黄昏どきを愉しむ

傘寿を過ぎた田舎爺さん 「脳」の体操に挑戦中!
まだまだ若くありたいと「老い」を楽しんでま~す

もう少しで指が動くように

2024-08-28 | 日記

 長い間ブログを休んでいました。

 早く 早くと思いながら~指の関節が思うようにならず

 不精の日々です。

 日々 リハビリして もう少しです。

 気持ちは毎日 投稿している?

 完全に記事が書けるようにと頑張ってキイを打つ自分です。

 もう少しでなんとか・・・それまで 

 いちばん楽しみにしているのは 私なんですから。

 

 

 

 

 

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「棟方を追いかける~」第13話

2024-05-10 | 日記

棟方の「 ~ 海道棟方板画」の発想は、松尾芭蕉の奥の細道

その芭蕉が「奥の細道」への旅は 芭蕉46歳

       

元禄2年(1689)3月27日~9月6日までの長旅

門人曾良を伴い、江戸を発ち奥羽・北陸の各地をめぐるものでした。

 「月日は百代の過客にし行かふ年も又旅人也 船の上に生涯を

  うかべ馬の口とらえて老をむかふる物は日々にして……」

 棟方は70歳からの旅たちだった~。

 

 貴重な資料が見つかってます。

  芭蕉が描いた絵巻物がこれなんです。

 「野ざらし紀行」の際、芭蕉自らが筆をとって描いた・・・。

 なかなかシンプルなタッチですが面白い~

  

  

                  (福田美術館蔵)

 

  12話で「中尊寺」をアップしました 「奥海道棟方板画」から

   「奥海道棟方板画ー奥入瀬十和田の柵 」

     

 

         <一宿標の柵ー岩手登米>

    

 

   名句をひとつ 「古池や 蛙とびこむ 水の音」

     

           <東京 深川 芭蕉庵跡>

 

     

  それでは、各地への旅の「棟方板画」もそうとうな数なので

   各「海道シリーズ」から 私なりに選んでアップします。

 

 「西海道棟方板画」より

          <福岡 若戸大橋>

     

          <宮崎 磐戸神楽>

     

          <熊本 大阿蘇山>

     

      

          <長崎 大江天主堂>

     

 

  <南海海道棟方板画>

             徳島 阿波おどり

     

 

              愛媛  石鎚山

     

  

  <羽海道棟方板画>

            山形  羽黒山

     

            新潟   荒海

     

            秋田   象潟

     

 

  まだまだ多くの作品を紹介したいところですが。。。

  またの機会に。

 

  そうそう、 棟方といえば、「女人」の板画ですよね。

  最後に、こんな素敵な「女人」をご覧ください。

    まずは やっぱりこの美人から

             <門世の柵>

     

 

     < 鍵板画柵「大首の柵」>

     

     < 懸世運(けよう)の柵 >

     

     < 円窓石向妃図 >

     

     < 弘仁の柵 >

    

     < 緋薔薇頌 (背髪の柵)>

    

     < バラライカの女の柵        

       

 

   昭和49年 71歳

 10月 個展と講演のため4度目の渡米。

    旅先で倒れ 帰国後 入院

 

 11月 改組第6回 日展に 「捨身飼虎の柵」を出品。

    

    昭和50年 72歳

 病床にて 達磨図を多く描く。

   

 

   

   

 

      9月13日 肝臓がんのため自宅で死去。

 

   

  

       我は、ゴッホになる   棟方志功

           

  大きい、大きい向日葵花、それも、真中にあの雌雄もない、花びらで囲われている

様な、カドミュームイエロー唯一彩に描きつくされてた、向日葵花が、満一杯、枯れて

いても咲き盛っていても、きっとその景色があることばかり想っていました。

 ゴッホとテオドールの墓は、同じ凸字型の、新聞紙を全開きを横にしたぐらいの

大きさでした。 白い石の面に明朝字体の英書で(オランダ綴り)、黒く凹字に刻された

行儀のよいつつましい墓が、左右に並んでありました。

       

 そこにはオカメツタというのですか、そんなツタがところかまわなく、ハビコッていま

した。ウラガナシイ気漂いがありました。

 一寸前に置かれた花束がありました。オランダギクか、赤、紫、白の色々花でした。

 

  ゴッホが、仲よかった弟と、こうして、静かに寝ている有様は、不思議な程に、

 わたくしにも安心させられた様な、うれしい、ひっそりさでした。

 思いがけない、沁み沁みさでした。

 今度ヨーロッパに来て、システィンの天井絵を見て、ここに来たという事だけで

 わたくしは、ナントモ知れない深い借金を、返し済んだ様な気がしました。

     

     

 ・・・一番好きな絵描きの仕事と、寝ている所に佇ったのですから、体心が、

 ナンダカ胸から、肩から軽くなった様な塩梅でした。ーヨカッタ、ヨカッタと

 側にいるチヤコや、巴里爾に話したのか、誰に話したのかワカラナイままに、

 そう、独り言でした。

 チヤの黛で、ヴィンセント・ヴァン。ゴッホ。 また テオドール・ヴァン・

 ゴッホでしたか、それを拓さして頂いて参りました。

 

   ・・・・この棟方の 思い出話はまだまだ続くのですが~

  とても長文、最後まで載せることが出来ません。 あしからず。

 

  「棟方志功」の「板に咲く」15話から「棟方を追いかける~」13話 まで

    実に、ながながと綴ってきましたが、これでお終いです。

 

  「一人の画家」の一生・・・

  しかし、これほど魅了した対象はそれほどはいません!

  ブログをしながらも、新しい発見があり、これからの私の人生にも

  役立つものをいただきました。

 

  この20年  毎年、6月に上京して、近辺の(関東、信州)の

  「美術館巡り」をして

  美術の歴史や画家について勉強しているのですが、この歳(82歳)

  もうそんなに先もない? だから、是非、この棟方の里

  青森 棟方志功記念館へ 足を延ばしに来たいと思案中です。

 

   先の、志功の「思い出」と同じように、志功が「ゴッホ」に。

 私も「志功」の想いでを叶えられるように・・・現地へ・

 

         ご愛読ありがとうゴザイマシタ!

  

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「棟方を追いかける~」第12話

2024-05-09 | 日記

昭和45年 67歳

 この年は高度経済成長のシンボルとして万国博覧会が開催

 日本列島は北から南まで大阪へ民族の移動?が行われた。

  歌手の三波春夫の「こんにちは、こんにちわ~」の一節は

 出始めのテレビから絶えることなく流れていました。

    思い出すでしょう・・・この「太陽の塔」

      

 

  その年の11月 

  棟方志功は文化勲章受章。文化功労者に顕彰される。

         

 

  還暦を過ぎてから急速に数を増した自板像だが、同時に棟方は

望郷の想いをしばしば板画に表現するようになった。

小学校の秋、目の前に揺れる沢瀉(おもだか)の花に心を奪われ

「このような美しいものを表現する人間になりたい」と心に決めた

 思い出を、棟方は歌に詠み、多くの作品に織り込んだ。

 これもその1点。 赤く塗りつぶされ眼は見えない印。

 実際は左眼は失明していた。

   

  昭和46年 68歳

 陸奥新報社創刊25周年を祝して描いた「志功ねぷた」

 弘前ねぷたまつりで運行される。

   

     < ねぷたを紙に直接描く 棟方 >

  この時の「ねぷた」

     <天之宇受女之美古登の図>

   

          <天の磐戸>

  

 

  昭和47年 69歳

  妻(チヤ)と詩人草野心平とともに棟方が深く帰依する仏教興隆の地

  インドを訪れた。 

  インドの旅から帰って後、ヒンドウー教の寺院の彫刻から想を得て

  型破りなこの作品を制作した。

             <彪濃の柵>

   

           

            <大印度の花の柵>

        

 

   昭和48年 70歳

   4月 「奥の細道」を辿り取材、「奥海道棟方板画」を制作。

現代版の「東海道五十三次」版画の制作を依頼された志功は、

を皮切りに10余年をかけて、九州、四国、東北、北陸を巡る

海道シリーズに取り組んだ。

 

 <奥海道棟方板画>では、芭蕉(おくの細道)を辿るという構想が

立てられ、志功は4月22日から11日観の日程で東北各地を歴訪している。

     <奥海道棟方板画 人肌雨の柵ー(5月 岩手)

   

 本作の取材地は岩手県平泉の中尊寺、

    

 

 芭蕉の「五月雨を降り残してや光堂」の句を添え、秘仏とされる

 一字金輪佛頂尊を、その上半身を画面いっぱいに拡大して表している。

 「人肌の大日如来」とも呼ばれるこの仏像は、その名のとおり

    

  まるで生きているかのような白い肌が特徴である。

 その肌合いとともに志功は本作において、実際の顔立ちを忠実に

写し取っている。丸くふくよかな顔におちょぼ口。半円を描く眉に

切れ長の吊り目。興味深いことに、それは、志功が描く女性像の特徴

にも極めてよく似ているのである。

 

      奥海道棟方板画 他 次回にアップ

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「棟方を追いかける~」第11話

2024-05-06 | 日記

このGWは、長男の帰省で「大食い」の世話で追いかけられ

 ゆっくりもできず明日には帰る「やれ、やれ」の心境です。

 

整理する時間もないので今日は、「倭絵」についてアップします。

 志功の仕事の中心は何と言っても「板画(はんが)」です。

志功は「板から生まれた板による画」という意味で「版画」を

「板画」と称し、その躍動感に溢れる作品を多くの人々を魅了し

続けています。

 しかし、忘れてならないもう一方の仕事として、「倭画」

挙げられます。

肉筆画である「倭画」(棟方による命名)で、柳宗悦

「倭絵」と称している)は、間接的な表現方法である「板画」

よりも、直接的または、奔放に表現できるものとして、

 棟方が大いに楽しみにするものである。

 墨画、油彩、書など幅広い造形活動を展開し、これら

 創作行為をまとめて「芸業」と呼んだ。

 

 時代を無視して作品を選んでみました。

 それぞれに絵の意味があるのですが、詳細は割愛します。 

    <華厳松> 6曲 襖

   <稲電、牡丹、芍薬図>

 

        

 

     

 

        

           <座華堂野点図> 志功のこと

        

             <金太郎、桃太郎屏風>

    

            <胡須母寿花頌>   

        

            <御雛祭御祝福図>

         

 

        

               <みみずく図>     

        

        

          <フジヤのオンチャのネプタ図>

     

         <ねぷた 大好きな志功さん 祭りの中へ>

   

               <青森ねぷた図>

      

           <青森頌 春夏秋冬の図>

      

  

               <竹明妙図>   

              

            

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「棟方を追いかける~」第10話

2024-05-05 | 日記

昭和35年 棟方志功 57歳

もともと視力が弱い棟方だったが、この年の年末には眼病が悪化して

 左眼を失明しているが仕事が絶えることはなかった

 毎年の「日展」に出品するほか「板から生まれる画」を追求し続けた。

             (制作中の棟方)

     

 10月 青森県庁知事室に「鷺畷の柵」を納める。

 初めての海外旅行で、アメリカを訪れピカソの「ゲルニカ」などの名画を見た。

            ピカソ <ゲルニカ>

  

 その帰国後間もない時期に制作された板画である。

 かって「善知鳥村」(うとうむら)と呼ばれたという故郷青森の原風景を題材

 としたこの作品は自然形態を見事に「白」と「黒」のみ再構成した画面の中に

 一つの世界観を構築している。 

   飛び立つ白鳥や水鳥、菖蒲に蓮、白黒反転させつつ組み合わせて画面を構成している。

 バランスの取れた「白」「黒」の対比はまさに木版でしか創り上げることが出来ない

 装飾の「美」である。この作品は、幅2.5mを超える大きなものです。

 彼の才能とエネルギーには敬服するばかりです。

 

 

昭和36年 58歳

 1月  青森県庁舎玄関上に大阪壁画「花矢の柵」を納める。

       

 新築された青森県庁の壁画として制作した作品。日本の文化の

 流れがこれまで南から北に向かっていたのに対し、この矢をアイヌが祭りの

 最初に四方に美しい花矢を捧げる儀式から想を取り、日本の北から南へ吹き返す

 ことを願って作ったたという。

 馬には四神(玄武、青竜、朱雀、白虎)を示す文様が描かれ、三本足の赤い鳥がいる

 太陽と兎がいる月が加えられる。

 画面の騎上の女性は鼓と笛(東西)木製の花矢(南北)を持ち青森の発展を祈る。

 右上の太陽と左下の月は「宇宙の回転をこの中におさめる」意味である。

             <花矢の柵>

 

 「故郷の土に生まれ、その土にかえるわたくしは、青森の泣きも笑いも

  切なさも憂いも、みんな大好きなモノです。 

  ナントモ言えない、言い切れない、湧然没然があるのです。

  ーーーまたそれだからこその「青森」です。」

                          私の履歴書より

 

  昭和38年 60歳

  「東海道棟方板画」に着手。

  完成まで1年を要す。

駿河銀行から現代の東海道五十三次版画の制作を依頼された棟方は

7回の取材旅行を重ねた末、東京から大阪までを61点、(表題、柵外

開扉、閉扉を加えて65点)にまとめた「東海道棟方板画」を翌年4月末

に完成させた。棟方は単に目の前の風景を写すだけではなく、そこに

生きる万物の生命感を「板画にする」作業に徹し、縦(彩色)と横

(黒白)の画面を交互に置いて構図的な効果も考慮している。

 

     とても作品の数が多いので、適当に選んでアップしました・・・

  <開扉>

      

 

    <大磯 徳永晨雪(とくながしんせつ)

      

 

     <袋井 裂戸堀(きれとぼり)

      

     <豊橋 招城天守(まねきしろてんしゅ)

      

 

     <桑名 鳥居波(とりいなみ)

      

 

     <京都 雪見台(ゆきみだい)

      

 

     <大阪 街心雑踏(がいしんざっとう)

      

 

   昭和39年 4月 

  「東海道棟方板画」が完成。

 10月 朝日新聞社より「東海道棟方板画」を刊行。

  自伝【板極道】を中央公論社より刊行。

      

 昭和40年 62歳

  ㋁~㋄ 2度目の渡米。

 昭和41年 63歳

  6月 草野心平との共著、詩画集「富士山」を刊行。

        *この項、アップ済み

  7月 脳血栓で倒れる。 秋ごろより製作再開。

 

 昭和42年 64歳

 10月~翌年1月 個展開催の為三度目の渡米、その後各地を巡回。

 昭和43年 65歳

          <門世の柵>

      

別名「なでしこ妃の柵」画面に彫り込まれた撫子は棟方の愛する花のひとつである。

数多い女人像の中でも想いの深い作品。

門世とは、画面の四隅に置いた東西南北の文字が世界への門だという棟方の造語である。

 

           <飛神の柵>

  

  「御志羅(おしら)の柵」と題して日展に出品。のちに表題を改めた。

  東北地方には、祭りの日、巫女たちが、桑の木で作った男女一対の

  素朴な偶像(おしらさま)を両手に持って舞わせながら、祭文を唱えて

  五穀豊穣を祈る民間信仰がある。

  「飛神の柵」は神の使徒である神馬と姫君とが、艱難辛苦の果てに共に

  天高く舞い上がって神となり、さらに蚕に変身して人間に幸福をもたらす、

  という巫女の祭文を表したもの。

  棟方は画面に男女二神を遊ばせて、貧しい郷土の人々への豊穣の祈りを

  込めている。

 

 昭和44年 66歳

 ㋁  青森名誉市民(第1号)の称号を贈られる。

 8月  万国博覧会出展するに日本民藝館のための板壁画

     「大世界の柵・乾坤」が完成する。

 

大世界の柵・坤(こん)ー人類より神々へ

昭和38年 原題を「乾坤頌ー人類より神々へ」といい、

向かって右半面には「栄光の柵」、左半面には「慈航の柵」という副題がつけられている。

  倉敷国際ホテルの壁画を依頼され制作したもの。

  上下2段の板壁画として現在もホテルロビー壁面におさめられている。

 

 大世界の柵・乾(けん)ー神々より人類へ

 大阪万国博覧会のため棟方は「乾坤頌」の板木の裏面を使って同寸の板壁画を制作、

 「大世界の柵・乾ー神々人類へ」と改題乾坤合わせて全長27mの巨大な板壁画「大世界の柵」

 2図を完成させた。

  「森羅万象をいままでの仕事いっさいをこめて表現した」と棟方は語っている。

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続 黄昏どきを愉しむ

 傘寿を超すと「人生の壁」を超えた。  でも、脳も体もまだいけそう~  もう少し、世間の仲間から抜け出すのを待とう。  指先の運動と、脳の体操のために「ブログ」が友となってエネルギの補給としたい。