少し戻りまして…
昭和26年 年末 東京都杉並区荻窪に居を移す。
(中央 赤い部分が画室)
この家は、洋画家鈴木信太郎の家を周旋してもらったもの。
東側一面が天井までガラス窓になっている20畳ほどの本格的な画室が
家の中心になっている。
石門のポストには郵便屋さんのために
「有り難く」と書かれていた。手紙が好きで青梅街道角のポストまで
投函に行くのが日課だった。
数年後増築した「裏の家」に設けられた囲炉裏の間。
床には大谷石が敷かれ、窓際にはお気に入りの飾り棚があった。
*後ろにある大きな陶器の皿は…きっと濱田庄司さんの作?
昭和29年 棟方52歳
すでにアップしていますが、この年の1月、 棟方邸で裏千家の企画で、
「実験茶会」を開催しています。
7月には第3回サンパウロ・ビエンナーレに「二菩薩釈迦十大弟子」
「湧然する女者達々」を、出品し、版画部門最高賞を受賞する。
昭和31年 53歳
6月 第28回ヴェネチア・ビエンナーレに「二菩薩釈迦十大弟子」
「柳緑花紅頌」などを出品し、国際版画部門大賞を受賞。
昭和31年 <鍵板画柵>
昭和31年 谷崎潤一郎が、雑誌「中央公論」の正月号から書き下ろした小説を
連載するにあたり、挿絵を棟方にと希望した。
小説の進行にあわせて板画を制作するのはかなりの緊張を要したようだが
棟方はそれまでの板画技術の粋を駆使し、最大限の印刷効果を上げる工夫うを
こらしてこれに応えた。その結果、小説、挿絵ともに連載当初から評判を呼び、
棟方が装幀単行本も記録的なベストセラーとなった。
<鍵板画柵>
大首(おおくび)の柵
<大鏡(おおめがね)の柵>
<腹鏡(はらめがね)の柵>
<艶杯(えんぱい)の柵>
「鍵」の連載から谷崎の都合で中断した3ヶ月の間、一度決まった制作意欲
を維持するべく、棟方は谷崎の歌を板画にしたいと願い出た。
快諾した谷崎が主に戦後に詠んだ和歌の中から24首を自選。
これを棟方は1ヶ月ほどで彫り上げた。
棟方は「刀を使い切ったということでは、「歌々板画柵」が極限のような
気がする。
特に三角刀はこの板画24枚で初めて会得したようなものだ」と述べ、
「わたくしの、板画への大きな道をつけてくれたような」作品であると
自賛している。
<花見の柵>
<夕涼の柵>
昭和32年 54歳
鎌倉市津(鎌倉山)にアトリエ「雑華山房」を持つ。
志功は、四季とりどりの富士山や相模湾を望む鎌倉市鎌倉山に、
別荘 兼アトリエ「雑華山房」を構えました。
国際展での輝かしい受賞などで一躍時の人、となった棟方は
作品の注文や、来客が絶えず多忙を極めていました。
そうした喧騒から離れ、制作のための時間と落ち着いた環境を
確保できる場所がこの雑華山房でした。
1970年(67歳)頃には制作だけでなく生活の拠点も東京の自宅
からここに移しました。
昭和34年 56歳
この年の1月、初渡米。欧州各地で巡回展。 11月に帰国。
この項については、前回にアップしています。
次回は 「挿画本」について