一歩踏み込んで、ふたりはあっと驚いた。
なんとそこは厨房だったのである。
石窯が並び、薪がくべられ、銅の鍋からはもうもうと湯気が上がっている。
料理人たちが野菜を刻んだり、麺を打ったり、忙しく昼食のしたくをしている
真っ最中である。
「こ・・・・ここに レオナルド公の絵があるのだろうか?」
マルコが二人を先へと促した。
「ここから入ってください」
「そのまま、まっすぐ歩いていってください。あの突き当りの壁まで。」
「よろしい。では、そこで振り向いてください。こちらのほうへ。」
マルティノと宗達は、声のした方へ振り向いた。
と同時に、あっと息をのんだ。
・・・・食卓を囲む一群、十三人の聖なる人々。
横長の食卓の中央で、何かを語りかけるように、またすべてを受け入れるように、
両手を広げ、思慮深いまなざしを放つその人。
いとも美しく、またさびしげな表情を浮かべたその人こそは、 イエスキリスト。
救い主の周りに集まっている人々は、キリストに愛されし十二人の弟子たち。
「最後の晩餐」
横910㎝×420㎝
・・・あなたがたのうちのひとりが、私を裏切るのであろう。
十二使徒たちは、信じられない、というように、互いの顔を見合わせ、震えるまなざしを
交わし合う。怒涛のような驚きと不安の嵐が一気に押し寄せる。
(文中より引用)
その衝撃的な場面は、古来、絵師たちが繰り返し描いてきた画題であった。
ふたりも、それまでにイタリア各地で、少なからず目にしてきた。
が、今、二人が見つめている絵は、今まで見たどんな「その場面」の絵とも違っていた。
気高く厳かなイエス、彼を囲む従順で敬虔な使徒たち。彼らの誰にも・・・
そう、救いの主さえも、あるはずのニンブスがない。
*「ニンブス」=キリスト教美術で、キリスト、聖母、天使などの聖性、
栄光の象徴として頭のまわりに描かれる輪。輪光。ニンブス
ジョット <ユダの接吻> 頭の周りに「輪光」が
さて、この文中にも出て来るのですが・・・
「厨房」、(食堂)の壁にこの名画があった。
まずこの絵は、フレスコ画ではなく、テンペラで描かれていること。
ルネッサンス期には、まず漆喰を塗り、それが乾く前に顔料を混ぜ
壁自体をその色にする技法で、これだと永久の保存される。
*テンペラという技法=卵、膠、植物性油などを溶剤として顔料を溶く技法。
重ね塗り、書き直しも容易、何度でも納得のいくまで書き直せる。
しかし、テンペラは、温度や湿度の変化に弱く壁画には向かない。
ましてや、ここは「食堂」湿気や熱あり、10年後にはすでに損傷が始まっていたと。
さらには17世紀には「ナポレオン時代」は馬小屋として使用。
絵の保存環境としては最悪です。
その上、ミラノは2度の大洪水に襲われており壁画全体が水浸しになったことも
第2次世界大戦の空襲で食堂自体が破壊され瓦礫の山となった。
しかし、「最後の晩餐」だけは難を逃れた。絵の3m前で爆残が破裂したという・・・
現在まで残っているのが・・・奇跡ですよ! やっぱり神の加護でしょうかねぇ。
この絵に対しては、古今東西の識者、批評家たちによって絵の解説がされています。
どれも含蓄あって、参考になると思います。
その中で、 画中の「構成」や、人物の「表情」について 分かりやすくこんなのがありました。
まず、12人は それぞれ3人づつ4つのグループ。 左右対称に分かれている。 ですから、キリストが中心。
背景も ご存じの「モナリザ」のように自然を描いている。
↓ ↓
イエスを中心として使徒を横に配置して、一人一人の心理描写が掴める。
彼らの表情をくみ取ってみてください・・・。
と、言っても・・・見る私たちの「感性」によっては「うむ?」て
ダヴィンチの表現力を理解できないかもね。
「ユダ」は、いま、何を思っている?
顔、まなざし、手の動き、身体の動き、その微妙なひとつひとつが~
ある者は身を乗り出し、ある者は全身で驚きを表し、ある者は不安に眉を曇らせる。
その中で、ただひとり、ユダは・・・
マルティノと宗達は、ふたり並んで壁画を見上げた。
およそ百年もの昔、ここに一人の絵師がいた。
その名は、レオナルド・ダ・ヴィンチ
この絵をみつめていればわかる。
その筆には神が宿っていたのだと・・・この絵がこの世に誕生した。
その事実こそは、まさしく神の御業。
はるかな国、日本から、二人の少年がこの絵にまみえるために、
こうしてここにいることもまた、神のお導きなのだ。
胸の前に両手を合わせると、壁画に向かって静かに目を閉じた。
言葉にできないあふれる思いが胸にあたたかく伝わってきた。
・・・神よ。 感謝いたします。 こうして、ここにいる幸運を。
・・・・と、そのとき。
ドアを開けて入ってきたのは、一人の少年であった。
栗色の短髪、鼻梁の通った端正な顔立ち。
イタリア人らしき少年は、白いブラウスに黒いチョッキを身につけていた。
粗末な服装は、彼が修道士でも名士の子息でもないことを物語っている。
さあ、ここから、 またまた 大きな広がりが・・・
ルネサンス期の後半に登場したイタリアの画家
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ。
人物を写真のように描き、明暗をはっきりと分けた表現方法で
バロック絵画にも影響を与えました。
俵屋宗達の残した「風神雷神図屏風」と同じく、500年以上も前に
数々の傑作を生みだした一人なのです。
作者、曰く、この二人 俵屋宗達とカラヴァッジョが世界史的に見て
同じ時代に生きていた。 そのことに注目した。
また、こうも言っている。
天性の才能で描かれた絵画は、どんな時代のどんな人類が見ても傑作に
違いなく、見る人の魂をも震えさせることができる。
宗達にしても、自分の何かを残すために描いているわけではなく、
「天下人に捧げたい」 「神や霊的な存在に近づきたい」という思いを
もっていたかもしれません。
純度の高い魂のきらめきが刻まれた作品は、500年という月日が経っても
風化せず、今見てもブリュットな迫力があります。
と…インタビューの中で・・・
そこで ともに絵を愛し、後世、世の中に多くの傑作を遺していく
二人の出会いを考えたのですよ。
実在の人物であり、本人の履歴は史実として残っていますが・・・
この地で出会うというのは全くのフィクション。
しかし、ふたりの絵に対する高い魂は、同じだろう。
そこで「出会い」という突拍子のない場面を作り、絵師として、また人として
の生きざま、人生の機微を創作してみたかった・・・。 のだろうと。
少年二人の出会いは、わずか一日という短いもの・・・
文中、かなりのページを割いて、出会いの件が出て来ますが、
「真に迫る心の会話のキャッチボール」は割愛します。
最後に二人は・・・絵の交換をして 永遠の別れを・・・
ここは、フィクションでも 本文を 読まなければ・・・
はるかな東の島国、日本で絵師を志す少年、俵屋宗達。
世界の中心たる都、ローマを擁する国、イタリアで絵師を夢見る少年
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ。
本来であれば、決して出会うはずのないふたりが、こうして巡り合い、
誓いを立て合った。
いつの日か、きっと立派な絵師になって、
その名をこの世に残そうではないか。
いまは誰ひとり知る者がいなくとも、いつか、必ず・・・・。
折角なので、カラヴァジョについてご紹介しておきます。
近いうちにあなた近くの美術館で、「カラヴァジョ展」でもあれば
鑑賞する際に少しはお役に立つかもしれません。
「ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ」
イタリア ルネサンス期後半に登場した画家。 1571~1610年
彼の画法は、あたかも映像のように人間の姿を写真的に描く手法と
光と陰の明暗を明確に分ける表現*①は、バロック絵画*②の形成に大きな
影響を与えた。 *①「テネプリズム」
*②劇的な描写方法、豊かで深い色彩、強い明暗法などが特徴
この「光と陰の明暗」の表現を代表する画家はカラヴァジョをはじめ
「レンブランド」 「夜警」
「ベラスケス」 「ラスメニーナス」
「ラトゥール」 「大工の聖ヨセフ」
「フェルメール」 「真珠の耳飾りの少女」
そして 「カラヴァジョ」
◆「聖マタイと召命」
彼の公的な場でのデビュー作、かつ出世作
美術史上ではバロック美術の扉を開いた記念碑的作品
◆「聖マタイの殉教」 彼の代表作
「聖マタイの召命」の体面に配置される本作。
暗中に渦巻く人々の混乱と巨富をほとんど背景を描かずに、人物の配置
のみで空間構成を行っている。
また、聖マタイを襲う刺客の左に横たわれる髭の男性は、画家の自画像
と指摘されている。
サン・ルイジ・ディ・フェランチェージ教会
「聖マタイ」の三部作
「聖マタイと天使」
「ロレートの聖母」
「ゴリアテの頭を持つダヴィデ」
「エジプト逃避行途中の休息」
「ポロフェルネスの首を斬るエディット」
「洗礼者ヨハネ」
彼の初期のもの 「果物籠」 1596年ごろ
また 初期の最大傑作のひとつ
「女占い師(ジプシー女)」
まだまだ 名作はありますが・・・このくらいで~
1585年(天正十三年) 八月八日
八月の太陽が中空高く上がっている。
ジェノヴァの港は目を開けていられないほどまぶしい光に満ち溢れている。
停泊中の船へと、いくつもの大きな箱が運び込まれていく。
百五十日以上にも及ぶイタリアをめぐる旅のあいだに、
使節一行が各国各所で贈られた宝物や珍品、書物の数々、活版印刷機も
運び込まれた。
グレゴリウス十三世の肖像画が納められた箱もある。
帆船は、数日間掛けて地中海を航海し、スペインに到着し
陸路スペインンを横断して、ポルトガルに入国。
そののち再びリスボンから大海原に乗り出して、機構の途につくのである。
長い長い航海になる。
いったい、幾年かかるのだろうか・・・・
なつかしい故郷、長崎の港を出港してから、実に三年もの歳月が過ぎていた。
そして・・・
港で 拍手が沸き起こり ~
マンショ、ミゲル、ジュリアン マルティノ・・・
はるかな水平線を一心に見つめていた。
1586年 4月13日 リスボンを出発 帰路へ。
1587年 5月 ゴア到着 ヴァリニャーノに再会
原マルティーノ上陸し演説を。
1587年 6月 大友宗麟死去
1587年 7月 バテレン追放令発布
1590年 7月21日 長崎に帰国
1591年 3月3日 一行は 聚楽第にて太閤秀吉に帰国報告
豊臣、徳川と続く為政者たちは皆キリスト教を禁止・迫害したため
4人の少年たちがせっかく命がけで日本へ持ち帰った西洋の文化
文明はほとんど活かされることもなく、歴史の闇に葬り去られる
ことになる・・・・。
歴史の中にありえないこと
宗達が彼らと一緒にローマに行った。
宗達がカラヴァジョと出会った。
次回の作品に ぜひ 原田マハさんに 「大フィクション」
「織田信長」が生きていて、帰国後、彼らから報告を得たあと
どんな道を切り開いていくのか~
宗達に それからの屏風絵は
少年たちへの布教に ~ どんな 指示するのか
さらには、日本から 西洋にに向けて何を求めていくのか
壮大なドラマを書き下ろしてもらいたい・・・
「風神雷神」を読み終わって・・・長編の「美術編」ブログを終わります。
その後の少年たちは過酷な運命に翻弄されるのである。
この天正遣欧少年使節団のこと 機会があれば追ってみたい・・・