5月26日(日)
「かんだ郷土歴史研究会」今月の例会はバス研修
役場前を8:45スタート。直ぐに高速に~
関門海峡の眺めはスケールも大。
九州と本州を渡す「関門大橋」もまじかに迫る~
1時間弱で最初の目的地、いや、今回のメーン
「下関市立考古博物館」へ到着

玄関正面は採光良く大きな窓枠…
目の前に古代弥生人の模型による「貯蔵用竪穴」での作業の様子と
その貯蔵穴を掘って調査をしている現代人の作業が展示されている。
学芸員の館内説明が始まる。約30分 丁寧な解説を頂いた。
およそ2100年前 弥生人たちが収穫した食べ物を貯蔵穴(蔵)に
貯えている様子。
窓越しに見えるのが 弥生人たちが住んでいた竪穴式住居。
「綾羅木郷遺跡」での弥生人の暮らし・・・

展示室へはタイムトンネルを抜けていきます~現代から過去へ~
室内は洒落ています…音楽が流れている? 弥生時代の「土笛」の音色が。
そして波の音まで~♪♪♪~
遺跡で発見されたものを復元して演奏しているそうです。
その先には 常設展示室が 古墳時代から弥生時代へと展示され…
古墳時代の様子
20分の1の大きさ

横には古墳時代に使われた「器」
中には朝鮮半島から伝えられた灰色の「須恵器」や弥生時代の土器と同じ方法で作られた
「土師器」(はじき)も並んでいた。

さらに進み レプリカですが 出土品の展示が~


弥生時代は、2300年~1700年前 大陸から米を作る技術が伝えられ全国に広まる。
(綾羅木遺跡出土)




たくさんの土器には 日常生活に使われていた「道具」も…
石で作った「包丁」 鉄の斧や クジラの骨で作った針など。
「石包丁」

こんなユーモアなものも。
人の顔を形どった土の人形
顔の頬には線が刻まれています。 これ「イレズミ」
当時の人がイレズミをしていたことがわかりますね。

入口には こんな楽しみも…
これ 麻製?

しばらくの間、弥生人たちの生活の中の声が聴こえてきました~
はるかな時を過ぎ…綾羅木の村がよみがえった~
考古館を出ると…一挙に現代に戻り~太陽は高く、その日照りは強い。
冷房の効いたバスへ急ぐ~。
御殿の麓からの坂道を昇ること10分以上…
坂は、徐々に勾配が変わって、昼前の日差しがきつい~
城址の手前の公園の日陰に集まり 昼食を摂った。
珍しく外での弁当・お茶付きだった…
気温は上昇しているが、風があったのが幸いだった。
時代は幕末から明治の初めの激動の跡に・・・
砲撃戦に対抗するために造られた御殿 「勝山御殿」へ足を。
今回同行の苅田町在住の歴史研究家である小野剛史から「勝山御殿」の
あらましの解説を受け、その後、城址へ。
城のデータから
「幕末1864年(元治1)に築かれた勝山御殿は、御殿の名がついている
が、外国艦隊の艦砲射撃を避けるために防御面に主眼がおかれ、海から
約4㎞離れた勝山城などの中世山城の麓に築かれた。
三の丸。二の丸・本丸と階段状の3段構造をもち、砲撃の衝撃を少なく
するため石垣の上部に土塁が築造されていた。
明治の廃藩置県により廃城となり、今は石垣のみが残されている。」
この御殿、わずか7ヵ月ほどのスピードで完成! 工事には毎日領民数百人が奉仕
長府藩内の人々が動員された。以降、ここを本拠として英・米・仏・蘭四国連合艦隊と抗戦。
この戦いに御殿は大いに貢献した。
しかし、時局は大きく変わり時代の波にのまれ~明治へと。
明治4年には廃藩置県が実施され、御殿は廃城、解体となる。
その際の一部(表門)が、高杉晋作が立てこもった寺として知られる「了圓寺」の三門に。
「了圓寺 山門」

さぁ、下りが大変~ 陽も高く、ますます温度も上がる。
セブンイレブンで冷たい飲み物の補給だ。
バスは市内に戻り~「長府庭園」へ。
この庭園は長府毛利藩の家老格であった西運長の屋敷跡で、
小高い山を背にした広大な敷地には、池を配し、書院・茶室・あずまや
が残され、静かなたたずまいの庭園です。

庭園を出て 海岸線を走り、真っ赤な門が目に飛び込んでくる。
「赤間神宮」の水天門です。
ご存知のように ここは 源平壇之浦の合戦に敗れ、わずか8歳で関門海峡に入水された
平清盛の孫、安徳天皇を祀っています。
壇ノ浦を望む水天門は鮮やかな竜宮造り。 国の登録有形文化財に指定されています。
境内には、小泉八雲の怪談で有名な「耳なし芳一」の芳一堂や、宝物殿なども。


今日も大勢の参拝客が続いています~ 本殿へ向かいましょう~

その手前に 可愛い姿の 「狛犬」?
これは左右一対に配置されて、中国台連の花崗岩を現地で
彫り上げて「大連神社全国氏子有志」の手によって運び奉納されたもの。
右が父親、左が母親で 母親の口の中に玉が入っています。
この玉は、石彫りの過程で仕上げており、後で入れたものではありませんと。
早速、口の中に手を入れ・・・・丸い玉を転がしてみました。
何かご利益につながるかしら?? 賽銭、少なかったからなぁ~無理かも。
すぐ隣が かの有名な「春帆楼」です。
看板のすぐ傍には、この記念碑も。

そして すぐ目の前には 「日清講和記念館」が。

開館の歴史は古く昭和12年 この春帆楼の隣接地に。
明治28年春に当地で行われた日清講和会議と、下関条約と呼ばれる講和条約
の歴史的意義を後世に伝えるため。
当時の平和会議の様子を再現した部屋。と 当時の様子の写真
写真中央(左から4人目)日本国 伊藤博文・3番目陸奥宗光全権大臣
右側下が 清国 李鴻章全権大臣

記念の軸も
「李鴻章」 「伊藤博文」

今日の研修会は「古代」を感じ… 源平の世の華やかさと哀れ。
徳川のあの関ヶ原以降、長州と言う国のありかた。
そして爆発した日本の夜明の維新前後の長州
対岸の小笠原藩との因縁…
そして日清、日露、そして 今次対戦へと進む我が国の流れを
この地域の壮大なドラマを一挙に垣間見た1日でした。
歴史って、ほんとうに面白いね~。
帰りに、晩酌のお供? 「ふぐ刺」奮発してお土産に…