オヤジの弁当箱

日々の手作り弁当だけが生甲斐のしょぼくれオヤジ。弁当メニューと併せて日々の雑感を付記。

納会

2018-12-29 | Weblog

12月29日(土)昨夕は、所属した会社での最後の納会に参加した。日本橋粉の会の大納会とかさなり、最初の30分だけであったが。

十六年余の勤務、今年一年はなにかと世話しなかったが、納会となった。十六年の間にいろんなスタッフが出入りした。最盛期は三十人を超えた従業員は、昨日時点では役員も含めて二十人であった。

一日として楽なことはなかったが、一日として愉しまなかったことはない。それもこれも過去になった。これだけは言える、云いたいのは、スタッフの個としての自立と成長を願っていたことである。

どこでも、どこにいてもプロフェッショナルとして通用する人間になってほしかった。それは、ナチュラルだけでなく、長いサラリーマン時代も同じ思いであった。そのことに、幾ばくかの協力や気付きを与えてやれることしかできなかったが。

それもこれも、組織を去った私にとって過去のことになりつつある。これからは、己が個としての自立を問われることになる。さて、どうなるやら・・・・。

納会でスタッフから「MESSAGE」BOOKを頂いた。幾枚かの写真にスタッフからの短いながらも思いのこもったメッセージが記されていた。何とか卒業に漕ぎつけた私への言葉が並んでいる。

               

今朝改めてこれを開き、何度も何度も見返している。写真には何人かが漏れているが、一様にいい顔を、輝いた顔している。「こんなにいい顔をしてたのか」そんな思いである。

                      

集合写真は多分、夏の暑気払い&34期の打ち上げでの写真であろう。そして、毎月一度、私が作る拙い料理でのランチ会のスナップ。         

                      

 

長いようで短い付き合いだが「みんな、ありがとう」この一言に尽きる。

 

 

 

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最終日となり・・・

2018-12-28 | Weblog

12/28(金) 愈々勤め人としての最後の日を迎えた。かといって何の感慨も湧いてこないのは・・・生来のノー天気の所為か。

平成14年3月末、サラリーマン生活に別れを告げてこの年の9月1日から今日まで、人形町に事務所をおいた「ナチュラル」社に入った。そして一年経過後に、TUGAWAさんから社長業を継いだ。本業は広告制作で、創業時は映像制作がメインであったが、その後デザイン・編集からWEBサイト制作へとウイングが広がっていた会社である。

サラリーマンを辞める前年の12月、長い旅にでていたTUGAWAさんにメールをし「会社を辞める、ナチュラルに行くので帰ってください」と伝えた。スペインあたりに居たTUGAWAさんから電話が入ったのは正月のことだったと記憶する。

TUGAWAさんの長い旅立はNYの同時テロがあった翌週辺りでなかったか。彼は「もう戻って来ないつもりだ」、そんなような言葉を残して東南アジアからヨーロッパへの旅に出ていた。

津川さんと知り合ったのは27~28年前の、私が広告代理店業のグループ会社に在籍した時であった。知人の先輩から、同級生の会社があるのでと紹介されたのが始まりであった。それから、これほど長い付き合い、間からになるとは・・・・。

広告業で専門家になろうとしていた私は、敢え無く三年でその会社から本社に転勤となった。この時の無念、やるせなさを振り切るまで半年ほど要した。その間、有楽町の安酒場で空虚な思いを埋めていたが、それまで仕事を一緒にしたこともなかたTUGAWAさんが殆ど毎晩のように付き合ってくれた。

待ち合わせの合言葉は「銀座のクラブで」であった。が、「歌」と云う居酒屋、安酒場であった。

勤め人である以上、仕事はしなければならない。給料を頂いているのだから。そう考えると、やるべきことはたくさんあった。転勤先は社会貢献推進担当と云う新しいセクション、仕組みも制度も整ってなかった。故に、自分の裁量でやれることが、やりたいことが次々と出てきた。自分たちがやれないところを埋めてもらうために、TUGAWAさんを頼りにした。そして応えてくれた。

サラリーマン時代、TUGAWAさんから「仕事が欲しい」と言われたことは一度もない。私がやりたいことを相談し、手伝ってもらい、友人としての関係ができていった。若し、そう云う関係であったら、私はナチュラルに来ることはなかったし、きてはならなかった。

サラリーマンとして終わることをいさぎよしとしなかった私は、独立を考えていた。これからの時代、ITを活用するビジネス分野であろうと思っていた。新規でビジネスを立ち上げる、人材を育てる。資金力も経験もない中から始めるより、会社を離れるつもりのTUGAWAさんの会社を引き継ぐ方がベストかと勝手な判断で、ナチュラルに入った。

TUGAWAさんが不在となったナチュラルは、相当にガタがきていたようだ・・・・。私は五か月間の猶予をもらい、サラリーマン時代の垢を落すために、雇用保険事業の研修を三ヶ月ほど受講した。この時の講師だった、簿記と社労士の先生にはナチュラル入社後、規程や就業規則作りでお世話になることとなった。

零細会社の御多分にもれづ、ナチュラ社も厳しい時代があり、その山谷の繰り返しが実態。売り上げを伸ばし、人を育てるのが私の仕事であるが・・・。とはいえ、自分で育て、勝手に育て、と云うのが私流。それでも、売り上げが伸びれば人を採用する。人は人財、寶だからと。勝手に辞めていくのも零細の、この業界の宿命と割り切ってきた。

自分の足で立ち、自己研鑽して成長すべし。それが私の考えであり、会社はその手伝いをする。考えは今も変わらない。とはいえ、独りでできることは知れている。仲間がいて、チームがあればこそ沢山のことが、出来なかったこともやれる。そういいつづけてきた。チームナチュラルと・・・・。

十六年間、振り返ればどうってことのない日々であった。毎年、毎年資金の心配をし、スタッフの成長を願い、お客様への感謝とお返しが仕事で出来ているか。そんなことを問い続ける日々である。潰れもせずにここまでこれたのは、お客さんあればこそ。力量十分とは言えないながらも、真摯なスタッフのお蔭である。

これからの時代、会社の先行きを考えると、自分ではやりきれない。能力・気力、資金力、先見性、リーダーシップ、それらを備えた人材、或いは会社に委ねた方が、顧客の、スタッフの、会社のためになる。そう思い会社生活からリタイすることにした。

老兵は消え去るのみと云うが、去りはしても消えはしない。この命、つづく限り・・・・。自分らしく生きる、自分は何者であるか、未だ解が分らない。それをもう少し考えながら生きてみたい。そんな思いです。

四十八年間に渡る勤人生活、これまでの数多な隣人からの様々なご支援に深謝します。真にありがとうございました

 

 

 

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オムスビ

2018-12-27 | Weblog

12/27(木) 昨夜は遅くまで飲み過ぎ・・・・。17時に来客があり、「ちょっぷく」で一時間ばかり懇談。その後、教育ニュースの編集長TOKIOさんと「藤の」で飲みながら歓談。そして「ローカボ」へ、独り歩きして何時ものメンバーとの懇談。HOYA兄貴が、福井・武生の義母の葬儀から戻ったので「セイジュ」にて弔いの歌会となった。

「セイジュに」に高松からの流れで、スーさんの送別会メンバーが7~8人姿を見せた。スーさんは、某スチール会社に勤めていたが、この日が完全リタイアとかであった。スーさんは「高松」の常連で好い男である。私より二日早い完全リタイアであった。「高松」の女将と近所の食堂の娘MAKIちゃんが後から合流した。

                         

セイジュに、二時間近くもいたか。ママさんは三月に一月ほど入院するとのことだ、ここは助っ人を買って出るしかないか?。

セイジュからローカーボに舞い戻り、女将とMAKIの三人で飲み始め、最後は記憶喪失になっていた。深夜のタクシー帰還となってしまった。

                             

お蔭で、今日は二日酔い。と云いながらも、今夜もスタッと一献交わすことになっている・・・・。自重しなきゃ・・・・。

 

今朝の目覚めは最悪だった。そんなこともあり、弁当はオムスビにした。鮭・梅干し・肉の三種だったが、義妹にその娘も来ると言うので、12個のオムスビを作った次第。ウインナーと椎茸を焼き、ゆで卵でお仕舞にした。

                            

明日は、16年余を振り返ることにする・・・・。

 

 

 

 

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深夜の目覚め・・・

2018-12-26 | Weblog

12/26(水) 昨夜も渋谷「奈加野」で、友人のOKAZAKI氏と二人だけの忘年会。その前にスマホのWi_HIがオンできないので、学芸大学駅前のドコモショップに立ち寄った。一昨日に予約をしたので直ぐに対応してくれたが・・・、一時間以上を要した挙句「故障ですね。修理に出すより買い換えた方がお得ですよ」と、言われた。

買い替えの件は年末に改めてということにし、渋谷に向かった。約束の時間より30分の遅刻。土曜日のTUGAWAさんとの待ち合わせといい、奈加野での待ち合わせは鬼門のようだ。店に着くと、OKAZAKI氏は店主を相手にゴルフ談義をしていた。お酒に弱い氏は、専ら食べる。焼きおにぎりや鍋を、年末のあいさつ回りで腹が減ったと食べた。その喰いっぷりは中々のものである。

                        

店が込み合ってきた八時過ぎに退散した。渋谷の人の多さは異常じゃないか?と思うくらいであった。人形町に戻らずそのまま帰宅したが、家の灯りは点いてなかった。今日、金沢から家人の妹が来たので、隣駅に住む末の妹と連れ立って食事に行って帰っていないのだ。

                           

金沢の妹は今年は特に辛いことがあった、息抜きに来ると聞いていたが・・・。来れて良かった。俺も飯の作り甲斐があると云うものだ。

稀なる早い帰宅。部屋に籠って帰りに買った本を読んで過ごし、何時の間にか眠りについていた。目覚めるとCDの演歌が流れていた。一体何時なんだ?と、手元のスマホで時間を見た。なんと、深夜の三時前であった。こうなると眠れない…、本読み、タバコを吸い、灯りを消しと何度か繰り返す。よくあることだが・・・眠れないものは眠れない。だったら眠ろうとしなければいいのだが・・・・。

明け方にウツラウツラと寝たようだが、面白くもない夢をみていた。結局、起床は七時になった。今日の弁当メニューは、眠れぬ間に蒲団の中で考えていた。台所に立って、それを実行するだけである。

「肉ジャガ」「小松菜の煮浸し」「ギンダラ&鮭焼き」「胡瓜の塩麹もみ」、そんな処が今日のメニューである。ギンダラは先日に漬けた奴の中から、味見用に小ぶりを焼く。小松菜の煮浸しは、油揚げと厚揚げを一緒に煮た。味噌汁も作ったが、具は蕪とその葉だけである。

                 

サクサクと今日の弁当を作り終えてから、テーブルに就いて飯が出るの待っている義母・妹に供した次第。長女と孫のSORAが、インフルエンザに罹った。昨日から二人とも休んでいる。今日の弁当は一つだけであった。

 

 -今年を振り返ると・・・-

ふり返るといろんなことがあった。書けること書けないこと、人生いろいろだが、私的には「会社を去る」ことであろうか。これに起因して、いろんなことがあると云えよう。

二~三年前から会社の将来、行く末をどうすればいいか、漠然とはながらも考えていた。従業員への承継、解散、第三者への譲渡など。最終的には、前二つは環境が整ってないと判断した。残る道は、自分が責任を持って経営をつづけるか、つづけられたとしても数年、残る譲渡であった。

十数年を経過したことによる気力・体力の減退に加えて、能力の欠如は如何ともし難く、このままでは従業員の成長とお客さんへの貢献が覚束なくなると痛切に感じるようになっていた。そんあことから、企業譲渡や承継に関するセミナーなどに参加するようにした。

昨年の師走、今時分のことだが。後輩のYが月例の飲みにやってきた。Yとは、彼が入社した頃から剣道を通じた関係であり、かつ私が東京支社の係長時代の部下でもあった。数年前の彼の退職に際しては、先輩を通じて再就職先を斡旋してもらっている。

そんな彼と飲みながら『君んとこの会社はいろなとこを買収してるようね、俺ンとこも買わないか』と、冗談半分で言った。「わかりました、ちょっと話してみます」とのことになった。彼が非常勤で勤務する会社は、M&Aで成長している会社であることを承知していた。

そんなことはすっかり忘れていたが、連絡があり今年、1月下旬にYの上司にあたる人と会うことになった。M&A担当でないが、その部門に繋ぐとのことになり、2月になってから話が進み始めたのである。瓢箪から駒とは、このことであろうか。

まさかと云う展開であったが、流れに乗ることにしたのだ。こちらの条件は、三点。会社の継続と発展、従業員の雇用の継続と成長、顧客に迷惑を掛けない。であった。向こうは、収支のプラスと成長の可能性、自社業務とのアライアンスなどであったろう。

随分たくさんのの資料を用意し、ヒアリングに何度か応じ、会計事務所の調査とすすみ、最終的な合意文書を結んだのは7月の初めであった。5月下旬には概ねの方針は固まっていた。そして、会社の期末となる7月末で我等現役員は辞任、8月1日に全株式の譲渡をした。

事務引継ぎなどで今月末まで席を置かざるを得なかったが、なるべ早く身軽になりたいと思っていた。

一方で、郷里の母が五月下旬から膀胱がんの疑いで入院した。田舎と行き帰りしながら売却交渉を進める破目になった。会社の経営から離れたら、郷里に戻って母を見送るまで暮らすつもりでいたのだが・・・・。

母は、膀胱がんとの診断が正式にあり、隣町の病院に転院した。幸いなことに姪が事務職として働いており、なにかと面倒を見てくれた。1年や2年はもつだろと思っていたが、会社の整理が終わるの待っていたかのように8月30日の午前10時46分に臨終した。死に目に立ち会えなかったが、前々日に顔をみていた。

会社の譲渡が済、つづいて母の葬儀、四十九日法要。11月は亡父の七回忌。遡ると2月7日に従姉が亡くなった。3月には福井市の家人の実家の整理があった。

8月以降は会社を離れたことの、恩人たちへの挨拶。鬼籍に入られた方が多く、金沢~東戸塚~狛江~横須賀~伊豆大川と墓参がつづいた。元気な札幌の友人たちに会うことも出来た。

何かと忙しそうだが、過ぎてしまえば何のことはない。ただ、スケジュール調整だけは苦慮した。が、それも何とか描いたようになるものであった。

ざっくりではあるが、会社の譲渡、母の入院から逝去、この二つを中心に色んなことが有ったような一年である。

 

 

 

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炊きこみご飯&煮物

2018-12-25 | Weblog

12/25(火) 年末の三連休も終わり、愈々今年と云うよりは勤人生活のラストウイークとなった。特段の感慨もないが、明日から三日間の予定で、今年とサラリーマン生活を終えてからの十六年余を振り返ってみたい。

なんの変てつもないが、今日の弁当を紹介する。

今日のご飯は、グリコの「鶏ごぼうめしの素」を使った炊きこみご飯にした。素に、人参と鶏肉を少々追加したが。菜の方は、鮭を焼き、里芋の煮ころがし、大根・人参・椎茸&鶏の煮物とゆで卵。以上が弁当の菜だが、義母用にウインナーと目玉焼きを追加した。

                          

鮭は土曜日に豊洲市場で買ってきたものだが、この鮭を厚めに切ってある。多分、普通の二倍くらいの厚味がある。鮭は厚めにしないと旨味が伝わらない。多分、大概のものがそうでなかろうか?。

最後に自分用のスムージ(キウイ&バナナ)を作ってお仕舞になった。

                     

 

今夜も渋谷は「奈加野」にて、友人のOKAZAKI氏と二人忘年会である。かつては、奈加野店主にOKAZAKI氏の三人でよくゴルフに興じた時代があった。私は体調不良で八年ほど前からゴルフを止めたが、この二人は性懲りもなく?、或いは付き合い上からかプレーをつづけている。

O氏の下手くそな時代のゴルフを知っている私としては、今の彼は隔世の感有りだ。好きなんだねぇ~、ゴルフが。

店主を初めてバンコクのゴルフ場に連れ出したのは我等だった。未だ昭和と云う年号の時代だが、あの頃の店主はゴルフが上手かったが、最近は衰えるばかりのようだ。O氏は、昔、散々とられたチョコを取り戻したいと、年に一二度一緒にプレーしている。そんなことも有り、年末の挨拶代りに忘年会をやることになった次第。

ゴルフと云えば、昨日の夕方、地元の友人とバッタリ出会った。久しぶりに顔を合わせたので、駅前の二階にあるコロラドでコーヒーを飲みながら雑談。この友人もゴルフが好きなのだ。ゴルフ話しの中で「ゴルフの上手い方、名前はなんでしたっけ?」と、OKAZAKI氏のことを懐かしむ・・・。

私が未だゴルフ場に通っていた時代、何度かこの友人を誘いOKAZAKI氏と一緒にプレーをしている。既にその頃のO氏は、上手いと思われていたのだ。熱心だからネ、二人とも

 

 

 

 

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クリスマス会

2018-12-24 | Weblog

12/24(月) 今日はクリスマスイブとかだが、我が家は仏教徒なのでキリストさんとは縁がない。ないはずなのに、昨日の夕刻に一家全員が参集し「クリスマス会」と称するイベントが行われた。

家人はデコレーションケーキやチキンの丸焼き、ビーフシチューなどを作って、手伝いもしない子供達一家達をもてなしていた。義妹夫妻も加わり、12~3人もが狭い部屋で、飲み食いをしていた。

                     

敬虔なる仏教徒である私は、一歩下がって見ていたがプレゼント交換会の場には顔をだして、ノートPC用のケースをゲットした。その御礼もかねてジャンケン大会を主導して景品にデパート商品券を提供したのである。

この日に開催された「有馬記念」の馬券でも取っていれば、豪華な景品を提供できたが武運拙く敗れた。小雨模様の中を銀座JRAまで出かけたのにだ。人込みの銀座通りに疲れ、地元駅からの帰りの居酒屋で「餃子&ビール」の無念酒を一人わびしくやるのが精一杯だった。

           

こんな三連休の最後の今日、地元のドコモショップで友人のYAMADA夫妻にばったり会った。FBなんぞでは、お互いの動向を承知しているが、地元にいながら顔を合わすのは一年ぶりかも。

駅前の喫茶店でその後の様子、近況を聞いた。Yさんは肺ガンで暫く治療を続けていたが、すっかり元気になっており良かった。毎週のようにゴルフに行き、体力向上に励んでいるとのこと。そのゴルフコースというのが、私が譲ったコースなので嬉しい限りだ。

三連休の最後の夕、そんな出会いがあってよかった。明日からの、会社に出る最後の週もきっといいことが有りそうな気がする・・・。

 

 

 

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豊洲市場へ

2018-12-23 | Weblog

12月22日(土)築地から移転した豊洲市場に、今日はじめて行った。新橋からゆりかもめに乗り25分、と~いなと思いながらも沿線の景色を楽しんだ。

漸くついたら、改札から市場までの導線が又しても長かった。大勢の見物客に交じり魚市場の建物に入り、一階の仲卸のほうに降りた。見物客は入れないが、こっちは仕入れだ。「うまし」の大将の案内で馴染みの北田水産で鮭とギンダラを買った。次いでにマグロやで五島の生マグロも買う。

       

買い物の後、四階の軽食店でうまし夫妻と朝食をとった。ベーコンエッグにサラダ、コーヒー。ビールが欲しくなったが、この店には置いてなかった。残念!。

帰宅後、ギンダラを粕漬にした。このために、酒粕と白みそを買ってきたのだ。久しぶりの粕漬で、調味料の塩梅が不安。適当に配合したので仕上がりが心配でもある。

 

              

台所に立ったついでに、西洋梨の赤ワイン煮を作った。明日、子供たちがやってきてクリスマス会をやるらしいので、デザートにいいかも?。

              

夕方から渋谷へ。「奈加野」にて津川さんと今年最後の懇談であった。相変わらず渋谷の人出はすごい。若者ばかりだが・・・。

              

明日は予定もなし、「有馬記念」の馬券でも買って、当たるも八卦当たらぬも八卦の運試しでもしてみるか・・・。

 

 

 

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「奈加野」にて・・・

2018-12-21 | Weblog

12/21(金) 早や週末の金曜日。事務所にいるのも残り五日となった。愈々カウントダウンである。昨夜、渋谷・宇田川町の馴染の店「奈加野」にて、かつて職場を同じくした友人たちと懇談した。このメンバーで会うのはいつの日以来か、愛媛県は久万高原町に移住したKATUTA君が上京した昨年?以来か。

                         

職場が大所帯だった時代から、民営化と会社組織の大きな見直しの波があり、我らが所属した課は縮小に縮小を重ねていた。そんな時代、三十年余も前に日比谷の古めかしくも威容のあるビルの一室で一緒の時を過ごした仲間。そう、未だ仲間とか云う言葉が普通に通用する時代であった。

主査から、その見識と誠実・卓越した力量を評価されて課長に抜擢された先輩のMASUDAさん、同郷で妙な可笑しさと愛嬌を発揮する隣の担当主査だったIKEDA氏、そしてMASUDAさんの部下で横須賀出身のトッポイながらもよく働いたTERASHIMA君との四人であった。

                    

IKEDA氏は三年まえになるか、蜘蛛幕下出血で入院した。MASUDAさんと二人で多摩の駅から遠い病院に見舞ったときは、まだ言葉がはっきりしなかったが、すっかり回復して酒を飲んでオヤジギャグを飛ばしている。

MASUDA先輩には、T物産とのユニホームの仕事や情報誌の取材とお世話になりっぱなしだた。緑内障で視野に不自由をきたしていたが、今度は左耳の聞こえがと・・・。アルコールを口にせず、ウーロン茶だけで二時間ほどを過ごした。

相変わらず、口八丁手八丁のTERASHIMA君は元気一杯。昔のいたずらをバラスとプレッシャーをかけると「それはなしで」と・・・・。神職になるかもしれないと、意外なことを言うのであった。

皆、それぞれに齢を重ねているはずだが、あの時代のままの気分であった。

よき時を過ごして、一次会で切りあげて解散した。「奈加野」も賑わっており、先ずは安心である。

この夜の帰宅は、なんと九時前と超はやであった。就寝も早かった・・・が、なんと目覚めると零時半ではないか。睡眠充分の感であったが、睡眠時間は短い。このまま寝付けずにいた、気が付けば明け方になっていた。

 

今朝の弁当は「焼き肉」。ふるさと納税で送られてきた土佐あかうしの焼肉用肉を焼いて、焼肉弁当風にした。他には「春雨のサラダ」と「茄子味噌炒め」に、定番の卵焼きである。

              

自分用の朝食は、焼き肉の味見とゆで卵であった。グレープフルーツを買っておけばよかったが・・・・。

 

午後遅くに、五反田の病院に入院している知人の見舞いに行く。OB会事務局長と一緒するが、二十代半ばに両国は震災記念堂の隣にあった職場で同僚であった。肺がんで入院と知ったので同行することにした次第。見舞いの後は、五反田で一杯となろう。その後、人形町に戻れれば八時頃かな?。金曜日だし、戻るしかないか・・・。

 

 

 

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炒飯

2018-12-20 | Weblog

12/20(木) 今日の弁当は、残り飯があったので「炒飯」を作ることにした。台所に入る前まで「炊きこみご飯」を想定していたのだが・・・。釜に残った飯の量を見て、大きく舵を切らざるを得なかった。

菜の方は一昨日に買った滋養鶏胸肉のソテー、ウインナーと小松菜の煮浸し、以上にした。炒飯に、野菜やベーコン、卵などを使うので使用食材の種類からすると、バランスは十分と判断した上でのことである。

鶏肉のソテーは、胸肉を切り分けてから味付けを二種類にして厭きないように工夫?、と云うほどのことでもないか。

                 

炒飯とは別に、義母用に飯を炊く。併せてハム&ウインナーと土佐ジロー鶏の目玉焼きと、野菜のスープを作る。そして、自分の朝飯用にリンゴ&ラ・フランスの赤ワイン煮にアイスクリームを載せた。

                        

以上で朝の遊びが終了した。

 

昨夕、友人の人形町到着を待つために「ちょっぷく」にてスタンバイした。遅れるとのメールが届き、ホッピー一杯の心算が二杯から三杯となり、四杯目になったところで到着の連絡。甘酒横丁の「笹新」にて軽く懇談。久しぶりの笹新は、相変わらずの繁盛ぶりであった。

友人を見送った後、「ローカーボ」に戻りハイボールを。午後から始まったと云う、NAKAMURA大将の心臓バイパス手術は、七時間ほどを要して無事に終わったとの連絡がマッチャンから届いた。そのマッチャンが、来客が帰ったと、ローカーボに姿を見せたが、少し話をしただけで店を後にした。

                           

帰宅は23時20分であったはず、この夜は買い物もせずに直帰した。

今夜は、渋谷「奈加野」にてサラリーマン時代の先輩、同僚、後輩の三人と懇談する。三十年も前の、本社係長時代のメンバーであるが、MASUDA先輩の人柄で、年に一度くらいは顔を合わせてきた。いい先輩、良き仲間を得て幸せなことである。

 

 

 

 

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蕪煮

2018-12-19 | Weblog

12/19(水) 昨夕、スタッフの女史を激励するために食事を馳走することにした。夏の株式譲渡や、その後の新体制下での決算・諸制度・経理事務の変更と面倒で慣れない手法がつづきご苦労をかけた。その慰労をかねての食事と云う次第。

最初予定した寿司店が予約で一杯と体よく断られ、近所の「舟すし」さんにお邪魔した。私の方は酒の席では摘みを殆ど摂らないし、慰労なので専らスタッフに食べて貰う。刺身やメバルの煮物など・・・、寿司店なのに肝心の寿司を摘まないままだった

                        

日本酒とヒレ酒を飲み、二軒目は入るのが二度目となるショットBAR(店名は覚えていない)へ。ここで「ギムレット」を飲む、チャンドラーの長いお別れを読んで以来、ショットBARではギムレッが専らだ。いったい何年飲んできたやら・・・・。日比谷の路地にあった日比谷BARで飲むギムレットがNO,1と云うのは変らないが、昨夜の店も悪くない。

                        

ついで、常連が集う「ローカーボ」に寄り道した。HOYA兄いは、奥さんの母親が亡くなったとのことで急遽福井・武生まで行くことになり不在。NAKAMURA大将は聖路加病院に横たわり今日の手術を待つ身。大御所二人が抜けて、ローカーボのカウンターも気の抜けた炭酸のように感じた。

                        

最後は「ちょっぷく」に立ち寄り挨拶がてらの一杯、仕上げのホッピーで打ち上げた。学芸大学駅に着いたのは23時過ぎのはず。東急ストアにより、今日の弁当食材を物色した。蕪・鶏挽肉・鶏肉にハーゲンのアイスクリームを買ったが、アイスクリームが一番高かった

で今朝を迎えた・・・・・。

蕪を買ったのは、葉っぱを塩揉みした漬物に、頭の方は蕪煮にしようと云う魂胆である。蕪の皮を剥いて中をくりぬき、下味をした鶏挽肉を詰め、だし汁のスープで煮た。出汁の味が上手く整わず甘目になっちゃったよ!。

                    

 他には、土佐あか牛(6,6kg届いたからね)のスキ焼風煮。粕漬けの残りイカゲソと鰆焼き、鶏挽肉と卵のソボロ、そんな処である。

                    

 弁当箱に詰め終えて、自分の朝食を作る。今朝は、土佐ジローの卵三個にハムを焼き、蕪煮の汁をスープをのばした吸い物、グレープフルーツ半分に自慢の蜂蜜を垂らした。

                      

今夜も勿論、出撃するが、大物二人が不在の人形町は・・・・。今日で、今月の夜の部のスケジュールをすべて埋めた。残り少ない日々を有意義、且つ充実して過ごす所存である。

 

 

 

 

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