オヤジの弁当箱

日々の手作り弁当だけが生甲斐のしょぼくれオヤジ。弁当メニューと併せて日々の雑感を付記。

ハンバーグ

2015-01-16 | Weblog

1/16(金) どうやら今日は金曜日らしい、一月も中旬になった。今日は、朝からホテルグランドパレス(このホテルは、ウン十年前に披露宴をやったので懐かしい)にて、かつて在職した会社のOB会の新年会が開かれた。総勢三百六十名程のOBが参加した。この会の、末席理事を仰せつかっていることから朝からのお出かけであった。

ピアノコンサートを聴き、昼からの祝宴で酒を飲み、先輩方や仕事の関係先のトップに挨拶をする。祝宴後は、お手伝いを頂いた皆様方とのご苦労様会である。ビールや水割りを飲み、お腹はボコボコとなった。昼抜きの誓いを立てたばかりで、喰っちゃいけない料理をついつい腹に収める。貧乏人はやだね~。

かつて一緒に仕事をした仲間と、食事会や飲み会の約束を幾つかした。が、これも絆である。会がお開きになって、ホテルを出ようとすると前会長のUDAさんから声が掛かった。「時間あるなら、ちょっとやろうか」と。これは織り込み済み、その為に今日は会社に戻らないとスケジュール表に入れてきたのだ。

UDAさんと会うと、二人で次の店で飲むのがお決まりのコースである。UDAさんがメンバーの、有楽町にある外人記者クラブのレストラン&バーに向かった。電気ビル最上階のこのクラブで、ギネスと赤ワインをやりながら、何時もの如くの会話である。Uさんは、サラリーマン時代は雲上人であったが、同郷のよしみというやつで、昔から遠慮なしの会話である。

この日の主な会話は、お墓となった。故郷の墓守りがいないので永代供養にするつもりだとか、先日亡くなった宮尾登美子さんの本にまつわる家系のことなど。最後は、私が帰省する時に併せて、内の親父の墓参りをしたいなど・・・。遥か以前、UDAさんや亡くなった中村正明さんなどと、土佐CCへのゴルフ旅行をした。

その折に、皆さんに実家まで来てもらい酒盛りをしたが、その最中に親父の飲みっぷりに気圧されてか「逃げ出したよな~」と、云う。そんな思いであるので、また寄って墓参りをしたいものだと話す。一緒に飲むと必ずと言っていいほど、その時の話がでる。余程印象が強かったのだろう。

宵闇が迫る前に、犬の散歩があると言うUDAさんと別れた。会社に戻ることとした。

 

 -ハンバーグー

今朝の弁当だが、メニューに行き詰まり「ハンバーグ」となった。昨夜も雨の中を、三軒の酒場を訪ねて午前様の帰宅となった。深夜の駅に着いた頃に雨が上がった。家路に向かいながら冷蔵庫の食材群を思い浮かべるが、たいしたものがない。其処で思い余ってハンバーグとなったのだ。家に着くなり、冷凍庫の挽肉を冷蔵に移し変えた。

そんなことで、遅い目覚めながらもハンバーグ、何がなんでもハンバーグと云う次第だ。パン粉・タマネギに塩胡椒、生姜にニンニクを少々、卵が入ってニギニギしてフライパンへ。ここまではいいのだが、仕上げにソースを作る段になってケチャップが品切れと気付いた。しょうがねえやと、トマトを刻んだのである。

                        

ちょい焦げのハンバーグが完成。他には、昨日と同じ「粕漬け」の魚を焼き、茄子と茗荷に豚小間の「味噌炒め」、ウインナーとシメジのソテー、以上である。

                    

ご飯の方は、時間が足りないので鍋で炊いた。電気釜の半分の時間で炊きあがるのだ。二人分の弁当を詰め、残った菜でご飯を一膳。こんな朝がつづいている。実に旨いんだな~これが・・・。

                    

 

 

 

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酒場にて・・・

2015-01-15 | Weblog

1/15(木) 久々の雨模様、乾ききった私の肌にも潤いが戻るかな?。昨夜の帰宅は23時半過ぎか、寒かったよ。肌も財布も乾こうと云うものだぜ。

昨日は、午後から財務関係の講習会に参加した。夕方に終わり、同行したスタッフと会場近くの安酒場で一杯やりながら諸々の話を・・・、するつもりだったが、どうにも半端な話で終わった。途中に御学友のHOSOKAWAから電話が入り、有楽町の酒場で落ち合うことになった。

地下鉄で丸ノ内線で銀座に出て、待ち合わせのニュートーキョービルの二階の店に向かう。処が、またしても大ドジをしたのだ。銀座を通り越して赤坂見附まで行ってしまった。御学友はのんびりした男だから問題はないが、これがクライアントや先輩方であれば焦るところ。

店に着いたら、HOSOKAWAは既に何杯目かのグラスが空く処だった。変わり栄えもなく年末始の状況など語りあって、現今のテレビ界のだらしなさなどを話して、今年の御学友との新年会を終えた。

会話の中で特筆すべきは「正月酒に酔いながら、犬を散歩に連れて行ったら犬に引っ張られて転んだ。翌朝、胸が痛む。痛みがつづくので医者に行ったら、肋骨が折れていた。」と云う、締らない話か。人のことだと笑いたい処だが、こっちも膝や背中の痛みに悩まされてる。御身お大事にだぜ!

HOSOと別れて、人形町に戻ることにした。未だ九時前だ、スタッフのYOSHIOに電話を入れ、「ちょっぷく」で待ち合わすことにした。もっと早い時間なら会社に戻るつもりでいたのだが、この時間なら酒場で話をしようと・・・。YOSHIOと飲み始めてから、今度はFUJIKURAを呼ばせた。今日の用件は、FUJIKURAにあった。

チョット真面目な話を済ませて、ま~飲めよ。と薦めたが、チケットはFUJIKURAが持って来たのだ(元の出所は私だが)。赤ワインからハイボールに移ったが、この頃になるとウイスキーの薄さも気にならぬ、すっかり酔いが廻ってる・・・。そういや、有楽町の店では『なんだよ、このハイボールは。馬のションベンでも、ひと垂らししただけか』と罵詈雑言、ダブルにして貰ったのだ。

そう云う点では、ハイボールの味は『ローカーボ』が絶品、NO1だな。この味に魅かれて、ローカーボ-に通うようになったのだが。何処に行っても、何処の店でもハイボールを飲むのだが、ローカーボに勝る店は知らん。なにせ、自分で作ったハイボールよりも美味いのだ・・・。

FUJIKURAは生真面目なので、中々出てこないだろう。『チケット持ってるはずだから、チケット持って来るように』と、仕掛けをした次第。YOSHIOが「有名人がこの店にも来るんだ。名前が出てこない」と、云う。何かと思えば、後ろのテーブルで「なぎらけんいち」さんが、数人と飲んでいた。店の客が、ナギラさんですよね?一緒に写真を撮っていいですか?なんて言う会話が耳に入って判ったのだが。

                      

                       YOSHIO&FUJIKURA

店長のYAMAちゃんが酒を運んで話し込んだ。なんともくだらない与太話が耳に入る・・・『青だ黄色だと、そう云うバカな話は止しなさいよ』と、後ろから声を掛けた。「ああ~っ、此処に居たんだ}と、YAMAちゃんが仰け反ったぜ。どうってことはないが、話のネタ元が私に関係があったのだ。

引き揚げる、ナギラさん一向に会釈した序に、写真まで撮ってしまった。ミーハーだね!と言われるが、彼は酒飲みだからね。酒飲みに敬意を表したと云う次第さ。彼の帽子もマフラーも、皮のハーフコートも、上物だったね。俺もあんな帽子を被りたくなったよ・・・。しかし、被った時ととった時のギャップが大きいからな・・・。

             

                何時の間にや、店主のYAMAちゃんが後ろに収まってやがる!

一行が帰った後は、YAMAちゃんを構って四人でサイコロ勝負で遊ぶ。最後の大博打は、勿論吾輩の大勝利であった。

 

神田から始まり、有楽町、最後は地元人形町の酒場と渡り歩き、寒い中を乾いた胸と財布を抱いてご帰還となった次第だ。今朝の雨が、肌と財布にお湿りをくれるといいのだが・・・。

 

さて、弁当の方は「親子煮」と「唐揚げ&掻揚げ」「ター菜のベーコン炒め」「魚の粕漬け焼」であるが、この粕漬けの魚が何者か判らん。白身、厚みは少々ある。察するにヒラメ・カレイの類に見えるが、そなに高い魚じゃなさそうだ。オヒョウかと思うが?

             

どうせ弁当に収まりきらんので、親子丼弁当にした。これなら飯の上に載るので、他の菜を入れるスペースが生まれる。詰めるのもひと苦労だ・・・。

                    

 

 

 

 

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ポテトサラダ

2015-01-14 | Weblog

1/14(水) 六時に目覚めた、昨日・一昨日の葬儀疲れか?こんな時間まで眠ってしまった。弁当のメニューを暫し考えるが、思い浮かばない。そもそも食事が少なくなっているのだが、それに加えて当方のレパートリー不足である。

しょうがない、先ずは台所で考えようと起きだした次第。冷凍室や野菜室を覗いて、適当に取り出して並べた。結局、豚薄切肉をシャブシャブ風に胡麻タレで喰うのはどうだろうか?、定番ではあるが鶏肉と人参・タケノコ・蒟蒻の煮物。それにポテトサラダと云うことに落ち着いた。

豚肉と一緒に小松菜も煮汁で茹でることにした。これにゴマダレを掛ける。ポテトサラダは、ジャガイモ二個、卵二個、人参とタマネギのスライス、塩胡椒とマヨネーズ、酢少し垂らした。

            

これじゃあ淋しいな~と、お定まりの卵焼きを加えた。小ネギを刻んだ、ネギ卵焼きである。

以上、弁当を作り終えたが、長女が弁当を取りに来る時間になっても現れない。またしても遅くなって、タクシーで職場に向かったか?しょうがねえなあ・・・。『弁当は冷蔵庫に仕舞って、夕方取りに来いって、メールしとけよ』と、家人に八つ当たりだ・・・。

                        

昨夜は、七時半過ぎに会社を後にした。真っ直ぐに帰ってもやることなし、例の如く、近所の酒場によってからの帰宅となった。先ずは「ローカーボ」にてホットウィスキーからスタートし、ハイボールへと。二軒目は「ちょっぷく」に顔を出して赤ワイン(ワインもどきか?)をたっぷりとグラスに注いで貰った。

何時ものように酒場の店主と軽口を叩いて、今日の疲れを癒す?(疲れるはずがねぇだろうと、誰かの声が聴こえそうだが)。変わり映えのないひと時を過ごしてからの帰還である。

 

 

 

 

 

 

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通夜~告別式

2015-01-13 | Weblog

1/13(火) 故・黒田洋一郎(陽一郎)君のお通夜が昨日、そして今日が告別式であった。葬儀は、世田谷区成城学園駅から十五分の処に在る「妙法寺」と云う日蓮宗の寺で執り行われた。準備がいい彼は、一年前に病気を宣告された後に、早々とこの寺を菩提寺にと決めたそうだ。

                   

逝去が七日、通夜・葬儀がここまで遅くなったのは、年末始で葬祭場の休みがつづき予約が取れなかったことにあった。黒田君の出身が名古屋であることから、ご両親や兄弟、親戚と皆さん名古屋からである。脳梗塞の後遺症が残る父親が「こんないい息子が、なんでこうなるんだ」と、悲痛な声をあげる姿がいたましい。

若くして逝くということは、家族、親兄弟にしては殊に辛いだろう・・・。そんな中での葬儀であったが、クライアントの皆さまや仕事仲間、学友と大勢の方が参列してくれた。これも彼の人物が織りなす味にあるのだろう。

告別式は今朝の十時半からだった。会社を代表して弔辞を読んだが、言語障害の上に意味不明に近いから、意図するところが何処まで伝わったやら。本当は、推敲に推敲を重ねたかったのだが、短い時間で原稿を作り筆耕に出さざるを得なかった。文書に書いてないことも少し話したが、ちょっと残念だ。

告別式の後は代々幡葬祭場で火葬、それから妙法寺に戻り、初七日の法要、ご親族の会食にTUGAWAさんと出席、それから社に戻った次第。
東京の火葬場に立ち会ったのは久々だが、それにしてもシステマチックと云うか、流れるように進行さす。何時からこんなにオートメ化したのかな?驚いたよ。

                    

昨夜、手伝いに出たスタッフと、お浄めの会をしたが。そんな中「で、自分の時はどんな風にやって欲しいの?」と、訊きやがった。
『バカ野郎~、俺は葬式なんかしねえさ。焼いて終わりだ。が、手違いがあるといけねえから、死んだ日に即、皆様あてにご挨拶状を出せるように用意しとくかな。御礼とともに、葬儀はしません。弔問・供物の類は丁重にお断りする旨を認めて。どうしても何かしたいなら、四十九日が済んでからお別れ会でもやってくれ』。と、本音のところを伝えた。

 

そんな訳で、今朝家を出たのは早かった。早かったが、日課の弁当は一応作った。

菜は、昨夜帰宅時に駅脇のトンカツのサボテンが、店仕舞いの50%OFFなんて呼び込みをしていたので、ついついヒレカツを買ってしまった。その美味そうにもないトンカツ、人参・ダイコンの根菜と蒟蒻、素揚げの和風煮物。弁当用に買い置きをしてあった焼肉用の味付け牛とタマネギの炒め焼き。以上の三品であった。

             

卵焼きも作りたい処だったが、弁当スペースのこと、時間を急いたことなどから省略した。仕上げに椎茸昆布の佃煮をご飯に載せた。

                       

弁当を詰め終えてから、弔辞のオサライをして成城学園と向かったのである。忙しい朝のひと時に、オサライをするとは見上げた心掛け?それとも付け焼刃と云うべきか・・・・。

 

 

 

 

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炒飯

2015-01-09 | Weblog

1/9(金) 早や週末となったが、未だ週半ばの気分である。昨夜は19時半に退社して「ローカーボ」にて、TOKIOと二人で黒田君の弔いと称してグラスを重ねた。その勢いで、閉店間際の「ちょっぷく」に立ち寄り、性悪にも更にグラスを傾けた。帰宅すると、丁度零時を時計は指していた。寒かった・・・。

 

-黒田君のこと―

TOKIOと二人で黒田のエピソードを語り、彼亡きあとの仕事の進め方などについて意見を伝えた。黒田の病気が判明してから一年近いが、初診の折に「余命2~3ヶ月、長くても半年」そんなことを云われたそうだ。彼からその報告を受けた後の休日、心配になって彼に電話を入れたところ・・・。

どうしてるんだ?と、訊くと「今、墓地を探しに歩いているとこですよ、これからもう少し探していきます」と、元気な声が返ってきた。『バカ野郎~何を考えててんだよ、そんなことを急いで。簡単に決めて良い問題じゃねえだろう・・・』そんなことを云った。また、ある時は「今プールで泳いできたとこですよ」と、先走った準備の一方で、生きるための努力をしていた。

その後、東大病院で治療を受けることになった。セカンドオピニオンの結果、NETと呼ぶ膵尾部の癌と判明した。この癌は彼のアップル社のスティーブ・ジョブソンが同じ癌だったそうだ。幸いにも黒田はレベル2とのことで若干ながら安心をしたようだ。肝臓への転移があったので、先ずはこの癌を抗がん剤治療で小さくし(消滅かな)てから膵尾部の手術をする、そんな治療方針だと聞いた。

昨年二月の東大病院での入院は、当初の予定よりも長引き三週間余りであったか。これは、診断結果を下せず、再検査などによるようだった。然し退院後は、抗がん剤の服用を続けながらも至って元気そのもの。こっちが、そんなに運動して大丈夫か?と心配をするほどアグレッシブだった。仕事の方も従前どおりで、病気を伺わすことはなかった。

当人にすれば「体力をつけて、病気に勝」そんな思いだったようだ。それが一転して、体調が悪くなったのは十二月に入ってからだと思う。中旬の沖縄・名古屋への出張中に、異変を感じていたそうだ。腹痛が厳しくなって受診したのは十八日であったか。前日の夕方、辛そうにしている姿を見、『病院に行けよ』と言った覚えがある。

受診後の連絡は「即アウト、即日入院を告げられました」であった。だが、入院後も腹部の痛みは取れず、呻いていたそうだ。強い薬は使わず、復帰を速やかにしたい、そんな思いが強かったようだ。最後まで我慢に我慢を重ね、それでも強くなる痛みと腹水の圧迫、辛い日々がつづいた・・・。

一月三日、彼からのメール「明けましておめでとうございます。猛烈な勢いでガンが進行。医学的処置が不可能に。昨日から終末医療に入りました。」であった。明日見舞いにいきたが、と返信すると「喜んで。なるべく早い方がいいと思う」と返ってきた。

当人は早くても、一月は持つと思っていたようだと聞くが。私は二~三ヶ月は持ってくれるだろうと望んでいた。その上で、体調の良い日にタクシーを使って会社に来て貰い、私物の整理ができればいいが。など、思っていた・・・。亡くなる前夜、十時過ぎに電話で話をしたが、翌朝、七時に急逝するとは・・・・。

電話はクライアント訪問の件で伝えたいことがあって、昼間に私が入れた。その時の声が辛そうだった「腹水を抜いたので、それが痛いんですよ。夕方には落ち着くでしょうから電話します」とのことで切った。その電話が掛かってきたのが、午後十時二十分だ。その時も辛そうな声をしていた。痛みが取れるのを待っていたが、遅い時間になったので連絡を寄越したに違いない。

「くれぐれもComさんに宜しく伝へて下さい。騙すつもりはなかったと・・・」。これは、昨年の最初の入院に際して、病名を秘していたことを指す。クライアントに心配をかけないようにと、胃腸の治療とかと伝へた聞いていた。ここ一年半ほど、黒田君はComさんの仕事がメインであったことから、彼の病状を伝えるために新年挨拶の名目で、私が訪問する手筈を取っていた。このことを最後まで黒田は気にしていた、会いたがっていた。会って、自らからが話をしたかったのだ。

翌朝に掛かった電話も黒田君からかと思ったが・・・奥様からの悲報であった。

我が社では一番の元気者、歩くのもメチャ早くて、背筋を伸ばしてスタスタと歩くので誰も一緒には歩けなかった。7~8年前から自転車通勤を始めたので、彼のために就業規則に自転車通勤を付加した。そんなこともあった。

黒田とチームを組んでいたRIE嬢が、昨晩弔問した。その時に聞いた奥様からの話。彼の最後の言葉は「子供たちが大好き」だったとか。合掌。

 

  - 炒 飯 -

 今朝の弁当は「チャーハン」と相成った。前日同様に碌でもない夢から醒め、弁当メニューを思い浮かべたが・・・、残り飯の始末であった。それに、ロールキャベツぐらいだった。

冷蔵庫の中を漁り、有り合わせの食材を取りだす。チャーハンは、小エビを使ったエビ炒飯にする。これはエビ・カニが鬼門の家人が喜ばぬが、少々であれば大丈夫だろうと判断。ロールキャベツ用のキャベツが、なんとも締まらないが致し方なし。魚は、先日と同じ粕漬けとなった。

              

やたらスタイルのいいアスパラと、ブロッコリを茹でる。豚小間とキャベツの焼肉タレ炒めを追加した。

何にやら手抜きポイが、夢見も悪いし致しかたねえだろう!

そういや、夢と云えばこんな夢だった。
何処か見たことがあるようなゴルフコースの、ショートホールのティ―グランドに居た。同伴者は、なんとなんとMURAI君、IMAI君のW井コンビだった。両君と同じ職場で過ごしたのは、三十数年も前となるが、厚誼はつづいている。

その二人が同伴競技者で、先ずは私からティ・ショット。一体何ヤードあるんだ?見た感じでは100ヤードだな。そんなことを云いながらサンドエッジで打つと、ハーフトップになりグリーン右奥のバンカー縁辺りに止まった。

次いでIMAI君だが。これがああでもない、こうでもないと使用クラブが定まらない。こっちゃイライラしながら見ていた次第。漸く打つと、バンカーにはまった。そしてMURAI君となり、これが珍しくもグリーンにオンした。

これからが問題のシーンだ。グリーン周りで自分のボールを探すと、なんと!バンカー脇に置いたままの板の窪みに入っている・・・。これをこのまま打つか?打てるわけねえだろう!窪みに入りこんで、それも板だぜ!今畜生奴・・・。

球を動かそうにも適当なドロップ場所がない、適当に置いて打ったら、今度は反対側の奥まで転がってしまった。苛々していると、隣のホールから、爺様や婆様の一団がぞろぞろと現れて、ティーグランドへと移動してきたのだ・・・。なんなんだ?これは・・・。

いや~疲れた!疲れる夢だったよ。それもさ、6~7年前にクラブを置いた身だぜ。なんでゴルフの夢で疲れなきゃなんねえんだ?参ったよ。せめて、一富士、二鷹、三茄子のどれかで有ってほしいねえ~。

 

 

 

 

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一夜明け・・・

2015-01-08 | Weblog

1月8日(木) 黒田君の急逝から一夜明けた今日、昼に日比谷のクライアントを訪問した。本来であれば、年始の挨拶の後に黒田の病状や経過を話す予定であった。それが、冒頭から彼の急死について説明をすることとなった。

黒田君は希なるキャラの持ち主で、クライアントや共に仕事するライタ―さん、カメラマンと親しくなり愛されると云う得難い性格であった。今日、彼のことについて報告したクライアントのご担当の皆様も、一様に彼の急逝を心中より悼んでくれた。気にかけて下さっていたことが、ひしひしと伝わってきた。

あの元気坊主がいなくなったとは、未だ実感がわかない。病室で、病院の霊安室で、物言わずに横たわっていた姿を目の当たりにしているが、今ひとつ彼の生命が途絶えたとは思えない。が、然し、彼の葬儀の日程も知らされたのだから・・・・。しめやかに野辺の送りをするしかないのだろう・・・。

彼の葬儀は、1月12日(月)18時より通夜、翌13日の10:30~告別式。何れも世田谷区の妙法寺で執り行われる。

 

私が知る限りで黒田の経歴に触れると、名古屋市内で牛乳店を営む家の長男として生まれ、日芸の文芸学科に進み中退したと聞く。その後、名古屋で八百屋、キャバレーでアルバイト生活。キャバレーでは黒服として、お姐さん達の扱いに四苦八苦しながらも、客商売の原点のようなものが身に着いたかもしれない。そこから、名古屋で編集プロダクションの仕事に転じ、東京に出たようだ。

誰だかの紹介で、我が社に入ったのが十八年前、平成八年の晩秋である。二十代の最後か、三十路を迎えた頃のはずだが、その頃の私はクライアント側に居た。我が社、創立者の、HIROさんの採用である。クライアント側として私が彼と仕事をしたのは、横須賀研究所の施設公開用のポスターや交通広告デザインの仕事が最初のはずだ。尤も、私は具体的な内容にタッチしていないが、横須賀市武の丘の上に建つ研究所に足を運んできた彼のことは良く承知している。

それから、東京・田町に在る某社に転勤した私が、PR誌の企画を進める時に担当したのも黒田君であった。HIROさんとの縁で、私が現在のNATURALに入り一緒に仕事をすることになったが、彼は編集チームの要としてチームを牽引してきた。時には聴いている方が心配するような言葉を使うが、それがまたクライアントとの距離をちじめ、親密になると云う不思議な力と魅力を持っていた。

中学生二人の子供を持ち、まだまだこれからと云う彼が、こんなにも早く逝ってしまうとは。諸行無常と云うしかない・・・。

 

日比谷のクライアントを訪問後、日比谷公園を抜けて帰社についた。北風が吹き抜ける中、公園の噴水の飛沫を受けて振り返った懐かしい日比谷ビル。高層ビルとなった周囲に比べると、その存在価値を大きく感じるのは、過ぎ去りし日へのノスタルジィか。このビルも早晩の命であろうが・・・。

                   

 

今朝方も碌でもない夢で早くから目覚めた。某祝宴会の開始時刻をはき違えて、のんびりと出掛け、暫くして失態に気付くと云う、私らしい夢であった。冷や汗を掻いて、言い訳を探している処で目が覚めた。ああ、よかったぜ・・・。

そんな夢から醒めて、弁当作りとなった。今日は「チキンライスのOYAJI風仕上げ(要はオムライス弁当さ)」である。ご明察のとおり、昨晩のご飯が沢山残っていると云うことだ。

チキンを解凍し、タマネギ・ピーマン・人参を刻み炒める。塩胡椒にウスターソース、ケチャップで味付け。菜の方は、牛小間の煮物だが、マネギと白菜を一緒に煮る。最後に長ネギを加えた。

                       

後は、ブロッコリ・ミニトマト・マカロニのサラダ、ホウレンソウのお浸し、となった。

                        

タップリと出来上がった菜。弁当に詰めた残りは、私の朝飯である。茶碗一杯のオムライスと一緒にたらふく食ってしまった・・・。

                        

 

昼と晩飯は抜きと誓ったばかりながら、昨夜は高松から上京の取引先の社長と会食。銀座はアナゴ料理の「玉ゐ」で、コース料理を十分に喰ってしまった。酒精は、生ビール・燗酒・焼酎湯割りと控え目だった。それやぁそうさ、あれだけ喰えばお腹いっぱいで飲めなくもなるぜ・・・。

飯控えめ作戦中に一番困るのが、会食なのだ。人と会う機会が多いので、避けられないことながら『か弱き心が、折れそうになるよ』。そんな夜だったが、お客さんは「珍しいものを、美味しいものを食べさせてもらった」と、喜んで下さった。昼間、来社いただいて新年の挨拶を受ける予定だったが、黒田君を病院からの見送りなどでドタキャンをさせて貰った。が、晩飯でお返しができたかな?

 

 

 

 

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黒田陽一郎君、逝去

2015-01-07 | Weblog

1/7(水) 目覚めたのは四時過ぎであったろうか、蒲団の中で来し方行く末についてぼんやりと思念していた。なにも纏まらぬままに、六時前から台所に立った。

昨夜、東急ストアで贖ってきた肉や野菜を取りだして準備に掛かった。昨晩に立ち寄った酒場は「ローカーボ」のみ、一二杯で帰るつもりが、界隈のスペインバルの店主やHOYAさんが現れて、ついつい話し込んでしまった。それでもハイボール四杯で切り上げて、学芸大学には22:30に帰り着居た。前夜よりは、二時間早い帰還である。

改札を出た目の前にある東急ストアで今朝の食材を少々仕込んだ。焼肉用の牛、アスパラにブロッコリであった。今朝はそれらを使う。

先ずは野菜(ブロッコリ・人参・パプリカ)を茹で、オリーブオイルのサラダを作る。次いで、粕漬けの魚を焼く。豚の薄肉で茹でたアスパラとシメジを巻いて炒め焼きを作る。タマネギとシメジをオリーブオイルで炒め、つづけて焼肉の牛を焼いたが、この味見をしてみると・・・肉の旨味がオマヘン!安肉を買った付けが廻った・・・。最後に、卵焼きを作って、弁当事がお開きとなった。

                 

幸いにも、今日から長女が仕事に復帰とか。これで二人前の弁当を作れることとなった。

                          

茶碗半杯のご飯と、弁当の余り菜で朝飯を食す。物足りないので、久々にリンゴ・トマト・キューイ・人参のスムージーを作る。味の方は、キューイの酸味が強く、上々とは言えない。

                          

 

― 黒田君逝去について―

早々と終った弁当仕度、部屋に戻り新聞でも読もうとしていたら携帯電話の呼び出し音・・・・。着信相手を見ると、スタッフで入院中の「黒田」となっている。昨夜遅くに電話で話をしたが、未だ何か伝えたいことがあるのか、と、携帯電話を手にした。

処が、彼の奥さんからの電話だった「容態が急変し、今朝方亡くなりました」と、突然の訃報であった。驚きで、暫く返事ができなかった・・・。
黒田君が膵臓癌の告知を受けてから一年となる。当初は余命3~4ケ月と云われたそうだが、その後東大病院にて診察の結果、大事には至らないとの光明が射したかに見えた。診断は「神経内分泌膵癌レベルG2」であった。

初期の入院と抗がん剤投与開始で、回復の兆しも窺えたかに思えたが・・・・。昨年12月の中旬すぎ、傷みがあるとのことで受診、そのまま入院となった。年末には自宅に戻れるような話が、ドクターとの間で交わされていたようだが、症状が急激に悪化。肝臓やリンパ節に転移していた癌が急速に肥大していたとのことである。

先日の3日、彼からのメールには「昨日、終末医療になると言われました」とあった。翌4日、HIROさんと二人で東大病院に見舞ったおりは、痛みで苦しんでいた。彼からリクエストされ、年末に届けた本「殉愛」は、読まれることがなかったろう。それほど痛みとの戦いがつづいていた。

黒田が当社に入ってから十八年になるか、編集チームの要として客先から信頼され、彼のキャラで好かれていた。最後までお客さんのことを思い、会って挨拶をしたいと言っていた。それは、心配を掛けまいと本当の病名を伝えることを控えていたことにある。昨夜、彼からの最後になった言葉は「本当のことが言えなくて、申し訳なかったと伝えて下さい」であった。

 発病後は、体力増強で癌に勝と自転車通勤や水泳と、周囲が心配するほどのトレーニング。その元気な言動からも、快復するだろうと目されていたのだが・・・。四十七歳にして、幽明境を異にした。合掌!

 

 

 

 

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仕事始め・・・

2015-01-05 | Weblog

2015/1/5(月) 今日から仕事始めである。と云うことは、弁当事始めでもある。仕事のことはさて置き、先ずは弁当だが、なんと弁当喰らいの長女が、昨日からインフルエンザに罹り仕事を休む破目になった。挙句に、パラサイトの三女・AZUSAまでインフルエンザと判明。年末、家人のインフルエンザを皮切りに、インフルちゃんの襲来、オンパレードとなった。

それでも、弁当事始めと家人の弁当作りをする。が、どうにも気合が入らない。飯を炊き、冷蔵庫の食材を探すが初日の弁当に相応しいものがない。有り合わせの「大根・蒟蒻・人参と鶏肉の煮物」「豚肉の炒め物」「茄子・茗荷と豚小間の味噌炒め」、最後は定番の卵焼きで〆た次第。

正月らしく、オメデタイ食材を準備しておくのだったと、反省である。

この日は、午後六時から社内で乾杯をして軽く新年のお祝いをした。その後、地元の酒場巡りの各店を新年の挨拶方々廻った。先ずは蕎麦店「高松」にてハイボールを、小一時間後には「ローカーボ」にて一杯。そして「ちょっぷく」にて赤ワインを飲んで、今年の健闘?(酒のことだが)を誓い合い、店長のYAMAちゃんに『草臥れているね、休みボケじゃねえか』と、一言悪口を垂れる。

仕上は、「Seiju」の大ママの店で唄い初めをして、今年飲み始めの儀式を終えることができた。学大駅に着いたのは24時30分、深夜の春風に身をゆだねてのご帰還であった。

私の新年の誓いは、『飯は一食、朝の弁当の菜の残りで一膳。昼と夜は飯抜き』を、三月はつづけること。なんでやね?と問われれば、体調を整えるに尽きる。暴飲暴食を重ねてきたので、ここいらで来るべき食糧難時代に備えようとの魂胆。とは云いながらも、夜は酒の肴を口に運ぶし、休日は食事を摂る。平日に限り、胃腸の負担を軽くしようと誓ったのである。

そんなことで、昨日からスタートした。酒は飲んでも飯喰わず、いいねぇ~!

因みに、年末始に私が食したものを並べると「軍鶏鍋」、これは田舎の親戚が飼っている代物だが、これの鍋を郷里で元旦に、帰京した三日にも作った。そして軍鶏肉の親子丼。カニシャブと豚シャブは帰京してから、田舎ではすき焼きと皿鉢料理、年越しソバ、定番のお節料理、こんなところだったか?大した物は喰ってないか・・・。

 

1/6(火) 今朝も弁当は家人用のみ。それでも作る菜の量は変わらない。私の朝の一膳があるし、小僧が毎朝飯を喰いやがるのだ。

相変わらずに食材が乏しい中で、「ホタテのフライ、鶏唐揚げ」をメインに、ジャガイモの素揚げ。焼き鮭、ホウレンソウのお浸し、スナップエンドウ。ミートローフとピーマンの炒め焼き、そんなものになった。

                

今週は、一つ弁当がつづきそうだ・・・・。

 

 

 

 

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年、明けて

2015-01-04 | Weblog

27年1月4日(日) 平成二十七年も静かに年が明けた。何よりよ云うしかいないが、年明けは故郷で迎えた。暮れに亡くなった伯母の葬儀には間に合わなかったが、火葬場で遺骨を拾い、その後の初七日の法要に出ることができた。享年九十六歳、大往生といっていいだろうが、この同じ年の一月、息子が急逝している。常々、亡くなった息子(直宏)の処にいきたいと言っていたそうだ。親子は出会っていることだろう・・・と、思いたい。

正月二日、郷里から帰省した。昨日は地元の碑文谷八幡宮、碑文谷公園の厳島神社に初もうでをした。そして、軍鶏鍋を炊き、軍鶏の親子丼で夕食となった。軍鶏は、田舎の親戚が育てている喧嘩軍鶏だが、若い鶏を絞めたようで思いのほか柔らかい。この親戚とは、母の姉の孫にあたるが、昨年の喧嘩軍鶏場所で優勝し、田舎のテレビでコメントをしている処を帰省中に偶然に見た。「気持ちいがええねぇ」と、土佐言葉で喋っていた。

明日からの仕事始めを控えた今日、昨年暮れから東大病院に入院しているスタッフのKURODA君を見舞った。メールで知らされた状況以上に元気な姿であった。これがせめてもの救いである。HIROさんと二人で、一時間程病室に居た。Kの郷里から老親と弟さんも見えてお、挨拶をした。

見舞い後、不忍池をへて上野の出た。池の周りは散歩や神社に詣でる人出でにぎわっていた。スズメや鳩の餌付けを楽しんでいる一団、蓮池越しにはスカイタワーが望めた。野鳥は、スズメ・鳩・鴛鴦・ヒヨドリ・シラサギから鴎までが何の屈託もなく遊んでいた・・・。

 

そこから御徒町の立ち飲み店でHIROさんと酒を飲んだ。御徒町は、ひとで混雑をしていた。立ち寄った居酒屋も満卓の状況で、流石に庶民の町だと感じいった次第。『この街やぁ、俺みたいに千円札しか持たないオヤジでも楽しめる街だな』と、思わず本音が出る。そんな待ちである。

九連続の休みとなった年末始だったが、あっと云う間に過ぎた。さて、明日は仕事始めだ・・・。

 

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