本日の郷土史研究会講座のタイトルです。
今回の講座は「中津城を知る」の講演
先年、NHK大河ドラマでこの京築地方は黒田官兵衛一色!
我も 我もと みな「官兵衛あやかり」 で大騒ぎしたこの地域
そんな中心的役割 中津城の話です。
さて この中津という地。
歴史の大きなうねりが起こり
織田信長 本能寺の変で亡くなり、秀吉の時代となり
九州平定に伴い黒田如水(官兵衛)が豊前6郡の領主として入国。
天正16年 官兵衛築城開始。 秀吉全国統一 名実ともに天下人に。
現在 またまた大河ドラマでは「真田丸」
この物語も まさに 秀吉 家康の流れの中で展開されていくのです。
そして 関が原後 長い徳川の時代が続くのである。
中津城も「黒田氏」にかわり「細川忠興」入城。
この後、1615年に「一国一城令」により、豊前国では小倉城以外の城
は破却の危機に…ところが例外的に中津城は残ることができたのです。
(*忠興が老中土井利勝らに働きかけた…どんな手を使ったか? )
その後、本丸、二の丸、三の丸…八門、二十二の櫓が設けられほぼ
現在の形に。
譜代大名奥平昌成が入り、以後 明治まで藩主の居城として存続したのです。
歴史研究会の話では、中津城の特徴について 詳細な勉強を。
これは修復工事の際に、いろいろなことが発見!
築城当初の石垣が広範囲に現存することがわかった。
普段接しませんが、「石垣建築」
つまり、石垣を積み上げる技術のこと (以下、資料による)
これが 最も高度な安土桃山時代の技術によって積まれていたのです。
城郭ってのは 呼び方に「中世城郭」と「近世城郭」があって
中世城郭とは、12世紀抹~16世紀末に造られた 有力武士や大名の城や館のこと。
近世城郭とは、16世紀末から江戸時代にかけて造られた 高石垣・礎石建物・瓦を
持つ城のこと。 求心性の高い縄張り構造を持つ。
中津城は 西は中津川を天然の堀とし、北・東・南は外堀を設ける。
本丸南西部の石垣は黒田時代の石垣とされている。「輪取り」「布目崩し積み」
「算木(さんぎ)積み」など当時最先端技術を駆使していること。
また、本丸北側は、「黒田と細川の石垣の境」といわれる石垣あり。
向かって右側の石垣が黒田時代 その上に積まれている左側の石垣が細川時代。
見て分かるように 細川時代の石垣は 丸みを帯びた自然石で、黒田時代に石垣は
四角に加工された石が多く使われているのです。
本丸城を拡張した際の後なのか。
これは黒田時代は未加工の自然石の特徴を生かして積むのが基本なんですが、
この地方の遺跡(唐原神籠石)から四角加工した神籠石を持ち出し石垣として使用。
(*きっと 築城工事を早く、そして節約も考えたのでは? と 私の勘繰り? これ余談)
中津城下町として黒田時代にある程度の町割りがなされ、細川以降は
その区画を踏襲したものであることも分かった。 官兵衛の「縄張り」は凄いですね。
城下町は軍事的な防備を考えてつくられ 機能的な住居の配置。
いざm戦闘の際には、 寺町など広い境内、大きな建物を利用できるようにと。
地図参照
中津城の出土品から 面白いものも…
この瓦 秀吉の許可が必要だった。(秀吉子飼いの武将のみが使用)
これもそう。
たかが「城」ではありませんでした。
「城」の物語は 権力者の物語かもしれません。
城にまつわる数々の物語 数奇な運命の中にある「城」もあり 追いかければ面白いね。
そう言えば、この中津から 熊本に転封した細川氏 天下の名城
今回の熊本大地震で 崩壊… あの崩れた城の姿… 痛ましい…
きっと、この熊本城も これからの修復工事の際に、ドラマが生まれるのは間違いない!
今日は 楽しい 有意義な講座でした。
個人的にも 6月講座 「あの屛風は ヨーロッパの古城に隠れていた」
「豊臣期の大坂城」の話に またまた 新しい ネタが追加でき
おも城そう… ????