黄昏どきを愉しむ

傘寿を過ぎた田舎爺さん 「脳」の体操に挑戦中!
まだまだ若くありたいと「老い」を楽しんでま~す

ゴッホは、ほんとうにピストル自殺をしたのか? NO.21

2021-07-27 | 日記
<出ていってくれ>

<いやだ> 私は言い返した。 <私を描いて>

彼の顔が急に険しくなった。
<聞こえなかったのか。 出ていけと言っただろう>

<いやだ。 出ていかない。私を描いて>

<私が描きたいのはお前じゃない。 この花だ>
   
     
 
           ****

彼は私を見た。 ひやりと震え上がるほど冷たい目で。
いきなり私の胸をつかむと、無理やり部屋から追い出した

私は庭へ出た。 涙がぽたぽたと~
         気が遠くなるまで泣き続けた

泣き疲れて、膝を抱えてぼんやりと地面に視線を落とした。
ひまわりの根元の土がこんもりと盛り上がっていた。

また何か別の種を蒔いたんだろうか。
今度もまた、その花を描くつもりだろうか、私じゃなくて花の絵を

とっさに盛り土を思いっきりこぶしで叩いた。
そのとたん鋭い痛みが走った。
小さく叫んでその場にうずくまった。

何か硬いものが埋められている。
      ・・・・
土の中から出てきたのは、拳銃だった。
         
ずっしりと重い。私は息を詰めてみつめた。
土まみれの銃。 銃把(グリップ)に絵の具がかすかについている

私は銃を家の中に~土がついたまま包み、ベッドの下に押し込んだ。 

それから何日かのあいだ、彼はひまわりの絵を描いた。

ただただ描いた。 食べることも、眠ることも、
私がいることも忘れて、ひたすら描き続けた。 

そんなふうに熱中しているのを初めて見た。
魔物に取り憑かれたのかもしれない。私はふいに怖くなった。
花の絵を描き終わったら、彼は土の下に隠した拳銃を掘り返して、
私を殺し、自分の胸を撃ち抜く。
そうして全部終わりにしようとしているのかもしれない。

いやだ。私の方が先に死んでしまうのは。・・・だったら。
彼を殺して、私も死ぬ
そうしよう。あの絵を描き終える前に。 

夜になった。

私は、眠りこける彼の枕元に立った。
銃口を彼に向ける。

手がぶるぶる震えて、狙いが定まらない。
   

<私を殺すのか> 彼の声がした。

<殺す。そして、私も死ぬ> 

私は言った。震える声で。
<この拳銃で私を殺すつもりだったんでしょう。
 私先に逝くのはいやだ。あなたを殺して、追いかける。だから…>

<いいとも。さぁ、引き金を引いてみろ>
<私を殺せ、けれど、お前は死んではだめだ。
         お前の中には赤ん坊がいる>

涙が溢れた。 ~ 彼は体を起こすと、震える手からゆっくりと
         拳銃を抜き取った。
         そして、そっと私の体を抱きしめた。

彼の右手には拳銃が握られていた。
銃口はいましも青い火を噴くのが見える気がした。私の胸に向けて。
そうなってもいい、いっそ、そうなればいい。

      

<このリボルバーには、もう一発も弾は入っていない>
     
  彼のささやきが聞こえてきた。
              

<弾は、最初から一発しか入っていなかった。そのたった一発で
 私は撃ち抜いてしまったんだ。 あの男を
 
        

<ヴァエホ。お前は知るはずもないだろう。
 どうして私がこんな彼方へやって来なければならなかったか>

<私は彼に追いつきたかった。できることなら、追い抜きたかった。
 彼にだけは負けたくなかった。どうしても>

<彼は私の好敵手だった。たったひとりの友だった。
  孤高の画家だった。 人生の最後の一息まで>

<覚えておいてくれ。私がいまから話すことを。
  そして、生まれてきた子供に伝えてくれ。
  歴史には残されない真実を。 ‥‥このリボルバーとともに>       

 これまでの物語を通じ、もう皆さんも
   歴史には残されない真実

 ゴッホとゴーギャンとの真実(歴史考証ができている部分)と、
 原田マハさん創作のフィクションの合成
 十分に理解出来たのではないでしょうか。

 
 さて、私のこのブログもNO.21 と長くなり過ぎました。
 ことの結末を種明かしするのは、大変失礼なので
 この辺でブログも終わりにさせていただきます。
         {本は、あと84ページを残していますが…}

  *ゴッホが自殺に使ったとされるリボルバーは、
    2019年6月19日、パリの競売会社オークション・アート
    によって競売に掛けられ、16万ユーロ(約2千万円)で
    落札された。
          
   

 と言うことで~ 是非皆さんは、原田マハ「リボルバー」
      
   
 お買い求めいただいて、この物語の結末を楽しんでいただきたいのです

 さらに、最初の段で、ご紹介した
   「ゴッホのあしあと」
      
   「たゆたえども沈まず」
      

  併せてお読みになれば・・・
  このコロナ禍のやるせない鬱憤ばらしになるのは間違いない!

  
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ゴッホは、ほんとうにピストル自殺をしたのか? NO.20

2021-07-26 | 日記
エレナの告白

 サラ いとしい子、たったひとりの私の娘

 知っていたわ。教室に掛けていた<あの絵>を、あなたがずっと
 模写し続けていたこと。    
        
あなたにそうさせていたのは、あなたの中にタヒチ人の血と
 画家の血が――ポール・ゴーギャンの血が流れていたかもしれない。
          

 私はタヒチで生まれて、17歳で父と一緒にフランスに渡るまで、
 タヒチで両親と共に暮らしていたの。

 私のお父さん――あなたのおじいちゃんは、ギュスターヴ・ジラールは
         フランス人入植者で、貿易商をしていた。
 私のお母さん――あなたのおばばちゃんは、フランス人の父と、
         生粋のタヒチ人の母を持つ混血児だった。
         名前は、タウッアヌイ。
         フランス名はレア
         20歳の時ギュスターヴと結婚した。
         そして生まれたのが、
         私(エレナ)だったの

 画家になりたいと強く願うようになり、17歳の時に、なんとしても
フランスにと思い、父がフランスに帰国すると決めたのを折りに、
必死になって頼んだの・・・。

 父は「ウイ」と言ってくれたので大喜び。
 当然、母も一緒に。
 ところが、母は残ると言う。 私はびっくりして声も出なかった。

 母が言うには、
このパリ行は、あなたのたったひとつの望みだったんでしょう?
美術学校に行って、画家になるんでしょう?
それともあきらめるの?
ここで一生暮らしていくの?

母を置き去りにしてまで…私の心は引き裂かれそうに~
悩み、悩んで・・答えは出ず、出発の日はどんどん近づく。
とうとう熱を出してベッドに伏せってしまったの。

ふと気がつくと、母の声が。
エレナこの絵をごらん
       
 
 これはね、エレナ

 私のお父さんが‥‥お前のおじいちゃんが描いた絵。
 そして、この女の人は、私のお母さん‥‥お前のおばあちゃんよ。

  私の…おじいちゃんが描いたの?
  そう。彼の名は、ポール・ゴーギャン

 フランスから来て、この島で暮らした画家よ。
 母さんの名前はヴェエホ。
 14歳で父と出合い、妻になった。そして、をお腹に宿しながら
 父と別れた。母は実家に戻り、私を生んだ。
 父は、その翌年に一人ぼっちで死んでしまった。

 私は、母と祖父母に育てられ、父の顔を知らずに育った。
 その母も、私がギュスターヴと結婚する前に、病気になって
 天に召されてしまった。

 この絵はね、エレナ。
 私の母が天国へ逝ってしまう少し前に見せられたものなの。
 <レア、お前に渡したいものがある。
     お前だけに話しておかなければならないことがある>って。

 そのとき初めて、私は倒産の名前を聞かされたのよ。
 エレナ、いいこと? 
 お前の中にはこの画家、ポール・ゴーギャンの血が流れているのよ。
 だからフランスへ行きなさい。
 行って、画家になりなさい。
 それがお前の運命なのだから。

 お前が決心したら、そのときに教えましょう。
 私が母・ヴァエホから伝えられた「真実の物語」を、
 そして渡しましょう。
 この絵<ヴァエホの肖像>と、母から手渡された「お守り」を…。

 出発前日、最後の夜。部屋で母を待っていた。
 少し離れたところに立っていた。

 黒い瞳でじっとわたしを見つめると、後ろ手に持っていた何かを
 私に向かって突きつけた

       
        
     ~鈍い銀色の光を放つリボルバーの銃口を

 私は息を止めたわ。 だけど怖くはなかった。
 母が私に伝えなければならない「真実の物語」、その口火を切るために
 それが必要なんだと直感したから

 やがて、母はゆっくりとリボルバーを握る手を下した。
 そして、私をみつめたままで、唇が動き始めた‥‥
 母の口からこぼれ出た言葉。
 最初は静かに、次第に熱を帯びて…。

 ・・・私。 私の名前は…ヴァエホ
 私には男がいる。
 男の名前は、ポール・ゴーギャン。
 フランス人で、画家だ。

 彼は私を見つめていた。全身を目にして~
  私の目、唇、胸、腕、足、歩き方、スカートの裾…
 彼のがっしりとした樹木のような姿。
 日に灼けた肌、
 帽子のつばの下の血走った目。
 じっとりと粘っこい視線。  
        

 ある日、突然、彼は私の家へやって来た。
 そして両親に言った。

 <あなたがたの娘を私に下さい
  
 私は怖くて、自分の部屋に隠れたしまった。
 けれど、両親は私に言った。
 <ヴァエホや、あの人のところへ行きなさい。
  あの人と一緒になれば、きっといい思いをするだろう、
  そう、私たちも>

 ・・・そうするほかはない。

 彼は私を両腕に抱き上げて、馬の背に乗せて
      

 風通しのよさそうな 草葺屋根の家。<愉しみの家>へ着いた。

      

最初は怖かった。次第にそれは私にとっても愉しみに変わっていった。

 彼が「アトリエ」と呼んでいた部屋には、木枠に布張りした 
 「カンヴァス」がいっぱいに並んでいた。 
     
        

彼はその部屋で私にいろんなポーズをとらせ、絵を描いた。
彼が描いた。私の姿。はっとするくらいきれいで謎めいていた。

私以外の少女を描いた絵もあった。
薄い胸をあらわにした浅黒い肌の少女たち。     
濡れた瞳、くちづけを待ちわびる唇。
いくつもの私じゃない顔。
     

裸で横たわったり、立膝をしたりして‥‥

     

 誰なんだろう。絵の中の少女たちを見ていると、胸がむかむかしてきて
壊してやりたい気持ちになる。

我慢できなくなって、私は彼に言った。
 <ねぇお願い。 もっと私を描いて。
   私の知らない女の子を描かないで> 

 彼はこう答えた~
 <私にはいま、ほかに描きたいものがある。
  もうすぐフランスからくるはずだから、それを待っているんだ>

 なんだろう。
 何がやって来るんだろう。私は彼と共にその日を待った。

 ある日の午後、郵便配達人がやって来て、小さな封筒を届けた。

 <待っていたものが>
  それは植物の種だった。

 私は全身の力が抜けてしまった。
 そんなものにおびえていたなんて。
 (もしかすると、私にとって来ては欲しくないものが来るかもしれない。
   彼の家族とか、彼の妻とか…嫌な予感が私を怯えさせたの。)

 彼は種を蒔いた。 
 <毎日水をやってくれ>そう頼まれて・・水やりを続けていた。

  近くの泉まで水汲みがおっくうだった。食欲もなかった。
  新しい命の宿りに気がついたのは、緑色の双葉が伸び始めた日の
  ことだった。
       

いく枚もの葉が日に日に大きくなっていくのに合わせるように
私のお腹もだんだん、膨らんでいった。
私は彼に身ごもったことは言わなかった
彼は気づいているのに何も言わない~
変化に気づいているのに目を背けていた。

彼の視線が追いかけているのは…どんどん育っていくみしらぬ植物だった。
それは天に向かって挑みかかるようにまっすぐ伸びていった。

 どのくらいの日数が過ぎただろう~

 私を迎えたのは、金色に輝く大きな花だった。
 黄色い縮れ毛をなびかせて、まん丸で平べったい黒い顔が
 じっと私を見下ろしている。
       

 私は彼を呼びにいった。
 彼は裸足で駆け出し・・・花の前に立った。

 半開きになった彼の口から言葉にならないうめき声が漏れた。

 <咲いた>  彼はつぶやいた。<ひまわりが>

 
 それから何日かして
 <花を切ってアトリエに持ってきてくれ~ 色々合わせて15本>

        
 
  イーゼルとカンヴァスが横向きに置かれていた。
 
 <よし> 彼は両手をパンと叩くと私の方を向いた。

 そして、当たり前のように言った。  <出ていってくれ>
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ああ、うるさい!

2021-07-24 | 日記
 おはようございます。
とうとうオリンピック開幕しちゃいましたね。
 昨晩は開会式テレビ中継だったんですが、 入場行進が始まった~
 今朝起きて、思い出すと すでにあの時点で寝ていました。

 日中、庭仕事をしての疲れがどっと出た? 

 まぁ、アスリートの皆さんは競技が本番です。

今まで培ってきた力を思う存分発揮してもらいたい…これは誰しも願うこと。

国境を越え、人種も超えて、偏見のない人間同士の真摯な戦いを。

選手には共通のルールがあります。
その中での勝負は今大会が、いろいろ問題を含んだ大会として後世に残りそうですが~
 選ばれた選手の皆さんは、それこそ、人生最大のチャンス
悔いのない戦いを望むだけです。
 そのことに対して、私たちは熱い声援を送ることは
やぶさかではありません。

話し変わって。
 いやぁ~、もう今朝から大変な暑さです。

 昨日の夕方…
 遠くの空を眺めると…これは凄い!  真っ赤に燃えた空が

  何か異変の兆候???? 
   

  それにしても美しい~ しばらく見とれていました‥‥が

 やがて、消えてしまいました。
 

 我が家の庭には 沢山の「シマトネリコ」の木があり、その幹に
「ユーカリ」の枝にも~

早朝から 「蝉の大合唱」なんです。
     
      
 そのボリュームときたら‥‥? 何、デシベル?
 計ってもらいたいね。
       

 都会に住んでいたら…きっと、隣のおっさんに苦情連発を受けるかも?
       
        

 そうなんですよ、それも朝の6時ころから延々と~今、9時前

       
 ぴったと鳴りやむのは…いつでしょうか。       

 これも夏の風物詩と、柔らかく受け止めてやれば…と。


 蝉だって、必死なんですよね。
 長らく地中生活を続け、やっと地上に顔を出す。
 そして、短い命を懸命に~「鳴くのが仕事?」
 凄いエネルギーなんですよ、実際に近寄って、蝉の動きを見ていると
 全身を震わせ、羽根にこすりつけて、自分の「音」を出す。

 他の幹の仲間とも競争?かもしれませんね。

  もう奏でるなんてもんじゃないんです…吠えている!
 
  人間も同じ、生きていくには与えられた勤めがある。
 蝉にだって、その生涯の運命はどうしようもないのかも。

 いいよ、遠慮しないで、鳴くだけ鳴いてちょうだい!

    この季節だけの、私にとっても短い時間だから。
         我慢してあげよう。

 でも、こんな蝉の最期は いただけないなぁ~可哀そう!

 一生懸命鳴いた後~ 枝から 次の枝に 映る最中…
 蜘蛛の巣の網に捕まってしまいました。
 
  「ああ、憐れな姿」 しかも 二頭も。

  こんな光景は、めったに見られない~
  軒から 繰り出された 巧妙な仕掛けの 「蜘蛛の糸」
    蝉には、きっと この透明な糸が見えなかった…
 
                  右側に白く光っているのが糸  👇   
  
 近寄って網を見ましたが凄く精巧な造作なんですよね。
    この雲の網、まさに芸術品です。
    しかし、獲物を捕獲する、武器なんですね。 怖い。
  
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ゴッホは、ほんとうにピストル自殺をしたのか? NO.19

2021-07-22 | 日記
 先週の土曜日
 皆さん、オルセー美術館の名品鑑賞して頂いたと思います。
 いかがでしたか?
 先週、 サラは仕方なくひとりで出かけていった。
              ‥‥というところで終わってました。


物語に入ります!

 サラはオルセー美術館に足を運びました。
子どもの頃からルーブルで見つめ続けてきたゴッホとゴーギャン
 二人の絵が、後期印象派展示室の一室を完全に占領して、
右と左
前と後ろ


対面する壁にそれぞれ展示されて向き合っていた

  

何度も、何年もみつめ続け、追いかけ続けてきたふたりの絵。

それぞれの作品の前で、サラは長いこと立ち止まった。

ゴーギャン作    <黄金色の女たちの肉体>


 制作された1901年はゴーギャンの死の二年前で、その展示室の中
では晩年の作というべきものだった。

もはやゴーギャンのアイコンとなっている褐色の肌の若い女性がふたり、
ほぼ全裸で、ラベンダー色の敷物の上に座っている。
黒い瞳は誘うような微笑が浮かび、健康的なエロスの匂いが漂っている。
豊かな黒髪も、つややかな肌も、膨らみかけた乳房も、去年まであった

<あの絵>の中の女性・・・・
       

 母の言葉を信じるのならば、サラの曾祖母===とよく似ていた。
              (*このシーン 記憶しておいてくださいね)
この女たちは、ゴーギャンと深い関係にあったのかもしれない。
 ゴーギャンが性的に奔放だったこと、モデルの女性としばしば
肉体関係を持っていたこと、タヒチ人の少女を愛人にしていたことも、
サラはもはや知っていた。

とすれば~ 私のひいおばあちゃんも? 

あわてて絵の前を離れた。
まるで意中の人と出合いがしらに目を合わせてしまったかのように。

 <黄金色の女たちの肉体>に背を向けて、真向いの壁に
展示してあるゴッホの晩年の傑作
<オーヴェール・シュル・オワーズの教会>の前に佇んだ。
      
コバルト色の空をを背景にすっくり立つ教会が、気品あふれる貴婦人のようにも、
痛手を負ってうずくまる巨大な獣のようにも見える。
聖俗が混在し、清濁を併せ持つ。それがゴッホの絵の特徴だった。

補色を意識した色遣いと呼吸が込められた筆運び、その斬新さ、躍動感に
あらためて向き合って、  サラは口の中で、ブラヴォー! と。


 この絵が描かれた1890年、世の中はゴッホを決して認めようとは 
 しなかった。
 ゴッホを精神的にも経済的にも支え続けた弟のテオでさえ、
 これほどまでにとんでもない絵を平然と撃ち込んでくる兄の途方も
 なさに恐れをなしたことだろう。

 ゴッホはまったく別次元の画家だった。

 それにくらべると、ゴッホが生きていた頃のゴーギャンのなんと
 おとなしくて常識的なことか!

アルルでの決別のあと、ゴッホとゴーギャンは
二度と会うことはなかった。

それがいま、新美術館の同じ展示室で、
あっちこっちの壁にそれぞれの作品が掛けられて、
真向対峙している。 ‥‥どう思うだろうか。

もしここに、ゴッホとゴーギャンが居合わせたら。
   

お互いの絵が向かい合わせに展示され、
それを見るために世界中の人々がひっきりなしにここへやって来る。

 いま、この現実を、彼らが目にしたら?


そういえば、自分はこの教会のある場所---ゴッホの終焉の地
 オーヴェール・シュル・オワーズに一度も行ったことがない。

この教会は今もあるのだろう。
自殺したゴッホの葬儀を拒否した教会だ。
近くの墓地にはゴッホ兄弟が眠っているということだ。
  一度行ってみよう、と、サラ心に決めて、
オルセー美術館を後にした。

――――ねぇ お母さん、今度の週末に
オーヴェール・シュル・オワーズへ一緒に行ってみない?

サラに誘われて、エレナは一瞬、昔ばなしでも聞いたかのように
懐かし気な表情を浮かべた。 が、母は弱弱しい声でこう言った。

 いってらっしゃい、うつくしいところよ。

私もあなたの年頃に、ファン・ゴッホが描いた風景を追いかけて、
何度も通ったわ。‥‥あなたが生まれる前に。


 オーヴェール・シュル・オワーズ駅にひとりで降り立ったサラは、
短い坂道をたどって
ゴッホが描いたあの教会へと向かった。
 実際に見てみると、想像していたよりも小さく、色あせて古ぼけた建物だった。
フランスの田舎町ならどこにでもあるタイプの教会だ。
         

こんなちっぽけでなんてことない教会を、まるで人格があるかのように
堂々と描いてしまう画家の度量に、サラはあらためて舌を巻いた。

 麦畑       

 ドービニーの家   

 医師ガシュの家     

 ゴッホゆかりの場所を訪ね歩き、最後に共同墓地へ出向いて、仲良く並んだ
ゴッホ兄弟の墓の前に佇んだ。
           

 青々と茂る葉が北風に震えていた。

パリに戻るまえに、ゴッホが下宿していたという食堂「ラヴー亭」に
立ち寄った。
         

テーブルに着き、注文を取りに来た給仕係に、
豚肉のリエットチコリのサラダ、それに赤ワインを頼んだ。
                     

男の肩越しにカウンターの後ろの壁が見え、そこに錆びた赤茶けた
鉄の塊のようなものが掲げてあるのがふと目に入った。
サラは奇妙な形のオブジェをじっと見つめた。

どうやらピストルのようだが、手入れの行き届いた趣味用の
アンティーク銃とは異なり、汚れた血のような錆が全体に付着して、
かろうじてピストルだとわかるような状態だ。
        
         誰かのアート作品なのかな。

料理の皿を運んできたギャルソンに、訊いてみた。

 ・・・ あのピストルのようなものが何ですか? ・・・

ああ、あれね、と男は、さもつまらなさそうな声で返した。
あれはファン。ゴッホが自殺に使ったっていうリボルバーだよ。

えっ? とサラはとっさに訊き返した。
 なんですって? ファン・ゴッホが‥‥?

・・・よく知らんけどな。
あれはこの店の先々々々代くらい前の主人の持物で、何十年だか、
何百年だかまえに、この部屋に下宿してたファン・ゴッホって絵描きが…
あんた知ってるかい、その絵描きを?  ああ知ってる、そう、
あのファン・ゴッホが借りたか盗んだかして、あっちの方の麦畑で、
こう、バン!ってね。胸を撃っておっ死んだそうだよ
それでピストルは長らくどっかへいっちまってたんだけど、
二、三十年まえに近所の農家の親父が自分のとこの畑を掘り返したら出てきて
それで騒ぎになってだな‥‥気味悪いし、先の持ち主に返そうってんで、
以前の主人の家族に返されたんだが、いまじゃ有名な絵描きのファン・ゴッホが
自殺に使ったっていうんなら、本人の下宿先だった食堂に飾っときゃ面白いだろう
、ってわけで、
そこにあるんだよ。 ま、よく知らんけどな。
   そんなとこでいいかい、マドモワゼル?  さぁ、食べとくれ。

 サラはぽかんとしたままで一方的に話を聞かされてしまった。
まるでお伽話のようなのどかさだった。

帰宅後、教会や麦畑やゴッホ兄弟の墓について娘が語るのを、
エレナは静かな笑みを浮かべながら聞いていた。

そして、そう、よかったわね、とひと言だけ口にすると、
それきり何も言わなかった。

オーヴェールへの訪問をきっかけになって、サラは定期的にゴッホの
足跡をたどる旅に出かけるようになった。


 アルル
       

 サン・レミ・ド・プロヴァンス
       

 オーヴェール
         

フランス国内に限っていたが、自分のスケッチ旅行も兼ねて足を運んだ。
サラのゴッホ巡礼は26歳で始まり、58歳の現在に至るまで、
30年以上も続けられた。

本音を言えば、ゴーギャンの足跡もたどってみたかったのだが、
こちらはブルターニュ、ポン・タヴァン
 
            
を一度訪ねたきりで、肝心の
タヒチ・ポリネシア行きは、望んだところでかなわなかった。

それぞれの土地にはゴッホが描き残したモティーフが
いまなを姿を変えずにそこにある。
サラにはそれが不思議であり、またありがたいようでもあった。

アルルの夏のヒマワリの黄色がまばゆく彩り、
         

サン・レミの初夏をアイリスの青が凛々と縁どっていた。
         

オリーブの枝葉は幾千の銀色の蝶となって風の中で乱舞、

夜半の糸杉は黒い塔に姿を変えて月を貫いていた。

オーヴェールの野ばらは宵をすくい取ったようんひんやりと
青白くほころび、
                     

風が麦畑のさなかに黄金色の道を開いていた。



 サラは、ゴッホの作品の中で、
何といっても<ひまわり>が好きだった。
アルルで過ごした最初で最後の夏に、ゴッホはひまわりの絵を
四点制作した。
その後それらを下敷きにしてさらに三点、描き足した。

残念なことに、アルルで合計七点描かれた<ひまわり>は、
一点も同地に残されていない。

そればかりか、ゴッホによってアルルで制作されたおびただしい
作品はただのひとつも同地にはなかった。

長い歳月の中でゴッホが伝説化され、その革新性が認められ、
価値が上がり、世界中の美術館やコレクターのもとへと散らばった
結果、そうなってしまったのだ。

この<ひまわり>の絵の中で最も有名な1点は、
ロンドン・ナショナル・ギャラリーにあった。

    

            👇
    
            👇
         
     
 一度でいいから見てみたい。
 サラはひとりで出かけていった。
 28歳のときのことである。 

ゴッホゆかりの土地を旅して描き溜めたスケッチをもとに、
サラは自らの作品を制作し続けた。
定期的に個展を開くようになった。
必ず買い入れてくれる愛好者たちもいる。
 画家と名乗れる満足感はあった。

パリから電車で小一時間で行けるオーヴェールは、サラにとっては
第二の故郷のように感じられる場所となっていた。

オーヴェールに通い始めた翌年、
オーナーが替わって改装するとのことで
ラヴー亭は突然閉められてしまった。

またその翌年、28歳のときのことである。
オーヴェールへ出向いた。

いつもようにラヴー亭に立ち寄ると、主人がやって来て、
意外なことを告げた。

 ‥‥この店を閉めることになったよ。

サラは驚いて、改修するんですか? と訊くと、
主人は首を横に振った。

この店も、建物も土地も、全部ひっくるめて買いたいという
人物が現れたんだ。ベルギー人なんだがね。
気味がしばらく来ないうちに、いや、まぁ、なんというか、
大変なことが起こってね‥‥。

サラがリアム・ペータースに初めて会ったのは、
それから6年後のことだった。

店と建物と土地をすっかり買い取って改修した。
そして、ゴッホ終焉の部屋の一般公開に踏み切った。
        

ふたりは互いにゴッホを置きかける続けているということで、
すぐに意気投合した。
ペータース最終目的は、ゴッホの最後の夢をかなえること。

最晩年にテオに送った手紙の中の一節       
 ‥‥いつかカフェの壁に僕の絵を飾って個展がしたい‥‥を、

 彼が息を引き取ったこの場所で実現することだった。

その思いはサラも同じ。
 サラはペータースの深い思いと情熱に心を打たれ、感銘した。
そして、財団の活動は次第に世界中に失られるようになり、
ひっきりなしに観光客が訪れるようになった。
サラは自分にできる限りのことを、財団の為に、ゴッホのために
したいと考えていた。
自分には母以外に家族もいないので、母から受け継いだ
アパルトマンを生前贈与鵜することも考えていた。
やりすぎだとはちっとも思わなかった。
そこまでするのは、ペータースに恋愛感情があったからではない。
二人の関係は同志に近かった。

諦めたくはなかった‥‥

オーヴェールで描かれたゴッホの作品が一点もこの地にないのはおかしい。
 オルセー美術館にある<オーヴェールの教会>は、ほんとうならば
この場所で公開されるべきだ。
                 


月日が流れ  ~  サラは58歳になった。

ペータースに協力するようになって四半世紀が経過していた。
しかし、「ゴッホの夢」はまだ実現していなかった。
それどころか、ますます遠ざかっていた。

街路樹のつぼみはまだ固かったが・・・
 春が近いとサラは分かった。
 

セーヌの水源近くの雪解け水がこうしてパリまで運ばれてくるのだ。

 94歳を数えるエレナは、すっかり足腰が弱くなったものの、
大きな病気一つせずに元気でいてくれた。

けれどその冬、風邪をこじらせ、床に伏せって
とうとう起きられなくなってしまった

サラは片時もそばを離れず、母を介護した。
しばらくオーヴェール行きもお預けだった。

すると、思いがけずお見舞いの花束が届けられた。

 ひまわりが15本あった。
      
        送り主はペータースだった。

 以前アルルを旅した時に、買い求めた黄色い壺があった。

 それにかたちよく生けると‥‥
            
     ゴッホが絵から抜け出してきたようだった。

 見て、お母さん、ほら、ひまわりよ  と。
     ベッドのわきに壺を置いた。

 エレナは宙に視線を放ったまま、ええ、わかるわ、とつぶやいた。

 そして消え入りそうな声でこう言った。

 ~遠くへ逝ってしまうまえに・・・私は、あなたに話して
 おかなければならないことがある。 聞いてちょうだい、サラ。

 そして、私が今から話すことを、誰にも言わないで。
     たったひとりだけ、私があなたに伝えるように、
     あなたが選んだ誰かに、話して伝える以外は。

 私はこのことを、私の母さんに聞かされた。
 彼女を残して、私が実家を出ていく直前に。
 母さんはこう言っていたわ。

 ~私は このことを、私の母さんに聞かされたの。
  エレナ、あなたのおばあちゃんに。
  <あの絵>の中の、白い花冠の・・・あのタヒチの女の人に。
         

 ~サラ。 私のおばあちゃんは…あなたのひいおばあちゃんは…。

    ‥‥ポール・ゴーギャンの愛人だった。
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ゴッホは、ほんとうにピストル自殺をしたのか? NO.18

2021-07-17 | 日記
 昨日、タイトル 「ゴッホは、…」NO.16 は間違い。
 ダブってしまいました~NO.17 です。 ごめんなさい。
連載が長すぎて、今日は NO. ? って…。

さて、サラの追想…<あの絵>騒動から
 時代を遡って…少女時代から 母エレナ 最期の「真実の物語」を。
  話す、直前までを、そして、次に、母「エレナの告白」へと続きます。

       

  ポール・ゴーギャンが描いた、タヒチの女姓の肖像。
この絵が教室に現れてからは、早めに教室に入って、スケッチブックを
広げ丹念に絵を描き写す。そして授業が始まる少し前に閉じて、
自分の部屋に持ち帰った。
母には模写を見せたくなかったし、<あの絵>に魅了されていることを
誰にも知られたくなかった。

 そのころからサラはひとりでルーブル美術館へ出かけるようになり
ゴッホとゴーギャン、それぞれの絵にひたすら見入った。

       

 サラはルーブルに通い続けるうちに、ゴッホとゴーギャン
それぞれが、時代が推移するうちに変わっていくのを明らかに感じられるようになった。
 二人の絵が近づいたり、離れたりするのも。
そして、互いに共鳴しあうのも感じられるようになっていった。

高校に通い始めた頃には、とうとう気がついてしまった。

 ゴッホが死に向かって駆け抜けていったのに対して、

 ゴーギャンは
その後を必死になって追いかけているようだったことに。

 ゴッホゴーギャンが、

 弟のテオの支援を受けて、アルルで共同生活を送ったのは
1888年10月から12月にかけての2か月間。

 その時期に制作された作品で、当時ルーブルで見られたものは、

 ゴッホの       <アルルの女>

        

              <アルルの寝室>

        

     <アルルのダンスホール>

             

 ゴーギャンの作は、一点のみ。

          <レ・ザリスカン、アルル>
        
        

折角共同生活を始めたのに~
互いを牽制するような強烈な個性と、好きなものを好きなように描く
自由奔放さに溢れている。 
二人は絵の中で激論を交わし、しまいには取っ組み合いのけんかを
しているかのようにサラの目には映った。
それでいて、ひたと寄り添うような、ぐいっと引き寄せられていくような
気配があった。
         ゴッホのほうへ、ゴーギャンが

ポザールに進学したころサラは、
それぞれの専門書にも目を通すようになっていた。
どの本にも、ゴーギャンとの共同生活を熱望していたのは
ゴッホのほうだったと書いてある。

サラの考えは違った。
ゴッホは磁石で、ゴーギャンはそれに引き寄せられる砂鉄だ。
強烈な磁石に自らの回路を狂わされてしまうと感じたゴーギャンはできるだけゴッホの影響力から遠ざからなければと、ゴッホのもとを離れたんじゃないだろうか?

 もっと遠くへ~そう思ったからこそ、
ゴーギャンはとてつもない「彼方」へ…
タヒチへ行こうと思い込んでしまったのでは?

なぜそんな僻地へ行ってまで、
  絵を描き続けなければならなかったのか?
      

 彼ら(画家たち)のとてつもない挑戦に思いを馳せながら~
サラは画家になる道を模索し始めた。
 けれど、母がそうだったように、絵筆で一本で生計を立てていくことの
難しさを知っていたので、ポザール卒業後は美術学校の教師になる選択を
した。   

   ~そして、サラが美術教師になって一年目
        25歳の時にあの事件が起こった。

    ‥‥この事件については、説明済み ‥‥
 
その結果、エレナは落胆のあまりベッドに伏せて
     起き上がれなくなってしまった。
サラは弁護士に相談し、手を打ってみたが~空回りするばかり。
「あきらめたほうがいいでしょう」と弁護士に諭された。

お母さまにはお気の毒ですが、代わりにあなたがすばらしい絵を描いて励まして差し上げては? 

翌12月、セーヌ河左岸にオルセー美術館がオープンした。(1986年)

旧駅舎を再利用した巨大な建物に、それまで主にルーブル美術館に収蔵されていた19世紀のコレクションが移管され、印象派・後期印象派のコレクションもすべて新美術館で展示されることになって、世界中の美術関係者・愛好家の耳目を集めた。
  <オルセー美術館外観>
       


 <旧駅舎を模した内部>
  


昨年来、気落ちして一気に老け込んでしまった母を元気づけようと、
サラはエレナを新美術館へ誘ってみた。が、エレナは腰を上げない。
 いまは見たくないのよ、ファン・ゴッホもゴーギャンも。

     サラは仕方なく ひとりで出かけて行った。

** お ま け **

さて、この「リボルバー」のブログも、延々と続き~
来週は、すったもんだの挙句の果て…
コロナ禍の「東京オリンピック・パラリンピック」の開幕の週です。
 「無観客」試合…なんと侘しい大会でしょう! 
  ほとんどの人々は、「テレビ観戦」ということに。

そんな時に合わせて、このブログも…
 サラが、独りで「オルセー美術館」に出かけていくことに…

ちょうど私たちも、なかなか美術館にも行けない今日ですよね。

そして今日は「土曜日」です。
普段なら、近くの美術館などへと、
そんな時間の過ごし方もあるのですが・・・この小説をお借りして?

「オルセー美術館」の、ゴーギャンの作品
 (今まで紹介してきた「作品」を除いて、現在展示されている多くの
   作品を、このコロナの今、行ったつもり」で鑑賞するといった
  ことを私、考えました。ので、
 これからたっぷり作品を楽しんで土曜のひとときをお過ごしください。

  <イエナ端からみたセーヌ河>
       

  <マンドリンと花>
       

  <ポンタヴァンの洗濯女たち>
        

  <シューフネッケルの一家>
       

  <牛のいる海景(深い淵の上で)>
       

  <美しきアンジュール>
       

  <黄色いキリストのある自画像>
       

  <黄色い積みわら>
        

  <扇のある静物>
       

     <食事>
       
  
  <アレアレア(愉び)>
       
  <帽子をかぶった自画像>
         

  <デビッドミル>
         

  <ブルターニュの農婦たち>
         

  <雪のブルターニュ村>
         

  <友 ダニエルに捧げられた自画像>
         

       <ヴァイルマテイ>
         

        <白い馬>
         

  <黄金色の女たちの肉体>

  いかがでしたか ~ 
 凄いでしょ、これだけ一堂に会して鑑賞できるなんて・・・・
 まさに「画面上の美術館」 でしたね。

    ゴーギャンも 喜んでいますよきっと…

   皆さん、ありがとうございます!
       コロナに負けず、頑張ってください。

  そして、機会があれば是非、パリ オルセー美術館へ足を向けて
   直に 私の力作 本物をご覧いただければ 幸いです。

      

  と言う訳で・・・・きょうはこれで お終い。
        でも、まだまだ続きますよ。 
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ゴッホは、ほんとうにピストル自殺をしたのか? NO.16

2021-07-15 | 日記
これから「サラの追想」「エレナの告白」「ゴーギャンの独白」
 続きます。

サラの母(エレナ)は、ゴーギャンの孫娘
ゴーギャンサラの曽祖父
この3人の「人生」を追いかけていきます。
 共通しているのは、「ゴッホ」と その所縁ある「オーヴェール」                       
               
   
それぞれの時代で(ゴーギャン、エレナ、サラ)はこの縁ある地での
出来事を振り返ることになります。

いや、この物語に登場する、「冴」も、同じ地(オ-ヴェール)を
同じように訪ね歩き、当時を実感し、史実との整合性を確認していく
のです。

 まず最初に「サラの追想」から

  何人かの子供たちが一心不乱に色鉛筆を動かしている。
母は、子供たちの間ををゆっくりと歩きながら、一人一人の
スケッチブックをのぞき込む~
      

サラは色鉛筆を持ったまま、もじもじして、何も描けずにいる。
その日、仲良しの子に言われたのだ。
 ‥‥サラ、絵が上手だね。
いっつも先生に絵の描き方教えてもらってるんでしょ。
いいなぁ。
だって先生はサラのママンなんだもん。

 ・・・・母、エレナは画家だった。

サラには生まれたときから父親がいなかった。
エレナは絵画教室の生徒の父親と恋仲になってサラを宿した。
~という出自についてサラが知ったのは、ずっと後になってから
のことである。
独りでサラを育て上げた
母と同様にサラも家庭を持つことなく、また、子供を持つこともなった。

サラは、エレナが他界するまでずっと一緒に暮らしてきたので、
何でも話せる親友同士のような関係だった。

サラは母にだけはどんな小さな隠し事もしなかった
母もそうだった。
そう信じて疑わなかった。
エレナが他界する直前までは。

サラは物心ついた頃から、エレナに連れられて美術館へよく出かけた。

 頻繁に訪れたのはルーブル美術館
       

          
    
 オルセー美術館は(1986年開館だから、サラが20代半ばから)

         

  
 オルセー内 ナビ派やゴーギャンの絵の展示室
    
サラは印象派の作品に自然と親しみを覚えるようになり、画家になりたい
と夢見るようになった。
何んといってもサラのお気に入りはゴッホだった。 

<アルルの女>の黄色
       

<アルルの寝室>のベッドの赤
       
           

晩年に描かれた<オーヴェール=シュル=オワーズの教会>の空の青

       

 それぞれの色に少女のサラはいつもぎゅっと抱きしめられるような
感じを覚えた。

サラはいつしかゴッホの絵に夢中になった。
 絵本を読み、伝記を読み、評伝を読み、ゴッホの絵を模写しながら
成長した。

またあるとき、こんなことがあった。

やはり十歳前後の頃
いつものようにルーブル美術館でのこと
ゴッホの絵の前で模写を始めたサラを見守っていたが、しばらくして
母エレナが声をかけてきた。

・・・ねえサラ。 ポール・ゴーギャンの絵をどう思う?

母の肩越しに、向かいの壁に掛かっている絵 
           <タヒチの女>が見えた。

タヒチ時代のゴーギャンの代表作のひとつである。

ピンク色のワンピースを着た少女と、白いノースリーブのブラウスに赤い腰巻の少女。浜辺でくつろぐ二人のタヒチの少女が画面いっぱいにどっしりと座っている。
つややかな黒髪、ぽってりとした唇、褐色の肌。



あれ? とサラは気がついた。

 あの子たち、なんだかお母さんに似てる‥‥。

  そう口には出さずに、サラは、ふうん、と首をかしげて見せた。
 ‥‥あんまり興味ないし、好きじゃない。

 どうして? ファン。ゴッホは大好きなのに?
 
 ‥‥そうだよ。でも、ゴッホとゴーギャンは別の画家でしょ
 
そう、その通りよ。
ふたりはお互いに真似はしなかったし、ほかの誰にも似ていなかった。
生きているあいだはどちらも世の中に認められることはなかった。
でもね、彼らは、それぞれに素晴らしい画家だったのよ。
 彼らは、それを分かっていたんじゃないかな。‥‥お互いに

それから数日経ってのこと。
 自宅の絵画教室に1枚の絵がかけられていた。
見覚えのある女性の肖像画だった。
           
サラは、あっと声を上げた。
 ゴーギャン。 ポール・ゴーギャンだ。 ぜったい、そうだ。
そして、あの女の人は‥‥

ドアーの向こうで、
エレナと到着した生徒たちがあいさつを交わす声が~

突然、ひとりが大声で言った。
 ‥‥この女の人、先生に似てる。

サラは、どきりとした。
ほんとうだ似てる、と子どもたちははしゃぎ始めた。

そこへエレナがやって来た。

先生、この絵の中の人、先生に似てる。
ねぇ先生、この絵は先生が描いたの?
この絵の人は先生なの?   

子供たちに囲まれて、エレナは少し困ったような、
くすぐったいような~
~みんな静かに。

さぁ、席について、この絵のこと、教えたあげるから。

この絵の中の人は、私のおばあちゃんよ。

どよめきが起こった。
凄い、あたし知ってる。
有名な画家だよ、ぼく美術館で見たことある‥‥

その絵はそれからずっと教室の壁に掛けられていた。

エレナの祖母…サラの曾祖母はタヒチ人だったということ。
つまり、自分はタヒチの血を受け継いでいるのだということ。
自分につながってている人物が、ゴーギャンの絵のモデルを務めたと
いうこと。それで充分だった。

それから十五年後。
自分の創作を続けながら、パリ市内の市立美術学校の教師になった。
エレナは六十歳を過ぎたころ、絵画教室を閉めると決めて生徒や保護者に告知をした。
誰もが引退を惜しみ、皆が労ってくれた。

事件はその直後に起った

サラが職場から帰り、自宅の玄関口でエレナが警官らしき男たち
数人に囲まれて事情聴取を受けていた。

娘の顔を見たとたん、ああ、サラ! 
 と悲痛な声で叫んでエレナがしがみついてきた。

声を絞り出すようにして、彼女は言った。
‥‥<あの絵>が‥‥ゴーギャンの絵が‥‥盗まれてしまったの‥‥

あの絵に関する写真はおろか、もともと何の資料も持ち合わせていない
<あの絵>が盗まれたことも、教室内に飾ってあったことすら証明できず、
エレナは困り果てていた。

警官たちも困惑の様子を隠せないようだった。
ここにあったポール・ゴーギャンのタヒチ時代の絵が盗まれたと言われても、まったく雲をつかむような話だからである。

警官は、
母の精神状態、妄言ではないか、
または事故で記憶がおかしくなる後遺症があるとか~・・・・

警官の質問は続き~  サラは 荒々しく部屋を出て行き、自室から
スケッチブックの山から、何枚ものクロッキーと水彩画を…
‥‥さぁ、見て! これが証拠よ! 私が10歳のときから昨日まで、
その絵はここにあった<あの絵>は、 この場所に、私たちと!

‥‥参考資料としてお預かりします、と感情のない口調で警官は言った。

それっきり、<あの絵>は消えてしまった。

 母が生きているあいだ、そして母が死んでしまっても、
        サラのもとには戻らなかった。


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ゴッホは、ほんとうにピストル自殺をしたのか? NO.16

2021-07-14 | 日記
 サラが指定してきたカフェには待ち合わせの時間より早めに到着した
のだが、すでにサラは、ランチタイムで賑わう中、ぽつんとひとりで
待っていた。
                        
 
「こんにちは サラ。 お元気ですか」

       挨拶を済ませ、お互いにコーヒを注文。
                                       

サラは、突然口調を変えて~
「リボルバーを預けて、ひと月近く経ったわ。 
 いつ連絡くれるのかと、 ずっと待っていたんだけど…
 あれっきり、連絡ないのでどうしちゃったのかと心配になって、
 それで呼び出したのよ」

「調査の結果、もう全部片付いたのかしら?」

冴は「ほぼ終了しました」

「すぐ教えてくれればいいのに。
 一体いくらで落札されそうなの?
 あれがオークションに登場すれば、大きな話題になるでしょう。
 あなたたちにとってもビッグ・チャンスじゃないの。

  そのために私、思い切ってあれを、ゴッホとゴーギャン
 両方の専門家だというあなたの所へ持ち込んだんだから」

 さらに、サラは 美術館に確かなものだと保証してもらったのだ、
 愛好家ならかなりの金額で落札するはずだ…等々 
 
     売り込みにめいた言葉を並べ立てたが~

 冴が、いっこうに応じないので、そのうちに黙り込んでしまった。
 サラの顔 眉間のしわに苛立ちがくっきりと表れている。

冴は覚悟を決めて、言った。
 「残念ですが、サラ。
   あのリボルバーにはなんの価値もありません。
   よって、オークションに出品することはできません」

サラが息をのむのがわかった。 
 
 「‥‥どういうこと?」
 「だって、あれは、正真正銘の、ゴッホを撃ち抜いた銃なのよ。
  ゴッホ美術館で出品されたのが、本物だという動かぬ証拠
  じゃないの」 

    
  
    
 
「ええ、その通りです。」サラが切り返した。
「あなたが持ち込んだあのリボルバーが、展覧会に出品されたリボルバーと
 『同一のもの』だったらね」
           
冴は続けて言った。
        

「私は、ゴッホ美術館の展覧会のキュレーターのアデルホイダ・エイケン
 に会って、リボルバーの画像を見せたら、
『これは違う』と

 展覧会に出品されたリボルバーとは別のものだと、
         そうはっきり言われました。」

サラはそのままぴくりとも動かなくなった。


 冴は、昨日、国立図書館で調べてる最中に、
サラからのメッセージ 「話せませんか、ふたりきりで」
その瞬間、悟ったのだ。

サラに直接会わない限り、この謎は永遠に解けないだろう。

あのリボルバーは、ほんとうのところ、いったいなんなのか?
あれこそがゴッホを撃ち抜いた狂気なのか?
ゴッホが自分で引き金を引いたのか?  とすれば、
もとはゴーギャンが所有していたという話と
どうつながって来るのか?
そもそも、
ゴーギャンがあれを所有していたという確証がどこにあるのか?

冴が、サラと会ったのは一度だけ。
彼女がリボルバーを持ち込んだとき限りだ。

あのときも、いままでも、サラの口からは一言も「ゴーギャン」の名前
は出てこなかった。

 あれを「ゴーギャンのリボルバー」と言ったのは、
リアム・ペータースである。

以前のペータースの話で、
サラは、オークションで得た金はそっくり
そのままインスティチュート・ファン・ゴッホに寄付するつもりなのだから
と。  ・・・・なぜ?

ゴッホの熱狂的な信望者としてなのか。
ゴッホの為に人生をかけたペータースに共感したからなのか~。

    サラ・ジラール。 あなたはいったい、何者なの? 

 冴は、ごく静かに語りかけた。

「あのリボルバーは、ゴーギャンのリボルバー・・・なのですか?

サラの肩先が、ピクリと動いた。
何か言おうとして~なかなか言葉が出てこないようだ。

冴は、そして言葉を続けた。
「この前、私たち、「あなたのリボルバー」が、
別物だと判明したので
‥‥何か手がかりがあるかもしれないと思って、ラヴー亭へ行き、

       

リアム・ペータースにお会いし、いろいろと聞かされた話
私の知識と照合しました。

つじつまがあっているか、矛盾はないか、史実から逸脱していないか。
・・・・そして、すぐに分かりました

矛盾だらけで、完全に史実から逸脱している。
出来の悪いミステリーそのもの。
信じられるわけがありません。

さらに挑発的な言葉を吐いた。

うちの社長が、うまいミステリー話に乗せられて~
自分の推理をね、やっとのことでたどり着いた結論があるんですけどね。
これが、また、とんでもないオチで‥‥」

「なんだって言うの」 
     とうとう、サラが口を開いた。

一拍置いて、冴が答えた。
 「ファン・ゴッホは殺された。 -------ゴーギャンに」

サラを怒らしてもいい。そんな馬鹿な推理をする会社に
私の大切なものを任せるわけにはいかないわ。
そう、言ってほしかった。

   「‥‥‥その通りよ」

どれくらい時間が経ったのだろう、
黙りこくったままサラが、ゆっくりと唇を動かした

「いま‥‥なんて?」 冴は無意識に問い返した。

「なんて、言ったんですか?」

サラは、聖書の一節を読み上げるかのようにな声で告げた。

      「ファン・ゴッホは殺されたのよ。 

  ゴーギャンに。 ‥‥そのリボルバーに撃ち抜かれて」
            


サラは続けた。
私の母は、ゴーギャンの孫娘だったの。 

つまり、ゴーギャンは私の曽祖父。 
あのリボルバーはゴーギャンから私の曽祖母に托されたものよ

そして、曾祖母から祖母に、
    祖母から母に、
    そして私に伝わったもの
    史実を覆すような『秘密』とともに」

冴は、サラの鳶色の瞳を~息もつかずみつめていた

サラが話し始めた

たったひとりだけにしか話してはならないと、
ゴーギャンの孫である『X』が‥‥サラの母が娘に語った「秘密」は、
こうして冴のもとで封印を解かれるのだった。


 さぁ、いよいよ (史実に反する創作話)


はじまり、はじまり。                                   

             次回は 「サラの追想」

  (まだまだ 長くこの物語は続いていきます。飽きずにお付き合い お願いします。)
      
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ゴッホは、ほんとうにピストル自殺をしたのか? NO.15

2021-07-10 | 日記
 6人の女たちがいた。
  彼女たちがゴーギャンの子供を産み育てたかどうか・・・

ジュリエット・ユエ。 1890年、ゴッホが没した前後のパリでモデルとして
              雇ったお針子と深い関係になる。
  *ゴーギャンがタヒチへ旅立った1891年、女児を出産していた。
   この娘は、ゴーギャンに認知されなかったものお、運命の巡り合わせか、
   のちに画家になった。その名はジュルメーヌ・ユエ。
   1980年に89歳で没したところまではわかった。が、彼女に子供…
   ゴーギャンの孫…がいたかどうかは、手元の文献上では確認できなかった。
   対象としてリストに入れる

◆テハマナ、通称テフラ。1891年、初めて渡航したタヒチで出合った13歳の少女       
              をゴーギャンは現地妻にした。
              彼女から霊感を得たゴーギャンは、第1次タヒチ時代
              におけるみずみずしい作品の数々を生み出した。

  *テフラは、自伝的タヒチ滞在記「ノア・ノア」の中に登場。   
  *「ノアノア」(かぐわしき香り)
     シャルル・モリスが編纂して、とても脚色したのものになってる。
   
    「日本版  ちくま文庫  ノアノア」
              
 
    ゴーギャンが初めてタヒチに渡った直後に、たまたま立ち寄った家で
   その家の中年の女に尋ねられた。「お前は何処へ、何をしに行くんだ」
    ゴーギャンは正直に答えた。「女をひとり見つけに行く」と、すると、
    女は意外なことを申し出る。「お望みなら、私の娘をお前にあげよう」

    ゴーギャンはこう書いている。
  (ひどく透き通るバラ色の寒冷紗の下から、肩や腕の金色の肌が見えていた。
    そして、二つの乳房がその胸にぷっくりふくれ上がって見えた)
       
 二人が仲睦まじく暮らした期間は長くはなかったが、ゴ―ギャンは
 この少女と心から愛しあい、幸せだった。
        
    <チ・メラヒ・メトア・ノ・テハーナ>
                           最初の妻
  

 彫刻の作品も  <テフラ>
           

が、タヒチに渡って1年後に大喀血 。
経済的にも追い詰められて、帰国を決意。
同じ頃、テフラの妊娠が分かったが、ゴーギャンは自分の子供の誕生を望まなかった。結局、子供は死産だった。
彼女はゴーギャンが去って後、現地人の男と結婚する。
                       リストから消える。
   
 この時期に描かれた作品の数々~
いかにゴーギャンの創作のエネルギーが充実しているかが分かる。
 
  タヒチについた初期の作品は、現地女性住民が日々 タスクを行う
 姿を描いていた~その中の1枚
     <タヒチの女たち>


     <ヴァヒネ・ノ・テ・ヴイ(マンゴーを持つ女)> 
           

    <テ・ナヴェ・ナヴェ・フェヌア(かぐわしき大地)> 
       


       <マナオ・トッパパウ(死霊が見ている)>  
 
 
     <イア・オラナ・マリア(マリア礼賛)>     

    
◆アンナ。        1893年、タヒチからパリへ戻ったゴーギャンは、ジャワ人                 
             女性を愛人にした。しかし彼女はゴーギャンの留守中に金
             目のものを持ち出して姿をくらます。
              リストから外す。
  
              <ジャワの女 アンナ>
            
      
◆ズーリー。       1895年、娼婦通いは日常的だったが、中でも懇意にして
             いた女がいた。ゴーギャンはこの娼婦を愛人にすることは
             なかった、梅毒をうつされて終わった。
                       リストから外す。

◆パウッウラ・ア・タイ、通称パウラ
             1896年、第2次タヒチ滞在が始まったころに知り合い、
             同棲した13歳の少女。病気と経済苦でもっとも困難な時期
             だった。せっかく再びタヒチへ渡ったのに、しばらくの
             あいだ、ゴーギャンは絵を描くこともままならなかった。

  *パリからタヒチに戻っての新しい愛人としてのパウラだったが、彼女は
    テフラに比べて怠惰でだらしなく、ゴーギャンに純粋な愛情を注ぐと言う
    訳ではなかった。
    1896年ノクリスマス間近、パウラは女児を出産する。
   
    ゴーギャンは記念に
   <テ・タマリ・ノ・アトゥア(神の子の誕生)>
 
    が、数日後に死んでしまう。
    それからの1年は最悪だった。 
    体調と経済状況が日増しに悪くなる中、最愛の娘アリーヌの訃報を受ける。
    襲い来る絶望。まさにどん底状態。
    それでも絵筆をとってあの大作に向かう。

 作品  <我々は何処から来たのか? 我々は何者なのか?
           我々は何処へ行くのか?>

 

 この作品は 縦140㎝ 横375㎝ 巨大な1枚です。
      ボストン美術館所蔵で、以前、ボストンを訪れた際に、実際に見て来ました。
 
  翌年、パウラはふいにゴーギャンのもとを去った。
  彼女はみごもっていたが、ゴーギャンに堕胎を迫られ、「いやだ」と実家に
  帰ってしまう。1899年4月19日、パウラひとりで出産した。男の子だった。
  ゴーギャンはその子を認知しなかったが、エミリーと名付けて、ポリネシア
  の領事館に出生届を提出した。
  (妻メットとの間に生まれた長男と同じ名前)…ゴーギャンの切なさ?

 成長したエミリーは、有名な画家の息子ということで欲深い連中に利用され散々な
 目に遭った…タヒチを逃避し、妻を娶って、大勢の子供と孫に囲まれて平穏に
 暮らした~ということだった。
 大勢の子供と孫、つまりゴーギャンの孫と曽孫である。
 彼らの中には存命している者もいるかも知れない。 ということは
 彼らを一気にリストに入れるべきだろうか‥‥
  現時点では、彼らの名前も居場所も特定できないし、
 そもそもエミールは「娘」ではない。 
 とりあえず欄外においておくことにした。

◆マリー=ローズ・ヴァエホ。
           1901年、ゴーギャンはタヒチを離れてマルキーズ諸島の
            ヒヴァ=オハ島へ移住する。そこでカトリック寄宿舎にいた
            14歳の少女を口説き、愛人にした。
            平穏な暮らしを送った期間は短かった。ヴァエホと出会った
            2年後、病菌と貧困に苦しみながら、ゴーギャンは孤独の
            うちに絶命する。
  マルキーズ諸島
  

*ゴーギャンは53歳になっていた。新天地で息を吹き返したゴーギャンは人生最後の人
ヴァエホを彼女はフランス語もそれなりに話せる少女。
静かで平和な時間がようやく訪れた…とても短い期間であったが。

 この島で住んでいた <メゾン・デコ・ジュイール(快楽の家)」
          

  ここでの作品に  
           「扇を持った若い女」 
        

  このモデルはトホタウアという女性。
 彼女は現地の医者の妻だったが、まだ若く、魅力的な赤毛をしていた
 ゴーギャンの気をそそった。この女性を妻にはできなかったが、モデルに採用
 することで、いささかの満足を得た。
               (画家ってのは~本当に「女」が好きなようですね)

 また、この絵を描く際に、ゴーギャンは彼女の姿を一旦写真に撮り
 それをもとにこれを描いたのです。

 残されていた彼女の写真。
      

    <赤いケープをまとったマルキーズの男>
        

     <未開の物語>
        

 そんな折、ヴァエホの懐妊がわかった。
 ヴァエホはゴーギャンの元を去った。
 1902年9月14日、ヴァエホは実家で出産。

文献上で確認できるゴーギャンの最期の子供は、女の子だった
    娘が生まれていた‥‥とわかったとき、冴の胸がとくんと波打った。

 ゴーギャンは、ヴァエホと別れたあと、新しい恋人を見つけることなく
 たたてひとりで最期を迎えるのです。

     ゴーギャン最期の自画像
                (眼鏡をかけている)
        

1903年5月8日 彼を訪ねてきた現地人の大工が、ベッドの外に片腕をたらして
こと切れているゴーギャンを発見した。享年54歳。
遺骸は母国の家族のもとに還されることなく、ヒヴァ=オア島の教会墓地に
埋葬された。
       

  リストの最後に~冴は、
 ヴァエホの娘、タヒアティカッオマタ、通称 タウッアヌイを加えた。

 母から娘へ伝えられた~という「第2の秘密」の条件に合致するのは
 この二人になった。
    ジュルメーヌ・ユエ  そしてタウッツヌイ
 彼女たちに娘がいたとしたら、そのうちの誰かが「X」(イクス)だ。

  閲覧室の利用時間まで もう時間がない 急がなければ~

  そのとき、 見知らぬ番号からショートメール。

 <リボルバーの件で、ふたりきりで話せませんか。
         あなただけに伝えたいことがあります>

       サラ・ジラールからのメッセージだった。
    
 

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ゴッホは、ほんとうにピストル自殺をしたのか? NO.14

2021-07-09 | 日記
 パリ二区、リシュリュー通りに面して佇むフランス国立図書館
冴は月曜日の朝一番で訪問した。

 一千万冊以上の書籍、原稿、版画、地図などなど。
この国でつくられたあらゆる印刷物関連の資料が保管されている。
 いかなる部類のものであれ、フランス国内で発行されるすべての
印刷物は一部をここに納めなければならい。   
                         *凄いね!
  
(近頃、身近な国では…保存・保管すべき資料を、修正、黒塗り、廃棄処分を重ねてるよ!
             これは ひどいよネ… )   

                       
 
 閲覧室は、本とインクの匂いに満ち溢れている。
      
 
    冴は、頻繁に利用しているのはリシュリュー館の引接する
国立芸術史研究所

      


 先週末、オーヴェールから帰宅したあと、フリップからのメッセージが。

「素晴らしいガイドありがとう。
    最後の社長の「推理」が超ウケたね。」

 君の仕事はこれからでしょ。
  社長が言ってたじゃないか。「X」(イクス)の四つの秘密
  つじつまを合わせるためには、第一と第二の秘密が事実であることが、
  前提になる、て」

 「ってことは…」冴。

  そうだ、『X』が何者なのか、そもそも実在していた人物なのか、
  それを調べずして仮説は成り立たない
            
  ゴーギャンの子孫~しかも女系の~が存在しないと立証されれば、
  「ゴーギャンのリボルバー」はサラの作り話ということになる。
           
    ・・・・これはなんとしても立証しなければ

さらに、フィリップから
 「あのリボルバーには二人の重要な痕跡が遺されている…って
  ことになれば、あれは単なる鉄屑じゃなくて、相当に価値のある
  お宝に変わるわけだろ? 僕らが君から聞きたいのは、
  そういう報告だよ。 じゃあね、おやすみ」

 昨晩のことから、
   冴は、 今、国立研究所の書庫に入っていた。

****
 ゴッホが自殺したという説は、長い間本人の自白に基づくものとして
信じられてきた。ゴッホの告別式に参列した画家仲間のエミール・ベルナールは、
ゴッホを支持する評論家に宛てた手紙の中にこう書いている。
                    エミールベルナール

「フィンセントは最後までパイプを手放すこと拒み、タバコを吸いながら、
 自分は意図的にこのような行為に及んだのであり、そのときの自分は完全に
 正気だったと語った。」

 ゴッホと最後の時間をともに過ごしたのは弟のテオのみ。
 ベルナールがテオから伝え聞いたものとして手紙の中で引用されたのだろう。
 が、そのテオが最も近い存在だった妻のヨーへ書き送った手紙には、
          ⇒    
 
 フィンセントが「自殺を図った」とは一言も明記されていない。
 そして、唯一の証人であるテオは、フィンセントの死の僅か半年後、他界した。

  つまり、「ゴッホの自殺」を証明する決定的な証拠は、
      兄弟の死と共に永遠の謎として葬られてしまったのだ。
 
書庫の棚にぎっしりと並ぶ背表紙に目をやりながら~ 
思わずため息を。

まずは、第一の秘密、自称・ゴーギャンの孫「X」の特定だ
 〇 5人の子供の内、唯一の女の子(アリーヌ)と次男(クローヴィス)は
   ともに若くして他界している。
 〇 残された3人の息子たち(エミール、ジャン=ルネ、ポール=ロロン)に
   それぞれ子供がいたかどうか
  「娘」ではなく、「息子たち」なのが、
 すでに第2の秘密「母から娘へと伝えられた」というのに沿わないが、とにかく、
 ゴーギャンの直系の孫というところに焦点を絞って、その中の誰かが「X」
 である可能性を探ることに。

   膨大な文献の中から新病勢の高い情報にたどりつけるだろうか~

                

         *********
 開始後~ ゴーギャンの孫のひとり、ポール=ルネ・ゴーギャン
      行き着いた。この人物はノルウエーの代表的な絵本画家で
       おそらくゴーギャンの孫のなかでは最も高名だろう。
      父親はゴーギャンの末っ子、ポール=ロロン
      ポールは『父・ゴーギャンとの思い出』という本を出版。
      ルネは、絵本画家で名を馳せスぺインで没している。
       享年64。 従って、この人物は「X」ではない。

                    長男のエミールは技師となり、2度目の結婚でアメリカへ。
      1955年に他界。前妻との間に3人子供。 ゴーギャンの孫。
      没年は見当たらない。 末弟ペドロ=マリアがもし生きていれば
      100歳を超えている。 可能性はゼロでないからリストに。

      三男のジャン=ルネ 船乗り、最終的にデンマークではよく知られた
      造形作家。1961年没。長男ピエール・シルベスターは61歳で死去。
      長女ルルーは作家。僅か34歳で早逝。 このふたりも消える

   「・・・・となると・・・
       ペドロ=マリアが『X』だったかもしれないってこと?」


サラは、数か月前に自称・ゴーギャンの孫から秘密を打ち明けられた、
ということだから、その時点で105歳…
    いやそれじゃギネス認定レベルでしょ。

           やっぱり作り話だったのかな。

 大きくため息をついた。それから目をつぶった。
  しばらく手を止めて…瞼の裏に思い描く~
 今、調査の対象としているゴーギャンの姿を…

 その時、< 僕は、友人のゴーギャンがとても好きだ>
      ふと、忘れがたいフレーズ」が胸に浮かんだ。
                 ゴッホの言葉だ。

 晩年に妹に書き送った手紙の一節に 
 <だって彼は、子供と絵、両方ともつくれるんだから>

の言葉は…
   自分が生涯を通して持つことができなかった「子孫」を
 ゴーギャンが持ち得ていることをうらやんでいたのだろうか。

 子供と絵。 どちらを究極の「創作」と呼ぶべきなのだろう。
 もちろん、アーティストとしては傑作を生み出すことこそなんだが。
 ・・・人としては?

 <…確かに私は不幸だろう。
      だが、あなただって私と同じ不幸な人間じゃないか>

    この一文は、ゴッホからゴーギャンへ宛てた手紙の中にあった。

 冴はこの文献をパリの大学で美術史を学び始めたばかりの頃だった。
 {完璧なフランス語で書かれた一文には、
 ゴッホのさまざまな感情が込められていた。
 憎しみ、妬み、さびしさ、憐れみ。人として生まれ、
 人として生きるせつなさ、それをゴーギャンと共有しているという
 かすかな愉悦。}

 冴の願いはどっちが不幸だったのか、幸せだったのか ~
     それはふたりにしかわからないこと。
  でも、冴としては、
    画家としても人としてもふたりとも幸せであったことを

 ゴーギャンの思いを後世に伝える人~ 
 ゴッホにとってのヨーのような存在 ~ が、本当にいたとしたら
 
そうだ。
 そのひとこそが、あのリボルバーを今に伝える人に違いない。
 その人は、いったい誰なのか・・・・。


突然、冴の脳裏にゴーギャンの回想記『前後録』の一文が蘇った。

     <私は愛したいと思う、ができない。
        …私は愛すまいと思う、ができない>

 「…あ」 目の前に閃光が走った気がした。

  ゴーギャンが愛したのは妻だけではない。
     彼には複数の愛人がいた…! 

 全身がざわっと粟立った。 
   そう、ゴーギャンには複数の「婚外子」がいたはずだ。

 それだ!
  どうして思い出さなかったのだろう~
  「ゴーギャンの子孫」とは妻メットとの子供たちだという先入観に
   とらわれてしまっていた。

冴は、つぶやきながら、一気に 愛人関係にあった女性たちの名前を書きだした。

  「ええと、まず、ジュリエット…テフラ…アンナ。 ズーリー
    パウラ…それに、ヴァエホ…」

  さぁ、いよいよ彼女たちがゴーギャンの子供を産み育てたのかどうか、
 たどっていこう。


その前に
私が、思うに…当時(1890年代)に
 ヨーロッパからタヒチまで‥‥どうやって? どのくらいの時間が…と。
   地球上の位置 分かりますか?

        遠い・・・
      
 ちょっと調べてみました。

ゴーギャンは1891年6月9日 タヒチのパペーテの港に初めて降り立った。
       

渡航費用の割引を得て船旅ができることに、いろいろ手を打ったようです。
(彼は「目的不明の特使」として派遣された者だったのです。
  う~む、この目的不明ってやつ?  ひょっとするとスパイ行為?)
         特に、ジョルジ・クレマンソーの助力を得た。
  *(フランスの第40代首相) 
 * 画家クロード・モネの親友
                
   モネの名作「睡蓮」はクレマンソーの提案で描かれた。
   のちに睡蓮の大作を国に寄付することを約束し、その絵を
   展示するためのオランジュリー美術館を整備することになったのです。

       

 館内展示 大作「睡蓮」


*この項関連で 私のブログ
   2020・4・15  モネ「ジヴェルニーの庭がカンヴァス」
   2020・4・18 「筆のタッチは踊るように」
                        是非ご覧ください。

*クレマンソーは日本の茶道具「香合」に魅せられ多数蒐集・所蔵
 現在は、クレマンソー、コレクションとして一般公開されている。


        



  
       


船は、フランス・マルセイユ(1891年4月1日)オセアニア号に乗り出港
ニューカレドニアのヌメアを結ぶ船で5月12日に到着。

ヌメアからヴィール号に乗船し、5月21日出港。

タヒチのパペーテに1891年6月9日到着 なんと、2ヶ月間も。
 
 3週間はパペーテで過ごす。
       
 
 45㎞離れたパパアリにアトリエを構えることにして自分で
 竹の小屋を建て制作に励む。
        
 この時期に傑作の多くが生み出されている

 これからゴーギャンの作品が多く出てきますが、まず最初に
ご紹介するのが~

    「ファタータ・テ・ミティ」(海辺で)



 「イア、オラナ・マリア」(マリア礼賛)
              *タヒチ時代で最も高い評価の作品。

 


            まだまだ続きます~      
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ゴッホは、ほんとうにピストル自殺をしたのか? NO.13

2021-07-07 | 日記
 迫真に迫る! 
 ギローの推理は続く。

 1890年7月27日早朝。
株式仲買人時代に護身用に買っていたリボルバーに一発だけ
弾丸を装填した。
            
 鈍く光る銀色の拳銃を、着古した上着の内ポケットに入れて、
ゴーギャンは汽車に乗った。

目指すはオーヴェール・シュル・オワーズ。
小さな村だ。
日中どこかでゴッホがスケッチしているか、ゴーギャンはわかっている。
彼が好んで出かけるのは、麦畑か、
                     
 
                     

 川のほとりか、
                   

 糸杉のような大きな木のある並木道か。
                             
 美しい風景が見渡せる場所のはずだ。

 はたしてゴッホは、オワーズ川のポプラ並木でスケッチ中だった。
   
 


 並木道の彼方に人影をみつけて、ゴッホは、動かしていた筆を止めた。

次第に近づいてくる人影が、彼がいまなお尊敬してやまない朋友だと
知ったとき、ゴッホに喜びが爆発した
  ~ ポール! 
 彼は一声叫んで、」駆け寄ろうとした。
 その瞬間、ゴーギャン
                           
素早く内ポケットからリボルバーを抜き、片耳がちぎれた憐れな友に
向かって引き金を引いた。
        パン、と乾いた音が響き渡った。
                                             
                  
その瞬間、
ポプラ並木のすべての枝葉をざあっと鳴らして一陣の風が通り過ぎた。
ゴッホは両手で脇腹を押さえた。
その指の間から 鮮血が噴き出した。
                       
何が起こったのかわからず、ゴッホは笑いをこらえるような、
泣き出す前のような顔をしてゴーギャンを見た。

ゴーギャンは肩で息ををつきながら、苦しそうに言葉を絞り出した

 「~テオを自由にしてやってくれ。
     そのためには、こうするしかなかったんだ・・・」

「~テオを・・・自由に・・・

「そうだ。君が彼の足を引っ張り続ける限り、彼は自由になれない。
  私も、そうだ。
  私は、君の存在がうとましい
  君がテオを踏み台にして、 君だけの世界へ、はるか彼方へ
  行ってしまうのを、もうこれ以上見ていられなくなったんだ。

  フィンセント
  私は、テオを自由にしてやりたかった。
  そして、君を楽に・・・自由にしてやりたかた。

           許してくれ・・・。

ゴーギャンはリボルバーを内ポケットに入れると、友に背を向けた。

どさりと身体が地面に頽れる音がした。

けれど、ゴーギャンは振り向かなかった。

オワーズ川は滔々と流れ、太陽がゆっくりと西に傾いてゆく

   

   テオが暮らすパリは、天国よりも遠いところにあったーー。


 「すっご!」 フィリップが叫んだ。「話が完璧にできている!」

 「ま、作り話だがな。完璧な」  得意げにギローが言った。

  冴は、「ちょっとちょっと、やめてくださいよ!」
      作り話もたいがいにしてくださいよ、
       社長。 
      それやっていいのは小説家くらいですから」
 
     *(ちゃんと、原田マハさん、上手に、史実の中へ、小説家として
          「ゆるされる」創作を挿入したってこと…)

        でも この話、よく書いたものだなぁ~と、
               私(ブログ編集者)も, さすが、小説家だなぁ~と大いに感心!


   
      

 ギローは仕方ないというように肩をすくめて~
 「しかしなぁ、冴。
  ゴーギャンがあいつを殺したってことにすればつじつまが合うんだよ」

  「だからどのつじつまですか?」 と冴。

「ペータースが言っていた
   『謎の人物・Xの秘密』さ」

 振り返ってみましょう。

 1.自分はゴーギャンの孫である。
 2.ゴーギャンが所有していたリボルバーが祖母・母・自分の三代に
    伝えられた。
 3.そのリボルバーはゴッホにまつわる貴重なものである。
 4.リボルバーと共に、史実を覆す重要な真実が口伝されている。

 「『X』がゴーギャンの孫で、あのリボルバーのもともとの持ち主が
   ゴーギャンであるという、第1と第2の秘密が真実であることが
   前提だが…ファン・ゴッホはピストル自殺で死んだんじゃなくて、
   実はゴーギャンに撃たれて殺されたーーーという仮説ならば、
   第3と第4の秘密との整合性が出てくるだろう?」

冴は、きっぱりと否定した。
「残念ながら、ゴーギャンがファン・ゴッホを殺したなんて
      セ-ヌ河が逆流するくらい絶対にあり得ませんから」

 ゴッホとゴーギャンは表面的に反目しあうことは合っても、底の底では深い友情で結ばれていた… 冴はそう信じていた

 もちろん、それだって当人たちに確かめたわけではないから想像でしかないのだが、幸い、美術史上もっとも筆まめな画家のひとりだったゴッホが遺した幾多のゴーギャンへの手紙には、彼への深い友情と敬愛が溢れている。

 テオへ書き送った手紙の端々にも、
ゴーギャンはどうしているか、ゴーギャンを支援してほしいと
繰り返し書いている。

 冴は、ゴッホの手紙を信頼できる資料として拠りどころにしていた。

『いまでは、多くの研究者が、「ゴッホは狂人だった」という本人の存命中から
すでに形成されていたゴッホ像は間違っていると理解している。
 彼は、ずば抜けた語学能力が備わっており、母国語以外に、フランス語、英語、
ラテン語を操ったことはよく知られている。
弟への手紙すら正確なフランス語で書き綴り、その破綻のない構成と文章力は彼が
狂人どころかまとも以上、つまり天才的だったことを裏付けている。』

 膨大な量の手紙は類まれな芸術的遺産として保存・研究され、
後世の人々に愛読されることになった。
そうなるためには、この手紙の資料的価値と文学的ポテンシャルに着目し、
世に出そうと努力した人物の存在が必要だったわけだが、テオの未亡人、
ヨー・ファン・ゴッホ・ボンゲルがこの偉業を成し遂げた。
           

  
  *ゴッホの「手紙」については、NO.6 で紹介していますが。
        

      


 「ファン・ゴッホは「耳切り事件」の直後は、茫然自失だったようですが、
事件の10日後には入院先のアルル市立病院からテオへ手紙を送っています。
心配で狂わんばかりになっているだろう弟を安心させようとして。
その手紙の中で、ゴーギャンについても触れているんです。

『手紙を送ってくれとゴーギャンに伝えておくれ。
  僕は彼のことをずっと考え続けている  ということも』

  
   ファン・ゴッホ美術館所蔵・整理番号728・テオ宛のフランス語の手紙
 その手紙は「君とゴーギャンに固い握手を送る」との一文で締めくくっていたのだ。

 珍しいのも~「アルルの病院でゴッホの手術担当した「レイ医師」が書き残した
               ゴッホの耳の絵
        

  ゴーギャンは、筆まめだったのか?

そう、同じくらい筆まめでした。
当時、手紙を書くことは生きていく上で必要な作業でした。
愛を告白するにも、お金を借りるにも、無心するにも~
手紙で訴えるしかほかはなかった
 ゴッホもゴーギャンも生活に困っていたので
 家族に窮状を切々と手紙に綴りました。

ゴッホから弟テオへの手紙の多くは
 『五十フラン札を送ってくれてありがとう』から始まっています」

 ゴーギャンも十分文章力はありましたが、
フィンセントにとってのテオのような、心の通った相手がいなかった~。
結構な手紙はあるし、書簡集も後年出版されているが、
ゴッホンのそれにくらべると存在感が薄い。

  彼の死後、十五年以上経ってから、まったく赤の他人、イギリス人作家
サマセット・モームが彼をモデルにして書いた『月と六ペンス』によって
広く知られるようになったのだった。
              

     
 

 ゴッホが夢描いていた「芸術家たちの共同体」は、たった二ヶ月で破綻してしまうのだが…ゴーギャンは「『前後録』に記している。

「まるで自分の素質を完全に見抜いたかのように、そこから太陽の光にあふれた、あの太陽また太陽の作品群が生まれていった」と。

  ゴーギャンもまた、ゴッホの示唆に満ちた言葉に感化され、その後の進路を決めたと言えなくもない。

 オーヴェールのファン・ゴッホはゴーギャンに宛てて手紙を送りました

 最後の手紙を

1890年7月。 
その手紙にはこう書いてあったと、ゴーギャンは『前後録』に記している。

 <ーー親愛なる我が師、あなたを知り、あなたに迷惑をかけてから
  というもの、悪い状態でなく、よい精神状態のときに死にたいと
  思うようになりました>

          それきり手紙はこなかった。

 ほどなくして、一通の電報が届けられた。
 
 ゴッホがピストル自殺したという訃報が。
 
それを受けて、ゴーギャンは、 
共通の親しい友人、エミール・ベルナールへ手紙を送っている。
               

<ーーこの死は実に悲しむべきだが、私はそれほど悲嘆に暮れている
 わけではない。私はこのことを予想していたし、あの可哀そうな男が
 凶気と戦う苦しみをよく知っていた。
 この時期に死ぬのは、彼にとっては一種の幸福なのだ。
     それは彼の苦しみに終わりを告げさせたーーー>
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続 黄昏どきを愉しむ

 傘寿を超すと「人生の壁」を超えた。  でも、脳も体もまだいけそう~  もう少し、世間の仲間から抜け出すのを待とう。  指先の運動と、脳の体操のために「ブログ」が友となってエネルギの補給としたい。