毎年2月第二土曜日に行われる与原下区に続く伝統のお祭り
「どんど焼」(福焼き)が今晩、2月8日に行われます。
この行事が行われる場所
そこは「古墳」の中です。
ご存じですか? 「御所山古墳」
5世紀中期に造られたとみられる前方後円墳。
1936年に国史跡に指定された。
古墳の詳細はまだつかめておらず、
現在、文化庁の認可を得て苅田町教委にて調査は進行中・・・
この古墳の全貌は、まだ多くの謎もあるので またの機会に。
きっと面白い報告ができると思いますよ~
古墳は
墳丘は全長120mに及ぶことから、権力者が埋葬されている可能性がある。
100mを超える前方後円墳は全国に約300基ありが、多くは機内に集まっている
この町にはすぐ近くに130mの前方古円墳「石塚山古墳」があり、2基もあることを考えれば、苅田町周辺には、当時、権力が集中していた可能性が高い・・・・
(町教委の話)
「空中から見た古墳」
古墳の名称
では、「どんど焼」 その歴史を振り返ってみます。
起源は江戸幕府11代将軍家斉の頃、文化、文政の時代は
江戸では疫病、東海地方では風雨洪水に見舞われ政情不安
風紀も乱れていました。
(この頃すでにに与原のはあり、農業を営んでいました)
文か13年(1816)旧暦の2月12日豊前地方を襲った大風は
大きな被害をもたらしました。
与原の郷も多数の死傷者がありました。しかし御所山周辺
の民家は、家屋はもとより家畜の損害もなく難を免れたのです。
嵐の去った後、近所の人々は誰誘うともなく連れ立って社殿の
前ん集まってきました。そこには、松野大木が根こそぎ横倒しに
なっていたのです。皆はその様子を見て「これはきっと神仏が
身代わりに立って下さった、神仏の御加護の賜だ」と口々に云い
合いました。しばらくして皆はそのあたりを掃除し身代わりに
なった松の大木を片付けて燃やし神仏に感謝したのが福焼祭
の期限です。
それ以来、文化13年2月12日を記念日として行われ、(平成26年
より第二土曜)に社殿の前で火を焚き、神仏のご加護を祈念して
きました。
歴史
文化13年(1816年)を第1回とすると、今年2020年で204年間も続く
祭りです。
明治25年頃下句の勇姿が発議し神社氏子の「敬愛社」を発足。
これにより神社社殿や各祭りの内容も整えられ、同時に氏子の
連帯感も一層深まりました。
大正、昭和の時代になり、祭りの行事は下区に移管されて現在に
至っています。
当初は神仏に感謝する素朴な祭りでしたが、農閑期でもあり、寒い
時期で外出の機会も少なく、区の住民が一堂に集まる機会となり、
楽しい祭りになりました。
また正月の後でもあり注連縄、前年のお札、お守りを焚す場にもなり
地元はもとより近隣からのお参りも多くなりました。
さらに「福餅」も売られるようになり道路沿いには出店もあり、
子供たちにとっても楽しみな祭りとなりました。
この「福餅」を食べれば幸福になると言われてきました。
この福餅は「くじ付き」で、当たりくじの豪華景品のチャンスも。
今年の「運」を開いてもらいましょう~
買った、買った そして勝った?
おお・・・自転車が3台 テレビ ・・・米5㎏
楽ちん 楽ちん ルンバも当たる?
商品券だって・・・さらに鏡餅も。
きっと皆に 「福」が来ると思うよ~
それでは お祭りの様子を写真で・・・
お祭りの見せ場と言えば~ 「火」そのものです。
夕刻、 神社神主、役員のお祓いがすむと、いよいよ始まりです。
燃やす木は神社境内のものを使用
前もって積み上げて置きます
火花が燃え上がるように・・・細かい枝も傍に積み上げています
お祭りの前に ちょっと神社を覗いてきました・・・
参道前の鳥居 お祭りの幟が風に靡いて
正面階段を上がって 上から下を見下ろす
本殿に向かって
夕刻には 提灯に明かりがついて~人の流れで盛り上がって来ますよ。
さぁ~いよいよスタートです。
十分に乾いた枝に火が付けば・・・あっという間に舞い上がる!
凄い勢いです!
ちょっとよそ見しているうちに~
奥の院の? 閻魔様がご立腹? というような勢いです。
本殿へのお参り客の数も増え・・・参道は行列です。
お参りを済ませ 「福餅」を買う行列も~
どんど焼きの火はご利益もある
買った「福餅」を笹竹の先の針金に結び、燃え盛る火の中に
一瞬のうちに 「出来上がり」 この餅を食べると・・・いいことが。
子供たちの歓声が 響き渡ります。
売り場では、大音響のマイクの声が
「おめでとうございます、自転車が当たりました~」
次々に 当たる人の声を聴きながら・・・
結構な買ったのに~ 私の餅は・・・???
今年も 「いいこと」ないかも?
帰りの階段は、外れた餅が重たく感じる「どんど焼」でした。