黄昏どきを愉しむ

傘寿を過ぎた田舎爺さん 「脳」の体操に挑戦中!
まだまだ若くありたいと「老い」を楽しんでま~す

「板上に咲く」第8話

2024-03-31 | 日記

昭和7年(1932)

 5月の国画会展に出品した「亀田長谷川邸の裏庭」が国画会奨学賞を得、

 同時にボストン美術館・パリのリュクサンブール美術館の

 購入作品となった。

 「これからは版画で生きていこう」と決意を固めた。

 しかし、ようよう暮らしていくのに精いっぱいな毎日であった。

  「亀田長谷川邸の裏庭」 1932 多色摺木版 棟方志功記念館

   

   「十和田奥入瀬C」 1932年 棟方志功記念館

 

  奥入瀬渓谷の水の流れを表現した連作3点の内1点。

   川上澄生の作風から脱却を図るべく、棟方は肉筆画とは違う版画としての

   「線」と「面」の探求に邁進。

   「白」と「黒」の対比を意識し、対象物の単純化と抽象化を試みている

   ことがうかがえる。

 

   一方、棟方は、挿絵画家としての道も歩き始めていた。

 佐藤が主宰していた雑誌「児童文学」に挿絵画家の一員として迎えられた。

 「子供のための読み物」を志した意欲的な本だった。

 棟方は、宮沢賢治、百田宗治、伊藤整などの新作童話に挿絵を提供。

 人から人へと芋づる式に人脈は広がり、詩集の表紙や挿絵を描くことで

  糊口を繋ぎつつ、棟方は独自の版画の追及を進めていった。

 

  宮沢賢治作「グスコーブドリの傳記」挿絵 (<児童文学>第2号掲載)

 

     

     *棟方らしいユーモア? 

       「絵の中にしっかり「ムナカタシコウ」と書き込んでいる」

  加えて天性のバランス感覚とデザイン力が棟方にはある。

   独自の世界を展開させ始めた棟方に着目する人もあり、

  「版芸j術」昭和8年(1933年)3月号にはいち早く棟方の

   特集号が組まれ、棟方は着実に独自の版画の道を歩み始めていた。

     

 

 1934年(昭和9年) 東京 中野 

 

版画の世界に踏み入って6年あまり。

 その作風と創作のスタイルは、

彼を知る芸術家たちのあいだで評判になっていた。

 何よりも棟方が夢中になったのは、版画がもつ広がりだった。

僅か30㎝四方の板に描く世界。

それなのに無限な広がりがある。

 

この世界のすべてを板上に表現できる気がした。

 こうして、棟方の行くべき道はようやく定まった。

 

遊びに来ていた松木が・・・

     

 ーー そのうち棟方志功は化けるのではないか? ーーー

皆がそう噂しているぞ、松木は棟方に伝えて励ますのだった。

   

 「(化ける)づで、どっだ意味がね? 」棟方

 松木「想像もしねがったすごぇは版画家になる、という意味だ」

 

 棟方が今考えているのは~定型の紙一枚で完結する版画ではなく

 何枚もの連続させて構成する大型の版画だ。

  横に長い「絵巻版画」である

 版画のために自分に何ができるのか、真剣に考えていた。

 

 松木「絵巻作るなら、まずは文章、要るべ。

    誰が書いた文章使うんだ?」 

 棟方「最近は金がなくで、本も雑誌も買えねんだ。

        だばって・・・」

松木は帰りがけに、「これ。 いろいろ、

   読み物載ってるから、読んでみろ」

 手に持っていた本を棟方に押し付けた。そして帰っていった。

 「新詩論」と表紙に書いてある。

  みると、何かが挟んである…十円だった。

 「あいずは、そういうやづなんだ」棟方が、ぽつりと言った。

 チヤは、そっと本を広げた。泣き出してしまいそうだった。

 そのページを声に出して読んでみた。

   大和し美し

    大和は國のまほろばたたなずく青垣山隠れる大和し美し

    黄金葉の奢りに散りて沼に落つれば 踠くにつれて底の泥

     その身をつつみ離つなし・・・

 詩人、佐藤一英が書いた「大和し美し」

 倭建命の一代記を描いた三千字に及ぶこの長詩が、その後、棟方の

 人生を変えるものになろうとは、このチヤが気づくはずもなかった。

 

 佐藤一英 「大和し美し」の作詞者。 1899年 愛知県生まれ。

          

     


「板上に咲く」第7話

2024-03-30 | 日記

ついにチヤの堪忍袋の緒が切れた。

もうチヤは返事を書かなかった。その代わり、旅支度を始めた。

まる一昼夜汽車に揺られ、帝都・東京へやってきた。

 彼が住んでいるのは野方の沼袋。

一帯は田園風景が広がり、一瞬、青森に逆戻り?

どんな華やかな都会に暮らしをしているかと

 カエルの合唱が始まった~拍子抜けしてしまった。

次第にあたりが暗くなってきた。

畦道の交差点で自転車が止まった…男がサドルを持ったまま

 こちらを見ている…「チヤ? チヤでねが?」

 

夫がかれこれ五年あまりも居候を決め込んでいる

 松木満史の家は、沼袋の集落の一角にあった。

 松木との共同生活がどんなふうだか、詳しくは聞かされて

 いなかったのだが、なんと松木には妻がいた。

同郷の夫人と家庭を築くために一軒家を新築してすぐに、

 棟方が居候を続けているというから、そうとうな図々しさである。

 さらにまたひとり、棟方の妻子という

 招かれざる客が加わったわけだ。

 

 1932年(昭和7年) 東京・中野

チヤがマッチ箱にラベルを貼っている。

 内職のラベル作りを含め、松木夫人の(量)が担ってきた

家事のいっさいをチヤが引き受けていた。

 「チヤさが いでくれで助かるわ、おかげで主人も絵に集中

   できるはんで」、と言ってくれるのだが、肩身が狭い思いは

 微塵も変わらない。

 

 親子三人が寝起きする部屋は、足の踏み場もないほど

 いろいろなものであふれていた。 絵の具や墨などの画材

 ~まるでよろづ屋の店先のよになっている。

  が、染みだらけの壁にぽつんと…そこには<ひまわり>が、

 「白樺」に載っていたゴッホの絵の複製画のページが切りとられて

 貼り付けられている。

 まるで神仏に捧げる供物のようだ。

 実は棟方が目下夢中になっているのは油絵でなく、木版画だった。

 

  画業修行のために東京へ出てきた後、川上澄生という版画家の

 木版画を見る機会があった。その明瞭で詩情あふれる作風にすっかり

 心を奪われた棟方は、自分でもやってみたくなり、自己流で始めて

 みたところ、これが面白いように作れた… ということだった。

 

「川上澄生 1895年横浜生まれ 

1921年宇都宮中学校の教師となり、

その頃から版画の制作を始める。  

 <初夏の風> は代表作   

   

 少し彼の作品をご紹介しましょう。

    「遊女とランプ」

      「南蛮入津」

        「横浜十二番」

 

 しかし、棟方は油絵をあきらめたわけではなかった。

彼には帝展入選という大命題がある。

今年も出品の時期が近づいていた。

 

第13回帝展の入選者が発表された。そこに棟方志功の名前はなかった。

 

軒先を叩く雨音を耳にしながら、チヤは居間でひとり墨を磨っている。

 ずっと摺り続けている。

朝が来れば、チヤけようとともにこの家を出る。

 青森へ帰るのだ。

ふたりめの子供を宿したチヤは、臨月を迎えるまえに実家へ

 帰ることにした。

いま実家に戻ったら、また東京で棟方と一緒に暮らせるかどうか

 わからない。子ども増え、松木の家で親子4人が厄介になるなど

 どう考えても無理な話だ。もう帰ってこられないかもしれない。

 

 松木夫婦の部屋から、松木が出てきて、懸命に墨を磨っている

 チヤのかたわらに腰を下ろすと、

  「明日、帰るづのに、けっぱるなぁ。

     もう、それぐれでいいんでねが?」小声で話しかけた。

 ややあって、声をひそめて言った。

「なぁ、チヤさ。ヮっきゃ、スコは油絵でねぐで版画一本でいったほうがいど思ってら。

 実は、本人もそったほうがいど思ってらんだ。すたばって、できねんだ。

 なすてが、わがるが?」

 

 松木は、油絵と版画の価値について説明する。

 一枚売ると〇〇円、帝展入選の肩書がつけばもっと高く売れるようになる。

 しかし版画は、世間が認めてくれてない。何枚でも摺れる…チラシみたいなものと。

 価値を認めてもらえなければ~と、言うわけで、版画一本には絞り切れないんだよ。と。

 

 たしかにその通りだった。

  この1年間、棟方の創作意欲は旺盛だった。

 帝展には落選したが、むしろ躍起になって油絵をどんどん描いた。

 一方で、民間の芸術団体・国画会や日本版画協会に新作版画を多数

 出品してもいた。

 そして、版画を活用した内職にも精を出していた。

 

 棟方の意思をチヤがはっきり知ったのは、ある冬の晩のことだった。

  

 居間にいる松木と棟方が絵画論を闘わせていた。

 本気で職業画家を目指すなら版画はもうやめて油絵に注力しろ、

  さもなければこの先帝展入選は難しいぞ…と松木が諭して言うのに、

 棟方は猛然と反発した。

 *** 版画は藝術でねっづのが?

   木版画だば、日本で生まれた純粋な日本の芸術だ。

   油絵は西洋の真似コにすぎね。

   ワきゃ、芸術革命を起こしで。そいは…そいは版画なんだ!

 版画こそっが自分にとって革命の引き金になる。

 棟方はゴッホを引き合いに出した。

 ゴッホがあんなにも情熱的で革新的な絵画を創作するようになったか。

 ー浮世絵があったからだー

 ゴッホは画家修業のためにパリに出てきて浮世絵と出会った。

 また、大勢の前衛画家たちは浮世絵の特異性に気が付いたー

 北斎、広重、歌麿、英泉。

 清澄な色、くっきりした線描、大胆な構図。

 ゴッホは夢中になった。

 

  ゴッホに憧れて、ゴッホになりたいと願っている自分は、

  ゴッホが憧れて、ゴッホがなりたいと願った日本人だ。

  そしていま、ゴッホが勉強して勉強しきった木版画の

  道へ進もうと、その入口に立っている。

  この道こそが自分の進むべき道だ。

  ゴッホの後を追いかけるのではなく、その先へ行くのだ。

  *** ゴッホを超えて ***

 松木は何も言い返さなかった。

 ただ黙って棟方の心の叫びを受け止めているに違いなかった。

  彼こそは、誰よりも行く末を案じ、

          友の成功を願っている人だった。

上野駅には 棟方に見送られてチヤけようがいた。

  「そいだば、行ってぎます」

       棟方はうなずいた。 

汽笛が鳴り響き、車体が大きく揺れて、動き出した。

棟方の姿がだんだん遠ざかる~やがて流れゆく風景の中に消え去った。

 

 秋が来て、男のこが生まれた。

  棟方が「巴里爾」と名づけた。

   冬が来て、年末になった。

  チヤは再び、火の玉になった。

  巴里爾をおぶい、けようの手を引いて

  今度は工業用ミシンを引っ提げて、雪の降りしきる中、

  青森駅へ向かった。

 

  スコさ、待っててケ。 もうすぐ、帰るじゃ。


「板上に咲く」第6話

2024-03-28 | 日記

チヤは、棟方とともに結婚という名の冒険を始めたのだった。

 チヤは手紙を書いている。 夫、棟方へだ

          

 昔は、画家先生に読んでもらうものだからと、おかしなこと

 書いては恥ずかしいと書く前から緊張し、練習し、清書。

 せっせと郵便ポストまで通ったものだ。

 、夫もさるもの~向こうからもどんどん手紙がくる。

 多い時は一日三通も来る・・・

 

結婚して約一年半。

いまなを離れ離れに暮らすふたりのあいだをつなぐ手紙には

やさしい愛の言葉などひとつもなかった。

 

チヤは鉛筆を走らせながら~夫に向かってつぶやく。

  「私は、いつまで、こんな暮らしを、そなければ、

       なら・・・ねんだよもぅっ!」

       思わず机に向かって鉛筆を投げつけた。

  

ほんの半刻まえに届いた棟方からの手紙。 

そこにも相変わらず長いながい言い訳めいた言葉が連なっていた。

「お前と子供と離れ離れで生活しなければならないのを申し訳なく思っている。

 しかし、自分ひとりですら食べるのに苦労して現状では、どんなに呼び寄せ

 たくても無理なのだ。おまえと子供と一緒に暮らしたいのは自分も同じだ。

 そのために一生懸命仕事をしている。 ・・・・(略)・・・・

  夫婦の契りを交わしたときに、しばらく我慢してくれと言ったじゃないか  

 我慢しますとお前も答えたじゃないか。 ただ、その通りになっているだけだ。

 これ以上、俺を苦しめないでくれ。」 云々 かんぬん。

 

  ーーーだまされだんだがなぁ~   イトちゃが言っでだみでに。

      うんにゃ、そんたごどは、ね。 絶対に、ね。

     スコさは、ゴッホになるんだもの。

        世界一の絵描きになるんだもの。

  チヤは箪笥の引き出しにしまっていた雑誌「白樺」を取り出して広げた。

  目の覚めるような青を背景に咲き乱れるひまわりの花。

               

  くじけそうになれば、この絵のページを開いて飽きることなく眺め続けた。

 

 遠く八甲田山の山肌が紅葉の錦で覆われ始めた頃、

      

   待ちに待った吉報がチヤのもとに届けられた。

 

  棟方の作品が、三年ぶりに帝展に入選したのである。

 

  【辛くも再入選するが、その頃には「版画か油絵か」の思いは、版画の方に

    傾きかけていた。公募展での油絵での入選率と版画でのそれを比べると、

    版画は落選知らずである。色彩豊かな油絵の魅力は断ち難いが、自分は

    近視の弱視で、遠近感も掴めない。西洋伝来の遠近法を基本とする油絵が

    向いているとは言いにくい。   版画は黒と白の世界である。

    平面で表現するもので、遠近法にこだわる必要もない。

            あのゴッホさえも、浮世絵に憧れたではないか。

     それは版画だ!   という論理の展開である。  

                    別冊太陽 日本のこころ より】

    

 チヤさっそく手紙をしたためた~

 ところが、待てども待てどもなかなか返事が来なかった。

  ワッきゃもう、我慢ならね。・・・・

 それから間もなくして、手紙ではなく、小包が送られてきた。

 チヤは胸を躍らせた~きっと、中身は~

 おくるみ とか 赤ん坊のおもちゃとか…娘の「けよう」の

 ためのものに違いない。

  包みを解いた~

   現れたのは、…色とりどりの絵。木版画だった。

 

 全部で十枚の版画集。

 {西洋風の女性たち、遠い異国の姫君たち。提灯のように膨らんだスカートを身に着け

   長い裳裾を従者の少年にひかせている 等等。 目が覚めるような出来栄えだった。

  

 貴女等箒星を観る                 花か蝶か

文字も描いてある<花か蝶々か 蝶々か花か 来てはちらちら >この文字も彫って

 摺ってあるのだろうか。 

  

  聖堂を出る         星座の絵           貴婦人と蝶々

 

    貴女・裳を引く             聖堂に並ぶ三貴女

  

     べチレヘムに聖星を観る             貴女

 

       表紙がつけられていた{ 星座の花嫁 版画集 }

     *昭和6年発表 創作版画倶楽部より刊行された版画集の名称

         昭和3~5年までに発表した10点を収めている。

 ◆版画集の刊行にあたって棟方が描いた文章~

  <版画は見せ、聞かせ、味わわせ、澄みを物語る物語り、

    それまで摺られていなければならないと思ている。

    全版画が、紙と摺られた線、調子による道連れに、

    仲善い力で生き、静かな息づきまで知らせなければ、

    断言できる善い版画とはいえない気がする。

   いま自分が版画を創るとき、それを目標としております。>

 

   チヤは、息をのんで版画集を胸に抱いた。

       ー 花束だ  そう思った。

       

    棟方から自分と娘に贈られた、これは花束なのだと。


「板上に咲く」第5話

2024-03-27 | 日記

 1930年 青森

 チヤは雑誌を読んでいる。

 表紙に「白樺 二月號」と書いてある。 もう一冊。

   

 大正十年(1921年)掲載されているのは、小説、評論、詩など。

 評論は、美術についてのものが多い。

 大正期の日本の文学、美術界に多大な影響を与えた雑誌「白樺」

  に初めての原色版で紹介されたゴッホの作品が「向日葵」であった。

  棟方はこれに魅せられ、油絵描きに憧れた。激しさより哀愁募る作品である。

  棟方は「が最初に惹かれた「ゴッホ」が、この作品であることに

  今、一度注目したい。

        もう一冊の「明治」の発行のものは・・・

  この雑誌が店頭に並んだときに、自分はまだ自分の名前すら

  読めなかったわけである。

   

         (明治四十五年1912年 発行。)

 

  柱時計が・・・・鳴った。 家人は皆、とっくに寝静まっている。

  チヤは夜の読書をずっと続け楽しんでいる。

  チヤに二冊の古雑誌を与えたのは、棟方志功であった。

  「白樺 二月號」には、厚紙を切って作られた栞が挟んであった。

  色付きの口絵のページで花瓶に生けられたひまわりの絵が載っている。

          

  この絵を初めて見たとき…正確に言えば、見せられたとき

  チヤは驚かされた~まず、絵が目の中に飛び込んできたこと。

  イトから聞かされた~

  「画家を目指すすべての若者たちが熱狂している西洋の画家」、

   あの「ゴッホ」という名のゼンエー画家が描いたものだった。

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   次に、このページを開いて見せた棟方が、

   ワは こった絵を描く画家になりでんだ、と言ったこと。

   つまり、自分はいつの日か「日本のゴッホ」になりたいのだ、と。

棟方~ この雑誌、おメにやるはんで、これをよをぉぐ見で、拝んでけ。

     棟方志功が一人前の画家になっで、絵が売れるようになっで、

     早ぐ一緒に暮らせますように、づで。

     ヮもおんなじ雑誌さ東京で買っで、この絵さ毎日拝んで、

     おメのごど一心に思って生きていぐはんで。

     すばらくは離れ離ればなれだげど、一日も早くおメさを

     東京さ呼べるように、頑張るがら。

 

  チヤは夢想する。 

   あの人は、一流の画家になった.

           棟方と東京の家で一緒に暮らす。

   西洋風な家、暖炉もある広い家~、

   花を活け、すてきな洋服を、香水もつけ…   どんどん広がる夢~

   はぁ、そった日が早ぐこねがなぁ~。

   こうして夜な夜な夢想の花畑に一人遊んでいた。

   弘前の下宿先から「出戻り」となった実家の自室で、

       <ひまわり>の絵を穴が開くほど眺めて暮らしていた。

 

  そうなのである。

    この春、チヤは棟方志功の妻になったのだった。

 

  風薫る五月。

  イトが手土産持参で遊びに~

  「チヤちゃ、おメ、やっぱりだまされたんでねが?」

 三浦甘精堂の羊羹を切って運んできたところで、開口一番、イトが言った。

 

   「なすて⁉ んなごどね、スこさ、なんぼいい人(ふと)だもの!

    ワんど、ふたり揃って善知鳥神社にお参りすで、

    神さまの前で誓っで、夫婦になっだんだよ!」

          

 

 イトが言うには~

 祝言は上げたけど、婚姻届けは出してなく、ただ善知鳥神社でお参りし 

 それで夫婦なのか? 棟方は東京へ戻り、おメは結婚したのに実家に戻り

 ゴッホの写真さ拝んで暮らす~これってどう考えても変でねえか…と。

   チヤ

 「だっで…東京さ呼んでくれるづで約束すだんもの。

  今はまだ絵が売れねがら無理だども、売れるようになっだら

  大っきな家借りて一緒に住もう、づで」

  イト

 「はぁ、無理、ムリ。おメ、スコさの絵コ、

             ちゃんと見だごどあるけ?」

 

 チヤ・・・だんだん萎れていくのを感じた。が。

      ここで枯れてなるものか・・・

 「ゴッホになるんんだもの。スコさは、ゴッホに」

  きょとんとするイトに向かって~「これ!」と突き出した。

     「白樺」の  ~あの、<ひまわり>の図版を。

            

    この絵を見た瞬間、棟方志功は決心したのだ。

      自分は日本のゴッホになるのだ! と。

 「 づで決めたんだよ、スコさは! そのうぢに、ゴッホみでな

         立派な画家になるわげよ!」

                 自信満々で言い切った。

  「だはんで、大丈夫。ヮ、な~んも心配すねがら」

            と、自分に言い聞かせるうにつぶやいた。

 

    棟方志功がいかにして画家を目指すことになったのか。

 

その生い立ちと苦労話を~

  棟方志功は1903年、青森の鍛冶屋の家に生まれた。

   十五人の子供の六番目、三男坊。父は頼まれればどんなものでも

  器用に作った。売り歩くのは母の仕事だった。

  父は腕のいい職人、仕事の評判は良かったが、大酒のみ、金が入ると

  すぐに子供に酒を買いに走らせた。 酔うと、当たり散らし

                   

  そのとばっちりを母が一身に受けた

        父が鉄を打ち、兄が向こう鎚を打つ

         

 棟方は、いつもそばで仕事をじっと見ていた。

 煤が舞い上がり目に入っても、目をこすり見るのをやめなかった。

 棟方の弱視は、このころ始まったのかも知れない~。

 

 いつもぼんやりとかすんだ視界の中で、それでも棟方が見出したのが

 「絵」であった。

   棟方の「絵」の原点は、なんと言っても「ねぷた」にあった。

   どこまでもねぷたを追いかけ~祭りの後は、その興奮がどこかへ

   いってしまわないうちに紙に筆で描き続けた。

       義経、弁慶、阿修羅、八岐大蛇。

   

   頼まれれば喜んで棟方は描いた~

  自分の絵が誰かを喜ばせているのが楽しくて…どんどん描いた。

 

  12歳、兄と共に家業の鍛冶屋を手伝いはじめる。

 父はやがて仕事を兄に任せっきりになり、仕事の量もめっきり減った。

 棟方は暇を持て余すようになり、じっとしてると空腹がこたえるので

 とにかく絵を描いた。

 その様子を近くで見ていた母は、ほんどにおメは絵コがうめな、と

 関心しきりであった。

    「・・絵描きさ、なるんだか? 」 母の質問に、

    「わがんね」とそっけなく答えた。

 

 おメが絵描きになっだどごさ、見でなぁ…。 

   夢見るように母がつぶやいた。

   そんな子供たちの行く末を見ることなく~

 母は逝ってしまった。 享年41歳。 肝臓がんだった。

   父は泣き叫びながら…悲しい別離の光景を 

 17歳の棟方は 

 泣くことすら出来ずに呆然と眺めるばかりだった。

  その頃、棟方は裁判所に勤務していた。

  母を亡くし、胸の空洞を塞ぐには・・・

  いっそう絵を描くことに気持ちを傾けた。

  そんな折に、写生する棟方の前に少年が現れた。

  「鷹山宇一」 裕福な家に生まれ育ち、青森中学校に通っていた。

      

     他に、画家を目指した青年「古藤正雄」も、

      

   彼は、三浦甘精堂に働き、棟方と知り合ってからは絵に熱中し

   仕事にも手が付かないほどに。

   「松木満史」は桶屋の息子。当初は彫刻家を志し、仏師に

   弟子入りした。 棟方が、母の位牌を注文しにやってきたとき

   店番をしていた松木と出会ったのが、長い付き合いの始まりだった。

     三人とも同世代、「同じ穴の貉(むじな)」が集まった。

    松木と棟方が主になって、洋画グループ「青光社」を作り

     かなり無茶な企画だったが、珍しさも手伝って~

  「第一回 青光画会展覧会」を~ちょっとした話題になった。

        (以後、毎年春秋2回ずつ昭和4年まで19回続けられた記録がある。)

       「松棟の柵」

     昭和48年(1973年) 摺木 

        

    青年時代からの親友、松木満史と並ぶ棟方の自板像(板画による自画像)

     すつきりハンサムな松木と、飄々とした表情の棟方と。

     中野区大和町の松木の家に居候させてもらっていた頃の姿だろうか。

     晩年の棟方は自らの歩んだ道を振り返るように、多くの自画像自板像を

     残したがこれもそのひとつであろう。

            (昭和の初め頃の・・・松木と棟方)

      

 

   さぁこれで画家になるための準備は整ったと棟方は思った。

   絵バカとかバカスコとか呼ばれて変人扱いされてきたが、

   それがなんだというのだろう。

  いまに見でろ、ヮはいずれ世界に認められる画家になるはんで!

 

  青森という一辺境から世界へ一足飛びに出ていけるはずもない。

  それでも棟方の中にはなぜか、「青森の次は世界」という

    大決意がすでに芽吹いていた。

そして実際に、彼を世界に結びつけるできごとがまったく予期せぬ

かたちで訪れた。

  棟方17歳のときのことである。大正9年(1920年)

   棟方の仲間に小野忠明という同じ年の青年がいた。

 弘前出身、工業高校の機械科に入ったものの、どうも面白くない。

  たまたま洋画の模写展に衝撃を受け、絵描きになろうと決意した。

 芸術雑誌「白樺」を読み漁り、セザンヌの自画像風の帽子を自作して

                 

                 (セザンヌの自画像)

 被り、絵の具箱とカンヴァスを抱えて弘前の街を闊歩した。

 ある日曜日のこと、写生の帰り道に画帖に顔をくっつけるようにして

  鉛筆を走らせている同年代の若者を見かけた。

   面白く感じて声をかけた、棟方も人懐っこくなつき、その後

  彼の下宿に頻繁に出入りするようになった。

  棟方は油絵の手法などの手ほどきを受け夢中になった。

  二人は同い年ということもあった話が合い、しょっちゅう絵画論を

  ブチあったりした。

 

  あるとき、ふと小野がこんなことを言った。

 「おメの油コ見でるど、なんどなぐゴッホをおもいだすんだなぁ…。」

  棟方は、眼鏡の奥の目を瞬かせて、

  「ゴッホだら? 画家だべ?」

  「すだ、オランダ人の画家だ。 知ってるが?」

  「よぐは知らねども、名前だけは。」  

すると、小野は一冊の雑誌を持ってきて、図版のページを広げて

  差し出した。

   この画家、ヴァン・ゴッホ「革命の画家」だ。

  小野が言った「革命の画家」とは、

  雑誌「白樺」の主宰者・柳宗悦が同誌に寄稿した画家論の題名

         

  だった。この評論に震えるほど感動して、その中で論じられる

  セザンヌ、ゴーギャン、ゴッホら「後期印象派」の画家たちを

  崇拝していたのだ。

 

   そこにあったのは、ひまわりの絵であった。

           

 ・・・・顔をくっつけ、花瓶に活けられた六輪のひまわり。

  絢爛と咲き誇るもの、たたいま力尽きて~卓上に落ちているもの。

   その姿、かたち、 絵の中から聞こえてくる花の歌声、

  叫びとささやき~。全身に鳥肌が立ち、額にふつふつと汗滲み出た。

     わ ・・・わ ・・・わわ・・わわわ・・・。

   棟方は突然、雄叫びとともに立ち上がった。

      「・・・ワぁゴッホになる・・・・・ッ ⁉ 」


「板上に咲く」第4話

2024-03-26 | 日記

 チヤ棟方と出会ったのは、昨秋のことである。

  川村イトの家で面白い人が来るからと言われ、

  待っていたところ、現れたのが棟方だった

 あの日、泥だらけ…なんでも歩けば片道五時間かかるという

 八甲田山の麓付近までスケッチに行って帰ってきたという。

   

      「八甲田山麓図」(大正13年 1924) 油絵 

  *棟方は青年時代からこの山に魅せられて、まだバスのなかった時代には、

    馬の背や徒歩で25キロの道を通い、八甲田の自然をむさぼるように描いた。

    落ち着きのある描写力と丁寧な筆遣いに、意外性と21歳という若さを想う一点である。

 

 「空気は冷たぐで気持ちぇがった、絵コもがっば描げで

   まんず えがっだえがだったと」、大きな声でまくしたてて…

  疑いたくなるほど元気いっぱいであった。

 

  聞けば、

   棟方は子供の頃から絵を描くのが何より好きで得意だったらしい。

  家業の鍛冶屋は継がず、青森県の裁判所詰めの給仕をして家計を

           

          (裁判所の給仕をしていた頃の棟方)

  支えつつ、自分勝手に絵を描き続けていた。

  近くの「合浦公園」「善知鳥神社」 境内などへ出かけスケッチしていた。

      

    

    後年、板画にしている「合浦池畔」

         

  だが、本格的に

  絵描きになろうと一念発起して、五年前に東京へ出た。

  その時、誓ったのが

  【たとえ親兄弟の死に目にあえずとも「帝展」に入選するまでは故郷の土

    を決して踏まない】ということだった。

  帝展に四回応募、四回とも落選。

   歯を食いしばって頑張り続けて、ようやく、

  五回目の応募で初入選を果たし バンザイ!

  それっとばかりに上野発夜行列車に飛び乗り、青森駅から両親の墓所へ

  直行し、オイオイ泣いて墓石にすがった。

     初入選の作品 「雑園」 

     

   (本物作品は行方不明=「習作」同様のモチーフが描かれ、「雑園」の色彩を

    うかがい知ることが出来る。 )

 

  と、猛烈な勢いでしゃべりまくった。

    チヤはあっけにとられてしまった。

     帝展だのなんだの、絵の専門的なことはよくわからなかったが、

     はぁ、すごぇ・・・と、ただただ圧倒された。   

 

    イト棟方に、スコさ、チヤにおメさの絵コ 見へでけ、と促した。

     棟方は画集を広げてくれた~

     ひと目見て、チヤは、やはり あっけにとられてしまった。

     

     画集一面、真っ赤真っ黄真っ青さで、真っ茶・・・

      わちゃわちゃ、むちゃくちゃ、はちゃめちゃ…という感じ。

      めまいがしてきた。               

                

           (現代ならこんな? 当時のスケッチブックの中身はわからない…)

           棟方はニコニコ顔でチヤの感想を待っている。

     チヤは たまらず立ち上がって、

     「あ、あの、もう帰らねば、そいだば、まだ。」 と、

     

それが1年前の出来事である

     念願かなって看護婦として弘前の病院で働き始めてからは、

      おかしな絵描きのことなど思い出す余裕はなかった。

      半年ほど経った九月、チヤは休務日だった。

     ちょっと「かぐは宮川」へ行ってきます。

           

    東北地方で初めてのハイカラ百貨店、青森から来たチヤにとって

     憧れの都会だった。

     何を買うというわけでもなく、誰かに会う予定もなかった。

    あちらの棚から、こちらの…と、歩いていると~

 

    「チヤさん? チヤさんではありませんか?」

 

     津軽訛りの東京弁の野太い声が聞こえてきた。

     はっとして、顔を上げると~

       すぐそばにすとんと立っているではないか。

    …あ。「ス  スコさ?」

 

   「なすて…でなぐで、どすであなたはこごにいるのでしょうか?」

 

    それはこっちが聞きたいんだが。チヤ

    「ワっきゃ、看護婦になったんです。

     この春がら弘前の病院で働いでらんだ。・・・おメさは?

     そのテイテンどがいうのは、どうなったんだが?」

    棟方は、はっと顔を上げた

    「やあ、よく覚えてだですね。帝展づで…はは、ハハハ」

 

    こうした訳なのだ~弘前の知り合いの友だちのグループが

    「かくは宮川」で展覧会を開催するために立ち寄った。と。

             

    「展覧会はもう見ですまって、今晩は弘前に泊まるからしで

     時間はたっぷりあるし、と、こったハイカラなデパートは

      東京でも行ったことがねがら、ぜんぶ見て帰るべと

      ~・・・そうすたら、あなたをみづげだんだ」

 

    それから二人は、弘前市内を歩き~

    下宿の工藤家へ一緒に顔を~ そして、ヒラメを喰らうと。

 

    棟方はヒラメをきれいに平らげ、酒をまったく嗜まないから

   と白湯を三杯ばかり飲んで、その夜、棟方は工藤家を辞した。

 

    ふと、このまま泊まっていきませんか、と言いたいような

    気持ちになった。が、言えるはずがなかった。

      ーーー そいだば、また ーーー。

 

    三日後の朝。 「へば、行ってきます」

    いつものように出勤前に工藤夫婦の部屋へ行き、声をかけた。

    すると、「チヤちゃ。この新聞記事、見てみれ」

 

   <弘前高等学校サイプレス洋画会秋期会を評す 棟方志功画伯>

     「あ」とチヤは声を上げた。

 

     紙面の下のほうに…

 <チヤ様 私は貴方に惚れ申し候。 ご同意なくばあきらめ候 志功>

    えっ? これって・・・・。

     まさかの公開ラブレター。

        チヤの頬がみるみる。に染まった。

 

   こうしてチヤは、心のぜんぶを  

          棟方に持っていかれてしまったのだった。


「板上に咲く」第3話

2024-03-25 | 日記

棟方と、出会ったチヤ。

 念願かなって看護婦の試験に合格したチヤは、この春、

 弘前市内の病院で働き始めた。

 実家から離れた生活が始まって、やっていけるのかどうか、

 両親もチヤ自身も心配ではあったが、案ずるより産むがやすし…

 風呂敷包みひとつ抱えて単身赴任~

  弘前でのひとり暮らしが始まった。

 いちばん寂しかったのは、友人の川村イトと離れ離れだった。

 

  仕事が始まると、看護婦見習いの毎日は目まぐるしく

  仕事終え帰宅する頃にはくたくた、それでも、今日一日

  頑張ったなと充実感があった。

  下宿先の工藤一家は父の古い知人。

  いま寝起きは、三畳一間がチヤの部屋、朝夕の食事つき。

  工藤家は子供たちはみな独立や、嫁いだりしていまでは

  老夫婦二人きりの生活に。

  夫婦はチヤの帰りを待って三人揃っての夕餉となる。

  食事を終えると~ 終い湯をもらって、

  いよいよ楽しみなひとりの時間である。

 

  貸本屋で借りてきた本を裸電球の下で読書する。

  好んで読んだのは、女流作家のもの、なんでも読んだ。

  なんと言っても与謝野晶子が好きだった。

         

  <みだれ髪> を読んで、何度ため息をついたことか。

        

 「やは肌のあつき血汐にふれも見て

             さびしからずや道を説く君」

 

    「やは肌」なんて、文字を見ただけで頬が熱くなってきて

         しまうけれど,憧れずにはいられなかった。

 

  チヤはもうすぐ20歳である。

  そんなふうに恋する夢見がちな乙女であるチヤが、九月の末の

  夕暮れどき、台所の勝手口の外にしゃがんで、炙り火鉢で魚を

  焼いている・・・工藤のおんちゃおばちゃのためではない。

   とある男 — のためである。

  その男の名前は、棟方志功といった。

 

  その日、チヤは休務日で、市内の中心部にある百貨店「かくは宮川」

  へ出かけた。   

            

  ところが、夕餉の時間になっても帰ってこない。

  工藤夫婦は気を揉みながら、食事を先に済ませ、チヤの帰りを待っていた。

 

 とっぷりと日が暮れたころ~・・・玄関の引き戸がガラガラと開く音。

  そこにいたのはチヤだけではなかった。

  見知らぬ男 ー牛乳瓶の底のような分厚いレンズの眼鏡

         鳥打ち帽の裾からはみ出したもじゃもじゃの

         ウエーブがかかった髪

              

         紺地に白の水玉模様のド派手なシャツ、

         脛をのぞかせたつんつるてんのズボン、

         くたびれた革靴を履いた

   男が、チヤと並んで、すとんと立っていた

 

  男はペコリと頭を下げ、

  「ども、お世話になります。

     ワタクシ、青森出身、東京在住、棟方志功と申します。

   絵描きをやっとります。」

   と津軽訛りの東京弁であいさつをしたので

   おんちゃ と おばちゃは、

          はぁと目をパチクリさせるばかりであった。

 

   二人は茶の間での語らい~

    チヤが焼いたヒラメの皿を棟方の目の前に~

   「へば、いただきます」 箸でヒラメをひょいと持ち上げると、

    いきなりガブリと頭から喰らいついた。

    チヤは目を丸くした。「あっ、ちょっ、そったこと…」

 

   「いや、すまね。意地汚くで、すまねです。ヮ,目が悪りはんで、

     細がどごが見えねだ。魚の身をきれいにほぐすごどが

    できねんです。」 ようやく津軽弁になって言った。

           *****

   「すたっきゃ、ヮが身をほぐしましょう」そう言って、

          チヤは棟方のヒラメの皿を自分のほうへ寄せた。

    「川は皮から、海(み)は身から…」とつぶやいた。

 

    棟方はうつむいて皿を凝視~やがて顔を上げた。

    黒々とした瞳がうるんで光っていいる。

    目と目が合った瞬間・・・・

    チヤの胸の奥のほうで、何かがことんと柔らかな音をたてて動いた。

    「 ーー 忘れね。ヮ、この瞬間、一生、忘れね」

      棟方がつぶやいた。

 

      そうだとすぐに気づいたわけではない。

           けれどその日、チヤは棟方に恋をした。

            

        

 

  *余談ですが~

   この小説中、原田マハさんの軽妙洒脱な「津軽弁」の会話を駆使しての展開は

   ほんとに楽しく読ませていただきました。

   東北弁、特に「津軽弁」は難しい・・・の評がありますが

   さて、急な話なんですが、近ごろ、この北国の話題が随分と流れている?

    「大谷さんを筆頭に、菊池さん、ロッテの佐々木、高校野球で「佐々木麟太郎君」

     サッカーでの青森山田高校 等々。 

   実は、今朝の朝日新聞<天声人語>欄で「春場所新入幕で初優勝した「尊富士」関の話。

   110年ぶりの快挙~

   地元五所川原市で応援していたおじいさんの言葉に「よぐ けっぱった!」一言。

    さらに地元の山「岩木山」は津軽富士…優勝したのが「尊富士」

    もうひとつおまけに 部屋の親方は元「旭富士」現在一人横綱が「照ノ富士」

    他に、富士の四股名も大勢

     おやおや この「伊勢ケ浜部屋」はなんとめでたい部屋なんでしょう。

   この春の天気は なんという毎日なんでしょう。

   一向に春が来ない~でも こんな一句も  春場所を大いに盛り上げてくれた

      「尊富士」に「大の里」を詠んで

         <大銀杏結えぬ二人が春嵐> 小森伸一  

 

    こんな嵐なら、毎場所吹いてもおもしろいかも?

     でも、やはり、相撲は 

      その地位にいる関取は 関取らしい相撲を取って欲しいね。

 

     では、また 続きを~


「板上に咲く」第2話

2024-03-24 | 日記

1928年(昭和3年) 十月 青森

 夜半である。

 家の者は皆とっくに寝てしまった。

 ふと目が覚めてしまって、もう眠れなかった。

 裸電球をつけ、三畳の隅にちんまり控えている机の前に正座した。

 「看護婦の心得」 他~ノート、硯、墨、筆、何本かの鉛筆が

 きれいに揃えられている。いつも寝る前に…習慣である。

  赤城チヤは18歳で、この冬には19歳になる。

 小学校から夢見ていた看護婦になるべく、目下受験勉強中である。

        

 チヤは14歳の頃に雑誌でナイチンゲールの物語を忘れることが出来なかった。

       

 遠い異国の人の話だけれど、こんな人実際にいたんだ、婦人であっても人の

 役に立てるんだ、社会のために働けるんだ~と胸を熱くした。

 いまの自分にとって一番の選択だろう。いや、絶対に必要なことだと、

 心が決まった。 ヮ、看護婦になる!

 

  と、小学校の卒業と同時に両親に宣言した。

 二人ともハトが豆鉄砲を喰らったような顔…衝撃的過ぎて

 何も言えないようだった。

 母は、津軽のお叔父ちゃが縁談持ってぐるで、看護婦になるで、

 そった馬鹿なこど、おメは!

 縁談が持ち込まれると知って、チヤはいよいよ腹を括った。

 時間をかけて粘り強く父を説得した。

 真面目で穏やかな気性の父は、娘の言うことを黙って聞いていたが

 、とうとう首を縦に振った。

 それでまたチヤは母にこっそり台所へ連れて行かれた。

 ー看護婦になる試験の銭コはお父さんが出す心算だはんで、

 まんず、しっかり勉強すだと。

 チヤはうなずいた。

 そこで初めて、涙が出た。  

 そんなことがあって、目下、看護婦資格取得試験のために猛勉強中である。

  

  朝、いちばん、チヤは昨夜遅くにしたためた合格祈願の札を懐に入れて、

 善知鳥神社(うとうじんじゃ)を訪れた。

      

  「この善知鳥神社は、北国に生息する海鳥で、その肉は美味だと言います。

    この鳥にまつわる伝説があります。善知鳥はひな鳥を上手に隠し過ぎて、

    親鳥が「うとう」と鳴いてひなが「やすかた」と答えないと、親鳥でも

    見つけられなくなってしまう。ある日、猟師が親鳥の鳴きまねをしてひなを

    捕らえると、一滴でも浴びると幽鬼になってしまうという血の涙を流しながら

    追いかけてきた。その涙を浴びて幽鬼になってしまった猟師は、旅の僧侶に

    自分の蓑と袈裟を預け家族に届けてほしいと頼んだ。」

 

    これから先、 棟方の板画の「柵」に「善知鳥」が多く出てきますし、

    彼の若いころ、この善知鳥神社の境内で遊んでいた思い出の場所でもある。

        

    また、能の演目に善知鳥と北国の風景が彼の中で「白と黒」の絶対性で

    掴みたいとうイメージを生んだようです。

 

   「善知鳥」の1部 作品

        

   お参りしたその足で、チヤは善知鳥神社のすぐ近くにある川村イトの家、

  川村歯科医院に立ち寄った。

  イトはチヤのいちばんの友だちで、小学校の同級生だった。

  何をするにも、いつも一緒。

  この秋、看護婦の受験をするのも一緒。

   そんなわけで、二人はほぼ毎日、どちらかの家へ行って一緒に受験勉強を

  していた。

 

 その日も、 イトの部屋に入るなり美味しそうな羊羹を出して~

 「これ、三浦甘精堂の。チヤちゃ、こごのお菓子好きはんで、買っでけだ。」

  ・・・などと、おしゃべりが始まった。

 チヤちゃ、三浦甘精堂の丁稚さ、知っでるか?」

 「いんや、知らねども?」

       

(因みに、この三浦甘精堂 菓子店は現在も健在で老舗の菓子店として有名です。)

 

  以下、イトが母から聞かされた話~

 正雄さ、いう人なんだけど。まんず、面白ぇんだ。

   そりゃもう、おかしな絵コ、 描いででね」

 「絵コ?」

 「すだ。絵コ」

  チヤはべつだん絵に詳しいわけではないが~丁稚どんが絵を描いているなんて

  ずいぶんとっまた高所な趣味じゃないか…と素直に受け止めた。

 

  が、その逆なんだとイトが笑みを嚙み殺すのが大変な様子だ。

 「なんもなんも、そった高尚でねんだっで。

  絵コっだで、なんだががんだが、

   さーっぱりよくわがんねもん描いでんだよ」

 

  以下、イトが母から聞かされた話ーーイトが話す。

 

  古藤正雄はいま、21歳で、小学校を卒業してすぐ、県下随一の菓子店、

  三浦甘精堂に菓子職人見習いとして住み込みで働き始めた。

  大変真面目で好青年。手先も器用、細やかな菓子作りができる。

  これは将来が楽しみだと、主人にも見込まれていた。

  ところがあるときを境に、人が変わったように陰気な性格になってしまった。

  何かを深く考え込んでいるようなので、何か悩み事でもあるのか…

  さては惚れた女子でもできたかと主人が問い質した。

   すると正雄はいかにも沈痛な面持ちでこう答えた。

  ・・・ ゲージツです。ヮだば、ゲージツに身をやづしているはんです。

  その芸術とは、絵のことだった。

  ゲージツだ、ゼンエーだと言われても

   主人にはさっぱり理解できなかった。

   もう少し詳しく聞かせてくれ~ その ゲージツカというのは

    どこの誰ぞ?

   ・・・ゴッホです、と 正雄は言下に答えた。

        「… ゴッホ ? 」

   イトが口にしたその言葉を、チヤは思わず繰り返した。

   初めて聞く名前、不思議な響きである。名前なのかどうかもわからない。

   イトはうなずいて、「こっからが面白ぇんだ」

    話す前からも笑っている。

 

   正雄は青森の若い画家たちの集まりに参加していて、

   前衛芸術やら西洋の絵画には何の知識もなかったが、ただ絵を描くのが

   好きで興味があった正雄がすっかり取り憑かれてしまったのが、「ゴッホ」

   という名前の西洋の画家だった。

   そんな名前の画家になぜまた身をやつすほど心酔してしまったのか

   主人にはさっぱりわからなかった。

   ほとんど片恋いのように思い詰めた正雄は、とうとう寝込んでしまった。

  

   正雄の部屋を覗いてみると~なんと猿股ひとつの半裸になって

   ふすまの表面いっぱいに ぐちゃぐちゃに色を

   塗りたくっているではないか、それも、菓子用の餅粉、紅粉

   草色、黄色、紫の粉・・・油絵具の代わり???

   かみさんは驚きの あまりすて~んんと、ひっくり返ってしまった。

 

   アハハハ、と思わずチヤは笑い声をあげた。「やっだ、面白ぇ!」

  「ねし、面白えだべ? アハハハ」 イトも笑い過ぎて涙目になっている。

 

   秋の日は釣瓶落とし、という。薄暗くなってきたなぁ~

   夕餉の支度も手伝わなければならない、チヤはこたつの上の教科書を閉じて

   「へば、ヮ、そろそろ帰るはんで」 立ち上がりかけると、

 

  「まぁま、ちょっと待ってけろ」イトが袖を引っ張てまた座らせた。

  「いまがら、たんげ(すごく)面白ぇ人が来るはんで。

        もうちょっとだけ、な?」

  「さっきのゼンエーゲージツの話。そった絵を描いでる

   絵描きがいまから来らんだし。

   会っでけって、面白ぇがら。な? たんげ面白ぇがらさ」

 

  「イトちゃあ。 イトちゃ、いるがあ」

    元気のいい、野太い呼び声が聞こえてきた。

   「ほら、来だし」 イトはくすくす笑ってから…

   「はあい、ただいま参りまぁす」

   

 玄関からの声…「ちょっ、ちょっと待っでよスコさ!

           まんずまぁ、足が泥だらけでねの!

         いま雑巾持ってくるはんで…

           チヤちゃ、ちょっとぉ、チヤちゃ!」

    イトが困惑して呼ぶ声がした。

 

  もじゃもじゃに波打つ長髪、分厚いレンズの黒眼鏡。

  秋風が身に染みる季節だというのに、つんつるてんの紺絣の着物、

  裸足に下駄履き。どこを歩きまわってきたのか、足は泥だらけ、

   濃い毛が絡みつく脛は泥ハネだらけ。

  大きなずだ袋のような斜めがけにし、腰には縄で魚籠をくくりつけ、

  弓矢のような絵筆が何本も突き刺さっていり。

   ・・・画家先生といよりも、愛嬌のある子熊のような。

           

   やがて生涯の伴侶となるその男。

     棟方志功と、チヤはこうして出会ってしまった。

 


原田マハ「板上に咲く」

2024-03-22 | 日記

 随分とご無沙汰してしまいました。ブログアップを。

  一旦、無精をすると、人間駄目になりますね~もう反省しています。

  心 入れ替えて? 少しずつ、回復していきたいと。

    そんな気にしてくれたのが、 1冊の本でした。

 

朝日新聞広告欄に「原田マハ 板上に咲く」

 帯に…世界のムナカタ、ここに誕生。 

          この活字が目に飛び込んできた。  ガツン !

私は「原田マハ」さんの本は何冊も読んだ。

私も趣味として「絵」が大好きで、水墨画、水彩、油絵等も描きます。

また、美術館巡りも運動を兼ねて? ここ九州から「東京」へ

1年1回 4~5日の日程で続けています。

そんなことで彼女(原田マハ)は昔、

美術館の「キューレター」

絵画に関する知識は専門家なので著作にも目線の角度が大いに違いがあり

それだけ面白く、追いかけているのである。

 

そう、「暗幕ゲルニカ」はピカソ。

   「たゆたえども沈まず」「ゴッホのあしあと」「リボルバー」のゴッホ。

   「ジヴェルニーの食卓」「モネのあしあと」はモネ

   「楽園のカンヴァス」にアンリー・ルソー

 また、角度を変えて「国立西洋美術館の誕生」について、

   「美しき愚かものたちのタブロー」

 その他 多くの画家を主題に出版しています。

 

 今回の「棟方志功」 日本の画家の登場です。

 棟方志功と言えば・・・私は、ここ九州の企業「安川電機」さん。

 毎年「棟方志功カレンダー」を世の中に送り出し多くのフアン

 でお馴染みな画家でもありますね。

 

 さて、この「棟方志功」の作品をまじかに鑑賞したのは

 2011年5月 福岡県立美術館「祈りと旅」であった。

 第1部 祈り~ 第3部 旅と文学 まで 作品数 316点

 会場を出た時は…

ぐったりと心地よい疲れだったのを思い出します。

あれから10余年の時間が~

 今年3月、この棟方が、原田マハによって本になった。

アマゾンに発注…すぐに届き~ もう むさぼり読み?

      

 時間を忘れて読み終え~ 酔いしれた。

 これは凄い興奮です。なんとか この興奮をお伝えしたい?

 勝手に、決めちゃいました。

 珍しく、挿絵のもなく、ぐいぐい展開されている…

 この棟方の作品を、皆さんと共に文章と「作品」を楽しもうでは

 ありませんか・・・と、これも勝手に決めました。

 ごゆっくりと、マハさんの「筆力」と「棟方作品」

 仮称「画面美術館」でお楽しみください。

 *【ブログ中の文章・作品のコメントは、多く作者のものも多く引用させてもらってます。

   その他、美術誌・ネットなど「棟方志功に関する資料」からも引用させていただきました。

   ご理解・ご了承頂きますように。】

 

  まずページをめくります~

 序章 1987年(昭和62年)十月 東京 杉並

 

 この序章で、「棟方志功」ってどんな人なのかが理解できますよ。

           

 むちゃくちゃエネルギーの塊の人。です。

 「糟糠の妻」という古い言葉がありますが、妻「チヤ」さんが

 傍にいたから こその「棟方志功」であったとも言える。

 これは全章を通じて感じ取るに違いありません。

 東郷青児美術館・新宿 (現在 sompo美術館)

                  

            美術館と ゴッホの「ひまわり」

 

 新聞社の取材依頼が・・・

   今日はこうして私のところへ、どうした理由で~

   ゴッホの話を聞きたい…と、おっしゃっても。  

   ゴッホの絵が美術館で公開されるという・・・

 

 チヤさんの昔話は、「なにしろ、あの人にとってゴッホは神さま、

 偉大な先生でしたから。ゴッホが描いた<ひまわり>の複製画。

 雑誌に載っていたそのページを切り離して、長いこと部屋の壁に

 貼っていました。 <中略>

    「ゴッホの絵は燃えでらんだ、ゴッホは太陽なんだ。

     ワシもそった絵、描きで。ワも燃える絵、描く。

     ワも絵、描いで燃える」

 

  彼はねぇ、

   声が大きくて、動きも大きい。歯はむき出しにして笑顔を・・・

   底抜けに明るくて、泣きべそで、褒められると大喜び。

   頼まれれば、ホイホイ、次から次へ 板画(はんが)を

   どんどん創ってどんどん渡して…。

 

   作品を創るうえで

    「そのとき」がきたら~それは突然訪れます。陣痛みたいに。

    それが始まったら・・・アトリエに飛び込んで、

    もう一気に。

    全身を彫刻刀にしてぶつかっていく。

    転げ回るようにして 削り、墨を刷き、紙を敷き ばれんをこする。

    ぜんぶ、全身で。命がけ…  すさまじい爆発でした。

         熱中して我を忘れて 制作中の 棟方」

     

   (彼の頭の中には、これから手に付けようとしている板画のことで

     いっぱい。もうそのことだけ。全神経を集中させて

     血液を、酸素を、栄養を、気持ちの全部を送り込んで… )

 

   彼の「そのとき」がいつ来ても大丈夫なのように。

   私はいつも準備を怠りませんでした。

   板画に必要なもの。

    板、紙、墨、筆、彫刻刀、ばれん。

        

 

     

   ばれんと彫刻刀は棟方の彼の手指となって動きます。 

   ばれんは手づくり。

   私の役目は 「墨」です。  

   決してこれを絶やしてはなりません。

   いつくるからわからないそのときのために

   毎晩、墨を磨りました。

   夫に頼まれて初めて墨を磨ったのは、遠い昔

   長女が生まれてからのことです。

 

         ここで、「志功」「チヨ」の関係を。

   チヨは弘前市の医院に看護師として勤めていた。

   結婚して、チヨは実家で、志功は東京での生活。

   チヨが身ごもってから入籍。いつまで立っても

   呼び寄せてくれないので…娘をおぶって、東京へ。

   あの人は「よう来てけだ、ってねぎらってくれて、

   居候先の同郷の画家仲間、松本満史さん宅に

   お世話になることに。

   それで私、夫に言ったんです。

   なんでも言いつけてください、って

   

   「ワぁは、こいから  

   版画ひとすじにやっていくべど思ってる。

   だはんで、たくさんの墨、必要なんだ。

   ワど一緒にいる限り、墨、磨ってけ。」

 あの日からずっと、夫が亡くなるまで 四十年以上。 

   

 棟方は、十七歳のとき友人に見せられた とある雑誌の中に

 鮮やかな色つきの口絵をみつけました。

 それは黄色く燃え上がる花ーーー<ひまわり>でした。

         (雑誌の口絵のゴッホの絵)

     

  あの人は、ひと目で心を奪われてしまった

 だから絵描きになる決心をしたんだと、教えたくれました。

    ーーーワぁ、ゴッホになる! って。

       

 ゴッホに憧れて、絵画に恋焦がれて、

 油絵のなんたるかもよくわからないままに

     最初はがむしゃらに始めました。

 悪戦苦闘するうちに、やがてあの人が見出したのは、

 板画の道でした。

 版画ではなく「板画」です。

   戦時中、棟方が自分の仕事を自らそう名付けました。

   板を彫る、墨で摺る画。世界にたったひとつ、

   板上に咲く絵。だから板画なのだと。

当時、日本には浮世絵があり、木版画の技術は世界的に見ても

特別なもの~でも、所詮は版画「版を重ねる」複製画。

だから芸術的価値は、はるかに他に比べると低かった。

 

でも、ヨーロッパでゴッホを初めてとする印象派の画家たちが

 この「浮世絵」を見て~ こんな絵を見たことがない。

 驚き、夢中になって…自分たちの絵もこうでなくちゃ。

 と、その価値を見出したのである。

 

 ゴッホは少しでも近づきたいと~多くの作品に真似て描いた。

       

 日本に行きたいと…まで 強い思いを持っていた。

  浮世絵からのゴッホの絵 歌麿、広重あり。 

  右端、「タンギー爺さん」 ゴッホをはじめ、モネ、セザンヌ、ゴーギャンなどの画家

  が集まる画廊の主人。 ゴッホが描く自画像の背景に「浮世絵」を入れている。

 

 このゴッホのひらめきを得て、やみくもにゴッホの足跡をおきかけるのではなく

 自分の力で新たな道を切り拓き、足跡を残していこうと決心をする。

 

  ほとばしるよな絵を描いた画家は自殺してもうこの世にはいない。

  十七歳の

  棟方の心には聞こえる~ ゴッホの声が・・・教えてくれた。

           「超えていけ、と」

 

   取材の話はここで終わる。

 

   棟方が亡くなって~・・・そういえば私、一度も墨を磨っていないこと

   あなたのお話しながら気が付きました。

       辛くなかったと言えば、噓になります。

       辛かった。

       でも、、幸せでした。

 

   せっかくだから、行ってみようかしらね。

   日本へやってきたという<ひまわり>に会いに。

 

   そうでしたね。 あなたのご質問。

   棟方がなんと言うか。

   ゴッホの<ひまわり>それがいま、東京の美術館にある。

   そうね。

   あの人…なんて言うかなあ。

 

    明日からは、一挙に昔に戻り、棟方とチヤの若い時代の話に。


続 黄昏どきを愉しむ

 傘寿を超すと「人生の壁」を超えた。  でも、脳も体もまだいけそう~  もう少し、世間の仲間から抜け出すのを待とう。  指先の運動と、脳の体操のために「ブログ」が友となってエネルギの補給としたい。