黄昏どきを愉しむ

傘寿を過ぎた田舎爺さん 「脳」の体操に挑戦中!
まだまだ若くありたいと「老い」を楽しんでま~す

十三人の聖なる人々。

2020-05-31 | 日記
一歩踏み込んで、ふたりはあっと驚いた。
 なんとそこは厨房だったのである。
 石窯が並び、薪がくべられ、銅の鍋からはもうもうと湯気が上がっている。
 料理人たちが野菜を刻んだり、麺を打ったり、忙しく昼食のしたくをしている
 真っ最中である。

 「こ・・・・ここに レオナルド公の絵があるのだろうか?」

マルコが二人を先へと促した。
「ここから入ってください」
「そのまま、まっすぐ歩いていってください。あの突き当りの壁まで。」
「よろしい。では、そこで振り向いてください。こちらのほうへ。」

マルティノと宗達は、声のした方へ振り向いた。
   と同時に、あっと息をのんだ。

 ・・・・食卓を囲む一群、十三人の聖なる人々。

 横長の食卓の中央で、何かを語りかけるように、またすべてを受け入れるように、
 両手を広げ、思慮深いまなざしを放つその人。
 いとも美しく、またさびしげな表情を浮かべたその人こそは、 イエスキリスト
 救い主の周りに集まっている人々は、キリストに愛されし十二人の弟子たち。
  
         「最後の晩餐」
                         横910㎝×420㎝

  
・・・あなたがたのうちのひとりが、私を裏切るのであろう。
十二使徒たちは、信じられない、というように、互いの顔を見合わせ、震えるまなざしを
交わし合う。怒涛のような驚きと不安の嵐が一気に押し寄せる。  
                                (文中より引用)
 
その衝撃的な場面は、古来、絵師たちが繰り返し描いてきた画題であった。
 
ふたりも、それまでにイタリア各地で、少なからず目にしてきた。
 が、今、二人が見つめている絵は、今まで見たどんな「その場面」の絵とも違っていた。
気高く厳かなイエス、彼を囲む従順で敬虔な使徒たち。彼らの誰にも・・・
そう、救いの主さえも、あるはずのニンブスがない。

 *「ニンブス」=キリスト教美術で、キリスト、聖母、天使などの聖性、
      栄光の象徴として頭のまわりに描かれる輪。輪光。ニンブス

   ジョット  <ユダの接吻>  頭の周りに「輪光」が
     

さて、この文中にも出て来るのですが・・・
「厨房」、(食堂)の壁にこの名画があった。

まずこの絵は、フレスコ画ではなく、テンペラで描かれていること。
ルネッサンス期には、まず漆喰を塗り、それが乾く前に顔料を混ぜ
壁自体をその色にする技法で、これだと永久の保存される。
 *テンペラという技法=卵、膠、植物性油などを溶剤として顔料を溶く技法。
  重ね塗り、書き直しも容易、何度でも納得のいくまで書き直せる。
  しかし、テンペラは、温度や湿度の変化に弱く壁画には向かない。
  ましてや、ここは「食堂」湿気や熱あり、10年後にはすでに損傷が始まっていたと。
  さらには17世紀には「ナポレオン時代」は馬小屋として使用。
  絵の保存環境としては最悪です。
 その上、ミラノは2度の大洪水に襲われており壁画全体が水浸しになったことも
 第2次世界大戦の空襲で食堂自体が破壊され瓦礫の山となった。
 しかし、「最後の晩餐」だけは難を逃れた。絵の3m前で爆残が破裂したという・・・
 現在まで残っているのが・・・奇跡ですよ!   やっぱり神の加護でしょうかねぇ。


この絵に対しては、古今東西の識者、批評家たちによって絵の解説がされています。
どれも含蓄あって、参考になると思います。
 
その中で、 画中の「構成」や、人物の「表情」について 分かりやすくこんなのがありました。
まず、12人は それぞれ3人づつ4つのグループ。 左右対称に分かれている。          ですから、キリストが中心。
  背景も ご存じの「モナリザ」のように自然を描いている
             ↓     ↓  
            
 
イエスを中心として使徒を横に配置して、一人一人の心理描写が掴める。
彼らの表情をくみ取ってみてください・・・。
  と、言っても・・・見る私たちの「感性」によっては「うむ?」て
  ダヴィンチの表現力を理解できないかもね。
  
     

    
   「ユダ」は、いま、何を思っている?  
    

 顔、まなざし、手の動き、身体の動き、その微妙なひとつひとつが~
 ある者は身を乗り出し、ある者は全身で驚きを表し、ある者は不安に眉を曇らせる。
  その中で、ただひとり、ユダは・・・

 マルティノと宗達は、ふたり並んで壁画を見上げた。

  およそ百年もの昔、ここに一人の絵師がいた。
  その名は、レオナルド・ダ・ヴィンチ
           

この絵をみつめていればわかる。
その筆には神が宿っていたのだと・・・この絵がこの世に誕生した。
その事実こそは、まさしく神の御業。

はるかな国、日本から、二人の少年がこの絵にまみえるために、
こうしてここにいることもまた、神のお導きなのだ。
胸の前に両手を合わせると、壁画に向かって静かに目を閉じた。
言葉にできないあふれる思いが胸にあたたかく伝わってきた。

 ・・・神よ。 感謝いたします。 こうして、ここにいる幸運を。

 ・・・・と、そのとき。

   ドアを開けて入ってきたのは、一人の少年であった。
 栗色の短髪、鼻梁の通った端正な顔立ち。
 イタリア人らしき少年は、白いブラウスに黒いチョッキを身につけていた。
 粗末な服装は、彼が修道士でも名士の子息でもないことを物語っている。

さあ、ここから、 またまた 大きな広がりが・・・
 ルネサンス期の後半に登場したイタリアの画家
    ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ。
人物を写真のように描き、明暗をはっきりと分けた表現方法で
バロック絵画にも影響を与えました。
俵屋宗達の残した「風神雷神図屏風」と同じく、500年以上も前に
数々の傑作を生みだした一人なのです。 

作者、曰く、この二人 俵屋宗達とカラヴァッジョが世界史的に見て
同じ時代に生きていた。 そのことに注目した

また、こうも言っている。
天性の才能で描かれた絵画は、どんな時代のどんな人類が見ても傑作に
違いなく、見る人の魂をも震えさせることができる。
宗達にしても、自分の何かを残すために描いているわけではなく、
「天下人に捧げたい」 「神や霊的な存在に近づきたい」という思いを
もっていたかもしれません。
純度の高い魂のきらめきが刻まれた作品は、500年という月日が経っても
風化せず、今見てもブリュットな迫力があります。 
                      と…インタビューの中で・・・
 
そこで ともに絵を愛し、後世、世の中に多くの傑作を遺していく
二人の出会いを考えたのですよ。
実在の人物であり、本人の履歴は史実として残っていますが・・・
この地で出会うというのは全くのフィクション。 
しかし、ふたりの絵に対する高い魂は、同じだろう。
そこで「出会い」という突拍子のない場面を作り、絵師として、また人として
の生きざま、人生の機微を創作してみたかった・・・。    のだろうと。
 
  
 少年二人の出会いは、わずか一日という短いもの・・・

 文中、かなりのページを割いて、出会いの件が出て来ますが、
「真に迫る心の会話のキャッチボール」は割愛します。
  最後に二人は・・・絵の交換をして 永遠の別れを・・・

  ここは、フィクションでも 本文を 読まなければ・・・
 
 
はるかな東の島国、日本で絵師を志す少年、俵屋宗達。
世界の中心たる都、ローマを擁する国、イタリアで絵師を夢見る少年
  ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ。

本来であれば、決して出会うはずのないふたりが、こうして巡り合い、
誓いを立て合った。
いつの日か、きっと立派な絵師になって、
その名をこの世に残そうではないか。
いまは誰ひとり知る者がいなくとも、いつか、必ず・・・・。


折角なので、カラヴァジョについてご紹介しておきます。
 近いうちにあなた近くの美術館で、「カラヴァジョ展」でもあれば
鑑賞する際に少しはお役に立つかもしれません。

「ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ」
 イタリア ルネサンス期後半に登場した画家。 1571~1610年

彼の画法は、あたかも映像のように人間の姿を写真的に描く手法と
光と陰の明暗を明確に分ける表現*①は、バロック絵画*②の形成に大きな
影響を与えた。  *①「テネプリズム」
*②劇的な描写方法、豊かで深い色彩、強い明暗法などが特徴

 この「光と陰の明暗」の表現を代表する画家はカラヴァジョをはじめ
 「レンブランド」        「夜警」
    
 

 「ベラスケス」     「ラスメニーナス」
    

 「ラトゥール」     「大工の聖ヨセフ」
   

「フェルメール」    「真珠の耳飾りの少女」
   
 

 そして 「カラヴァジョ」
        

◆「聖マタイと召命」
 彼の公的な場でのデビュー作、かつ出世作
 美術史上ではバロック美術の扉を開いた記念碑的作品
      

 ◆「聖マタイの殉教」  彼の代表作 

 「聖マタイの召命」の体面に配置される本作。
 暗中に渦巻く人々の混乱と巨富をほとんど背景を描かずに、人物の配置
 のみで空間構成を行っている。
  また、聖マタイを襲う刺客の左に横たわれる髭の男性は、画家の自画像
 と指摘されている。

  サン・ルイジ・ディ・フェランチェージ教会
       

 「聖マタイ」の三部作
 「聖マタイと天使」
       
 

「ロレートの聖母」
        

「ゴリアテの頭を持つダヴィデ」
       

 「エジプト逃避行途中の休息」
       
       

 「ポロフェルネスの首を斬るエディット」
       

 「洗礼者ヨハネ」
       

 
彼の初期のもの 「果物籠」 1596年ごろ
       
また 初期の最大傑作のひとつ
 「女占い師(ジプシー女)」
       

  まだまだ 名作はありますが・・・このくらいで~


 1585年(天正十三年) 八月八日

 八月の太陽が中空高く上がっている。
ジェノヴァの港は目を開けていられないほどまぶしい光に満ち溢れている。
 停泊中の船へと、いくつもの大きな箱が運び込まれていく。
百五十日以上にも及ぶイタリアをめぐる旅のあいだに、
使節一行が各国各所で贈られた宝物や珍品、書物の数々、活版印刷機も
運び込まれた。
  グレゴリウス十三世の肖像画が納められた箱もある。

 帆船は、数日間掛けて地中海を航海し、スペインに到着し
 陸路スペインンを横断して、ポルトガルに入国。
 そののち再びリスボンから大海原に乗り出して、機構の途につくのである。

 長い長い航海になる。
 いったい、幾年かかるのだろうか・・・・

なつかしい故郷、長崎の港を出港してから、実に三年もの歳月が過ぎていた。

  そして・・・
 港で 拍手が沸き起こり ~
  
     マンショ、ミゲル、ジュリアン  マルティノ・・・
       はるかな水平線を一心に見つめていた。

   
 
  1586年 4月13日 リスボンを出発 帰路へ。
  1587年 5月   ゴア到着 ヴァリニャーノに再会
           原マルティーノ上陸し演説を。
  1587年 6月   大友宗麟死去
  1587年 7月   バテレン追放令発布
  1590年 7月21日 長崎に帰国
  1591年 3月3日 一行は 聚楽第にて太閤秀吉に帰国報告

豊臣、徳川と続く為政者たちは皆キリスト教を禁止・迫害したため
4人の少年たちがせっかく命がけで日本へ持ち帰った西洋の文化
文明はほとんど活かされることもなく、歴史の闇に葬り去られる
ことになる・・・・。

 歴史の中にありえないこと
  宗達が彼らと一緒にローマに行った。
  宗達がカラヴァジョと出会った。
  次回の作品に ぜひ 原田マハさんに 「大フィクション」
 「織田信長」が生きていて、帰国後、彼らから報告を得たあと
 どんな道を切り開いていくのか~
 宗達に それからの屏風絵は 
 少年たちへの布教に ~ どんな 指示するのか
 さらには、日本から 西洋にに向けて何を求めていくのか 
 壮大なドラマを書き下ろしてもらいたい・・・

 「風神雷神」を読み終わって・・・長編の「美術編」ブログを終わります。
   
  
   
   その後の少年たちは過酷な運命に翻弄されるのである。
   この天正遣欧少年使節団のこと 機会があれば追ってみたい・・・
     

 
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ミラノ滞在

2020-05-30 | 日記
ヴェネツィアからブレンダ川を遡って「バドヴァ」に到着。
  世界最古の植物園訪問 
      

 その後、「ヴィチェンツァ」 では
  古代ローマの野外劇場を模した「オリンピコ劇場」で観劇。
      

 「ヴェローナ」
      

 
~「マントヴァ」~ 「クレモナ」の「大聖堂と洗礼堂」~  「ローディー
        

  と移動して・・・ローマを出発して・・七月二十五日。
            ミラノ
          

「ミラノ」の中心部にあるイエズス会の教育施設「ブレラ」の中にある
宿舎に落ち着いた。
         

        


到着、開口一番! ミゲルが言った。
        「この国を離れるまで、あと少しでござりますね」

 マルティノがすぐさまイタリアの地図を卓上に広げた。
「ジェノヴァから出発するゆえ、このあとはパヴィーアとトルトーナ、
   二か所に立ち寄るのみだ」
 
ミラノに到着したその日、イエズス会の学び舎「ブレラ」付属の礼拝堂で
夕べのミサを終えて少年たちは講堂へと集められた。

ロドリゲス神父から滞在中の予定について詳しい説明があった。

 まずは、ミラノ大司教のミサに参加すること。
 スフォルツエスコ城を訪問する。
  などなど、しっかり見聞すること~ 

ミラノ滞在は十日間の予定だったが、一分の隙もなく予定が詰め込まれていた。

「ミラノ大聖堂」 ドウオーモ(Duomo)
            壮麗なゴシック建築 

 この聖堂の建築には長い年月が費やされ14~19世紀前半までも。
  まるで繊細はレース細工のような・・・

         内部  ステンドグラス
        

        

ロドリゲスと ミゲル、ジュリアン、マンショら3人は
 かってミラノ公であったフランチェスコ・スフォルツァ公の城。
           
 「スフォルツエスコ城」 へ。
 


 マルティノと宗達は、共の者に連れられてドミニコ会の教会
     「サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会」 へ。 


 ミラノ公スフォルツアの息子のルドヴィーコは学芸の保護にも熱心で
 これから 「宗達」「カラヴァッジョ」 が歴史的に出会う?
  (もちろん フィクションなんですが・・・その出会いの場がなんと
 レオナルド・だ・ヴィンチの描いた・・・「最後の晩餐」の前で。
 という この本の最大の見せ所です。

 そのレオナルド・ダ・ヴィンチをミラノに迎えたのが、ルドヴィーコ公   
                 
 
 いったん、ミラノを離れますが、後に再訪。
 約20年の滞在はこの地に「ミラノ派」(ミラノを中心としてダ・ヴィンチの
 画風に影響を受けた画家たち)を生んだ。
 
 
  作中、宗達は、どうしても西洋の画風を勉強したい・・・
 各地でいろんな絵も見てきて、それを写しもした・・・画帳の数も増した。
 しかし、まだ どのようにして西欧人の絵師が作画するのか、その手業を
 知りたいと願い続けてきた。
  絵師の工房を訪問したいとロドリゲス神父に頼み込んでいたのだが、
 それを実現することはなかった・・・・

  そして、数日を残したミラノで

 マルティノは 宗達のために食い下がり・・・
    「ならば、せめて・・・・ミラノ随一の絵師が描いた
              絵を見ることが出来ませんか」
 宗達も・・・かって、この街にレオナルド・ダ・ヴィンチという絵師がいたとの
      ことを、フィレンツエに滞在した折に耳にいたしました。 
     
     *その絵師、レオナルド・ダ・ヴィンチは、百年も前にフィレンツエを出てミラノへ行き、
      その後フランスで天に召された・・・と教えられたのだった。

 前日の夜、 私は見たことはないのだが、ドミニコ会の教会に
      レオナルド公の絵があると聞いている。
      ドミニコ会の神父に、そなたたちにその絵を見せてやってほしいと
      依頼しておいた。
      しっかり見てくるのだぞ・・・。
 
   ロドリゲスの配慮とドミニコ会の寛大さに、マルティノは胸が熱くあった。

   礼拝堂へと入っていった~
   ここはミラノ市民も礼拝に訪れることができる場所である。
   堂内では祈りを捧げる人々が祭壇に向かって頭を垂れていた。
         

   ひとりの修道士が音もなく歩み寄ってきた。 
    彼はふたりのそばに佇むと、「こちらへ」と ささやいた。
   二人はうなずいて、彼の後について礼拝堂の外へ出た。
   修道士は、静かな微笑を浮かべてあいさつをした。

 「ようこそお越しくださいました。 
 私はドミニコ会の修道士、マルコと申します。
 あなたがたのことは、イエズス会のロドリゲス神父より伺っています。

 礼拝堂の裏側へと進んでいった。
  「こちらから入ってください」

    マルティノ、宗達とともにその「裏口」の扉を開けた。
 
   いよいよ 「ご対面~ ってところですが・・・」  

ここで小休憩です。
 ヴェネティアを訪れた際に、ヴェネティアを代表する画家たちのことを忘れていました。
 これからダ・ヴィンチの「最後の晩餐」の絵を見るのですが・・・
  この同じ題材を描いた絵師がいます。
 それが、ヴェネチア派(ヴェネツィアで活躍した画家)で
  「パオロ・ヴェロネーゼ」  「ティッツァーノ」  「ティントレット」
         この派を代表する3人です。

  まず、 ティントレットの「最後の晩餐」 これは「サン・ジョルジエ・マッツジョーレ教会」に。
         

        

        側壁に・・・この絵が
        
  
               
  

  同じ題材でも 随分違いがある  ・・・画家の表現力ですね。

 次に 「ティッツァーノ」
          

   「ピエタ」
 
 
 
 最後に
 ヴェネツィアを代表するのが 「パオロ・ヴェロネーゼ」
          
  彼の代表作として 66平方メートルもの壁を覆う巨大な絵画。
  「カナの婚礼」

 依頼者からは金に糸目は付けない・・・と。
 当時、絵の具の中でも高価な「青」 その青を「ラピスラズリ」を使って描く。
    古代より宝石としても、このラピスラズリは、他にも
          「フェルメール」が多用し「フェルメールブルー」と呼ばれています。

  さらに 面白いことに この壮大な絵の中に・・・
   親友? 画友? の面々が画中に顔を出しているのですよ・・・

       
 
       「白い服」でヴィオラを弾いているが、ヴェロネーゼ  
       真ん中 笛を吹いているのが ティントレット 
       「赤い服」で大きなコントバスを弾いてるのがティッツァーノ  

  西欧の絵画の中では、こうした画家が・・・そっと画中に分からないように?
    「自己主張」しているのが多いですよ。

   中でも、一番 有名なのが この絵・・・ご存じの 「ベラスケス」
  「ラス・メニーナス」
         
   画面 左側 大きなカンヴァスの前で絵筆をもっている 髭おやじ・・・ですよ。       

  さぁ、それでは 「最後の晩餐」と 面会をしましょう・・・・と。

   これは 明日!   
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屏風の扉が開かれた!

2020-05-28 | 日記
教皇の前で文を奉ずる・・・
   というのが、使節の最も重要な使命であった。
伊東マンショが読み上げようとした文書は、彼を正使として
ローマに遣わせたキリシタン大名、大友宗麟からグレゴリウス十三世
に宛てた文であった。
         

 マンショが読み上げ・・・マルティノがすらすらと流れるような
  ラテン語で通訳する・・・場内のざわめきがすっと収まった。
 声は次第に朗々となり、自信をもって読み上げた。
 グレゴリウス十三世は、まるで彫像になってしまったかのように
  微動だにしない。
 マンショは最後の一言までしっかりと読み上げ・・・
   文を盆の上に載せ・・・壇上の玉座へと運ばれた。


 秘書官が告げた。
  「献上物をここに奉れ」 
             「ドン・ノブナガの箱を、これへ」

この天正遣欧少年使節団のクライマックスである
献上品「洛中洛外図屏風」の説明を教皇の前でするのが 
 なんと なんと! 「俵屋宗達」がなのだ。
一番驚いたのは、「歴史の事実」でしょうね。
突然、こんなフィクションが挿入されて・・・
教皇が聴き入ってしまう場面。 
まぁ、ここまで来たら、このまま続けるしかありませんね。

事の次第を縷々丁寧に、静かな口調で・・・
吾が国の中心たる今日の都にほど近い安土の地に、それはそれは
立派な白を建造されました。
 この城にある幾百の部屋の装飾を、信長様はひとりの絵師に
託されました。その名を狩野州信(くにのぶ){永徳}と申します。
描きたる絵は、絢爛豪華、豪儀にして緻密、あでやかにして深遠。
西欧の絵師のそれとはまた異なりて、見る者の心を躍らせずには
いられぬほどの見事さです。
 さらに続くが・・・・
    宗達は、せいいっぱい熱を込めて、すらすらと語った
 
「御前にて箱を開け、御物を開陳せよ、教皇もお待ちかねである」
      
        傑作ー<洛中洛外図屏風>
 「帝王の間」は、しんと静まり返った。
  神秘の扉が開く瞬間であった。

現われたのは、いちめんの金色。 
まばゆいばかりに輝く黄金の海。 いや、金の雲。 
雲上にすっくと佇んでいるのは、世にも妙なる美しき城、安土城。
絢爛と光を放つ豪奢な構えのその城は、威光を放ち、
天下四方を一望に見渡す。
   ・・・・・
 
                      *安土山屏風図(復元図)

   
   
 「なんと・・・なんと美しい・・・」
  金色の画面をひとしきり眺めたあと、教皇の口から感嘆の言葉が
  こぼれ落ちた。

そして、いま。
   屏風を見つめる教皇の瞳にも、うっすらと涙が浮かんでいた。
 「余は・・・・いま、旅をした」
 「ドン・ノブナガに伝えよ。
       そなたの国…日本に、永遠に神のご加護を」 

 織田信長の下命により、無事教皇に謁見し、屏風も届けることが出来た。
 が、さらに需要な命は、帰朝してローマの様子を信長に報じることである。

 献上されたこの屏風に教皇は感激し、教皇の住まいと執務室を結ぶ廊下
 (地図の回廊)に屏風絵を飾った。
        

        
  しかし、その直後、グレゴリウス十三世が急死。
  屏風絵の行方は分からなくなってしまう・・・・・
  
  う~ん、ほんと残念、無念です。
 現在まで、この回廊の壁に…遺っていれば と。

 一行が長崎を出港してから、すでに三年以上の歳月が過ぎていた。
 その間、ずっと移動を続けていたため、日本の情勢を知ることは
 ほとんど不可能であった。
 もとより、戦国の世である。
  今日は何事もなかったといっても、明日はどうなっているか誰にも
 わからない。 家も、君主も、日本の国そのものも。
  ・・・音沙汰がまったく聞こえてこない西欧にあっては、国もとが
 平穏無事であることをただ神に祈るほかはなっかた。

 *そうなんです。
   この謁見の報告を、また、西欧の数々の出来事を、直接彼らから
   根掘り葉掘り・・・しつこく、納得いくまで聞きたかったであろうに。

   歴史は、ある時。 無残なお仕置き?をするものである。
   天正遣欧少年使節の一行が、日本の港を出発した・・・1582年2月
   その 数か月後の6月2日。 
   「本能寺の変」により、信長は没した。
   このことで 世は 大きく変わっていく。
   そして、帰国する彼らの前に立ちはだかる難題も・・・
             もちろん彼らは、知る由もないが・・・。

   
   彼ら一行も、「運命」を感じる数々に遭遇するものである・・・
  ローマ教皇、グレゴリウス十三世についに謁見を果たしたそのわずか
  十八日後。 教皇は天国の門をくぐり、神のみもとに召されたもうた。

 ローマの街中に弔鐘が響き渡った。 一行も涙にくれた。
 教皇を天国へと送る告別のミサがヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂
 執り行われた。 
       
       使節団一行も永遠の別れの儀に参列した。

  グレゴリウス十三世が逝去してのち、教皇選出選挙が行われ、
     白い煙が・・・礼拝堂の煙突から・・・
     シクストゥス五世が新教皇に選出された。

    コンクラーヴェが行われた「シティーナ礼拝堂」
       

   新教皇になった翌日に、シクストゥス五世による
    使節一行のお召し出しがあった。

 今度はジュリアンも加わって、四人揃って再びヴァチカン宮殿へ参上した。
 
 使節団は、行幸参加以外にも教皇シクストゥス五世の即位式等の儀式と祝祭に主賓として
招待され通常は君主や諸侯が行う名誉な大役まで任せられたという。 
参列の際の服装は日本風ではなかったようである。
     ここに「ラテラノ教会行幸図」が遺っています。
         

   拡大して 4人の様子が描かれている・・・
 
 「赤丸印」を、よく見ると、行列の中央列右側から奥にかけて金色の飾りを付けた白い馬に乗り、
 青い服に丸みを帯びた帽子といういで立ちで、明らかに他の人々とは異なった服装に身を包んだ
 4人の人物を確認できる。
 彼らには衛兵たちが護衛についており、4人が乗る馬の馬具飾りからも、これらの人物が特別な
 存在で重要な来賓扱いされていることが容易に理解できる。

こんな絵を、よく残していましたよね。
これは時の教皇が自分のために訪れた少年を招待したことは事実であり、その歴史的な行幸の様子を
後世まで誇示するために、このような形で「日本人」が描かれることになったものと考えられています。

 ここで珍しいものを・・・

「サンタ・マリア・デル・オルト教会」
       
 
     教会の内部
       
この教会には天正遣欧少年使節団の一人、中浦ジュリアンの肖像画が飾られている。
 (この肖像画は、日本在住の聖画家カトリック教徒の三牧樺ず子氏によって描かれたもの。
          

           当時のジュリアンを描いたものではない。)            
でも、なぜここに肖像画を・・・その所以は=1568年年頃、使節団の副使として参加した。
当時14歳。少年たちはローマに到着し、そこに約二か月間滞在した。6月の初旬に他の者と共に遠足に
出かけた際に、嵐に巻き込まれたが、このオルト教会の聖母に祈ったところ、奇跡的に助かったという。
 中浦ジュリアンは日本に帰国後、厳しいキリスト教迫害にあっても、潜伏しながら進行を続け、聖職者として信者たちを励まし続けた。機構後43年後の1633年ついに捕らえられ、2日間の過酷な拷問の末、他の外国人
宣教師らとともに穴吊るしの刑で殉教した。彼の死から375年後の2008年、中浦ジュリアンは、ヴァチカンが設定する聖人の一段階手前の福音に列せられた。            (資料より抜粋 引用)


 使節一行はローマに七十日余の滞在をし、イタリア周遊の旅を続けるため
 ローマを出発した。

  ローマから まず東へ 各都市を回り~ペルージャに到着。
 その後、カメリーノ~ロレートにはいり、聖母マリアが受胎告知を受け止めたとのい言い伝えがある「サンタ・カーザ(聖なる家)」を訪問した。

 アンコーナ~・・ボローニャへ。 その後、ポー川を船で下り、キオッジャに着く。
そこから海路で、水の都ヴェネティアに入った。

ヴェネツィアでは、 共和国大統領、ニコロ・ダ・ポンテとの謁見を果たす。
            
世界で一番美しい広場
   「サン・マルコ広場」での「聖マルコの出現」の祝賀行事の日取りを調整し、一行が参加できるようにしてくれた。
  

 ヴェネティア~パドヴァ、ヴェローナ~クレモナ ローディーと移動し
 ローマを出発して五十四日目となる七月二十五日。

 ミラノの中心部にあるイエズス会の教育施設「ブレラ」の中にある宿舎に
落ち着いた。


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ローマ教皇グレゴリウス13世との謁見

2020-05-27 | 日記
1585年(天正十三年) 三月ニ十二日

「おお、見よ! 彼方にフラミア門が見えてきたぞ!」
 騎馬隊の列の先頭で騎乗していたロヨラが振り返って大声を放った。
フラミア街道カトリック教徒がローマを巡礼する際には、フラミア街道を通ってこの門からローマ入りする、というのがしきたりになっていた。)を進んできた。
沿道は、東の国からはるばる旅をしてきた一行をひと目見ようとローマ市民であふれ返っていた。
 フラミア門をくぐり、ポポロ広場に入った瞬間マルティノの顔つきが変わった。
そのまなざしの先には、長い長い旅の目的地、ローマ教皇がおはすヴァチカンの建設中の「ドウム」があった。
  この教皇の時代には、ドウムはまだ建設中であった。             
         (ポポロ広場)
         

 ポポロ広場から丘のふもとにあるジェズ教会へと進めた。
この教会はイエズス会の本拠であり、教会の入口には、総長ほか、神父、修道士たちが一行の到着を待っていた。
         「ジェズ教会」  
        

 一行は全員、さっそくジェズ教会の聖堂で、無事にローマに到着することが
 出来たことに感謝の祈りを捧げた。
  パイプオルガンが奏でる中、マルティノは夢見心地であった。
 
        
             イタリア屈指のローマバロック美術の美しい内部装飾がある
 
  あとひと晩・・・今宵ひと晩眠って目が覚めたら、明日の朝を迎えたら。
 ついに、ついに・・・教皇との謁見がかなうのだ。
 ただそれだけをかなえるために、今日のこの日まで生きてきた。
 マンショも、ミゲルも、ジュリアンも、マルティノ
  全く同じ気持ちだったに違いない。

 ところが、ロドリゲスは固い表情でジュリアンに向かって・・・
  「ジュリアン、そなたは明日の教皇との謁見に臨んではならぬ」
  「教皇はご高齢ゆえ、お体の御容態が万全ではないということだ。
  ジュリアン、そなたの病はほぼ治ったとは申せ、万が一にも教皇に
  おうつしするようなことがあれば・・・・わかってくれるな?」

      というわけで・・・この使節の少年たちは3人が謁見することになった。
     そして、謁見された「グレゴリウス13世は、この直後急死。18日後のことであった。
     4月には新教皇のシスト5世が選ばれた。

   1585年(天正十二年) 三月二十三日

  東の空に暁が訪れ、陽光は白々とローマ市街を照らし出す。
 ジェズ教会で早朝のミサを済ませ
  総長荒野厳かな声が・・・
 「教皇はそなたたちの来訪を心待ちにしておられる。 
  聖書にある通り、「当方より三人の王」が来訪することは、教会にとっても
  この上なき福音である・・・」

  マルティノは ・・・まさか。
  聖書に登場するあまりにも有名なあの話。
   イエスキリストが誕生したとき、 「東方の三人の王」が礼拝のために
   参上した・・・というあの逸話を、
   ヴァチカンは自分たち使節の来訪に重ね合わせようとしている・・・?
       

 晴れ渡ったローマの空にジェズ教会の鐘の音が響き渡った。
 教会の前の広場には、ヴァチカンからの迎えの馬車とヴァチカンの騎馬隊が
 待機していた。 
  馬車と騎馬隊をぐるりと囲んで大勢のローマ市民が集まっていた。

 ローマ兵、楽隊、華やかに飾られた馬車が連なる3キロにもおよぶ行列に
 先導されヴァチカンに向かい、遠藤には数千人の見物にんがあふれ、方々から
 祝砲が打ち鳴らされた。
            「ヴァチカンへの行列」
       *こんな絵を残しているなんて・・・当時としては、大変なことだったんだ~



使節団一行は・・・
  ヴァチカン宮殿前の大広場へとやってきた。

 
       広場から見た 「ヴァチカン宮殿」

      「サンピエトロ大聖堂の広場に集まる人々」

  ドウムがいっそう建物を大きく異様に見せていた。


  馬車を降り~階段を上がり~
 教皇の私的な祈りの場・・・システィーナ礼拝堂の光景を見た。
  そして息を止めた。 
      
           
  
  祭壇の背景を覆い尽くす壁には「最後の審判」の図が描かれている。

  祭壇、四方の壁、そして天井。
  そのすべてがまばゆいばかりの絵で埋め尽くされていた。

  マルティノは・・・教えてください。
         これほどまでに見事に描き出したる絵師の名を。

  案内役のパオロ神父は・・・問いに答えて。
   「絵師の名は ミケランジェロ・ブオナローティ といいます。」

   彼らが ここで天井画を見た・・・
    すでに ミケランジェロも神に召されていた・・・

   パオロ神父の話に~ドウム部分はまだ工事中ですが、
 サン・ピエトロ大聖堂の設計も、もとは彼が手掛けたものなのです」と。

          

  (一部拡大)

 「天地創造」は、システィーナ礼拝堂の天井画全体をさすことが多い。
  描かれた人物の数は400人以上とも・・・
  天井画全体の中心になっている 「創世記」 の物語。
 一部
 「アダムの創造」
  

 「原罪と楽園追放」
  

 「大洪水」
  

 
 ミケランジェロが、どのようにして、かくも壮麗なシスティーナ礼拝堂の
 天井画と壁画を仕上げたのか。
  まさしく神業と呼ぶほかはない彼が人生をかけて成し遂げた大仕事について
  マルティノは宗達に通訳した。

 ロドリゲス神父を先頭に、マンショ、ミゲル、マルティノは、システィーナ礼拝堂
に隣接する「帝王の間」へと歩みを進めた。

 一行は玉座の前に整列した。 

 「ーー ローマ教皇 、 グレゴリウス十三世のご光臨なり」

 柔らかな白絹の衣に、赤いビロードのカズラをまとった
   「いとも尊き方」が~ついに現れた。
  ・・・グレゴリウス十三世。
  第二二六代ローマ教皇。
     
         

   教皇は、白髪の頭にカズラと同じ赤いびろうどの帽子を被り、
    白いひげをたくわえていた。
   端正な容姿は、淡い光の衣に包まれているかのように、うっすらと
    輝いて見えた。

  教皇は、ラテン語でささやきかけた。
    「近く来よ、私の息子たちよ・・・・」
  マンショは身体を小さく縮こませながら、壇上に上がった。
   そして、教皇の足もとに平伏し、法衣の裾からのぞいている絹の靴の
   つま先にくちづけをした。

   ミゲルとマルティノもそれにならって、教皇の足もとに接吻した。

   「いかなる苦難も厭わず、汝らは、かくも長き道のりをただひたむきに
    ここまで来た。 その道に幸いあれ、汝らに幸いあれ・・・・」
          教皇の声はうるんでいた。
      
    
     謁見の状況を描いた1枚です。
      「伊東マンショとグレゴリウス13世と謁見の場」

 
  神がもたらしたもうた、この輝けるいっときのために・・・・。
   少年たちを見守る周囲の人々の目にも涙が光っていた。

 ◆後日談・・・教皇との謁見の後、少年使節に関する「印刷物」がヨーロッパ各地で
  50種類以上も発行され、はるか極東の未知の国日本は、ヨーロッパ全土に認知されていった。

 私、思うに この少年使節の面々、僅か16歳前後、その彼らが、日本の文化や、高い知性を
 ヨーロッパの人たちに知らしめた・・・「礼節」「武士道」?を各地で表現したことは、すっかり評判を
 呼んだ・・・そのことがヨーロッパ全土に広がっていき、どこに行っても絶大な歓迎を受ける。
  「ブログで言う」 いいねえ~だね。

 現在で言うなら、九州の田舎の悪がき?が ホワイトハウスで「トランプ大統領」に謁見し、
 レセプションで 奥さんと一緒にダンスを、そしてさらに、ニューヨークのど真ん中を
 オープンカーでパレードして、高層ビルの窓から拍手喝采を浴びるようなもんだね・・・
 それが、440年前に、こんな途方もないこと、信じられないが・・・
 ちゃんと歴史の事実にあるんだから・・・やっぱり、歴史は面白い。

  原田マハさんでなくても・・いろいろ「出会い」を組み合わせて、楽しんでもいいのかな?

 さぁ、物語の舞台も~ 最終章に入ります。

 そう、あの信長が教皇に贈った屏風・・・これですよ!
 

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 リヴォルノ、フィレンツェ ・・・もうすぐ ローマだ!

2020-05-26 | 日記
マヨルカ島を経由し、ついにイタリアの港町、リヴォルノに到着した。
 1585年(天正十三年) 三月二日

晴れ渡った春の空いっぱいに鐘楼の鐘の音が鳴り響いている。
       「ドウモ 広場」
       
           「ピサの斜塔」
            
 この地 リヴォルノはトスカーナ大公、フランチェスコ・デ・メディチ一世
治める処。
        

 一行は、ピサにある大公の宮殿へと向かっていた。

 伊東マンショ「おい、知っているか。 大公閣下の奥方さまが、
              今宵の宴を催されるということだぞ」

 ミゲル「西欧では高貴な方の奥方さまが宴を催すことが
     よくあるということだ。
     殿方の宴とは異なって、華やかな宴になるのだそうだ」

  大広間の中央に玉座がふたつ。
   大公と ビアンカ・カッペロ妃殿下
          

  大公は 「遠き東の国よりここまで来りし汝らを、余は歓迎する」
      満足そうな笑みを浮かべて、一行に向かって
      「勇敢な汝らを、今宵、余に代わって妃のビアンカがもてなそう」
 
  ビアンカは悠然と微笑んで、声をかけた・・・
      「ようこそおいでになりました。
             今宵は存分に楽しんでおいきなさい」

  そして・・・ビアンカの手を差し伸べられたマンショ・・・ 
         「今宵は、まず、そなたと踊りましょう」
              
       と、まぁ、話は宴の場面の詳細を語っていく~

 一方、宗達は宮殿内に飾ってある数々の肖像画に・・言葉もなく、
   ただただ見つめていた。

 ここで幽霊の登場?  
  その男は、正面の壁にかかっている甲冑を身につけた貴人
  の肖像画の前に立っていた。

   の顔は、肖像画の中の貴人の顔と同じ?・・・

  さよう、この絵は、余の肖像画だ。
   絵師・・・アーニョロ・ブロンズィーノに描かせたものだ。

   『 1503~1572 フィレンツェの宮廷画家
     代表作に  「愛の勝利の寓意」    』
         
        

   余は、コジモ・デ・メディチ、初代のトスカーナ大公である。
         

 「ブロンズィーノは、フィレンツェで余と妃の
    エレオノーラの婚礼の装飾を任せたのがきっかけで、余や、
          余の家族の肖像画を描くことになったのだ」

  「あの絵、余の妃、エレオノーラである。
        一緒にいるのは、息子、ジョヴァンニだ」
 
          
 
  ◆ひっそりとした青地を背景に、豪奢な衣装に身を包み、大粒の真珠の首飾り、耳飾りを
   きらめかせて、冷たく澄んだまなざしをたたえている貴婦人、母にやわらかく肩を抱かれて
   寄り添う息子もまた、穢れのない瞳をこちらに向けている。

  フィレンツェを中心にイタリア最大の大富豪として君臨したメディチ家は、
  代々絵師に作品を発注して彼らを支援し、多くのすぐれた肖像画や宗教画、神話画を制作させた。
  メディチ家の壮大な宮殿はピッティ宮と呼ばれ、人気の絵師が制作した作品で飾られている。
    
   「ピッテイ宮殿」
     

   「宮殿内 豪華な部屋」
     
 
   部屋の一つにラファエロの(小椅子の聖母)」が飾ってある

     
  
 そなたたち・・・ここにいたのか と、 神父のロドリゲス。
 部屋の中を見回したが、 つい先ほど前に居た コジモ一世の姿が、どこにも・・・ 
 コジモ1世閣下は、いずこへ・・・?
 何を言っているのだ・・・先代のコジモ1世は、とうに亡くなられているぞ。

              ゆ・・・幽霊⁉
  
 1585年(天正十三年) 三月七日
一行は、ピサで夢のごとき舞踏会に出席した後、フィレンツェに到着した。 

 フィエンツェは僅か七日 
     大公の宮殿である「ヴェッキオ宮殿」に滞在した。

      
  
 「美術館」では、
   イタリアの最高峰の絵師たちによる驚くべき見事な絵の
    数々を目にしたのだった。
      


 ・・・今日はフィレンツエ最後の日なので、特別なものをお見せしましょう。

 キリスト受難の場面が浮彫(レリーフ)で施された見上げるほど大きな
   木の扉の前である。 
  この絵は、未完成のまま置き去りにされ、いまから百年以上もまえの
   ことですが・・・と、 話始めるメディチ家の案内係ルチアーノ。

 百年前は・・・ロレンツォ・デ・メディチ閣下がこの街に君臨していた時代。
         

*「今から100年以上も前のことですが、閣下はとある絵師を見出し、その者が独立した後、
 すぐに礼拝堂のための祭壇画を依頼したのです。
 その者がまだ見習いだった頃に親方を手伝って制作した絵を一目見て、看破されたそうです。
 この者はたぐいまれなる才能を持っている、「天才」かもしれぬ・・・と」
 その若者は、当時フィレンツエで最も優れた工房との誉れ高かったヴェロッキオの工房にいた。
 ロレンツォがその者の才能を見出したのは、親方であるヴェロッキオが中心となって制作した
 《キリストの洗礼》の絵であった。 
            
  この絵のどこに注目したのか?
  ロレンツォ閣下は、イエス=キリストではなく、そのかたわらにかしずいている
  二人の天使だったということです。 
  この天使を描いた者には天賦の才がある。
 そして、いずれ、その者が独立するときがきたならば、私が真っ先に絵を注文しよう。

 説明を聞いていた マルティーノは、驚きを隠せなかった。

 親方から絵筆を奪ってしまうほど、
 その若者は絵が巧かった・・・ということなのですか。

 この礼拝堂に未完成のままで遺されてい祭壇画は?

      それでは、と扉を押し開けた・・・

 淡い光の中にぼうっと浮かび上がって見えてきたのは~。
  ~マ・・・マリアさま・・・。
  マルティノは心のうちに聖母の名を呼んだ。
  足ががくがく震え、その場にひざまずくと、両手を合わせ、頭を下げた。
  それは、絵であった。 それでいて、絵ではなかった。
  なんという・・・なんという美しさなのだ・・・・。

  若い絵師の名は・・・・レオナルド・ダ・ヴィンチといいます。
           
 
    *この祭壇画は未完成のまま彼は仕上げることを断念し、ミラノへ向かう。
      その後、フランスの国王に招かれ・・・「岩窟の聖母」を完成させる。

   レオナルド・ダ・ヴィンチが描き、現存する「聖母子像」は・・・・

  「カーネーションを持つ聖母」
          
  「リッタの聖母」
           

  「糸巻の聖母」
            

  「ブノアの聖母」
        

  「岩窟の聖母 ロンドン版」
        
 
  「岩窟の聖母 ルーブル版」
          
         
  
 * マルティーノが祭壇で見た 「聖母子像」は、 ダ・ヴィンチが遺した作品の
   どの絵が一番よく似たものだったのだろうか・・・
   もし、宗達が そこに居て、 彼が筆を取っていたら??
  

   まもなく到達するローマ・・・ついに ついに  
  
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「風神雷神」物語は続く~セントヘレナ~マドリードまで

2020-05-25 | 日記
ゴアの港を離れ~一行は、体制余に浮かぶ島、
セントヘレナに到着した。
もはや、ヨーロッパは目前である。
          

 彼らは信じられない気分だった・・・ここまで来たか。
しかし油断は禁物・・・つつがなく航海が終えることを、神に祈ろう。

島にある礼拝堂に行き、気を引き締めて、数日間を過ごした。

 *1584年5月27日(天正遣欧少年使節)が寄港している(史実です
 *「セントヘレナ島」は、後にご存じのナポレオンが島流しに遭い晩年を過ごした絶海の孤島。
  (1815~1821年5月死去)  
  島は、ヨーロッパとアジアを往復する船舶の補給基地や待ち合わせの場所として用いられた。

いよいよリスボンである。
 セントヘレナを出てから数週間・・・
 少年の一人、マルティノは日記を書き続けていた。
 出発前にヴァリニヤーノから ー 日記をしたためなさい ー
  この道程のすべてを日本語で書き残しておくことを勧めた。
 それは、歴史に残る偉業となるはずだ。と。

 途中、またまた雷鳴が轟き、閃光が走る!
 大波が甲板に襲い掛かった・・・波の壁が目前に迫ってくる・・・

どれほど長いあいだ祈り続けたか~まぶしい青空が広がっていた。
沖の彼方に浮かんだ陸の影が、少しずつ近づいてくる。
ヨーロッパが目前に迫ってくる。


 1584年(天正十二年) 8月十一日

幾多の嵐と荒波を乗り越えて~
使節団の一行は、ポルトガルのリスボンに足を踏み入れた。
 

                      *15世頃、リスボンの街を描いた絵

建物が真っ白な石で出来ているので、目を開けていられないほど
まぶしく感じる。
        
 すべて夢の中の出来事のようであった。

教会へ行き、司祭と面会し、神に祈りを捧げた。

 リスボン滞在中は、「サン・ロケ教会」に1か月滞在した。
     

     

  この教会の1室に   

  フランシスコ・ザビエルの生涯が20枚の油絵で描かれている。
     

  「サント・アントニオ教会」
     

  「ジェロニモス修道院」
     

  「ベレンの塔」
     

 
  後世、この港に~大航海時代の象徴
       「発見のモニュメント」記念碑 (1940年)
     


リスボンに上陸を果たしてから、使節団一行は陸路を東へ東へと進んでいった。

 いったい どこで どのようなに伝聞されたのか分からないが、
 「はるか東の国より高貴な少年たちがやって来た」・・・といううわさは
 瞬く間に知れ渡った。

 行く先々で、一行はその地でもっとも重要な人物にまみえることができた。
 各地の教会にはイエズス会から一報が事前に入っていた。
  ローマまで行き、教皇の謁見を賜る予定なれば
  ・・・大切な客人として迎えるように・・・と。
  *新約聖書には、キリストが誕生せしおり、東方より三王(三賢者)が来りて礼拝をするー
           
   との記述がある。ヨーロッパの人々は、オリエントから来た一行をこの「三王」になぞらえて
   受け止めたのかもしれない。
    となれば、各地の権力者たちは最大限のもてなしをもって迎え入れなければなるまい。
        
 使節団一行は、ポルトガルからスペインへと向かった。
 遠い陸路である。
 移動するのには騎馬で行くのが最も速い。
 そのため、ポルトガルでは乗馬の練習もあった。

使節団の一行がヨーロッパ上陸して二月が経った。
スペイン国内を移動して~ 
  
   一行の通過地での いくつかを 写真でご紹介しておきます。

「グワダルーペ」
 「サンタマリア・デ・グワダ・ルーペ王立修道院」
     
 
     *キリスト教徒の訪問が絶えません・・・大西洋航路直前のコロンブスもここに。
  (黒い聖母像)
     

 「トレド」

  トレドは一時的な宮廷の所在地で1561年フェリペ2世がトレドから
  マドリードに宮廷を移し、マドリードが首都となった。
     
 「トレド大聖堂」     
 
   大聖堂回廊
         
    
  画家の「エル・グレコ」が
  ここに定住し、1614年に没するまで数々の作品を残した。
             
    大聖堂を飾る グレコの作品  「聖衣剥奪」
         

  彼のもっとも有名な作品としては 
  「受胎告知」
         

 *天への祈りを一心に捧げる敬虔な信者たちの姿は、エル・グレコが滞在していたトレドの知識人や
  民衆の信仰心を煽ることとなり、以後多くの注文を受けることになった。
   フェリペ2世に自薦したとされる逸話も残る。

首都 マドリードに到着。
リスボンの街並みの壮麗さにも圧倒されたが・・・スペインの新しい都
マドリードの比ぶものなきすばらしさに、少年たちは言葉を失った。

 「太陽の沈まぬ国」・・・国王陛下のご威光は、この西欧の隅々まであまねく
 照らし栄えている・・・・
  その「フェリペ二世」に謁見することになっていた。
          

 
 移動の際には、少年たちは全員、
 西欧人が着ている衣装と同じものを身につけていた。
  
   *白い蛇腹の襟飾り、膨らんだ袖の上衣
     牛の革の長い履物・・・
      こんな風かな?  これ 衛兵だけど・・・
          

 しかし、謁見の際には、四人とも西欧風の衣装を脱ぎ、日本から持参した着物に
 着替えた。その上、裃をつけ、「大名の名代として国王に謁見」という様相になった。

 国王は大変喜んで、使節たちを宮殿へ招待した。 
 マドリードの中心にあるフェリペ2世の宮殿は、それまでに目にした
 いかなる建物よりも壮大であった。
 贅を尽くしした宮殿は、外の中も凝りに凝った華美な装飾であった。

  「王座の間」

 フェリペ2世との謁見
  この本の話(フィクション)ならではの場面。 
  謁見の場面に「俵屋宗達」を登場させ
  フェリペ王が、宗達と絵の話に・・・「汝の絵を見せよ・・」
                 「今、私が描いた絵は持参しておりません」
                     この扇子なら・・・」
                「面白き絵じゃ・・・」
                   この絵は・・なに?
                 「風神雷神です・・・
                  恐れながらこれを差し上げます・・・」
   長い 話は続き、 宗達の父の話にまで~ 
     ・・・・・・最後、王は 宗達にねぎらいの優しい言葉を・・・

      *いやいや、あのフェリペ王と宗達が、謁見の場で絵の話をしてしまう とは
       突飛すぎて 笑うしかない・・・もしかして、マルティーノが日記に書いている?
 
 その後、スペイン国王の手厚い庇護を受けた使節団一行は、スペイン各地で
 大歓迎された。

 一行はスペイン王国を南へと進み、地中海を臨む港町、アリカンテに到着。
 そこで久しぶりに船に乗り、地中海を航海して、マヨルカ島を経由し、ついに
 イタリヤの港町、リヴォルノに到着した。   *最初の「航海地図」参考に見てね。
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今こそ 「緑の力」を堪能しよう!

2020-05-24 | 日記
今朝は爽快!
最高に清々しい
庭に降りそそぐ 新鮮な朝の日差し
 
太陽神の光の魔法が庭の木々に降り立った。

コロナ、コロナ禍で しばらく脳の切れが悪くなっている?

「美しい」とは?  その答えが ここにある
光の芸術 色彩の妙
ことに、この季節ならではの「色」が

 そうです。 「緑色」の変化 です。

そう感じて、すぐにデジカメ持って 我が家の「草木」
 バシャ、バシャと撮りまくった・・・

一緒に楽しんで下さい~説明はなし!
名前だけ記しておきます・・・ある ある 結構植えてるもんだなぁ~

 「桜」

 「利休梅」

 「百日紅」
 

「オリーブ」
 

 「欅」


「ニセアカシア」

「ユーカリ」

「羊歯」

「水引草」

「初雪草」

「シマトネリコ」

「藪椿」

「酔芙蓉」

「笹」

「ブルーベリー」

「柘植」

「デユランタ」

「ヤマボウシ」

「ジャカランダ」

「蘇鉄」

「南天」

「紅トキワマンサク」


いかがでしたか?
朝日を浴びて、それぞれの味の違いが・・・

最後の樹 「紅トキワマンサク」は名前の通り・・
   「紅」の頃が主役ですが

「緑」と「赤」 これも また楽し。


今朝の新聞
朝日の読者ならお読みいただけたと思いますが
「天声人語」より 引用させてもらいます・・・
 「徒然草」 吉田兼好法師
 
 
「 新緑のなかでも楓の美しさは格別で、ゆえに古くから愛されてきた。
 吉田兼好は『徒然草』に『卯月ばかりの若楓、すべてよろづの花・紅葉にも
 まさりてめでたきものなり』と書いた。
 初夏の楓は、どんな花やモミジよりもみごとだと▼大空に手を伸ばす若き楓
 を眺めていると、頭の中で、やがて赤く色づくであろう姿を重ねてしまう。
 だからこそ眼前の緑がよけいに際立つのかもしれない。色の変化といえば、
 「七変化」の異名を持つ紫陽花の季節も近づいている▼緑から白へ、そして
 鮮やかな色へと移り変わる花である。<紫陽花や白よりいでし浅みどり>
 渡辺水巴。浅みどりには空色という意味もあるらしい。きのう顔を近づけて
 みると、緑、白4、そして空色のまだら模様があった▼ ・・・・」

   と、この季節を描写していました。

 そう言われてみれば・・・

 我が家の紅葉 ちょうど 「赤」と「緑」が並んでおりまして・・・

 以前より、この時期の「緑」の紅葉には 眼を見張っていましたが
 こうやって言われてみれば・・・納得です。


 


  ほんと凄い! 若葉の品のよさを感じます・・・・

 文章には・・・頭の中で、やがて赤く色づくであろう姿を重ねてしまう・・・
 このくだり・・・そら 我が家では すぐ そばで 色彩を重ねて
 楽しめますよ!
      「赤もみじ」です。 年中、「赤」です。

 紫陽花の季節も近づいて~

      <紫陽花や白よりいでし浅みどり>


 
 コロナ禍  単色だった暮らしにも、変化が訪れつつある。

  今 少しの 辛抱・・・
  若葉の下で ゆっくり仲間と語らいながら楽しみたいものですね~
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インドの「ゴア」~いよいよヨーロッパへ

2020-05-23 | 日記
     謎多き琳派の祖 「俵屋宗達」 ×バロックの巨匠 「カラヴァッジョ」

   下巻の始まり!
       
         

 この二人の出会い・・・
 世界史の勉強していると、「世界」も「日本」も 
   時間は同じに動いている。
 同じ時代に生きていれば・・・もしかしたら?
 「出会い」はゼロではない。
 と、思うのは?  でも、みんなが そう 思うかどうか?

 当時、ヨーロッパの国々では、天正遣欧使節がイタリアに来ていることは
 大きなニュースであった・・・と 思います。

 そこに生活している人々もこのことについて知らないわけはなかった。
 そんなことを考えると・・・

 同じ少年時代の 「宗達」  「カラヴァッジョ」
 片や初めてのヨーロッパ  絵画の勉強に。
 一方は、ミラノで絵画の修行をしている身。

 どちらも、後世、ユニークな画家として大成するのだが・・・
 この天正使節という史実の中に挿入して、ドラマチックに
 出会いを作る~ 作者は、これは面白いぞ! と。
   二人を会わせよう ・・・と思ったのでしょうね。

 さあ どんな展開になるのか・・・美術鑑賞をしながら
     しばらく天正使節団を追いかけていきましょう。


1583年(天正十一年) 十一月  インドのゴアに到着
  
長崎を出航してから、すでに1年と9か月が過ぎていた。
ゴアに到着するまでに、一行は、セイロン島、ピスカーリア、コチンにそれぞれ寄港。
途中、いろいろな災難に遭遇。
 ある時は、海賊に襲われたりもした。 

 到着後、インドの副王ドン・フランシスコ・マスカレニヤスは、使節の四人の
少年をひとりずつ抱擁し、長旅の労をねぎらった。

天然の良港をもつゴアは、1510年、ポルトガルに占領されたのち、
1530年にはポルトガル領インドの首府となって栄えてきた。
イエズス会の最重要拠点として、多くの宣教師たちがこの地から
アジア各地へと送り込まれた。
 かのランシスコ・ザビエルも  

この地より日本に出立し、いまではこの地の
      「ボン・ジャズ・パリシカ聖堂」に眠っている。
       

 このファサード(正面部分のデザイン)は、
「世界最初の真のバロック様式のファサード」と言われている。

世界中のイエズス会の教会は、この教会をモデルとしている。
    聖堂内の     天井画は見事なもの
          

  内装部分も豪華で目を見張る・・・

          

 「ザビエルの遺体」
 銀の棺の中に、遺体が安置されており、ミイラ化した遺体が眠っています。
 10年一度公開され、信者がその姿を見に世界中から訪れます。

        
   
 
 教会のほかにも、数多くの修道院、学びの舎であるコロジオ他
              修道士たちのための施設が整っていた。

    (聖フランシス教会)
    

   祭壇
           

      (聖アレックス教会)
        
     (バナジ教会)
        
     (セ・カテドラル)
        

街を行く人々の肌の色は黒く、黒髪で大きな黒い瞳をしていた。
そしてこの街には、マカオとは比べられないほど多くの西欧人が暮らしていた。
歩いていると、聞こえてくるのはほとんどがポルトガル語である。

この頃になると、航海中に学び続けたきた成果があって、少年たちは
皆、難なくポルトガル語、そしてラテン語を話せるようになっていた。
 
 *宗達は、ゴアに到着してからも・・・とにかく描いて描いて・・・描きまくった。


  突然、みんなにヴァリニヤーノが、
  「ゴアにとどまることになった。
   この度、インドの管区長となり、イエズス会の活動を支えていくのが
   私の使命になったので・・・
   一緒にローマへ行くことが出来なくなった~」  と。
   
  私の代わりにローマまで同行する・・・・と
  ゴアの コレジオ・デ・サンパウロの院長
  「ヌーノ・ロドリゲス」が挨拶した。  

 ゴアの港を離れた~        
 インドのコチンに寄港し、そこで風待ちをして・・・1584年(天正十二年)
 二月二十日 西欧の入口となるポルトガルのリスボンを目指して出発した。

 この先はインド洋を渡り、アフリカ大陸の最南端、喜望峰を回って、大西洋に
 浮かぶ島、「セントヘレナ」に寄港するまでは、いっさい大地を踏むことなく、
 ただ水上をひた走っていかねばならない。
             どのくらい長い旅に・・・長くて十月はかかるという。

 船上では日々、少年たちは今まで以上にラテン語の勉強を懸命に学び
 日本語の読み書きも同じくらいの時間を費やした。
 指導にあたる日本人修道士、ロヨラもその秀才ぶりに驚いた。
 中でも、マルティノは際立ち、得意のラテン語で稿をしたため謁見のための
 披露をするための準備に怠りない・・・。

 季節風に帆をいっぱいふくらませ、使節団の船はどんどん加速しながら
 大海原を渡っていった。
    
           ↑ 喜望峰を無事通過した。
 

 
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長い航海は続く~

2020-05-22 | 日記
 1582年 天正十年 二月二十日

岬の先端、長崎港の上には、きりりと冷たい青空が広がっていた。
       
港の「はしけ舟」 
(港の真ん中に停泊しているポルドガルの船、ナウ船へと乗船者を運ぶはしけ舟のこと)
の前には、正装した四人の少年たちーキリシタン諸大名の命を受け正式に
遣欧使節となった伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルティノ
が、背筋を伸ばし、頬を紅潮させて佇んでいる。
脇には、パードレ、他引率・随行団がずらりと並んでいる。

 そして、少年絵師ー俵屋宗達である。 (もちろん、フィクションである)
 *おさらい=宗達の使命~・印刷技術の習得。
            ・「洛中洛外図屏風」をローマ教皇、グレゴリウス十三世に献上すること。

  遣欧使節団が乗り込む船は、「ナウ船」と呼ばれるポルトガルの貿易船
     真っ白い帆には赤い十字架が大きく描かれている。 
       
  これからの航海~マカオやゴアを経由しながらポルトガルへ渡り、そこから
西欧各国を経て、最終的にローマにたどり着く・・・という計画。
この季節は、西に向かって強い季節風が吹く。
 そのため二月の時期、この風を利用して航海するのが最も適していた。

長崎の港が遠くなり~やがてかすんで水平線の彼方へ・・・・

 一行の船は、まずは明国の貿易の玄関 マカオに向かう。
 およそ、二十日前後。
           ~ 船は進む ~

 出発 三日目までは 滑るように走り・・・
 ところが、四日目に天候が急変 雷が響き 怪しい風が吹き始めた。

   ・・・激しい嵐のあいだじゅう帆柱に必死にしがみつていた~
      船底に入ってくる水を桶で汲みだした~

 嵐を潜り抜けた後、ナウ船はようやく マカオの港へ。

 上陸後、マカオの大聖堂に到着した
            
  *聖ポール天主堂跡 (1602~1640年にかけて建設され、1835年に火事により崩壊。
              ファサード(正面)を残して現在に~。
        
  一行をマカオ大司教、マカオ総督、イエズス会の神父たちが出迎えた。
      大聖堂の周辺には幾重にも人垣ができた。

  それから、しばらくの間、使節団一行はマカオに留まった。

 16世紀のイエズス会は、宣教の拠点としてマカオを利用した。

    (聖ローレンス教会)
  16世紀中頃、イエズス会によって建てられマカオで最も古い教会の一つ。
    
     聖堂内部
    

   (聖オーガスティン教会)
    
 彼らは、マカオのイエズス会付属の学校で、ラテン語、ポルトガル語
 数学、音楽などを学んだ。

 一方、宗達は、足繁く「印刷所」に通った。
       
   初めて見る印刷機に目を見張った・・・
 これを使えば、同じ文書が何枚でも作ることができる・・・熱心に観察した。
   
 少年たちは・・・そのうちにポルトガル語で日常会話を難なくこなすように
        までなった~。

少年たちの上達ぶりは、同行した「通訳」 下図、中央の「(ディオゴ・デ・メスキータ)」
 も驚くほどの進歩・・・ひとえにローマ教皇の前で、確実な挨拶ができるようにとの、
  パードレたちの願いと、彼らの使命と信仰心の深さでもある。)
       

  

 天正十年の終わり・・・
  季節風が吹き始める頃、ふたたび出航。
  次に目指すは~マラッカである。 
    

  
  激しい嵐にいくたびも見舞われ、豪雨の中では大きな帆船も
  笹舟のごとく荒波に翻弄された・・・
            およそひと月かけて到着。

 マラッカ
  海上交通の要衝として、中継貿易の拠点として大いに繁栄した。

 ここは天国だろうか・・・錯覚するほど居心地がよく感じられた~
      
 大小の教会、壮麗な大聖堂も、鬱蒼とした緑の森が続く街中~
        
  
 人に引かれて象が歩いていたのを目にしたときは・・・・
  「うわっ 象や !  ほんまもんの象や! 」 と宗達は・・・
     
         象に向かって 走り出した・・・

 ◆俵屋宗達     覚えていますか?

このマラッカは、ヴァリニヤーノが心の師として仰いでいる
            
フランシスコ・ザビエルは、マラッカから出発して東洋で布教活動を広めた。
イエズス会にとっても重要な拠点と一つである。
            

  由緒ある 王宮 
       

  「セントポール教会とザビエル像」
       
   

  少年たちは、ここでも 語学と数学 楽器などの演奏などで時間を~

  次は、インドのゴアを目指して出航した・・・

  夕日の マラッカの港・・・ 


         
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ちょっと、ひとやすみ・・・

2020-05-18 | 日記
 「コロナ禍」の外出自粛を有効活用と思い長編に挑戦。
原田マハの「風神雷神」を読み始め・・・
 これは面白い~、いい機会だ!
 感想と、当時の歴史の背景を織り、登場する1枚の「絵」を
追いかけてきました。
 次々に出て来る、「絵」のを探し出す楽しさ・・・
いや、結構、これが大変。
こんな時期だから時間的余裕でやっていますがね。
 こっちの方にも、のめり込み広げている自分に気が付きました。

 その絵の物語、描いた人の物語~、広げればきりがない。
でも、おかげさまで楽しんで日々、この作業に時間を費やしておりますが
 「下巻」の到着で、少し時間を頂くことに。

 先ほどまで、庭の白砂を叩きつけ、飛沫が上がる猛烈な雨が~。
 そして、気が付いたら・・・音もなく、静かな辺り・・・
 しばらく庭の花たちとの会話? もご無沙汰でしたので
 声をかけてやりました。
  3年目に入る鉢植えの「ファイヤー・センセーション」
  赤紫の炎のような豪華な姿で、雨に負けずと開いています。

         

  これは2年目の鉢植え「ブラック&ブルーム」
   今朝の雨で 目を覚まし 顔を出したばかり~
     茎が黒で、葉が緑、花弁は青紫
      とてもシックな花です。
  「ファイヤー・センセーション」もこれもサルビア系の花です。

         

  すぐ隣に 2種類の「ホタルブクロ」
         

         

   この雨で、一挙に ニョキニョキ・・・一斉に花開くのでしょう。

  同じ並びに・・・「更紗ウツギ」
 

   日々、花開く 一粒 一粒
 

  また
 1輪ずつ 眺めると 手仕事の彫刻刀の作品みたいです。          
        

    可憐な 「姫ウツギ」
        

    
   今年の「母の日」に長男からのプレゼントが送られてきました。
   
   初めて見る花です。 名前が「カルミア オスボレット」
       原産:北アメリカ ツツジ科 耐寒性常緑低木
         薄ピンク色の小さな粒が寄り集まって
         

     その粒の一つ 一つが また 開き 白く広がって花咲く     

  2~3日後には 肩寄せ合って・・・ではなく、押しのけて満開の大輪に・・・

  楽しみです。

  雨上がりの 静かな時間を・・・
            

   これから 私も 静かに 下巻を 読むことに~ 
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続 黄昏どきを愉しむ

 傘寿を超すと「人生の壁」を超えた。  でも、脳も体もまだいけそう~  もう少し、世間の仲間から抜け出すのを待とう。  指先の運動と、脳の体操のために「ブログ」が友となってエネルギの補給としたい。