黄昏どきを愉しむ

傘寿を過ぎた田舎爺さん 「脳」の体操に挑戦中!
まだまだ若くありたいと「老い」を楽しんでま~す

孤高の画家 田中一村 NO.4

2023-01-31 | 日記

一村を変えた南国への旅

 スケッチ旅行の始まり~

 単なる景観の描写にとどまらず、新しい作品挑戦への心を

 奮い立たせた貴重な旅であった。

 想像力を湧出させる旅でのスケッチ・・・

 画家にとってはさらなる飛躍のために不可欠なもの。

 旅は、画材の宝庫!

 そこで出会う自然との遭遇は感性の錬磨なのだ。

 新しい発想もそして数々の悩みも吹き飛ばす。

 

 先ずは、九州阿蘇山に登った。(写真利用)

    

 このスケッチ旅行の経路と考えられる~ルートは

阿蘇山~高千穂~宮崎(青島)~鹿児島~雲仙~長崎~大分~別府~

八幡浜~松山~高知~足摺岬~室戸岬~高松~鳴門~洲本~和歌山

~新宮~熊野

*旅先からK氏に送ったハガキが残っている。

 四国に廻り、紀州熊野川まで見て帰る予定です。

 車中にて 田中一村と記す。

「放牧」   昭和30年 

     

   阿蘇の放牧を。一村の心が広がっていく

    途方もなく大きなスケールで広がる新芽の絨毯

    のびやかな情景。

    旅に出たのが正解であったと思わせるものであった。

 

 「山村六月~北日向にて」 高千穂

   

    梅雨の季節豊かな田園風景 遠くに高千穂の峰を

    手前ハンカイゾウの黄色い花

 「ずしの花」 

     

 「阿蘇付近北日向 ずしの花多し 山間田蛙路傍到ル所にアリ

   草丈八尺に達す」と記す。

 

 「青島の朝」 宮崎

  

   枇榔樹の葉はそよぐ…         青島を航空写真で見る(参考)

「海ハ碧玉 空ハ緑玉 枇榔樹ノ葉ハソヨグ 南国ノ夢アリ」と記す。

 

鹿児島(桜島)の噴煙を仰ぐと、さらに南の島々への思いがつのっていった。

 船便を見つけてて、種子島、屋久島、トカラ列島まで足を延ばした。

 黒潮に浮かぶ南の島々は、一村の心を魅了した。

   

  

 

 「岬~トカラにて」 

    

 

雲仙・島原へ~

 「雲仙雨霽(うせい」

  

雲仙山麓 雲乱レ飛ブ 長崎ヨリ島原ニ向フ車中即目」

 牛にすきを引かせ田を耕す農民…

 雨上がりの情景をしっとりと描いている。

 

 長崎から久大線 ~大分

 「由布嶽朝靄」

   

  別府から四国へ渡った一村は、足摺岬や室戸岬を巡った。

 「足摺狂濤」 足摺岬 

 

 

    「室戸ハ奇石累々 足摺は断崖千尺

      太平洋ノ怒涛ハ脚下ヲ噛ム」とある。

    黒潮の打ち寄せる荒々しい情景を、群青の濃淡と

     胡粉の白波によってみごとに表現している。 

 

  高知から松山~鳴門へ そして洲本~和歌山へ。

 

 和歌山に出て、筏流しの名勝・瀞八丁と那智の滝を見た。

  

 

 高みから流れ落ち、岩にあたって砕け広がる滝の様子を

 描いた1枚があります。が、 

 この作品は「岡田美術館蔵」なので、今回、参考として掲載します。

 参考: 「瀑布」 

 

 

 

 旅から帰った一村は、南国の風光や黒潮に浮かぶ南の島々の

 印象を、姉喜美子に語り続けた。

 南国のイメージは、日ごとに膨らんでいった。

 やはり千葉を離れなければいけない。

 

 必死で勉強してきた成果を集大成しなければならない。

 絵かき人生を締めくくる最後の絵は、

 やはり旅先で描くことになるだろう。

      もう時間はない。

     一村の心は決まった。

 

   黒潮に浮かぶ南の島々に心は飛んでいた。

 

               最終章へ~

 


孤高の画家 田中一村 NO.3

2023-01-30 | 日記

千葉寺の家の周辺には、画材になる植物や花が一面に植えてあった。

縁側には小鳥かごが積んであった。さまざまな小鳥たちがさえずり、

 まるで小鳥屋の店先のようににぎやかだった。

暇を見ては小鳥たちのさまざまなしぐさやポーズをスケッチしていた。

花鳥風月は日本画の伝統のモチーフだが、彼の姿は、単に絵の題材として

以上に、彼ら(小鳥たち)を愛しているふうだった。

 

 素描の中から~(鳥)

    

 

    

 

   東京育ちの米邨にとっては全く不慣れな百姓仕事であったが、

 近所の農家に一から学び、本を読み、篤農家をたずねて次第に

 いい作本を作るようになった。

午前中は畑で写生している姿があった。

一村は、農業をすることで、自然への洞察力を高め、感覚を磨いた。

 

 千葉時代の作品を  昭和30年代

 

 風景

 

   千葉寺・農家の庭先

   

 

   千葉寺の春(牛のいる風景)

  

 

 千葉寺・雪の日 昭和30年

  

 千葉寺風景 ①

  

 素描・ザクロ 昭和30年

     

 

  花とトラツグミ  昭和30年

  

 

 ユリと岩上のアカヒゲ 昭和35年

   

 

 この時代より前~昭和20年代の千葉寺風景がある。

 千葉寺の四季のたたずまい。

 山水画の趣を見せる淡彩の風景。

 それはいずれも静かな農村の情景であり、大地の恵みを

 描いたものである。

 

 千葉寺・秋  昭和23年

     

 

   麦播 昭和19年

    

 

  牛を引く農夫  昭和19年

    

 

  田植え   昭和20年

    

  山の田   昭和21年   

 

    

  囀り    昭和22年

         

  カワセミ  昭和20年

  

 

千葉での生活はそれなりに充実していたが、米邨の胸中には

 いつも焦燥感のようなものがあった。

ゲーテの禅宗の中で見た

「芸術は長く、人生は短し」という言葉が、

実感を伴って迫って来るのだった。

 

 昭和三十年の梅雨が明けたある日

       一村は四国、九州へと旅立った。

 

 


孤高の画家 田中一村

2023-01-29 | 日記

 一村の性格をご紹介しよう。

 千葉時代にある婦人あての手紙に…

 「絵かきは、わがまま勝手に描くところに、絵かきの値打ちがあるので、

     もしお客様の鼻息をうかがって描くようになったときは、それは生活の

     為の奴隷に転落したものと信じます。

    勝手気ままに描いたものが、偶然にも見る人も気持ちと一致することも

   稀にはある。それでよろしいかと思います。

 その為にに絵かきが生活に窮したとしても致し方ないことでしょう」

       (日本のゴーギャン 田中一村伝 文中より引用)

                                         

千葉寺に借地を見つけ、待望の家を持った。まだ開発の手が届かず

のどかな農村風景の中にあった。 この時米邨は二十九歳。

絵かきとしての実力を問われる年齢にあった。

東京を離れ、千葉に引っ込むことはいろいろと不便でもあり

不利ではあった。しかし千葉寺にひろがる自然は大きな魅力だった。

 しかし、絵の前に、生活の闘いがあった。

絵筆持つ手で鍬を握った。

一家四人の生活が懸かった農業だった。

     

 

農業をして鳥を飼い、絵に打ち込む米邨は、

毎日が一心不乱の日々であった。

 

この頃、禅の集まりに姿を見せることもあった。

しかし、いよいよ法話や座禅が始まるころには、ふいと姿を

消すのが常だった。

          

「おれには、禅などやっている暇はねぇ」というふうだった。

この座禅会を仕切る柳沢氏の話に。

  「米邨さんは、頭脳明晰な方だったから、

   禅のこともかなり深いところで理解しておられたのでしょう。

   あの人には、絵があったから、宗教はいらなかったのかもしれない。

   確かに私たちには及ばないものを持っていましたね」と。

  また、柳沢氏は、欲を言えば、もう少し平凡なものがあれば、

  世俗的にはうまくいったのでしょうが、それは米邨さんのように、

  世人より優れた天才的な人が負う宿命かもしれませんね」と語る。

 

 やっぱり生き方の違いはしょうがない…妥協なしの個性では

 これじや貧乏もするし、絵も売れはしないよねぇ~。 私思う。 

 

 少し下って~彼一村は、幼くして、南画を描いていた…

南画は中国に発生した画風で、南宋画とも言われ、主に

文人によって描かれていた。

日本では、池大雅や与謝蕪村、青木木米、田能村竹田 などなど…。

 

そこで現在残っている中から…ご覧ください。

先ずは、十代の頃

 作品並べて

  大正15年18歳      昭和2年19歳    大正14年17歳  

 「ソテツとツツジ」    「山水図」      「牡丹図」   

                   

    どうですこの力強さ~ うわさ通りの神童かも?

    中学時代にも学業の傍ら南画の画会をしばしば

    開いていたというから これは凄い!  びっくりです。

 

  色紙にも こんな作品が・・・

    これって、子供の描く絵・・・???

     「白梅図」  大正6年 9歳

        

     「アジサイ」 大正9年 12歳

     

     「雪中南天」 大正12年 15歳       

       

  

    芙蓉図 昭和2年 19歳

    

 

   「牡丹図」 昭和2年 19歳

    

 

        「南天図」27歳 「ケイトウ」24歳

                  

 

                   秋色 ①  昭和20年代

                

         

 35歳の頃(昭和18年)船橋市の工場で

 徴用工として働くが、体調を崩し終戦の年まで闘病生活が続く。

 この頃 (昭和15~20年頃)  観音菩薩像を多く描く。

        

     「崖上観音像図」 昭和15年頃

 

米邨から一村と変わった四十代の作品

「私の南画は先達の南画作品を倣っていますよ」ということを

明確にしてきている。

 新しい絵画を模索する姿勢に貫かれ、あくまでも南画は勉強の

ために描いている。

倣いながら、画風に心酔しながら、特徴をとらえ

そして次第に自分の南画としていった。

 倣 蕪村

         

 

  倣 木米

    

 

 倣 木米

    

 

  倣 聾米

    

 

   倣 鉄斎

           

  これらの作品は、昭和22年に描かれたものばかりです。

 

終戦直前まで結核に苦しみ、ひたすら観音菩薩像を描いていた

米邨は、戦後の開放感の中で、自分の再生の喜びに浸っていた。

 

それは創作意欲に結実していった。

米邨はこの喜びを込めて、号を「米邨」から「柳一村」と改める。

宋の詩人の「遊山西村」の七言詩からだった。

    「山重水複疑無路 柳暗花明又一村」

『山が重なり、川が曲がりくねり、この先もう道がないのかと思っていたら

   また向こうに、柳の茂みが小暗く、花が明るく咲く風景が見える。

   あそこにまたもう一つの村があったのだ。』

 

 また唐の詩人・白楽天に「朱陳村」という五言詩があった。

  「都から遠く離れた辺地に、朱と陳の七つの姓しかない村があるとして、

   この村に託して白楽天の理想郷を歌った詩である。

  この中に偶然にも、「田中一村」と字づらが連なる箇所があった。

       「生為村之民 死為村之塵 

        田中老興幼 相見何欣欣

        一村唯両姓 世世為婚姻」

   あるいは、この「田中一村」がヒントになって

   「柳一村」が導き出されたのかもしれない。

    奄美では田中一村が使われていた。

             (本文中より引用)

 

 さて、一村は、全くといっていいほど人物を描かなかった。

 まして自画像などはただの一点も描いた形跡はない。

  (画家はまず自画像を残す方が多いようなのですが。)

 

ただ、これが私の自画像だ! と言わんばかり~

 軍鶏(シャモ)の絵があの人の自画像・・・

 「感覚を研ぎ澄まし、闘魂を燃やし、立ち向かってくる

  やつすべて敵だといわんばかりに、眼光鋭くあたりを

  睥睨している。 そんな感じの人でしたよ」

   と、母方の親類である川村幾三さんの言。

 

 素描 「軍鶏」 昭和28年頃

    

 

  「花と軍鶏」 昭和28年  紙本 襖絵   45歳

 

 

 

 

 今日はこれまで 千葉寺風景 ~スケッチ旅行の旅へと 続きます。


孤高の画家 田中一村

2023-01-28 | 日記

今、私の手元に1冊の古書 NHK出版(2001年出版)

 「奄美に描く 田中一村」田中一村記念美術館 収蔵作品 図録

を眺めて~いつになく興奮している。

最近、私の息子がぶらりと訪れた古本屋で、偶然目に止まり…

何を思ったのか、手元に寄せ、眺め…そして購入し

「おやじ、これどう?」

 と渡してくれたのだった。

これまた偶然が重なりますが、この1月ほど前にも同じようなことが、

「日本のゴーギャン田中一村伝」南日本新聞社編集。小学館文庫(1999年)

これも、息子が古本屋で見つけ、私に勧めてくれ、

読み終えて改めて彼の画業のすさまじさを感じ入っていた

そんな短い時間での この 双方の「出会い」

奇遇というか~なんとなくドラマ仕立てのような…

      と言う訳で、これから一村の「絵」について少し話を進めて参ります。

 

 私の、リタイヤ前の仕事は「旅行業」 趣味は「絵」 

  商売柄、企画としても「絵画展」は好都合なので、趣味と実益?

 おかげさまで国内・海外といろいろな美術館巡りをしてきました。

 美術館巡りは現在も時間を見ては訪ね歩くのが老いの身には

生きがいでもあり、まだまだこれからも続けようと思っている次第。

因縁はまだ続く~

 奄美のとの「出会い」は

現役時代に企画担当として、広島(昭和48年)で、まさに「奄美」

取り上げ、「新婚パック」として販売促進に熱を上げていた時

商品づくりのために現地にはもちろん下見に行き、島の魅力には

商売抜きに感激した記憶はまだ鮮明。

しかし、頭の中にはこの時点では「一村はゼロ状態」

この頃、一村は紬工場をやめ画業に専念~しかし体調は悪い状態。}

  

時代は平成に入り、私が一村について 

これは凄い画家と思ったきっかけが

「田中一村の世界」展

 千葉で見たのが最初であった。平成7年の春

 丁度、社内の研修を船橋でやっていたのを利用し

 会場へ行きました。

 

今日は古本の図録を追いかけながら一緒に楽しみましょう。

この図録は奄美の記念美術館収蔵品なので本物との出会いは

ないのが残念ですが・・・。

 

一村と言えば、誰でもが、この絵を一番先に~

   

「アダンの海辺」であるが、残念ながらこの1枚は千葉の美術館にある。

  

 では、ページを捲っていきます。 

 図録の最初に 

  「生涯の最後を飾る絵を描きたい」

 画家の名は田中一村。

 家を売り、すべてを捨て、彼を支え続けた姉とも別れ、

 奄美の生活に賭けた。

 染色工として働き、そして絵を描く。

      (中略)

田中一村、その時すでに五十も半ばという年齢にあった。

      

 

 彼は写真にも興味を持っており好きな姉のポートレートを

 写したもの。

  構図、陰影、角度 プロ並み?の技

      

 

本土は違う自然・・・

南国特有の季節感と変化はどれもが新鮮だったのでしょう~

 1枚1枚の絵を見ても、光、風、を感じる。

 

 奄美の生活で シリーズとして描いていたのが

「奄美の杜」というタイトルだ。

ご紹介していきましょう。

 {写真については、ネットや図録から写しての掲載ですから

     揃ってはいませんので、お許しを・・)

 

 「奄美の杜」① ビロウ・コンロンカに蝶

   

 

「奄美の杜」④ 草花と蝶

   

「奄美の杜」⑤ ガジュマルとトラフズク   

    

 「奄美の杜」⑦ ビロウ樹

       

 「奄美の杜」⑨ ビロウとアカショウビン 

     

 

 「奄美の杜」⑩ ビロウとコンロンカ

       

 

 「奄美の杜」⑪ ソテツとアダン

  

 

  如何でしたか?  画家としての一村の心をとらえたものは、

      自然の造形が持つ美しさに違いない。

   それは、亜熱帯だからこそだ。 

 ビロウの葉の広がり~と、 形の妙 そしてどれもはっきりとした色彩。

 

 風景だけでなく… 色鮮やかな 熱帯魚にも。

  「エビと魚」

    

  奄美~沖縄諸島近海で獲れる魚の色彩は まるでパレットですね。

     図録にははっきり 右端に署名しているのが分かります。

          古稀 一村 とある。 (1976年頃)

 

  「花と鳥」

  

 

 彼の観察力は抜群です~実に細かいところまで掴んでいるのが分かります。

 枝に止まっている鳥の 嘴の動き、 目の動き 羽ばたき など

       瞬間の細かい動き さえ感じますねぇ。

 

  今までの絵は、奄美で描いたもの。

 一村は、 幼くして、南画を描いていた。

 彫刻家であった父に手ほどきを受けたといわれる。

 一村の南画の腕は、これが子供の描いたものかと驚くほどの達者さを見せている。

 現在残っている南画もかなりの数ある。

 一村は、18歳の時、東京美術学校(現在の東京芸術大学)日本画科に入学。

 同期生には、東山魁夷ら後に”花の六年組”といわれる仲間がいた。

 しかし、僅か3か月での退学。 原因は 病気?  ‥‥定かでない。

 この頃(19~30歳)の彼の身辺は~父母、弟3人 を亡くす…

  また、本人の病気など、画家としての活動に見るべきものはなかった。

        ~ 悩みの時代だった ~

 40歳のとき、 

 再生の喜びを込めて 号を「米邨」から、「柳一村」と改めた。

 

昭和22年、 心機一転した一村は

あふれるような創作意欲を公募展にぶつけた。

川端龍子が主宰する第十九回青龍展に「白い花」を出品、初入選する。

同期生の東山魁夷は日展に名作「残照」を出品特別賞を受賞

魁夷はこの作品で一躍脚光を浴び、不遇な生活にピリオドを打った。

 

 東山魁夷 「残照」   

   

 

 二人の人生は、このあと、大きく別れていった。

 魁夷は、「残照」以後、国民的支持を得て、次々と名作を発表し、

 日本画壇の頂点へと上りつめていった。

 

 一方の一村は、翌年の第二十回青龍展に屏風絵「秋晴れ」を出品。

 一村の自信作であった。

 ところが龍子は、これを選から落とした。

 そして参考作品として出品しておいた「波」を入選作とした。

 自信作「秋晴れ」が

    落選したことに納得できず「波」の入選も辞退する。

     『絵の表現も、感情表現も 素直なんだなぁ~ 

        これって、芸術家に多いような…私の独り言です。』

 

一村は、日ごろ、龍子のことを「三百年に一人の絵の達人」として

その画才に敬意を払っていたのだが~ 今回のことからぎくしゃくとなり

その後、龍子とは絶縁状態となっていく~

 

そして 一村は千葉寺にこもり、農業と絵の研鑽に打ち込んでいくのです。

   姉喜美子、妹房子、祖母スエとともに~移り住む。

 

  今日はこれまで~ まだまだ 楽しい絵が鑑賞できますよ。


雫の魅力

2023-01-19 | 日記

 先日少し雨が降った。

 冬の雨は冷たい。

 そして久しぶりの小雨は静かに、天から降りてくるような。

 土砂降りの雨とは違った風情なのだ。

 人生80年。

 過ごしてきた自分だが、「気が付かなかった」ことも多い。

 それがなんだか? それは、新しい発見ができたときに「気が付くのだ」

 天を仰いでいなければ、星の美しさも、分からない。

 雲の動きも、次々と変化していく微妙な動きも。

 思うに~現代の大人も、子供も、「上を向いて」の動作があるのだろうか?

 

 気が付かないどころか、気になって心配なことが多いのも、現代。

 電車に乗っても、バスに乗っても、待合所でも、

 レストランで食事が運ばれてくるまでの短い時間にも…「下を向いている」

 そう、「スマホ」という文明の機器にしがみついている姿だ。

 

 文明の機器は、確かに便利だ。

 これがなければ1日過ごすことができないという~いや、完全に縛られている方も。

 私は今心配している、この機器による、身体の影響を。

 姿勢は悪くなり、眼も、耳も。 いあや、もっと、その影響の度合いは広がるのでは。

 周囲の動きなぞ、一向に気が付かなくなって、自分の世界だけで息をしている。

 歩いていても、自転車に乗っていても、

 もっと危険なのが、自動車を運転しながらスマホを握っている。

 「自分だけは大丈夫」という、まさに自分勝手な行動が席巻している今日。

 このままの状態で時を刻んでいけば、絶対に何かが起きる

  と、いらざる心配をする田舎の爺さんなんだが…

 

 そうそう、前に戻って新しい発見の話だ。

 雨が上がった後に、庭を歩いて、その「雫」の美しさに見惚れたのだ。

 たかが「雫」だが、まぁ、ご覧ください。

 秋の賑わいを演出してくれた「紅葉」も 枯れ枝だけの状態に・・・。

 

 その小さな枯れた枝に。 気が付きましたか?

   ほら、 小さな白い粒が・・・光っていますよね。 

   真珠の珠? 

   土砂降りの雨だとこんな姿は見ることができない・・・雨のいたずらです。

             枯れ枝に見事に花が咲いた。

  

   なんとも情緒がありますね。

 

 

 ならばともう少し歩いて探してみると。

 「オキザリス」の緑の葉の上に・・・

   この美しい緑の葉の上に~小さな花が咲いた。 雫の花です。

  そう、この花(雫)も、一瞬の時間だけもらったのです。

 

 

  上を向いて探してみました。

  「ユーカリ」の葉にも。

   広げた葉に しがみつくように 雫が。 眺めていると…雫が動きました。

   どう表現しましょうか~ スーッーっと 音もなく(変ですね)

   細くて、赤い枝に映えています。

 

 

  寒さと共に、庭の樹や、花たちの動きから遠くなる。

  葉の色の、花の動きも、そして色彩の変化さえも・・・見過ごしてしまいそうです。

 そんな寒い日に、はっと気が付き、改めて 「美しい」という発見ができたこと。

 これも、「生きている」実感の一つなのかも?

 

 そういえば、なんとなく眺めていた「南天」の葉。

 

  ねぇ、この美しさ見てくださいよ! と、声を掛けられた!

   美しく装っているのに「気が付かなかった」よ。

     ごめんなさい。 

      今の君は、「美しい!」 よ。


ブログを振り返って

2023-01-18 | 日記

 今日、私のブログを開いて頂いている方のタイトルに

 「マチスとピカソ」が。2020年のもの。

 

 このごろ私も、生活が淡々としているせいか、ブログのネタ?がない。

 そんなことをお察ししてなのか、昔のネタを開いてくれる方極めて多い。

 恥ずかしいやら、嬉しいやら…。

  時間があるので、私も、どんどん遡って自分のブログを追いかける始末。

 時間かけて、盛り込んでいるなぁと。自画自賛?

 我ながら、面白いなぁと…時間が経つのも忘れるほどです。

 

 先日、模様替えのことアップしましたが。

 その絵の作品でもう1点、「春」に因んだもの。

 大好きな小倉遊亀さんの作品を追加します。

 これはリトグラフですが、8号大のもの。

 これもかなり気張って購入した思い出のあるものです。

  「花と鉢」

   桃がおいしそう・・・

    九谷焼 凄くすてき!

    

 

  本当はこちらの作品も欲しかったのですが…財布の方が?

   「器」がいいです。 本物の器の値段も気になります。

     

 

 という訳で…今日のブログは、画家の「花」を主題に

 好きな画家の「花」の作品を並べて、花美術館と呼ばせてもらいます。

   ほんの一部だけの紹介ですが~

 どうぞ、ごゆるりとご鑑賞くださいませ  (^^♪  (^^♪  (*^^)v

 

 先ほどの「マチスとピカソ」から 行きますよ。

 先ず、ピカソは これ。 「花束を持つ手」

     

 

  シンプルで最高! 見る側の心もつかむ? でしょ。

 マチス 「花と果物」

    

 

 もう、デザインですよ。 

 教会のステンドグラスに いいかもね。

 

 我が家に「ひまわり」の絵がありますが・・・

ひまわりと言えば、この人

 そう ヴィンセント・ファン・ゴッホ の「ひまわり」登場です。

日本でいえば~当時、世間を賑やかにした あの1点。

 (東郷青児記念損保ジャパン興和美術館)常設されています。

    

 花瓶に入ったひまわりの作品は7点ありますが…もう1点

 ご存じですか?

 

 「芦屋のひまわり」って作品。

 私も、以前、ゴッホの作品を調べているときに初めて知りました。

 大正時代に日本にゴッホの名作があったと。

 その作品は兵庫芦屋の実業家が購入したもだそうですが惜しむらくは

 戦火によって幻の1枚に。

 それにしても、その時代、ゴッホの作品をどうしても欲しいという

 情熱は何処から? 残念ですね、現在残っていれば~。

   

 

 あの「モネ」も珍しく、睡蓮以外に花を描いていました。

 貴重な作品です。

    

 いいですね~、まだ視力も大丈夫な時代に描いているのでしょう。

 燃えている、揺れている~楽しく踊っている・・・。

 

 グスタフ・クリムト の「ひまわり」もありました。

    

 丁寧に描かれていますね。

 クリムトと言えば・・・「豪華絢爛」黄金って 。  

 でも、雰囲気はありますよね。

 

 私の好きな画家 ベルナール・ビッフェにも花の絵が。

 こんな1枚が欲しいのですが~ 「キンセンカ」  

  ダイナミックで勢いがあり、黒の線が効いています。

   彼のサインもそのまま 絵ですねぇ~。

   

 

 日本画家の中で 好きな画家に 東山魁夷

  「花明かり」があります。

   

 

  奥村土牛さん この方の絵も 魅力的です。

  画集で楽しんでます。 

   「チューリップ」と「蘭」  惚れ惚れ 

    どうですかこの筆力

    

 

   

 

昨年、安井曽太郎賞の受賞者ばかりの展示会に行き

   「島田省三」さんを知り すっかりお気に入りになりました。

     その後、彼のすてきな1枚に出合いました。

    この1点。  「花と女」  良いですねぇ~。

  

 まぁ、しかし、画家って 

 「花」をテーマにしているんだなぁって ほんとに思いますね。

 志して、「人」と「風景」そして「花」と「静物」は

 やっぱり欠かせなんでしょうね。

 

 まだまだ 沢山ありそうです。 

 暇を見つけては、見つけ出して来ますよ。

 ではまた。


新年の模様替えを

2023-01-16 | 日記

 新しい年を迎えたがスキッとしない。

 何だろう…コロナは第8波でまだまだ落ち着かない。

 ロシアのウクライナ侵略の状況も一向に治まる気配はない。

 岸田内閣も国民をほったらかしで、あっちこちの国に出かけて

 勝手に話をしてはひとりほくそそえむばかり。

 対米交渉では…大丈夫?という盛りだくさんのお約束を。

 これからの日本の将来はちと危ないぞ! 

 と心配も満載のこの頃です。

  ああ、もう 世間のことなど~と、投げ出したくなった。

 身近なことでちょっと気分を変えるか・・・。

 

 と言う訳で、部屋の壁にある「絵」の架け替えをしてせめて気分一新を。

 「壁に絵を掛ける」

 日常生活に際して、「楽しむ」「癒される」「落ち着く」

 そんな役割を持っているのだと思っています私。

 この頃は自分で筆を執ることもなく

 (以前は、「水墨」「油絵」「水彩」を、

  気分が向いたら少しばかり描いて楽しんでいました が、しばらく休止状態

 

 そんな折、友人の「個展」があり、その中の1点を求めました。

 我が家の絵のジャンルからいうと…新しい仲間に入る作品。

 

  私の好きな画家は、「ベルナール・カトラン」

 フランスの画家、日本人はかなりフアンが多い。

 斬新な構図と鮮明な色彩に酔っています。

 全体は柔らかな暖かみを感じ、壁面に飾ると優美な空間を醸し出します。

 若い時分にちょっと無理して購入したのが3点。

 これを季節、季節に架け替え楽しんでいますが~

 他にも、日展入選された友達の作品、美術部顧問の先生の思いでの作品

 そして新作の油絵・・・。

  春にはこのカトランなんです。

 奥の部屋にも 小品ですが、この作品が最初に購入したカトラン。

 リトグラフで、作製NO.1 署名  自慢のものです。

        

 

  今回、気分一新で、カトランを外して、友人のダイナミックな作品を飾ることに。

 抽象画…皆さんも、抽象と言えば…「どうもわからん?」という方も多い。

 絵を見るのに~作者の「思い」と、鑑賞する側とでは、違って当たり前なんです。

 見るほうの側が「これはいいね!」と思えば、それでOK。

  これがまた、楽しいんですよ。

 どう、この絵を捉えるか、作者と見る側とのせめぎあいですよ。

 思わず唸るような構図だとか、眼にも鮮やかな色彩感覚

   見るほうも、自分なりに絵を描いている~

 

 ピカソ、マチス、アンディ・ウォーホル 世界の巨匠の1枚だって

   私たちがその作品の良さを決めれば いいんですもの

     逆に楽しいでしょ、「分からない」もあり。

    感動もあり。 

  絵の方から訴えてくる場合もありますから~

 

 この二つの作品が この春の壁を彩ってくれる

   鮮やかな「ブルー」を基調に 伸びやかな筆使いの作品です。

  「ブルー」を使うのは難しい・・・・

   また、いろいろなブルーがあるので、使い分けるのもなかなかです。

   しばらくは、この作品と対峙して、何を物語っていくのかを追いかけてみます。

 

 

 多少値の張る(私が買える身の丈程度の作品)

  以外に、恩師、友人、の油絵、 

  そして気軽に眺める ~巨匠の作品のポスターも飾っています。

 

 いつも同じ「絵」 じゃなくて

  気分や、季節や、と考えて 模様替えをするのがまた、楽しです。

 

  ポスターでは

  好きな画家 「マーク・ロスコー」

   この画家の 色彩感覚も うっとりするものがあります。

    

       

 

  本物の「絵」はとても買えませんが・・・

   ポスター(シルクスクリーン)額装付きなら と、

  「ビッフェ」の1枚を求めました。

   これでも 結構なお値段なんですよ。

   

 

  玄関入って右側の壁には 亡き恩師の作品

      「阿蘇山」を。

  左側には「ひまわり」を。

   

 

       

 

  恩師の筆は、優しく、人間性を感じさせる落ち着ける作品ばかりです。

  他にもう1枚は 大作「富貴寺の秋」がありますが、

  私の転勤に合わせて全国行脚~その結果、塗料の一部が剥げてきたので

  そっと大事にしまっています。

 

  生活の中に、あっていいもの。

  いや、私としては、「なくてはならないもの」が 「絵」だと思います。

  さらに、「花」と「音楽」 この3点セットが生活に潤いを与えてくれるのではと。

  そして、最後に 趣味が合い、気軽に「話し合う相手」 でしょ!

  模様替えの効果は、これからじわじわと・・・・。

 

  この寒さと、厳しさを 暖かく包んでくれる部屋。

  きっと、1枚、1枚の 「絵」が 

  かなえてくれることでしょう。

 

 

 

 

 


続 黄昏どきを愉しむ

 傘寿を超すと「人生の壁」を超えた。  でも、脳も体もまだいけそう~  もう少し、世間の仲間から抜け出すのを待とう。  指先の運動と、脳の体操のために「ブログ」が友となってエネルギの補給としたい。