歴史の真実は どの角度から眺めるかによって違ってくる。
「勝者と敗者」 に分かれ、歴史は どちらかと言うと「勝者」の伝が
強い。 つまり、勝者の言い分で残され、伝えられ、理解される。
今回、「かんだ歴史研究会」に入会して 初めての講座に出席した。

今日の講師は「まちの歴史担当」 教育委員会生涯学習課副課長の
小野剛史さん
資料の最初の行を読み始め、すぐに…これは どういう意味かと …
「手永」について解説を。
幕末の頃の 行政区を指し、この京都郡には 四つの手永があった。
「新津、延永、黒田、久保」と。
その下部に 「大庄屋」、さらに 「庄屋」と。
その「庄屋」が リアルタイムに文書に残した 当時のことを資料として
本日のお話を進めて行きます…
所謂、直に目にし、耳にした 動きを その日の「日記」にのこした事実。
これは 面白い! 文書に造作がないのだ。(真実のみ)と理解した。
さて、この小倉戦争のこと、私も その歴史的詳細は知らない。
そこで 今日の話に興味を持って参加したのです。
小倉城 写真は現在の姿です。
小倉城は 戦国末期、中国地方の毛利氏が現在の地に城を築いたことから始まり
その後、関ヶ原の合戦の功労で入国した細川忠興により築城
そう 忠興と言えば 御存じのガラシャが正室
細川氏が熊本に転封後、譜代大名の小笠原忠直が入国 
この小倉藩は九州大名監視という役目を受けていたのです。
小倉と言う位置そのものが、九州各地に通ずる街道の起点なのですから。
こうして 時は流れ 幕末を迎えます。
徳川家 関ヶ原の戦いで事実上の天下を
大阪冬の陣、夏の陣において 豊臣家を滅ぼし 江戸幕府を開き
家康から 十五代続く 長期政権を握っていくのです。
徳川家康
最後の将軍 徳川慶喜 
嘉永6年 浦賀にペリー来航 
この黒船来航によって 幕末の幕が切って落とされたのです。
幕末の「時計」は、狂おしいほど速く そして日本の姿を変えていった。
この小倉藩が幕末に、長州藩を攻める第一線基地となり 勇敢に 律儀に戦い
ついに、1856年、自ら小倉城に火を放って戦線を後退していく。
このころ 日常の第一線で 目の当たりにしている「村」の庄屋が 語る。
それが 今日の話の重要な箇所なのです。
残された文章は、活き活きしています。 内容は と言うと…事実ではあるが
悲しくもあり、また 残虐そのもの・・往時を彷彿とさせる その時を。
まだまだ 続くのですが 紙面の関係で割愛しますが
事実は これからも ひょっこり どこかの古い蔵から顔を出すかもしれない。
そんな古文書を 現在でも こつこつと真実の解明を続けていらっしゃる方に敬意を。
また こんな小さな町の歴史の中に ここは起点として「話」を繋ぎ、伸ばしていけば…
教科書や小説、テレビに登場する歴史上の人物が 豪華に顔をそろえているのも
一層、話を面白くして、 何かの機会に講演での「余談」に活用させて貰おう…と。
幾人かをご紹介しましょう。
関門海峡を挟んで 小倉と長州 と 言えば。
安政の大獄 奇兵隊 亀山社中
吉田松陰
高杉晋作
坂本龍馬
なんせ、幕末は 「長州」が 完全に歴史の寵児になっているのですから・・・
「桜田門の変」の井伊直弼 「新選組」「池田屋の変」「禁門の変」「戊辰戦争」
ほら、剣豪の宮本武蔵も
巌流島の佐々木小次郎との戦い、 話は どこまでも広げることが出来そう。
もっと 身近には 小倉藩家老の 島村志津摩がいる。
若くして家老になり、藩の近代化や藩政に努めるが、守旧派の小宮民部によって
蹴落とされ、江戸表に左遷される… その後、戦線は続くが最終的に長州と和議を結び
戊辰戦争では官軍側について藩の立て直しに努める。
彼は、明治初年に、オランダ人の教師を雇い、「育徳館」という学校をつくり、次代を
担う地域の人材を育てることに努めた… 郷土史の精華のような人物なんです。
現在、
「志津摩桜」として 春には近郷から足を向ける方も多くなった。
先年、大河ドラマで「黒田官兵衛」が放映され、ここ地元でも 大いに賑わった…
歴史って 遠い存在ではなく 身近にあるものだと 現在住んでいる地域の皆さんが 肌に感じたことなのです。
幕末の 長州・小倉戦争(1866年)から 今日 2016年は なんと150年目たった
しかし、 その領域を重ねてみても それほど違和感がありません。
まだまだ えっ? と 驚く 歴史の真実が ・・・・・夢が膨らむ そんな 時間を堪能しました。
