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威風堂々の天守閣(熊本城)を間近に!

2020-10-28 | 日記
 10月27日(火)
 私たち郷土史研究会メンバー22名

今月は現地見学で熊本へ~
「地震からの復旧工事「熊本城」をこの目で確かめるための勉強会」。

特別公開で、高さ約6ⅿの特別見学通路を通っての場内見学。
現地ガイドさんの案内で地震後の姿、今しかみることができない城の復旧工事の様子などを見ることができました。
 
 さて、この天下の名城 城主は誰? 
先ずはそんなところから…

 熊本城を築城したのは加藤清正(1562~1611年)なんですが
             
この地、熊本は室町時代から戦国時代にかけて「隈本」と呼ばれていました。
 現在のお城がある茶臼山には古来からの名族菊池氏一族の出田秀信が室町時代に千葉城を築き、その後、天正15年(1587年)豊臣秀吉による九州征伐
                                                                                   
後、越中富山城主佐々成正が肥後一国を与えられ隈本城主となりましたが、 
             
成正の強引な領民政策に肥後国人衆が反発して一揆が起こり、成正はその責任を問われ切腹させられる。
 翌天正16年肥後の国は二分され、南半国は宇土城に入った小西行長に、
北半国は加藤清正に与えられ清正は隈本城主に。
慶長5年(1600年)の関ケ原の合戦で清正は東軍、 (家康)

小西行長は西軍 (秀頼)
についたため、
清正は宇土城を攻め落とし、その戦功で肥後一国52万石の大大名になった。

 清正は、この茶臼山の千葉城・隈本城を中心に全体を大規模な築城工事で
要塞化した新城を築き上げ、城の名も「隈」から「熊」に改め、「熊本城」としたのです。
 清正は築城の名手といわれ、彼独特の縄張りで、この城全体を7年の歳月を費やして完成させた。

 清正は天正16年病のため城内で50歳の生涯を閉じた。
清正の子加藤忠弘が後を継いだが、徳川幕府の豊臣恩顧の大名取り潰し政策で謀反の疑いをかけられ出羽庄内城主酒井忠利にお預けの身となる。

 加藤氏改易の後、豊前小倉城主細川忠利が肥後54万石の城主に。
          
忠利の父細川三斉(忠興)も肥後八代城に移った。
                                     
 以後、細川氏11代の居城として明治維新を迎える。
明治10年に西郷隆盛が引き起こした西南戦争に際して、
                 
熊本鎮台司令官の谷干城(たてき)以下3400名が守る
               
熊本城を薩摩軍13,000名が攻撃するが、落城には至らず撤退した。

 清正が築いたこの城は近代戦争にも耐えうる要害堅固な城であることを世に知らしめたが、この西南戦争で天守以下多くの建造物が焼却してしまった。
  因みに 現在の細川家当主第18代目は この方 (第79代内閣総理大臣)
        細川護熙氏
          

熊本城は400年に亘る日本の様々な歴史の重要な舞台に、また歴史に名を刻んだ歴史ドラマの主人公たちが繰り広げるのも熊本城です。

 そして、平成28年(2016年)4月に発生した熊本地震では天守閣や石垣などが大きな被害を受けましたが、
 
                   
                        現在、再建に向けて復旧工事が進んでいます。

 そんなドラマチックな歴史を持つお城、往時をしのばせる数々と、復旧による近代の姿を合わせてしっかりと確認してきました。

 熊本城内に入ってバスは桜の馬場駐車場へ、ヴァイキングレストラン
でのランチ。 なかなかスマートなメニューと味で、みなさんしっかり
食欲を満たしたみたい⁈
それぞれ食後は、コーヒータイムでゆっくり体力調整~その後見学開始!

城内ガイドさんの誘導で~
特別見学通路に入ります~鉄骨を組み合わせて延々と続きます。     
    

  (数寄屋丸二階御広間)」

  
 まだまだ手付かずの状態… もし、また地震が来たら? 心配!
   櫓の板塀も少ししなっているようにも見えますよ・・・

   城内には、楠が多く、
     
   樹齢800年ものも… 凄い! 
            えっ、鎌倉前期の頃だよ…この茶臼山の自然木だったのかな?
      
     

    「二様の石垣」
 隅が2か所あり、両方の石垣の反り方が違っている。
 東側はそのゆるやかなカーブと石組みから加藤清正時代のもの、
 西側は細川氏時代のものと言われているのですが、このような珍しい
石組みは熊本城独特の物だそうです。
  それにしても本当に目を奪う姿ですよね~
       

  もう少し、ズームすると、境界がはっきりしますね。
   石積みの「石」の古さまで 分かります。
  独特の勾配を持つこの高石垣は清正流「三日月石垣」または、
「武者返し」とも呼ばれ、場内の随所に残っています。

        この石積み方法~当時の石工さんたちの高度な技術には
   頭下がりますよね。
   上の行くほど、工事も大変、足場組みと石を上げる操作?
   そんな当時の仕事模様って・・・見てみたい!
   現在では便利な重機を使っての工事のようですが…。
   
       

   熊本城の石垣は、下から緩やかで、簡単に登れるように見えますが
 上に向かえば向かうほど反りかえりが激しなり、上ることができません。
 武士はもちろん、身軽な忍者でさえも引き返すことから「武者返し」
 呼ばれています。
                        


  本丸御殿の方へ~廊下を歩き~エレベーターもありましたが、階段を
上り、通路より  本丸へ・・・。
 
        
  

  本丸御殿の天守閣の雄姿~ほぼ完成…2021年春には、全体の復旧が完了し、天守閣の内部まで入れるようになる。

   工事の櫓がちょっと邪魔ですよね~
 こちら側からの眺めは… いいいねぇ。
   

   震災直後の 天守閣の様子 

  本丸御殿の広場にある大イチョウ。
        

        

   清正公のお手植えと伝わっています。
   今回は、まだイチョウの葉も 少し早かったのですが
   この熊本城は『銀杏城』とも呼ばれています。
    因みにこの木は、雄木なので実はならない。

    こんな日に出会えば・・・最高でしたが。
                             

   このイチョウの傍に深さ約40ⅿの井戸が残っていました。
 清正は、朝鮮出兵の際、「泥水をすすり、死馬の肉を食らう」という
 苦しい籠城戦を強いられ、その経験を活かして場内のいたるところに
 120余の水量豊かな井戸を掘っていました。
  現在もなお、17の井戸が残っている。

 櫓の内部で大木と石垣を組み合わせた武骨な姿ですが
  日本全国の御殿建築んあかでも異例のもので御殿への正式な入口も
 地下にあったみたいです。
 しっかりとした通路。
 「闇り通路(くらがり)」と呼ばれています。
         

   この日は風はなく、太陽の光線はまるで夏日のよう~
 歩いているうちに、上着を脱ぎ、汗を拭きながらの見学です。
 万歩計の数も・・・普段歩かない足を先へ先へと進めることに。


  そんな中、涼しげな景観、いや、最高だ!
  思いっきり、シャッターを押しました。
   「宇土櫓、本丸、天守閣」の優美なパノラマです。
 

   左「宇土櫓」     天守閣     本丸御殿
  第3の天守閣とも…

        


   まだ手付かず? こんな危なっかしい姿が~

        

    
 
                

  崩壊した積み石も・・・まだ 周辺には そのままに~
       

  
 いやいや、地震のニュースの時は、テレビの画像を通してのみ。
 現場で、この被害の状況をまざまざと見せつけられと、ため息ばかり。
  その凄さを実感いたしました。

  復興にはまだまだの時間が必要だと聞いています。
  復元、再建。 石垣の修理や積み直しにも 
  、熊本城全体が元の姿に戻るには、まだ20年近くがと~

  熊本県民の愛する「熊本城」、いや、全国の人々も一日も早い
  復旧を願うばかりです。

   復旧工事も進み、天守閣の内部の公開が令和3年には予定とのこと
  また機会があれば是非の思いで、場内を後にしました。

      
  その後、「田原坂西南戦争資料館」へ向かい、戦争の記憶を

      「弾痕の家(復元)」
        

        
        
   今に伝える 数々の資料を見学し 今回の勉強会を終わりました。




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