象派の画家たち。
彼らの行く手にはようやく日が差し始めている。

 では、彼らに続く~画家たちは?

 例えば、セザンヌ、         スーラ、      ベルナール、  ゴーギャン、
                         

そして 今、独りぼっちでアルルにいて必死に自分だけの形を、
色を、表現を追求している画家。 
         我が兄、フィンセント・ファン・ゴッホ。
                                                                     
 
                                                         
  「やぁ、テオ、新展示室の開設、おめでとうございます」
  声がしたほうへ向けた。
            タキシード姿の林忠正が。

この人には心の底から礼を・・・
昨年末、立ち寄ったフィンセントに、忠正の心からの助言に対し
  兄はどれほど感謝していることだろう…アルルへの一言
                                               

兄はすっかりこの人にすべてを開いた。
そののち、単身でアルルへと行ってしまった。
その結果が吉と出るか凶と出るか・・・まだわからない。
けれど、フィンセントは、もう以前のフィンセントではない。
 彼は、彼だけの「日本」をアルルで見つけたらしい。
ほとんど毎日、まるで日記のように手紙が、絵が送られてくる。
          アルル
       

         アルルの街並み
       

燃え上がるように明るいひまわりの花、
                       

                ゴッホによる「ひまわり」数々の中から・・・
      

清らかな流れの上に掛かる跳ね橋

      
           モデルとなった跳ね橋
 
  ゴッホが描いた~「アルルの跳ね橋」

       

 その上に広がる青すぎるほどの空、 
   素朴なカフェの女たち・・・・。

            

 アルルでの知り合い~
 「郵便夫ジョゼフ・ルーラン」
         

                                「ルーランの妻」
         

             「ジニエ夫人」
           
  近所の人々。
  通りすがりの人たちが優しくしてくれることはあっても、
  本当の家族でも友達でもない・・・・
   ゴッホは仲間を求めていました。

  
 パリで劇的に変わった。そのフィンセントがもう一段、上がった。
絵を見れば、彼が水を得た魚のようにアルルを泳ぎ回り、
自在に絵筆を操り
絵の具で旋律を生みだしているのがわかる。

しかしそれは、楽しんでいる、というよりも、孤独と闘っている
ようにも見える。

  ゴッホ自身、繊細で真面目。
なんでも笑い飛ばせるタイプの人ではない。
虚勢をはっていても心の奥は寂しい。
でも惨めだとは思いたくない。   

それをただ一人、テオは応援してくれる。 と、信じ。

ゴッホの凄いところは、この後、さらにどん底に落ちても~

 こん傑作が完成するのです。

   「星月夜」 1889年
      

 林は、「フィンセントはどうですか?
      アルルでの政策は進んでいるのでしょうか」
 テオは 「それは、もう」と、思わず笑みをこぼした。
       ほとんど毎日、手紙も絵も・・・」
 林   「それはたのもしい」 きらりと目を光らせた。

 そのとき、「やぁ、テオ」と親しげな声で~
 ふさふさとした黒髪と口ひげに、
 ボヘミアン風のよれた上着を着こんだ男。
  ポール・ゴーギャンであった。       

  テオに紹介されて、林はゴーギャンと握手を交わした。
  ゴーギャンも笑みを浮かべて
    「あなたのことは、知っていますよ」と。

テオは、ゴーギャンの絵に、とてつもない可能性を感じ取っていた。
「この画家は伸びる」と直感したテオは、絵を安く購入した。

また、その絵を見せられたフィンセントは、またたくまに魅了された。
彼はゴーギャンに自分と同じ匂いを嗅ぎつけたようだった。
それはすなわち、日本美術への憧れと、世間に背を向けて画布と向き合う孤高の姿勢であった。
 タンギーの店にも出入りしていたゴーギャンとゴッホ兄弟は
すぐに意気投合した。

 林忠正はゴーギャンを見つめながら・・・こう話した。

 「仲間です。
   彼には、ともに理想郷を創出する画家の仲間が必要だ。
   たとえば、あなたような・・・・

    アルルでひとり孤独と闘うフィンセントが、
     いま、最も飢えているもの。
    それはともに切磋琢磨し合う仲間だった。

 
 1888年 9月初旬 パリ 
 
 街路樹のマロニエの葉が黄ばみ~秋の一層の美しさを醸す。

 
 斜陽に輝くマロニエの葉             

           
その日、テオと林忠正は~ マチルド・ボナパルトのサロンを訪れた。
              
先の皇帝・ナポレオン3世の従姉妹であり、
                                                     
 かのナポレオン1世の姪にあたる。
                     

パリで最も華やかなサロンを開き、そこには名門貴族や裕福な商人
らが誇らしげに出入りしていた。
彼女のサロンに招かれるということは、それだけで名士の仲間入りを
果たしたことに等しかった。

 林忠正をこのサロンに招待したのは~エドモンド・ゴンクール
 (フランス美術評論家)
                                         

    彼は、「若井・林商会」の最重要顧客のひとり。
 本格的な日本美術の研究者となっていた。その背景には林忠正の
存在があった。

 忠正は、ゴンクールの影響力を利用し、日本美術に対する正しい知識と
正当な評価を勝ち得ようと考えた。
だからゴンクールに
「歌麿に関する研究書を書きたいので協力してほしい」と言われたとき、
これを受け入れた。
 十返舎一九著、喜多川歌麿筆「吉原青楼絵抄年中行事」
ゴンクールのためにフランス語に訳す、という大変な作業を
引き受けたのである。     


                       

             

  1804年 江戸時代著 十返舎一九・喜多川歌麿
四季折々の吉原の風俗についての歌麿の絵を交えて明らかにすることに主眼があったことが伺える。文は、絵によく対応しており、その有様を知り知識を得るための恰好の案内書として人気を博した。

 「新吉原の四ツの時、をりふしの花紅葉のあはれに
     おかしきさまを集て、堤のなげふし歌麿のはなやぎたる
           筆を、ふるへるものなり」とあり。

 そんなこともあって、忠正は、ゴンクールにとっていまや
  なくてはならない存在となっていた。

  すでに何度か、マダム・ボナパルトのサロンを訪れていた忠正は、
いまや直接マダムからの招待状を受け取る立場となっていた。


 1888年 11月  パリ モンマルトル大通り

  「ブッソ・エ・ヴァラドン」の店

  「いつもの小包です。 ここにサインを」
   受け取ったばかりの小包を抱え、店の奥にある自分の事務室へ
 それをもって入った。

  いつも通り、アルルから送られてきたフィンセントの絵である。

  二枚の絵は室内画で、それぞれに椅子が描かれてあった。
  どちらも空っぽの椅子の絵、だった。

   ふたつの作品には、それぞれ題名がつけられていた。
         <ゴーギャンの椅子>
        
         <ファン・ゴッホの椅子>
        
 
   …それぞれの椅子に、座るべき画家たち。
      しかし、その姿はどこにもない。

    いや、正確には「空っぽ」ではない。
    それぞれの椅子には、人の代わりに小さな「もの」
    置かれてある。

            *よくご覧になってください~
                   なんだかわかりますか? 後ほど ね。

  腕組をしたまま~テオは、 いつまでも絵の前を動かなかった。

  フィンセントとポール・ゴーギャンの共同生活が始まって、
  ふた月と経っていない。
  それなのに、彼らの椅子は、
  座るべき主をなくしてしまったのか====。


続 黄昏どきを愉しむ

 傘寿を超すと「人生の壁」を超えた。  でも、脳も体もまだいけそう~  もう少し、世間の仲間から抜け出すのを待とう。  指先の運動と、脳の体操のために「ブログ」が友となってエネルギの補給としたい。