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黄昏どきを愉しむ

傘寿を過ぎた田舎爺さん 「脳」の体操に挑戦中!
まだまだ若くありたいと「老い」を楽しんでま~す

「棟方を追いかけよう~」第8話

2024-04-30 | 日記

 少し戻りまして…

 昭和26年 年末 東京都杉並区荻窪に居を移す。     

 

 

                   (中央 赤い部分が画室)   

 この家は、洋画家鈴木信太郎の家を周旋してもらったもの。

 東側一面が天井までガラス窓になっている20畳ほどの本格的な画室

 家の中心になっている。

     

   石門のポストには郵便屋さんのために

  「有り難く」と書かれていた。手紙が好きで青梅街道角のポストまで

   投函に行くのが日課だった。

    

  数年後増築した「裏の家」に設けられた囲炉裏の間。

  床には大谷石が敷かれ、窓際にはお気に入りの飾り棚があった。

       *後ろにある大きな陶器の皿は…きっと濱田庄司さんの作?

 

 昭和29年  棟方52歳

 すでにアップしていますが、この年の1月、 棟方邸で裏千家の企画で、

実験茶会」を開催しています。

      

 7月には第3回サンパウロ・ビエンナーレに「二菩薩釈迦十大弟子」

 「湧然する女者達々」を、出品し、版画部門最高賞を受賞する。

昭和31年 53歳

 6月 第28回ヴェネチア・ビエンナーレに「二菩薩釈迦十大弟子」

 「柳緑花紅頌」などを出品し、国際版画部門大賞を受賞。

    

 

  昭和31年    <鍵板画柵>

昭和31年 谷崎潤一郎が、雑誌「中央公論」の正月号から書き下ろした小説を

連載するにあたり、挿絵を棟方にと希望した。

         

小説の進行にあわせて板画を制作するのはかなりの緊張を要したようだが

棟方はそれまでの板画技術の粋を駆使し、最大限の印刷効果を上げる工夫うを

こらしてこれに応えた。その結果、小説、挿絵ともに連載当初から評判を呼び、

棟方が装幀単行本も記録的なベストセラーとなった。

      

 

    <鍵板画柵>

              大首(おおくび)の柵

      

 

            <大鏡(おおめがね)の柵>

       

 

              <腹鏡(はらめがね)の柵>

       

 

          <艶杯(えんぱい)の柵>

       

 

「鍵」の連載から谷崎の都合で中断した3ヶ月の間、一度決まった制作意欲

 を維持するべく、棟方は谷崎の歌を板画にしたいと願い出た。

 快諾した谷崎が主に戦後に詠んだ和歌の中から24首を自選。

 これを棟方は1ヶ月ほどで彫り上げた。

 棟方は「刀を使い切ったということでは、「歌々板画柵」が極限のような

 気がする。

  特に三角刀はこの板画24枚で初めて会得したようなものだ」と述べ、

 「わたくしの、板画への大きな道をつけてくれたような」作品であると

 自賛している。

            <花見の柵>

      

 

            <夕涼の柵>

      

 昭和32年 54歳

 鎌倉市津(鎌倉山)にアトリエ「雑華山房」を持つ。

志功は、四季とりどりの富士山や相模湾を望む鎌倉市鎌倉山に、

別荘 兼アトリエ「雑華山房」を構えました。

 国際展での輝かしい受賞などで一躍時の人、となった棟方は

作品の注文や、来客が絶えず多忙を極めていました。

そうした喧騒から離れ、制作のための時間と落ち着いた環境を

確保できる場所がこの雑華山房でした。

 1970年(67歳)頃には制作だけでなく生活の拠点も東京の自宅

からここに移しました。 

   

 

 

 昭和34年 56歳

  この年の1月、初渡米。欧州各地で巡回展。 11月に帰国。

  この項については、前回にアップしています。

 

         次回は 「挿画本」について

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「棟方を追いかけよう~」第7話

2024-04-29 | 日記

 国際派としての棟方の活躍ぶりはご紹介した通りですが

時代を戻して、戦後以降の活躍ぶりを追いかけます。

 

昭和22~23年 44歳の時、小品の板画を多数制作発表している。

 そのうちのひとつ。 <挿頭花(かざし)板晝柵>

   *平安時代、髪や冠にかざした花や枝、造花を「挿頭花」と呼んだ。

    後の「かんざし」に通じる。小さくて可愛いという気持ちでつけたという。 

       

       

 

     

 

 戦後、疎開先、富山県福光町で家を建て住んでいる近くに棟方が愛した

 小川があった。この川には河童が棲むという。志功が描く河童の絵を

 見ながら、村人たちが真顔で敬意を示し棟方は、河童の棲む小川を

 「瞞着川」(だましがわ)と名付け、白昼夢のような物語を記して板画絵巻とした。

 数多くの詩歌や物語を板画にしている棟方だが、自作の随筆を作品にした

 のはこの作品ひとつである。

  現地の名付けられた川

  

       

  

           <瞞着川板晝柵> 全39点のうちの作品

   

 

 昭和24年 46歳 

 岡本かの子作「女人観世音」12枚を発表   

    

            <女人観世>

       

      <表の柵>             <名の柵>

 

 >             

            <仰向妃の柵>

 

  

             <牡丹の柵>

 

   <無碍(むげ)の柵>        <優色(ゆうしき)の柵>

 

岡本かの子著(観音経)に掲載された「女人ぼさつ」の詩に

「ふるいつくほど憑かれた」棟方が、11年の歳月を経て仕上げた作品。

 女性を礼賛してやまない棟方にとって、詩の中の「女人われこそ観世音ぼさつ」

というリフレインが、どれほど画魂に響いたことだろうか。

「文字によって板画が生まれ、文字がこの板画の良さを決定したところまで、

 上がってきているように思います」と述べている。

 

    昭和27年 第2回ルガノ国際版画展で優秀賞を獲得

      「世界のMunakata」への第一歩となった。

 

 昭和28年 50歳

 4月、国画会展に吉井勇の歌31首を版画にした「流離抄板画柵」を出品する。

  吉井勇の最新歌集「流離抄」に題を取る

          

  吉井自ら代表的歌集10冊から年代順に選んだ31首を棟方に託したもので

  棟方は正味1ヶ月で仕上げている。

  日頃仕事の早い棟方としてもこの作品にかけた日数は異例に短く、それに

  反比例して完成度は非常に高い。いかに、吉井の歌に棟方が惹かれたかが

  うかがい知れよう。

   作品は評判を呼び、棟方の名前は全国的に知れ渡るようになった。

               吉井勇の歌

          

   <角屋の柵>            <獅子窟の柵>

    

 

   <孤狼(ころう)の柵>           <屏風の柵>

    

 

  <広鮱(ひろはた)の柵>             <天狗の柵>

    

 

  同じ年に 「雄然する女者達々」を発表

 一切経の主要6経典を6人の女体で表現したもの。当初は女体を横にした

 組み合わせで「大蔵経板画柵」と題して発表したが、昭和30年

 サンパウロ・ビエンナーレには縦にして出品。 現代に改めた。

  湧き上がる女体となだれこむように没する女体とを、丸刀一本で彫り上げ

 非常に力強く、躍動感あふれる構成をなしている。

 棟方は多くの女体像のなかでもとりわけてこの作品を好み、「女者(じょもの)

 という感じを、いっぱいにつもったもの」と述べている。

         <湧然(わくぜん)の柵> 

         <没然(ぼつぜん)の柵>

 

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「棟方を追いかけよう~」第6話

2024-04-28 | 日記

棟方が、日本を飛び出し、海外へ渡ったのは彼が56歳の時

それまでに海外での棟方の作品の評価は受賞のたびに人気を増していた。

 49歳の時、スイス・ルガノで開催された第2回国際版画展に

「女人観世音」を主品し、日本人初の優秀賞を受賞。

     <女人観世音 仰向きの柵>  

   

丁度その年の10月、欧米講演巡行中の柳宗悦が企画した初の海外個展が

ニューヨークのウイラード・ギャラリーで開催される。

52歳 7月

第3回サンパウロ・ビエンナーレに

「二菩薩釈迦十大弟子」「湧然する女者達々」を出品し、版画部門最高賞

を受賞する。

  

 

 53歳 6月

第28回ヴェネチア・ビエンナーレに「二菩薩釈迦十大弟子」「柳緑花紅頌」

等を出品し、国際版画大賞を受賞。

          「柳緑花紅頌」

 

 

こうした実績を持って、彼が初の海外へ旅発ったのが・・・

 56歳、1月、 ロックフェラー財団とジャパンソサエティの招待で

渡米・欧米各地で巡回展。そして滞在中の彼の制作。

    この旅行中の彼を追いかけてみることにしましょう。

昭和34年(1959) 56歳

1月26日に横浜港を出発し、㋁18日にニューヨークに到着。

少年時代、パナマ運河開通(1914)のニュースは強い印象を残した。

船が山を越える様をいつか見てみたい、という長年の夢を叶えた棟方は

300日に及ぶ欧米滞在中最も感動したのがパナマ運河だったと語っている。

 

初めてのアメリカ滞在中、彼はニューヨーク、ボストン、クリーブランド

シカゴ、サンフランシスコの大学で日本美術と板画の講義を行った。

 ニューヨークを拠点にして制作も貪欲に行い、ウイラード画廊で個展を

開催している。

  ニューヨークの朝、書を制作中の棟方。

        筆で何枚も何枚も、素早い速さで揮毫した。(1959)

   

 この渡米に大きく関わったのが、アメリカ屈指の財閥

三代目デイヴィッド・ロックフェラー氏とその夫人。

  

日本には使節団訪日の後、再来日し、その折に柳宗悦を介して日本民藝館

で棟方志功と面会し、夫人は棟方の<鐘渓頌>を購入している。

棟方自身も柳に手紙を出し 「…ロックフェラー様の厚志の程と、先生が

つくしてくださった御恩の程を拝伏してゐます」と述べている。

 棟方がロックフェラー夫婦と知遇を得たことは、その後の彼の人生を左右

したともいえるだろう。

 

 この年の3月25日、フィラデルフィア在住の石版画家、

 アーサー・フローリーに会い、美術学校の版画工房を見学、彼の自宅に

 招かれている。

 フローリーは棟方のためにリトグラフ用ババリアン石灰石七個を用意し

 食後に制作に取り掛かった

 のだが、その夜のうちにすべての作画を終えた棟方の素早さにフローリー

 は驚愕した。

    フィラデルフィア在住のの石版画家・アーサー・フローリーの

   版画工房での制作風景。 石板に作画する棟方。

  

    アーサー・フローリー氏のリトグラフ工房にて

           棟方とフローリー

   

      

      <日月の柵>

    フィラデルフィア滞在中に制作したリトグラフ作品

         棟方自身が美術館に寄贈した。

    

          

           

            フィラデルフィア美術館

 なんとこの美術館には棟方志功の自画像が四点収蔵されている。

 そのうち二点が1959年の最初の渡米時にニューヨークで制作した木版の

 自画像<ハドソン河自画像>がある。

         

 

  米欧滞在中、棟方は夥しい数のスケッチを残し、風景版画を多作

  <摩奈那波門多(マンハッタン)に建立す>の大作も着手

 

 また、かねてより邦訳で愛唱していた

 ウオルト・ホイットマンの詩集「草の葉」を求め、英字を彫り込んだ

 抜粋板画12点を制作した。

      

  

 滞米欧中の作品は実際の景色を板画にしたものが大多数を占める。

 が、自画像板画が目を引く。それまで彼は油絵の自画像を数点残しているが

 板画は、年賀状以来、1点も彫ってない。

 初めて海外に出、改めて自分を見つめ直す機会を得たということであろうか。

 <ニューヨークの自由の女神の柵>

      

 <ホイットマン生家の柵>

  

 <巴里ノートルダム寺院の柵>

  

 <オーヴェールのゴッホ兄弟の柵>

          ゴッホ兄弟の柵.jpg

 棟方がゴッホに憧れて画家を志したのは有名だが、ヨーロッパ旅行での目的のひとつが

 オーヴェール行きであった。妻(チヤ)の眉墨で拓本を取ったゴッホの墓は、深く長く

 棟方の心に留まり、最晩年に自分の墓を設計した時の手本となった。

   <オーヴェールの兄弟の墓の柵>は、その時のスケッチをもとに板画にしたもの。

   実際のゴッホの墓              棟方夫婦の墓

            

 

  

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棟方を追いかけよう~第5話

2024-04-23 | 日記

棟方の周りには、まさに綺羅星のような友人がいた。

そのジャンルは広く、その影響が彼の生涯に多大なる財産となっている。

 彼、「草野心平」もその一人。

 詩人。棟方と同じ東北人、明治36年㋄(福島県、現在のいわき市)出身。

 棟方が明治36年9月の青森県生まれ。

 「わだばゴッホになる」草野の詩から広まる。

 

    

 昭和49年 

  草野は棟方の生涯を讃えた「わだばゴッホになる」という詩を書いた。  

   表題のことばは、正確には棟方自身の言葉ではない…という。

   東北弁の一人称の「我(ワ)」に「だば」という

   「強調を表す青森弁の助詞」を付けたことで、草野は棟方志功という

    人間を一瞬にして浮かび上がらせた。見事な言葉の魔法である。

    詩人の力に敬服するばかりである。】    

                       別冊太陽 製作スタッフ言より引用

    

 

 同い年、東北の出身です。 とても仲良し・・・。

 こんなエピソードが

 一緒にインドに旅した際、右眼失明の草野と、左眼失明の棟方と

 「二人合わせしても一人分だな」と笑い合ったという。

      

 二人の付き合いは長い。

 棟方は宮沢賢治と親交があり、その宮沢の作品の紹介に尽力したのを

 きっかけに知り合ったのではないか…。と。

     

  *棟方は、宮沢賢治の詩「雨にも負けず…」にを手掛けている。

    

  しかし、草野の詩を棟方が作品にするまでには、その後、長い年月

 が経過する。

  はっきり二人の接点が残っているのは、草野の詩集「亜細亜幻想」

見返し画の依頼を受けた。が、この時はかなわなかった。             

 昭和31年に

 草野の連作の詩「富士山」の中から制作。       

 草野はこの作品に対して「棟方が勝手に作った」という。

 詩は一言一句、句読点一つで印象が変わってしまう言葉と文字の

 芸術だ。だから 自分の詩を「板」にすることに一抹の不安が

 あったのではなかろうか…と、草野は語る。

 しかし、棟方は、最大限の配慮を見せて見事に作品と一体化させた。

 

 これを機に、草野の詩をもとに「富獄頌」を制作。     

 翌年、詩画集【富士山】が岩崎芸術社から刊行された。

     

  「富獄頌」

      <表題の柵>

     

 

   <赤富士の柵>

   

 

  <三百の龍よの柵>

 

 

   <門扉の柵>

        

   <大天竜の柵>

 

   <青銅の富士の柵>

 

   <満天に海の柵>

 

   <黒むらさきの柵>

 

   <春の柵>

     

   <黒いさんてんの柵>

  

 

   第4話の中で~

   棟方が、茶席でベートーベンの第九。 を流す ♪♪♪ 

   追加でご紹介します!

   こんな板画もありました。昭和38年 木版 彩色

      <歓喜自板像 ・第九としてもの柵>

夢を喰うといわれる猿の木像を枕に、河井寛次郎、濱田庄司らの壺や茶碗、鎌倉の庭にある

朝鮮型の石灯籠や竜舌蘭、自分の分身ともいうべき板刀、大好きな撫子、桔梗、朝顔、ライラック

の花々などの中に、陶然として横たわったている

      

   

    分厚い眼鏡、板に鼻をこすりつけるような姿勢・・・

       ものすごい勢いで筆を走らせ・・・

          彫刻刀を動かす姿・・・

      時々、意味不明な 大きな声で 吠える? 

           そんな仕事ぶりが 目に浮かびませんか?

   

    こんな 写真もありました。

  

 

   志功さん!  どこから  あなた そんな エネルギーが出てくるの? 

          圧倒! 驚嘆!   敬意を表します・・・

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棟方を追いかけてみよう~第4話

2024-04-21 | 日記

画家というのは、自画像を残したくなるのはどうして?

世界のどの画家でも同じように自画像を残す。

絵を描くということの始まりが「自画像」なのだろうか?

いままで多くの画家についてブログにも掲載してきた。

 揃って、自画像が登場する。

幼少期から、晩年まで。

生涯、数十点もの自画像を描き残す画家もいる。

 以前に紹介した「ゴッホ」もそうだ。

     

やっぱり、志功もゴッホを追いかけたのか?   

     

画法の変化とともに、自分の顔も変わるからなのか?

それとも、その時代に「生きている証」として描くのか。

いつも興味を持って眺めているの自画像なんだが。

棟方志功も同じように感じる。

彼の場合は、紹介したように~彼流の画法

 板画、油絵、倭絵、書入り

自画像にも大いに変化ある作品を残している。

 

 探し出した・・・作品を眺めてみましょう。

とてもユニークで楽しく、ほほえましい!

絶対的芸術作品の「柵」とは違って…ほっとする瞬間です。

   

      彫り、描く…ねぶた調

     

     板に彫る…こんな格好で、の蓑先が見えるの?

         

 

      

          黒を彫る

      

        墨がはみだす

      

       油絵で描くと…?

      

         筆で洒脱な線

      

      

   凄い、凄い !

  海外でも彫り続ける彼・・・

 

  アメリカに行ったとき

      <ハドソン河の自画像>

 

 

  眼鏡越しにぎょろりと眼をむく棟方。強い意志を感じさせる表情。

  志功は、板画による自画像を「自板像」と呼んだが・・・

  50代の半ばまで「自板像」をほとんど残していない。

   この作品以降、海外に出るたびに自板像を描いていく。

 

 棟方に興味を持って調べ始めると・・・

  ほんとうに多彩な方だと感心するばかり。

 

 こんな話も。

 下戸だった志功は、茶を好んだ。 という。

 一日に何回も、仕事の切り替えどきに、少しの甘味と一緒に薄茶を

 一、二服。声を掛ければ、家人が即座に茶をたてる。

  結構、威張ってるなぁ~…「お~い、お茶 」? 今、こんなCMも。

 

昭和11年 民藝運動の同人として迎えられ、初めて京都の河井寛次郎邸に

滞在したときに覚えた習慣である。

河井家に伝わった安来流の茶の湯の流れが棟方家に繋がった。

茶道とは、「五感」(茶碗の温もり、色、香り、味わい、呑みきりの音)

一連の動作がこれである。

       

昭和30年 裏千家の機関誌「淡交」の企画で、棟方邸で「実験茶会」が

開かれた。茶人でない素人が茶の心だけで茶会を開くという試み。

棟方はアトリエを茶室に見立て、

 西村伊作、 草野新平、  檀一雄らを招いて

 画家・陶芸家       詩人         小説家

  

自ら点前座についた 。

          実験茶会点前風景 荻窪自邸画室 

    

 

         「雑華堂胸肩井戸碗々楽游亦極道図」

               木版・彩色

     

 

 棗と茶筅は黒田辰秋の作。 

          

 茶碗は柳宗悦から拝借した大井戸茶碗「山武士(山伏)」

       

亭主がおもむろに茶筅を構えたところで

ベートーベンの第九交響曲「歓喜の歌」が流れるという趣向。

    

棟方一流の演出といえよう。

この後、棟方は、江戸大和遠州流の始祖小堀権十郎政尹旧蔵という

井戸茶碗を入手し、「胸肩井戸」と名付けたこの茶碗を自慢にした。

        

現在は日本民藝館の収蔵になっている。

               (この記事…別冊太陽から引用しています)

 

  まぁ、才能の独り占め・・・・天は、二物を与えず ?

    志功さんは いくつ与えられたのかねぇ~

    いや、いや 少し 不公平感出て参りました。

 

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棟方を追いかけてみよう~第3話

2024-04-20 | 日記

棟方志功の業績の数々を追いかけていますが…

 気がついたこと。

なんと多彩な人なのか。 

あれもこれも、手がけながらどれも一流

棟方志功の作品を大きく分けてみると…4種類だ。

1.板画

 志功は自分の版画「板画」といい、板の命を大切にすると

 いう想いから板(いた)という字を使った。

 幅26mに達する世界最大の作品から縦横約6㎝の小さな作品まで

 創っています。

          <門世の柵>

 

 

 ◆棟方志功の作品のタイトルに「柵」というのが付いている。

  最初は、これ何に・・・意味は?

  志功が考える「柵」は、たくさんのお寺を巡り、願いをかけて歩く

 「お遍路さん」が、ひとつひとつのお寺に願いを込めて収めていく

  <お札>があります。

 そのお札のように、志功は作品の創作に当たって願いを込めて

 「人生の道しるべとして、柵を打つように」という意味から

 板画作品の題名の最後に「柵」という文字を付けた。と言う。

 

 2.倭画 

  板画のような彫刻刀ではなく、筆に日本画用の絵の具をつけて

  描いた作品です。板画でもそうですが、棟方さんが使う色は、

  どこかで見たことがありませんか?

  そうです。志功さんが大好きなねぶたの色づかいに似ていますね。

         <青森ねぶた柵>

 

 

3.油絵

  棟方志功は画家を目指すきっかけとなったのが油絵。

   ほら、例のゴッホの「ひまわり」の絵。

  板画家として成功してからも、自由に楽しみながら描き

  続けました。

           <薔薇>

     

 4.書

小さい頃から字が上手だった志功が書く文字は、白い紙に

  黒い墨が飛び散って、元気いっぱいです。

 芸術の書は「キレイな形にこだわるのではなく、心の中から

 飛び出すような気持で書かなければいけない」と棟方さんは

 言っています。

          <乾坤>

         

 

倭画にこんな作品が

        <御二河白道之図>

昭和26年 高岡市の飛鳥山善興寺住職・飛鳥寛栗の依頼により描いた

富山時代の最後の作品。「二河白道」は浄土宗の重要な逸話。

底知れぬ水(善意)と燃える火(怒り)に阻まれ立ちすくんだ時、釈迦に

示された道の先に阿弥陀仏の声を聞く。煩悩を振り払い一心に進めば彼岸

に達する意。

棟方は「白道」を墨で一気に描き下し、逆に一般的には黒衣で表される

旅人の姿を白衣で表した。

説話の本質を棟方なりに熟慮し捉えた渾身の作品。

 

 

大原の話の続きに~ 

時代は進みますが…昭和38年と43年に「乾」「坤」合わせて横幅27m

いう世界最大級の版画となった「大世界の柵」を作らしめたのも大原だった

倉敷国際ホテルの壁面に、木版画による作品

  向かって右半面には「栄航の柵」、左半面には「慈航の柵」という副題

が付けられている。上下2段の板壁画として現在もホテルロビー壁面におさめ

られている。約60cm角の板木72枚を、鎌倉のアトリエの芝生に並べ、板木

に直接絵付けをした。

 大世界の柵・乾 <人類より神々へ> 昭和38年 

 大世界の柵・坤 <神々より人類へ> 昭和44年

 大阪万国博覧会の日本民藝館に出品した。

 38年 板の「乾坤頌」を「大世界の柵・乾 <人類より神々へ>と改題。

乾坤合わせて2図を完成させた。

 「森羅万象をいままでの仕事いっさいをこめて表現した」と棟方は語る。

 

 昭和39年の東京オリンピックは日本の景色を変えた。

 東海道新幹線が開通、高速道路も続々とつながり、高層ビルやホテルも

 急増。倉敷国際ホテルもその一つで、翌年の開業に向け大原総一郎の

 肝いりで、棟方はその制作依頼を受けた。

     倉敷国際ホテルの開業竣工式での大原総一郎    

         

          

       玄関ホールの「乾坤ー人類より神々へ」

     

            3階から眺めた作品

  

            一面に展示した作品

 

        大原総一郎と棟方志功、魂の交わりが 大作を生む。

 

 

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棟方を追いかけてみるよ~ 第2話

2024-04-18 | 日記

この棟方志功の板画について続けていますが、皆さん

 倉敷の「大原美術館」はご存じですよね。

 

その大原家と棟方志功との関係を少し覗いてみましょう。

      

倉敷市の歴史は大原家と共にある。と言っても過言ではない。

元々大地主だった大原家だが、七代目大原孫三郎氏の代で現在の倉敷

の姿が整った。倉敷紡績が発展のためにと考えた結果が、病院、学校

銀行などなど様々な形で町の繁栄を促していった。

日本最初の私立美術館であり西洋美術館でもある大原美術館が開館

したのが昭和5年。

その孫三郎を父とする大原総一郎は棟方志功と深い関係にあったのです。

      

 昭和11年に東京・駒場の「日本民藝館」が開館できたのも

 孫三郎からの寄付あってのことだった。

 その半年前、民藝運動の一番若い同人として無明け入れられたのが

 棟方であった。

 開館記念展で大広間の壁画を飾った棟方の「華厳譜」の中の数点を

 柳宗悦イギリスのバーナード・リーチに送り、ロンドンの画廊に

     

 展示したそれを外遊中の大原総一郎が認めていたという数奇な経緯

 があるのです。

 

少し遡りますが、昭和13年、

欧州各国の繊維工場視察の旅から帰った総一郎の基調を祝う園遊会で

棟方は初めて総一郎とまみえた。

 その前日、孫三郎の計らいで、棟方は茶席に招かれた。

「息子が棟方さんのことを大好きで、なにか書いてもらいたい

  と言っています。初めに襖絵を描いてくれませんか」

「僕の部屋全体に描いてほしい」と言った総一郎は

「思想の燦然とした若い意欲が、その人の身体に光っているような」

青年だったと棟方は回顧する。

         襖絵「御群鯉図」

      

この時の依頼で昭和14年暮れ、大原邸の襖に絵を描くこと許された最初の

画家となった棟方だったが、以来、毎年のように倉敷を訪ね、大原家に

質量ともに豊かな作品を残している。

 

        大原総一郎の想いを形にする志功

   「御群鯉図」 昭和15年頃 墨画淡彩 襖15面 

   父・孫三郎の秘書夫婦が墨を磨るための水を汲みに行っている間に、

    棟方が一気に描き上げたという伝説が残っている。

    どうです、今にも襖から飛び出してきそうだ・・・・

     

  

  

  

 

 昭和25年 大原は富山市東岩瀬に新工場を開設した。

 社運をかけての大事業であった。この時大原は「新製品ビニロン開発に社運

 を賭けるこの気持ちを作品にしてほしい」と、棟方に作品制作を依頼した。

 ベートーベンの「運命」に主題を取り、ニーチェ著「ツァラトゥストラ」

 全文を入れた四図の組み合わせである。

 棟方自身、「運命」を賭ける思いで制作にあたり、板に直接、下絵も描かず

 に彫り上げたと言われている。

 

       

  一部拡大

    「集めたる蜜蜂のごとし ・・・

         斯くしてツァラトゥストラの没落は始まりぬ」

  

 

 大原は棟方の本質を鋭く見極め、時には厳しい言葉で浮ついた棟方を戒めた。

 棟方は棟方で、大原が求める精神性の高い課題によく応えた。

 両人の関係は単なる支援者と画家という枠を大きく超え、互いを高め合う

 奥深いものであった。

            

  

 

  「玉 琢かざれば器を成さず 人 学ばざれば 道をしらず」

                    (昭和19年 倉紡記念館 墨書彩色・襖4面)

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棟方を追いかけてみるよ~

2024-04-17 | 日記

15話まで続いた「板画に咲く」から離れて、戦後の棟方の活躍と

 残された名作の数々を追いかけてみたくなった。

 読者の皆さんも、もうしばらくお付き合いお願いいたします。

 2023年発刊 「別冊太陽」掲載の中から「写真」、「文章」を一部 抜粋引用しております。

昭和20年

 ㋄、富山県西栃波郡石黒村法林寺に疎開

       光徳寺の分家の家を借用することになった。

   棟方はその家を「躅飛閣雑華堂」(ちょくひかくざっつけどう)

   名付けている。

   

「雑華堂」は棟方の堂号である。富山県と石川県の県境にそそりたつ 

医王山を背景にした里山で、金沢へと続く「殿様街道」と呼ばれた古道

は、その近くに石堂のあるあたりはお気に入りの散歩コースだったという。  

㋄25日 東京大空襲で代々木山谷の住居を焼失し、ほとんどの板木が

灰燼に帰した。

 

昭和21年

この年の暮れ棟方は町はずれの田圃の中に家を建てた。

生まれて初めて持つ自邸である。

 棟方は土地を「愛染苑」(あいぜんえん)、

 住まいの画室を「鯉雨画斎」(りうがさい)と名付けた。(アトリエ)

  

   アトリエで揃った家族と友人

  

    

        アトリエとして使っていた八畳間。 

 板戸には滝を登る鯉や鯰、亀まどが描かれている。

 床の間には、柳宗悦による「ドコトテ 御手ノ真中ナル」の軸が掛けられている。

 

 囲炉裏のある居間。 疎開時は大切に持参されたみちのく民藝の大霰釜

 かけられている。

 棟方は家族六人でここに六年余り生活した。

 文化芸術関係者が多く訪れ、囲炉裏のある部屋で夜通し語り合った。

   

 

 トイレの壁に観音菩薩を描くことは棟方の習慣だったが、

 「鯉雨画斎」でも最初に筆を揮ったのは「厠観音」だった。

   

  今も残る画斎の厠観音は訪れる人の目を楽しませてくれる。

 

 戦後第一作の<鐘渓頌>

京都五条にある陶芸家・河井寛次郎氏の「鐘渓窯」の名をかりて

師恩に対する感謝の念を込めた戦後初の作品。

        

 「鐘渓」とは河井のことで、棟方は河井に対して「鐘渓之神」

 の大書を贈った。(昭和29年)

 また、河井寛次郎自らの設計により建てられた自宅と陶房。

 登り窯は河井亡き後の7年後に遺族の手により一般公開されている。

 記念館が落成した際に、記念館の揮毫が棟方志功

  

    生涯に出会える人はほんの一握りである。

    同じ時代に生まれ、しかも出会うことのできた奇跡ー。

    今も二人は泉下で喜びあっているに違いない。

               (河井寛次郎記念館学芸員)の言葉

 棟方志功における師というと、まずはその作品に対しての美的、

仏教的指導を与えた柳宗悦であることは誰もが認めるとこであるが、

ものづくりとしての作家の在り方、心情、そして共感、喜びを

同一線上で共有できたのは、この河井だったのかもしれない。

 

棟方はその河井に対し、戦後すぐ、

 つまり富山県福光に疎開してすぐに、二十四柵からなる

「鐘渓頌」と題した河井を讃える板画作品を残している。

 

現実汚濁の此岸から中岸を経て、理想郷の彼岸に達する道程を

24の像で表した。「白地模様に黒い身体」

「黒地、または黒っぽい地模様に白地模様の身体」という規則的な

構成だが、一点一点それぞれに独自の世界を持っている。

黒の地に人体の輪郭、顔、乳、臍などを白い線で彫り込む表現は

この作品から始まった。

  <倭桜(やまとざくら)

    

  <此岸(しがん)

    

    <若栗(わかくり)

    

    <朝菊(あさきく)

    

 

   この年の10月 この<鐘渓頌>の作品で日展岡田賞受賞

 

 

 

 

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「板上に咲く」第15話

2024-04-07 | 日記

無骨な手が肩先に降れるのを感じた。

チヤはぴくりと身体を震わせた。

「・・・チヤ子 ありがとう。よぉく帰ってきてくれた」」

チヤは、そっと顔を上げた。

「ったく、わかんねのか? 

 ワぁの命にも等しいもんは板木では、ね。・・・おメだ」

 

 ようやく、チヤは気がついた。

 自分はひまわりだ。

 棟方という太陽を、どこまでも追いかけてゆくひまわりなのだ。

 棟方が板上に咲かせた花々は数限りない。

 その中で、もっとも力強く、美しく、生き生きと咲いた大輪の花。

 それこそが、チヤであった。

    

   

    終章 1987年 (昭和62年) 10月 東京 杉並

       

ここから、本編の主人公 

     棟方チヤさんの回想部分の話に入っていきます。

                 

  あの人は、多くの熱心な支援者に恵まれた、運の強い人でした。

 でも、運がよかっただけじゃない。決めたことを成し遂げるまで

 決してあきらめない不屈の精神、人一倍の努力を重ねたからこそ、

 運気を呼び寄せたんじゃないかと思います。

 

私たち夫婦の人生を振り返ってみると、いくたびも、

「あのとき、もしも…」と思わずにはいられないことがありました。

出会ったあの日、もしも私がイトちゃんの家に行っていなかったら。(第2話)

再会した日、もしもお互いに弘前のデパートに居合わせなかったら。(第4話)

国画会の展示場で、もしも柳先生と濱田先生が偶然廊下を通りかからなかったら。(第9話)

戦時中、もしも疎開先を富山ではなく青森にしていたら。(14話)

大空襲の前日、こしも<釈迦十大弟子>の板木の梱包材として

送り出していなかったら。(第14話)

もしも、もう一日だけと粘って、あの夜、私がひとりで代々木の家に

残っていたら。(第14話)

 もしも・・・そう、もしもあの人がゴッホと出会ったいなかったら。(第5話)

すべての「もしも」の分かれ道にあの人

最善の道を選んでいた。そういうふうにできていた。

と思われてなりません。

 

悲しい運命に終わった「もしも」もあります。

我が家の聖画だったゴッホの<ひまわり>。

空襲に燃え尽きた板木とともに、あの複製画も灰になってしまった。

 ・・・もしもあの戦争が起こらなっかったら。

 

大空襲の前日に、梱包して送った「家財道具」<釈迦十大弟子>の板木。

あの大混乱の中で、奇跡的に届いたんです。

 命拾いした大切な板木。無駄にするわけにはいかないと、棟方は

二菩薩を彫り直して、再び六枚の板木を揃えました。

あるとき、思いがけないチャンスが舞い込みました。

ブラジルのサンパウロで開催される国際美術展、サンパウロ・ビエンナーレに

棟方の板画作品が出品されることに、新作の他、<二菩薩釈迦十大弟子>を選び

改めて摺り直し、躍動する造形が海を越えて人々の心をつかみました。

 棟方が版画部門で最優秀賞を受賞したんです。

 こおれにはあの人も私も驚きました。

 柳先生も濱田先生も河井先生も、棟方がやってのけた。

 とそれは喜んでくださって。

    

 翌年のヴェネチア・ビエンナーレにも同様に新作と<二菩薩釈迦十大弟子>が

送り込まれました。そして棟方にもたらされたのが、ヴェネチア・ビエンナーレ

のグランプリ、国際版画大賞だったのです。

   日本のゴッホになる、とあの人は最初、言いました。

だけど結局、あの人は、ゴッホにはならなかった。

ゴッホを超えて、とうとう、世界の「ムナカタ」になったんです。

 

         

最後に、とっておきの話をお聞かせしましょう。

 

 世界的に「ムナカタ」の名前が知られるようになったあと、私たちは世界中の

あちこちからお招きを受けて、ありがたく出かけてゆきました。

アメリカ各地、ヨーロッパ諸国、インドも訪問しました。

 

 中でも忘れられないのが、フランス。

 棟方たっての希望で、ゴッホが人生の最後に暮らしたという小さな村、

 オーヴェル=シュル=オワーズを訪ねました。

 村はずれに共同墓地があります。

 そこにゴッホと弟のテオのお墓があり、兄弟が仲良く並んで眠っています。

  

   棟方が板画にした「ゴッホ兄弟の墓の柵」

  

  

 ニューヨークフィラデルフィアの美術館で、棟方はついにゴッホの

 「本物」の絵を見ることができました。

   

   ニューヨーク(メトロポリタン美術館)

    <2本切ったひまわり>     <ゴッホ自画像>

      

  フィラデルフィア美術館 <ひまわり>

     

 「白樺」の1ページに初めて<ひまわり>を見た日から40余年が経って

  いました。

 

  ちょうどブログをアップし始めた先月に

「  雑誌「芸術新潮」4月号が発売され

     

   ゴッホ、ゴーギャン、セザンヌ

    原田マハ のポスト印象派物語 」を読んでいました。

  奇しくも・・・この中に

  原田マハさん  この「板画に咲く」に合わせて?

  ゴッホ ゆかりの 「オーヴェル・シュル・オワーズ」を

  訪ね、ゴッホ兄弟の墓地に・・・

    なんと計算された・・・と。

  それが この写真。

  =  原田マハ ゴッホ兄弟に墓の前で =

     

 

  ・・・・あの人は

  ゴッホ兄弟のお墓に向かって深々と頭を下げました。

  そしてこう言ったんです。

  お許しください、ゴッホ先生。

   ワんどの墓、そっくりに造らせていただきます。

 

     まったく、あの人ときたら。

 

   

「わだばゴッホになる」という棟方の言葉

 愛するゴッホの墓と同じ形をした棟方と奥様チヤさんの墓

   左が棟方とチヤさんのお墓

   右は棟方家の墓

 

 

 チヨさん「ずいぶん長い話になってしまいましたわね。

          ありがとうございます。」

 

 

  これで 「原田マハ (板画に咲く)1~15話 

   変?編集 私のブログも 15話で終わりたいのですが・・・

  原田マハさんの小説から離れ、少し時間を戴いた後

  戦後の活躍作品についてと、

  まだ紹介していなかった「手紙」などを と思ってます。

    「ムナカタ志向美術館」とでも題しましょうか?

 私のブログも ながながとお付き合いいただき

         ありがとうございました。

      それでは また よろしく (^_-)-☆

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「板上に咲く」第14話

2024-04-06 | 日記

1944年(昭和19年) 東京・代々木 

    ~1945年(昭和20年) 富山・福光

 

 チヤが洗濯物を干している。

広々と手入れの行き届いた庭である。

  鯉が泳ぐ池・・・趣味のいい景色を作っている。

  

 家の中からはピアノの調べが聞こえてくる。

  なかなかなメロディーを奏でている。

    長女の「けよう」が弾いているのだ。   

 

 チヤは…ふと、気がついた。

 いま、自分が見ているのは、「名ばかりの夫婦」になったあの頃、

 夢に描いた光景ではないだろうか・・・・。

 棟方一家六人が暮らす家。そのお邸宅は、あの頃夢見た

 「いつか一緒に暮らす家」そのものだった。

    ~いや、それ以上だった。 

       

  かって水谷良一が住んでいた家である。

 棟方によかったら自分の旧宅を貸そうかと申し出てくれた。

   ようやく夢のひとつがかなった。

 

  気がつけば、ごく自然に「棟方画伯」「棟方先生」

 呼び習わされるようになっていた。

  弱視の版画家。顔を板すれすれにこすりつけ、這いつくばって、

   全身で板にぶつかっていく。

  見る者をおのれの世界へ引きずり込む強烈な磁力の持ち主。

  版画家の可能性をどこまでも広げる驚異の画家。

   ゴッホに憧れ、ゴッホを追いかけて、棟可志功はゴッホの

  向こう側を目指し始めていた。

  何人たりとも到達しえなかった高みへと。

  そしていま、満ち足りた創作を続ける日々をおくっている。

 

  この幸せが、どうかいつまでも続きますように。

 

1941年(昭和16年) 12月8日、

  日本によるハワイ・真珠湾攻撃で太平洋戦争が始まった。

 

 若者たちが次々に出世し、その都度万歳三唱の声が街角で上がった。

 棟方は出征すする若者たちへ虎を描きつけた褌を贈って励ました。

 

  ようやく手に入れた穏やかな暮らし。 ささやかな幸せ。

 戦争がそれをやがて奪い去る気がしてならなかった。

 

戦争が始まって3年目のある日。

配給の列の並んだチヤは、近隣に住むふたりの夫人が声をかけてきた。

   「ね、奥さん。人から聞いた話だけど、

    藤田嗣治先生は、戦地に派遣されて、兵隊さんたちが立派に戦う

    絵をお描きになったとか。お宅の先生はどうなの?」 ・・・・。

         

 

   チヤは言葉を濁し・・・その日配給だった品を籠に入れ家路に~。

  どこの家だろう、戦況を伝えるラジオの音声が漏れ聞こえてくる。

 

 生涯の代表作となる「二菩薩釈迦十大弟子」を完成させた棟方は、白と黒で画面

構成をなす「版画」というものに対する考えをさらに深めていく。

 一枚の版木から何枚もの」作品が生まれていくこと、たくさんの作品が連なって

一つの作品を構成できること、版木を並べていけば大きな画面も作れること。

すべてが「広がり」「繋がり」であること。

 そんなことを考える時期でもあった。

 

 1945年(昭和20年)が明けた。

 日本の戦況はいよいよ怪しくなってきた。

 

 棟方はこの状態から一刻も早く家族を脱出させることを考え

 続けているようだった。

 空襲警報が鳴りやまない夜、壕の中で棟方がぼそりと言った。

 「もう疎開するしか、ね」  チヤに言った。

 「すたばって、どこへ? 青森に帰るの!」

 「青森には、帰れね。故郷に錦を飾るならまだしも・・・

  東京から逃げてきた、なんつのは・・・

     そった恥さらしなことは。できね」

  「へば、どこへ?」 

 一拍おいて、棟方が答えた。

  「富山だ」

 

   「疎開を決めたこと 高坂住職への手紙」

    「無事お恩をうけてかえりました。さっそくに法林寺ソカイ決めました。

      何卒のおかばいをねがひます。御奥様にもくれぐれもよろしく。

      くわしく次便にて描きます。いただきも家中外大よろこびです。

  

 

4月、棟方一家は福光への疎開を決行した。

富山県南西部に位置する西砺波郡福光町(現・南砺市) 

          

 町の西、石黒村法林寺の真宗大谷派寺院光徳寺

     

 

 住職高坂貫昭とは昭和15年以来河井寛次郎に紹介されてた縁で、

 以来毎年のように光徳寺を訪ね、訪ねるごとに筆を揮った

  襖いっぱいに枝を広げる松の木の大木を描き、住職をはじめ

 見物に来ていた近隣の住人たちの度肝を抜いた。

  

  <華厳松>と題されたこの襖絵は瞬く間に地域の名物になり、

 珍しいもの見たさに訪れる人が弾きも切らなかった。

    「 昭和19年(1944)六面 倭画 襖 光徳寺

       疎開に先駆けて光徳寺の依頼を受けて制作された。当初は建具として使用されていた。」

         *「倭画」=棟方は、自分が描く絵を「倭画」と呼ぶことにした。

 

 

  疎開を勧める高坂の熱意が棟方の心を促した。 

  故郷青森にも似た自然の姿、知己の多さ、交通の便、木材の産地・・・

  いくつもの要素が相まって、棟方は福光を疎開先と決めた。

 

    高坂貫昭(1904~1992)富山県

  真宗大谷派「光徳寺」住職 文学青年で「白樺」を愛読していた

   貫昭氏は柳宗悦の文章に感銘を受け民芸運動に関わっていく。

   棟方とも交流がある。

  お寺には蓮如上人の真筆など寺宝も豊富な真言寺院ですが全国的に

  その名を知られているのは、棟方の作品を多く展示していることに

  よります。

 

 

 まずはチヤが子供たちを連れて先に疎開先へ行き、棟方は家財道具を

 送り出したのちに遅れて富山入りすることにした。

 チヤの福光行きが困難を極めることは目に見えていた。

 

  棟方一家の写真 (昭和21年正月) 戦後の写真

   

    写真前列 長男 巴里爾(10歳) 志功(42歳)次男令明

         後列 長女けよう(12歳) 次女ちゑ(8歳)妻チヤ(36歳)

     

 まず「けよう」と幼い「令明」を連れて出発し、伊豆湯ヶ島に立ち寄り

 学童疎開中の「巴里爾」「ちよ」を引き取り、子供4人を連れて、福光

 へと移動する。

      

  当時の列車の混雑ぶりは想像を絶するほど、また幾度もの乗り換え

 夫がいてくれたら助かる・・・と・・・チヤはこらえた。

 

  棟方には「必要不可欠な家財道具」をまとめて無事に送り出して

 もらわねばならない。

  ***それはすなわち板木であった。

     板画家・棟方志功の命にも等しい大切な板木を残していく

     わけにはいかないのだ。

 

 福光行きは苦行としか思われぬ行程であった。

 何時間も駅で待ち、満員の車内に窓から乗り込み・・・

 どうにかこうにか福光にたどり着いた。

 

 棟方が用意していた坂の上の古民家に落ち着き

 近隣へあいさつ回って…チヤはようやくひと息ついた。

       *******

 そこへ棟方が意気揚々とやってきた。

 「や、みんな無事だったか? えがった、えがった。」

 

 最低限これだけは自分で持ってきた、という棟方の荷物を

 解いてみて、チヤは愕然とした。

 板木だとばかり思っていたそれは、なんと濱田庄司の大皿

 河井寛次郎の壺だった。

     

  数日後に到着した東京からの荷物の中身も同様で、

 棟方秘蔵の先生方の陶器や柳宗悦から贈られた書籍だった。

 

 棟方は一点一点確認して、

 「おお、この皿、無事だったな。全部無傷だ。うん うん」

 チヤは、我に返って「…板木は? 板木は送らねがったの?」

 

               二人は押し問答を繰り返す。

 

 「おメさの大事なもの…命にも等しいものでねが?」チヤ

  棟方「戦争が終われば代々木の家に帰るんだ。

           それまで置いといても」

  チヤ「違う!~ 私らはここに疎開したんだよ?

   東京で空襲があったら、あの家も丸ごと焼かれてしまうかも

   戻れる保証もない、板木だって無事である保証はない」

 

  棟方は黙りこくってしまった。

  「私、東京へ行ってくる」

   チヤは立ち上がると、きっぱり言った。

  「板木、送る手配してくる。

     子供たちのこと、頼みます」

 

 チヤは大混雑する上野駅の荷物運搬所に来ていた。

「板木を見て、係員は生活必需品でない・・・の理由で

 送れないと…何度懇願してもダメだった。

 自宅に帰り着いて、棟方からの手紙がどっさり届いていた。

「帰って来い、早く帰って来い、子供たちの世話が大変だ。」

  と・・・。

 夫の様子が手に取るようにわかる。

  チヤはくすくす笑いが止まらなくなってしまった。

 

 部屋の壁に、いちめん墨が敷かれた真っ黒な縦長の板木

 …<二菩薩釈迦十大弟子>の板木がかけられていた…

 チヤはひらめいた。

    

     (この板木、よ~く見てくださいよ。

        十大弟子を彫っているのですよ…分かる?)

 板木をチェアーの周りに縄でくくり、布で梱包して

 「家財道具」として送り出す。 というアイデア~。

 

 駅の係員が「椅子」ね。

    富山県、福光まで… ハンコをポンと捺した。

 

 帰らなければ、一刻も早く。上野駅で何時間も待った。

 どうにか座席を確保できた。

 うつらうつら・・・どのくらいの時間

   汽車は走っていたのだろうか。

 突然、ガタンと大きく揺れて、チヤは目を覚ました。

 車内がざわつき始めた。

 人並かきわけ、車掌がやって来た。

 しゃがれ声で彼は叫んだ。

 「通告! 東京で今までにない規模の大空襲があった模様!

  敵機が関東上空を通過するまで停車します!」

   

     「 大空襲 ! 」

 

  チヤの向かいの男性があわてて窓を開けた。

   冷たい夜気と蒸気の臭いがどっと流れ込む。

  彼方の空が夜明けのように明るんでいる。

 

  

     ・・・燃えている。 東京の街が。

 

 ああ、ああ・・・ああ! 

   代々木の家。 板木の数々。

    めらめらと<ひまわり>の複製画…。

       

 

 駅から続くまっすぐな道。

  チヤは絶望に足を引きずりながら歩いていた。

  走り寄るひとりの男がいた。棟方だった。

  「…チヤか?」

  「はい。 ただいま戻りました」

  「そうか、帰って来たか。そうか、そうか。

    よぉく帰って来てくれた…」

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続 黄昏どきを愉しむ

 傘寿を超すと「人生の壁」を超えた。  でも、脳も体もまだいけそう~  もう少し、世間の仲間から抜け出すのを待とう。  指先の運動と、脳の体操のために「ブログ」が友となってエネルギの補給としたい。