オヤジの弁当箱

日々の手作り弁当だけが生甲斐のしょぼくれオヤジ。弁当メニューと併せて日々の雑感を付記。

番外編・私的「重大ニュース」

2013-12-27 | Weblog

今年のBLOG納めと「良い年をお迎えください」と記したばかりだが、番外で私の『重大ニュース』を記すことにした。平々凡々の暮らしなので、重大と云えるようなものはないが、そこを敢えて耕し掘り起してみると何かが出てくるかもしれぬ。お宝ならぬ、ガラクタばかりであろうが・・・。

一番は何と言っても「中村 哲」医師と会えたことであろう。現代の神話、活人仏、否、医師はクリスチャンだから神の使途と云うべきか。数年来の願いであったその方に、某誌の取材で会うことが叶った。

 ペシャワール会現地代表「中村 哲」さんに会う

二番目は難しい・・・、敢えて云うなら「自動車運転免許」の取得か。田舎で老母一人となり、足代わりに車の運転の必要を昨秋に父が急逝してから実感。今年6月、那須の自動車学校で合宿免許を取得した。仮免の学科では、一人満点を取り表彰された。オヤジの面目が立った。最短で(当たり前のことではあろうが)取得したことも踏まえ、二番目に揚げる。

                       

 自動車免許証の取得

三番目も苦しいなあ・・・、挫折か。今年の計画に入れていたジム通い、体力強化作戦の挫折が三番目になろうか。これと併せて右足膝関節痛がセットになる。7月下旬、計画が遅れに遅れながらもジム通いがスタートした。一月が経過し、そろそろ負荷を大きくしてもいいだろうと、重い筋トレを始めた。その夜、酒場から帰ろうと立ち上がったが、右膝の痛みで歩けなくなっていた。かくして、筋トレは中断を余儀なくされ、右膝は未だ痛んだままである。

  変形性膝関節症と筋トレ挫折

後のニュース?面白かったのは7月、母校の65周年記念日に、高校生たちを前に話をさせてもらったこと。残念だったことは、かつての部下であった岡堂賢治くんが、5月急逝したこと。後は、4月だったか次女が入籍したことぐらいだが、もう一つおまけで「ミャンマー・カンカウン準中学校建設支援資金達成」を入れて7大ニュースで閉めよう。

4 母校開校記念日に講話

5 岡堂君逝去

6 次女が入籍

7 ミャンマー学校建設支援達成

以上、私の重大ニュースでした。

こうして振り返ってみると、なんとドラマのない人生かと・・・。これじゃ、こんなことでは碌な死に方をせんなあと、うな垂れ萎れて溜め息をつくばかり。

 

 

 

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仕事納め

2013-12-27 | Weblog

12/27 (金) 平成25年も今日で仕事納めとなる。今年もあっという間に終わろうかとしているが、私用の年賀状が出来上がるのは明日か明後日となりそうだ。元日に届きそうもない。今回から年賀状のスタイルを少し変えてみたが・・・。

さて、昨夜は仕事とは全く関係のないKさん(仮名)と二人で一献交わした。12月に入り、一杯やりましょうと云いながら、漸く昨晩に時間を取れた次第。Kさんとは、年に一度くらいだが一杯やりながら四方山話を交わす。

氏は、元左翼系の活動家であったそうな。若しかしたら今でもそのセクトに属しているかもしれないが、詳しいことは知らない、それ以上のことを詮索する気もない。学生運動の延長で活動家となり大学は卒業せず仕舞いのようだ。その大学は首都近郊にあり、往時学生運動が燃え盛ったことで知られる。

お互いにいい年をしているので、血気に盛るような話にはならない。が、氏の話の中には血気の端々が漏れることがある。それは概ね、労働者としての権利・立場について、己の置かれた労働の条件が侵害されることに関してであったが。

小市民として如何に生きるか、そこに拘りがあるやにも窺える…が、それだけではなかろう。氏が労働の対価を得ている仕事とは、K大兄がかつて経営をしていた業界である。その業界の現状や実情について、過日の馬車道でのイブに大兄から聞いたばかり。私なりの意見も述べるが・・・。

Kさんが青春を燃やしぶつけた時代から五十年近い年月が流れたであろう。その山河の険しさ厳しさ、流してきたであろう汗も血も、今の穏やかな顔をから窺い知ることはない。安酒場で安酒を交わしながら、あの時代を彩った人と時代を話。キツネ目の男、三菱ビル爆破、自衛隊朝霞、刑務所と過ぎ去った時を人を語る。

普段とは違う会話、話がつづいた。が、そんな話だけじゃないさ。身近な噂話やボヤキ話と多岐に渡り面白いひと時を過ごしたのであった。店を出ると、師走の雨が落ち初めていた。暗く静かに降ってきた。

 

昨夜は深酒をしていない、すっきりと朝の目覚めを迎えるはずが、暖房の蒸し暑さと老犬の鳴き声で目覚めた時刻は午前3時であった。暖房を消し、蒸れた体を暗がりと冷気で冷やす。眠れない・・・・、スタンドの仄かな灯りで本を読み始める、明け方になってウトウトしていた。今度は夢だ・・・懐かしきメンバーを相手に喋り、訊き、売り込みをしていた。何でこんな夢を見るんだ?そう云えば、先日も相手は異なれど営業をしている夢があった。

蒲団にくるまり、暫くのあいだ夢を反芻するが、何も応えはなかった。何日ぶりかで、スムージーを作ろうと台所に向った。

今朝のスムージーは、トマト・オレンジ・小松菜・ウコンにした。意外にも喉越しが重い飲み物になった。トマトとオレンジなので、もう少し喉越しが軽やかと思っていたが違った。ミカンはよく使うが、オレンジを使ったのは初めてだった。繊維質は多いが、その割には水分が少ないか。

                    

そして年末始の予定だが、明日の土曜日は「ローカーボ」にジャズバンドが入ると云う。枯れ木も山の賑わい、顔を出すことにしている。我が社の「ICT教育ニュース」の生みの親、Y君に声を掛けてある。彼とじっくり話がしたい、意見を訊きたいのでいい機会なのだ。

翌日の日曜日、同じ沿線に住む次女の部屋を家人が訪ねると云う。何でも二匹目の猫を飼い始めたのでそれを見に来いとのことだとか。猫には何の関心もないが、あの駅前の商店街、たしか「ハメルーン通り」とか書いてあったようだが、この商店街がいい。砂町や十条の商店街と違い、落ち着きがあるがそれでいて雑多、整然とした雑多の商店街がIkmほど続く。帰りにこの商店街の居酒屋で一杯やろうと云う魂胆。

そして30日、この日は朝から築地に出動する。先ずは、マグロと天ぷら用の車エビを場内市場で贖い、場外市場で花豆などを仕入れる。それから人形町に移動し「日山」ですき焼き用に牛肉を買う。夕方には、渋谷「奈加野」にてTugawaさんと今年を〆る酒を酌み交わして手仕舞いとなる。

31日は掃除と年越しそばを買いに行くぐらいか。NHKの歌番組が始まれば本を読んで時を過ごし、元旦を迎える。雑煮を食し、そして午後遅い便で高知に向かう。高知では、文旦の収穫、柿と梅の木の剪定、ミカンの枝を矯めてやる等、いろいろとやることがある。上京は6日の昼となるが、そのまま会社に向かう。こうして記すと、あっという間に年末始が過ぎ去るようだ。

 

 と云うことで、皆さま良い年を迎えられますように

 

 

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酒浸り・・・

2013-12-26 | Weblog

12/26(木) 昨夜は、某社の副社長とその友人たちの会に参入して忘年会。総勢六人だったが、初めてお会いする方は一人だけ。N社のOBなので、話をするうちに私の先輩や友人との繋がりがある。早い時間から始まり、都合四時間半ほど飲んでいたか・・・。

品川の小さな居酒屋、店主が一人で切り盛りをする店だが、客あしらいが上手く感じがいい。ビールはやらず、最初から角ハイボールオンリーでとおした。なにしろ店主一人で手が足りない、角瓶のボトルから勝手に注いでハイボールを作る。自分好みの濃さに仕上げ、スイスイと流し込む。

小さな店は暖房が利きすぎて蒸し暑い、だからどんどん飲む。だんだんに酔いが廻る・・・。そんなことで店を出た時は相当に酔っていたに違いない。今朝、家人から文句がでたが、昨夜帰宅してから何を言ったか、全然覚えていないが。

出勤しようとコートのポッケに手を入れると、名刺が一枚あった。見ると、品川駅前の地下にある飲み屋の名刺。それをしげしげと眺め、思い当たった。もう一軒寄ったことを・・・。この店では四人になっていたが、カウンターに陣取り、やはりハイボールを飲んだことを。この店はご夫妻でやっていたが、ここも中々感じが良かった。だんだんと記憶が戻ってきた・・・。

そうだ、この店のカウンターに陣取り暫くすると、後ろのテーブルで飲んでいた客が帰った。テーブルの上の大皿に、揚げ物の摘みが半分ほど残っていた。「勿体無いなあ、これ喰おうぜ」と言うと、店主がいいですよと応えた。何しろ酔っているので、恥も外聞もありゃしない。某社の副社長も、友人のTも美味いなあとパクついていた。と云うことを思い出したのであった。

この感じが良い店は、品川駅高輪口を出た直ぐ右手にある、品川ビルの地下(飲食街)に在る。「和」(なごみ)と云う店である。名刺に、「遊び人遊ばれ人とが始めた店です」とある。酔ってはいたが、いい雰囲気の店だった、次は酔わないうちに行ってみよう・・・昨夜の無礼・醜態も詫びにやいかん。

 

 -佐田岬小学校ー

もう一つ、小さく折りたたんだA4紙が一枚あった。この紙は、T宛の簡単な手紙である。先週の火曜日のことに遡るが、この日、Kさん、Uさん、Tとギネスを飲んだ。その時にTが見たというTV番組のことを話した。NHKで放映された「小さな旅」愛媛県佐田岬の小さな村落と小学校の俳句教育のドキュメンタリーのことであった。

この番組を見たTはいたく感動したそうだ。そして岬の先に在る小さな小学校に思いを馳せ、紹介された小学生の俳句を褒めちぎった。そして、学校宛に出した手紙の写しを我らに見せた。この手紙に、高級な鉛筆を添えて贈ったと話した。吾等は、「お前さんにそんな感性があったとは、大したもんだ」と褒めた。偶々私もこの番組を見ており、内容は承知していたのだ。

私のポッケに在ったのは、この岬の小学校からT宛に届いた礼状である。文具のお礼と共に、後三ヶ月で廃校になりますとあった。この手紙を受け取り、Tはガッカリしていたのだ。海辺から切り立った上にある小さな学校、狭いグランドに強い風が砂埃を巻き揚げる・・・。あの学校も廃校になり、町の学校と統合になるか・・・。

『お前、廃校になる前に学校を見てこいよ、確かめて自分の中に刻み込んで来いよ』と、けしかけた。Tが自作している、写真誌「近況通信」に載せりゃいいだろうと。Tは車の運転厭わない、何百kmだろうが何時間でも走るから、四国なんかあっという間に行けるよと。と、「Ariさんの地元だから、案内してよ」言いやがった。『あんな辺鄙なとこ、地元じゃないぜ』と言いながらも、ちょっと心が動いた。

学校が無くなると、若い夫婦は住まない、住まなくなるさ。だから余計に過疎が進むってことになる。明治とか大正とか呼ばれた時代、村々では住人がお金を出し合い、勤労奉仕をし、村の木を伐り出して学校を作ったんだ。何処の田舎にもあったそんな光景と時代。

世の中が便利になり、お金が廻る時代なって、効率化やコスト削減と、学童が少ないからと、やれ廃校だ統合だとされていく。便利な時代が、より不便にしていくように思える。

私が通った小学校も、中学校も無くなった。町の学校に統合されて、スクールバスとやらが田舎道を走るようになった。一方では、中山間地域の活性化とかいって、訳の分からん予算を付けて益体もないことを勧める。どうもこの国のやってることはおかしいぜ・・・。

 

Tが置いていった一枚の手紙。この簡素な文書からいろんなことが浮かび、思いだされた。

 

 

 

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哀愁のイブ・・・

2013-12-25 | Weblog

12/25(水) 昨夜のクリスマス・イブ、男同士の相合傘ならぬ道行でイブの夜を過ごすこととなっていた。K大兄と二人の忘年会をやろうと話が纏まったのが、それが昨晩であった。どうせなら、河岸を変え雰囲気を変えて飲もうよと、場所は横浜にした。それも馬車道と、大人っぽくした次第。

何が大人っぽくだかよう分からんが、落ち着いた雰囲気が好きなのだ。横浜に向かう東横線の車窓から、墨絵のような富士山が暮色の中に望めた。雲間に、ビルの谷間の先に所々で顔を見せる小さな富士山を眼が追った。遥かに臨める指先のような富士だが、心惹かれ気分が高まる。

大兄との待ち合わせ前、某社にて年末の挨拶を済ませて待ち合せの馬車道駅へ。夕闇の訪れとともに気温が下がり寒くなってきた。特に店は決めていないので、馬車道を散歩がてらに歩きお店を物色する。イブだと云うのに、人どおりも少なく静かであった。

今夜の飲みスタイルは、熟年オヤジが哀愁を抱きながら、そこはかとなき哀しさを漂わせながら飲む・・・。と云うことなので、昔流行った「ブルーライト横浜」などのような、跳ねたムードは邪魔・不要。なにしろ唄う歌は「国境の町」と、渋いのだ・・・(僕じゃないょ)。

落ち着いた雰囲気の飲み処を大兄が見つけ、そこで一杯やることとなった。大年増ながら小粋な女将は、日本酒はすべて神奈川県の蔵元に拘っていた。冷酒(ヒヤ)がよさそうな酒ばかりだが、女将は燗酒でも行けると云う。

寒いときは燗酒と、先ず「松みどり」(この酒はゴルフコースの在る松田の酒なので懐かしい)の温燗を頼む。と、カウンターの上に置いてあった小板を外したのだ。なんとそこには、燗をする湯が張ってあった。この手の設えは初めてだ・・・感心しました(写真撮っとけばよかったな・・・今度ね)。小体ながら、なかなかいい雰囲気の店であった。次にダーナの店、生音やボーカルを聞かせるスタジオのような「Me Gusta」に行った。

ダーナは今夜、赤坂「禅」に出向いて葉子さんとクリスマスソングを唄っている。店はスタッフの若いミュージシャンが留守居だった。客なのか正体不明のオジサン、姐さん達がポツリポツリと姿を見せる。暫くするとそのオジサン、姐さん達がステージに上がりピアノやサックス・ギターを演奏始めたのであった。

中には「今夜が始めてですが」と楽譜を手に現れ、シャンソンらしき歌を唄う女性も出現。なんじゃこれ?と云う感じだ。とうとう「楽器、なんかやりますか?」訊かれてしまう。が・・・内心では、三味線と尺八にハーモニカだと呟く。大兄は「国境の町ならやりますが」と、若いスタッフをと惑わす。二度目だったが、こんなスタイルの店だったと漸く知った次第・・・。

木枯らしが歩道を小走りに掃きはじめた頃、関内駅に向かう大兄と、馬車道駅に向かう私は左右に別れた。静かで凛としたイブの夜が更けて行く。古の横浜正金銀行の建物も、馬車道どおりも、彼方のランドマークタワー辺りも、闇に溶け込のを待っているようだった。

              

 

 今朝は、築地市場に立ち寄ってから出社となった。従姉から鮭を頼まれていたので、それの手配である。最近は此処ばかりだが「北田」で、ロシア産紅甘塩、7枚入/8Kgりを一箱贖って送った。先週に猪肉を送って貰ったので、その返礼である。男は辛いんだ・・・?

マグロの米岩のオヤジに入荷の状況を訊き、市場の最終日に取りに来るとマグロを頼んだ。市場に来ると、ついつい余計なものまで買ってしまうのは、貧乏人の性か、食いしん坊魂が為せるところか。

コーヒーの愛養に寄らず、ビールも飲まないで会社に戻ろう・・・。この前、サッポロの姐さんと来た土曜日に比べると人出は少ない。それでも場内の人気すし屋は行列である。白や黄色、和・洋・華と色とりどりが行儀よく並んでいる様を目にすると、戦争は起らんだろうと云う気がする。

場外の大通りに面した喰い処も、今朝はゆっくりと歩くことができた。然しながら、今週末はごった返しだろう・・・。

                    

 

今年のカレンダーでは、出勤日は後二日。九連休となるがハワイに行く予定もない・・・。正月早々に帰省し、2・3日は畑仕事と焚火に焼き芋の優雅な日々を送ろう。疲れたら川奥の村、馬路温泉に浸かり「ごっくん馬路村」を飲もう。小市民のささやかな休日を、田舎暮らしを満喫しよう・・・。

 

 

 

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一足早く・・・

2013-12-24 | Weblog

12/24(火) 今夜はクリスマスイブとかだ、我が家では一足早く昨晩にクリスマス会とかが開かれた。家を出てた娘たちやその連れ合いも顔を見せてのひと時であった。

仏教徒のオヤジとしては従い難いところであるが、家人の説得「年取ったら、嫌でも子供に世話を掛けるんだから」の迷言で、渋々ながら顔を出した次第。大方の料理は家人が作っていたが、娘らも一品づつ持ち寄ってきた。貧乏一家の安料理が並ぶ。

               

ケーキの方も、家人の手作りで潰えを惜しんでいる。大人が十人も居ながら酒を飲めるのは、義妹・長女・三女・次女の亭主だけと云う体たらく。我が家の酒は一向に減らない。

娘らは持ち寄ったプレゼントの交歓会、恒例の行事のようだ。オヤジへのプレゼントだよと貰ったものは・・・・?なんと膝用のサポーターと湿布薬であった。もうちっとましなものを持って来いよ

                   

皆が揃い、乾杯~だって。孫の“空”だけはマイペースのお姫様。泣く子にゃ勝てぬのだ。

                       

私は早々に部屋に引き上げて本を読み、つまらないTVなどを横目で見ていた。気が付くと何時もより早く、皆引き上げていた。翌日の仕事が気掛かりか、祭りの宵の潮の引きは早かった。

かくして、貧者の家でも異教徒の祭りは繰り広げられ、八紘一宇・世界平和に繫がって行くのであろうか・・・(何を言ってんだか?)。

 

 

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猪汁

2013-12-20 | Weblog

12/20(金) 週末を迎えた金曜日の今夕、社内で山賊の酒盛りがある。郷里の従姉に頼んで猪肉を送ってもらった。沢山に届いたので、一部は稚内の悠遊ファーム・Wさんにお裾分けした。そう、北海道には猪が生息していない、珍しかろうと思った次第だが・・・。

会社のスタッフは、時折に社内で猪汁や猪鍋をやるので食傷しているだろうが、今年の獲物を食すのはジビエ料理の初物としてヨーロッパでは珍重されるのだ。まあ~、料理方法が何時も同じでは飽き飽きするのも頷けるが。我慢をしてもらい、猪汁と猪鍋を作ろう。

材料は、猪肉と大根・人参・椎茸・生姜・蒟蒻・油揚げなどだが、汁と鍋ではカットする肉の厚みを変えて味噌や砂糖・醤油の量も調整する。気分次第の味付けと、オヤジのやることは大雑把なものだぜ。さて、どんな味になるやら・・・。

 結果は、下の写真のとおり。猪鍋も汁も思っていたよりは上々。番外は、佐賀・嬉野温泉の温泉湯豆腐だった。9月取材に訪れたKさんから届き、皆で頂戴した。温泉水の味であろが、チョットしおっけがあって美味かった。

               

                猪鍋                 猪汁                温泉湯豆腐

さておき、今朝のスムージーだが「リンゴ・トマト・小松菜・人参・ウコン」となった。朝はスムージーに限るのだが、飯の匂いに誘われ、糖質摂取となることも間々ある。こんな時は腹が重い。

               

今朝のスムージーは比較的にサッパリサラサラですいすいと飲めた。リンゴ・人参・トマトの使用量は半分だけ、念のために申し添える。

 

  - 昔 語 り ー

昨日は一日雨が降りつづいた、すっかり暗くなり大粒の雨の中を渋谷に向かった。サラリーマン最後の職場で一緒だった、広報担当のメンバーとの飲み会が宇田川町「奈加野」であった。再就職先に勤務する当時の課長IKEDA君、現役の部門長のT君、子会社で総務係長を務めるS君。もう一人、剣道部の後輩でもあるH君は、急なオーダーが出たとのことで不参加となった。

久しぶりに顔を合わすメンバーの近況や、当時の出来事など話は尽きない。ふと我に帰れば、過去の出来事の中に埋没して生きている己に気付く・・・。

今読み返しているのが詩人・金子光晴の「マレー蘭印紀行」である。詩人が三十代半ば、昭和初期のマレー半島を流離った自伝。この他に「西ひがし」「どくろ杯」「ねむれ巴里」など、往時の詩人の魂の彷徨と流譚を書いた物語があり、思い出したように読む。私がこの本と出会ったのは平成になってからのこと。この頃六本木に遊ぶ折、友人と待ち合わせたのが書店の青山であった。待ち合わせまでの時間を紛らすために本を物色し、詩人の本と出会った。

詩に疎い、関心を持たないが、あれは未だ二十代の頃。当時勤務していた事業所の資材課にSさんと云う方がいた。十歳ほど年配であったろうか。或る日、Sさんが先生が亡くなったと、沈痛な顔で私に話かけた。その先生と云うのが詩人・金子光晴であった。Sさんが詩人の弟子であったか、その関係の濃淡はしらない。ただSさんの悲嘆の顔と声は未だ脳裏に残っている。

Sさんとは課も年令も違い、偶に話をするぐらいだったが、私の同期のINOUE君と同じ現場にいたとのことで多少の縁が生じた。当時の企業・職場の雰囲気としては、詩人の感性や、妻の思想信条を問うような気分が大であった。が、そんなことに無頓着、はみ出し者の私には話易かったのであろうか。

その後も詩人の詩に触れることはなく、或る日、六本木の煌めきと華やぎの中にある書店の奥まったコーナーで、この一冊に眼が止まり出会った。十余年を経ながらも、Sさんのこと、あの時の会話があったればこそか。

思い出したように書棚から取り出す本の一つが、金子光晴である。

 

それにしても、出てくるのは昔のことばかりだ・・・。

 

 

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過ぎ去りし日は

2013-12-19 | Weblog

12/19(木) 昨日は午後から雨となった、雪の予報もあり寒い一日。ベランダで寒さを堪えながタバコを吸いYOSHIOに云う。「寒いから暖かいものを喰わないか?安くて暖かいものなりゃあ“牛すき鍋膳”だな」と。

そんな次第で昨日の昼飯は、吉野家に向かった。時刻は13時30分、寒いな~と云いながら3・4分の処に在る店に向かった。この時刻なら貧乏人のメッカ吉野家のカウンターも二人で並ぶことができる。先週に来た折に貰った割引券(30円引きとなる)をカウンターに載せて「牛すき鍋膳」を注文した。

来た来たと、固形燃料が燃えてアツアツの牛鍋にセットの生卵を入れる。卵の周りが少し固まった頃合いを見計らって薄くてクジラの脂身のような牛肉に箸を付けた。一応白菜と豆腐の欠片、きしめんのようなウドンが少し入っている。鍋がぐつぐつと煮え、濃い味付けの出汁が効いて食が進む。

                       

隣に座ったYOSHIOはガンガンと喰っていた。「どうしたんだよ、そんなに勢いよく喰っちゃって」問うと『寒いから早くあったまろうかと思って』と言う。食の細いYOSHIOにしては珍しいことだ。「俺たちゃ吉野家の救済に随分と役立っているな。これで売り上げアップ、黒字に転換だな」と、余計なことを言いあいながら、束の間のランチタイムを楽しむ。後から来た客も、当方をちらりと見て鍋膳を注文、生卵を鍋に入れた。このスタイルが流行そうだぜ「オヤジ風牛すき鍋の食しかた」・・・。

 

 皆、齢を取り・・・

夜、恵比寿の「田吾作」に若い頃の仕事仲間四人が集まった。この店は昔よく来た、焼きトンとホイスを飲ませる店だ。こうして年に一度くらい、三十年以上前に職場を同じくした仲間で飲む。ABE&IMAI&TUNEMORIの後輩にあたる各氏だった。I&Tは未だ働いているが、Aは五年も前から優雅な日々を送っている。

遅れて来たTがホイスに口を付けるなり、出た言葉は「年金」であった。幾らもらえるんだとしきりに気にする。懇切丁寧に話してやるが、今一つ呑み込めぬ様子。ああでもない、こうでもないと騒がしい。彼の若者たちも齢を重ねたなと、実感する。

昔の仲間が集まれば、昔話となる。昭和50年代の前半から終わりにかけて、大手町に在ったビルの7階が彼らと過ごした時代。まあのんびりとしていたのは間違いない。事務用品の調達業務が仕事で、1・2印刷・備品・消耗品・用紙・被服・企画と七係に課長・調査役・課長補佐に其々の係長、総勢四十数名が在籍した課であった。

私も着任して驚いたのは、昼休みになるとトランプがあちこちで始まったこと。五時を過ぎると取引先応対用の長いカウンターで、酒盛りが始まる。企画係は飲んだ人数・名前を控え給与から天引きし、酒屋に毎日酒の注文をするのも大事な仕事であった。そんな職場は少なかったろうが・・・。未だ、貧乏な時代の残滓を引きづった職場だった。

それでも一応、年度末になれば契約の更改や手続きで忙しくはしていた。私のフィリピン旅行の予定は、局長説明の予定が一日ずれたために、出発の前夜に取り止めた。それなりに覚悟を持って仕事に向かってはいたが、いい時代さ。当時のことを思い出せば話題が尽きなかった。

そして民営化となり、大きな機構改革があった。あれだけ人のいた職場も解体され、分散された。新組織に移った元の職場に私が主査として戻った時は、十数名の小さな所帯ですっかりスリムになっていた。

この頃、松山に居るKATUTA君が一緒だった。人は減り仕事の守備範囲は増えていたが、今でとうりに仕事をやれ、手抜きは許さん「死んだら骨は拾ってやる」と檄を飛ばし、身勝手なことをほざいていた。私は、酒を飲みに行っていたのだが・・・。

逓信省時代から続いたその職場「用品課」の解散式をやろうと、昔の名簿を頼りにOBたちに声を掛けて盛大な解散式をホテルグランドパレスで行ったことも懐かしい。この時にピアノと唄をお願いしたのが禅の葉子さん、そしてコンパニオン代わりにアルバイトをさせたのは、六本木の飲み屋の姐さん方であった。

昔日の面影もなくし、安飯を喰らい安酒の日々、過ぎ去りし時代を懐かしむようではお仕舞か。されど、昔のメンバーと飲む酒は美味かったよ・・・。

 

して今朝のスムージーとなるが、今朝はリンゴ・柿・ミカン・ウコン・小松菜と並べてみたが、これじゃ果糖過多と柿は取り止めた。

               

ウコンの苦味が心地よい、飲むと云うよりは食べる、噛むような食感であった。

 

 

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病には勝てぬ

2013-12-18 | Weblog

12/18(水) 昨日の午後、かつての上司であったKIYOTAさんと上野で会った。9月に頸椎の手術をし漸く歩けるようになったから久々に一献交わそうとT氏を通じて連絡があったのは二週間ほど前のことである。待ち合わせた店は、Kさんが好むギネスが飲める構内のアイリッシュBARである。

昼酒をやりながら、病状などを聞いた。頸椎の5番目から7番目までが潰れており、或る日激痛が襲ったとのこと。滞在していた別荘の在る軽井沢の病院に入り、手術。術後一日目は何事もなく歩けたそうだ。処が二日目から容態が急変し、激痛が走った。紙一枚分の厚さを動かすことが出来ない症状がつづいたと云う。

「このまま駄目になるかと思ったよ。痛みのために体を動かせず、固まってしまい、寝たきりになる人も多いらしい。病院のベットの上でリハビリを始めて漸く動けるようになったよ」と、闘病の苦しさを語った。昨年には軽いながらも脳梗塞で入院している。流石の鉄人Kさんも、寄る年波とともにガタがきたか。

我らに言わすと、カロリーオフだとばかりに肉とチーズだけの食生活を、何年も続けたからじゃないかと一致するが?同席した後輩のTやU老も異口同音である。KさんとTとは、AD時代に一緒に仕事した、U老は私が出た後にADに来ている。私が在籍した頃は、いい時代であったと云えよう。上司であるKさんに「オッサン」とか言ってタメ口を利いていたが、そんなことを言わせるしなやかさがあった。上司のKさんにも、職場にも。

                      

                           K・T・Uの各氏

頸椎の病と云えば、奈加野で手伝いをしている郷里の先輩Nさんもそうである。何ヶ月も店に出ないし、様子が定かでないので一昨日自宅に電話をした。奥さんから当人に変わってもらったが、「痛くて動けない、頸椎の4番・五番目が潰れていると言われた。手術をするかは、今週に決まる」と、弱々しい声であった。

KIYOTAさんの話を聞き、N先輩の置かれた状況が理解できた。宴の後、ホームに向かうKさんを見送ったが、未だ足取りは弱々しく、背は丸くなっていた。本人によれば、ゴルフのやり過ぎが原因かと言うが・・・。

人生は山あり谷ありだと云うが、齢を重ねてからの谷はきついだろう。できることなら避けたい、がそうは問屋が卸さないとなれば、黙って背負うしかないのが人生ってやつか。然し、痛いのは避けたいな~。

 

 

 

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講談

2013-12-17 | Weblog

12/17(火) 昨日の午後、OB会の方が幹事となって毎月開かれている「講談たっぷり会」なる会に参加した。きっかけは、この会を切り盛りしているSさんというOBを取材したことによる。が、講談ではなく65歳から始めたと云うマラソンの対談に出てもらったことによる。

Sさん自身も講談を語り、ボランティアで施設を訪問したり海外の邦人に聞かせたりと、ご活躍である。たっぷり会では、Sさんの師匠「宝井琴梅」他、本職の講釈師が出演する。聴衆は、N社のOBが殆どと見受けたが…、この日は四十人ほどであった。

女性講釈師「宝井琴桜」さんの出しもの“榎本武揚親子餅”を聴くうちに胸に迫りくるものがあった。物語は幕末から維新にかけて「五稜郭で敗残し、江戸の牢に囚われた榎本を、老い先短い母が一目会いたいと餅売りに身をやつして牢の中に入る。親子の対面は叶うが、母と呼べぬ、子と呼ぶことが適わぬ哀しき定め・・・。武揚が釈放となった一月前、晴れての対面を待たずに母は身罷う」。

と云う物語であったが、子を思う親の心、親を思う子の心情、こう云う物語に弱いんだ。郷里に老いた母を独り残しているバカ息子としては、特に弱い、辛いものがある。物語を聴きながら万感の思いが迫ったのは私だけではないようだった。同年配や或いはご年配の方々の背が心なし震えていた。「郷関を出ず、いつの日にや還らんかな」だが、潮時かなあ・・・。

 

その後、某所でワイン四杯で講談会のもやもやを断ち切り、赤坂ピアノラウンジ「禅」に向かった。今年7月、オーナーだった東郷好彦さん七回忌で客の誰かが「月命日に集いやりましょう」と発言したとのこと。相方だった葉子さんから、四半期毎に東郷さんの月命日の十六日に集合との案内が届く。10月、赤坂での県人会OBとの懇談会後に顔を出して以来の顔出しであった。

葉子さんとは長い、彼女のピアノと歌を聴き始めてから四十年になろうか。奇しくも生年月日が同じである。店に入ると丁度演奏中、歌姫の声を、ピアノを聴きながら東郷さんの顔を思い浮かべ、彼との思い出に浸った。

演奏を終え、テーブルに来た歌姫にさり気なく訊く『どうすることにしたの?』と。「来年で閉めることにするわ。秋田はいいとこよ、でもやることがないんで困っちゃうね』「近所の子供や老人を集めてピアノや歌を教えたら」そんな会話をし、店を後にした。

葉子さんの生まれは弘前だが、今は秋田が実家。とは云いながら、両親は亡くなり姉たちが居るとのこと。その姉が建て替えた家に彼女の住む部屋を作ったそうだ。東郷さんを亡くしてから、帰って来いと言われつづけていたようだ。「禅」がなくり、葉子さもいなくなると淋しくなるな・・・。

さて、今朝のスムージーだが「リンゴ・ミカン・スイカ・小松菜・キャベツ一枚・ウコン」であった。今週も連夜マウンドに立つ。ウコンで酒毒消しだぜ!

                    

スイカが入ったので水っ気たっぷり、リンゴは四分の一だけ使う。昨日のスムージーよりは色は柔らかいグリーン。何時もの食べる感じとは異なり、飲む喉越しであった。

                        

 

 

 

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過食・・・

2013-12-16 | Weblog

12/16(月) 今朝は寒い、本格的な寒はこれからだろうが寒さが身に染みてくる朝であった。これからの寒さを思うと、フィリピン辺りで困窮の暮らしも悪くないかと思ったりもするが、今夏の熱暑を思いおこせばこれもまた考えものか・・・。

土・日と先週のランチの重さが尾をひている。にも関らず、飯の喰い過ぎであった。

土曜日、6時過ぎに目覚めて浮かんだのは朝飯のこと。7時ごろから朝飯を作った。目玉焼き、ハムとウインナー炒め、タマネギの卵とじ炒めにトースト、缶ビールを一本。この日、玄関から出たのはポストまで新聞を取りに行った十歩だけ。晴れていたのか曇っていたのかも判然としない。部屋に垂れ込めたまま本を読んで一日が終わった。

昼前に孫娘が現れたので、妹から届いていたメロンと炒飯を作って食べさせた。私のランチは鮎を三匹焼き、缶ビールであった。夜は娘たちが来たので家人が飯の用意。私は田舎から届いた自然薯を摺り、野菜と自然薯の汁を作った。従姉からのスイカと、長女が買ってきたてんとう虫ケーキがデザート。

               

               滅茶甘のスイカ                             次女に叱られ泣く!

日曜日、朝のメニューは和食にする。ビールの友に鮭と鮎開きを焼き、卵焼きを作る。昨夜の残り汁に野菜を追加した。缶ビールを一本だけ。この日、今週末に使う予定の猪肉が田舎から、札幌のT女史から「ホタテ」が届いた。午後から会社に行き冷凍庫に猪肉を仕舞った。晩飯は、ホタテをベーにした天麩羅で天丼とした。ホタテの甘い香りとジューシーさ、喰いまくってしまった。

                       

昼過ぎ、人形町駅を出て直ぐの居酒屋「ちょっぷく」の前をとおると、調理場に店長“山ちゃん”の姿が見えた。病み上がりだが、明日からの下拵えをしている。覗いて一声を掛けた。

『どうだね、調子は』と云うと「駄目だ~右足が動かねェよ。今朝プールに行って歩いてきたよ」とのこと。『まあ、無理をしないで徐々に慣らしていくしかないぜ。俺なんか未だに右膝がよくなんねえよ」と云うと「それやァ、齢だから仕様がないぜ」と、可愛くないことを言いやがった。

飲み屋商売も体が元手、朝から終電まで働き、日曜日も翌日の仕込みで出てくる。余程気を付けていないと体を悪くするも必定だ。渋谷・奈加野のオヤジも何十年も体を酷使してきた、「疲れるよ」と顔を合わす度にぼやくのも分かる。ましてや今日、左程の稼ぎがあろうとは思えないし・・・。

大企業のサラリーマンが一番と思えそうだが、それはそれで何かと有ろう。何の商売だろうが、仕事だろうが、我慢と辛抱。志を掲げて生きることじゃなかろうか・・・。上手く行こうが行くまいが、最後は南の国で野垂れ死にもあるぜ。

ここの処、古い本を読み返している。安吾であり、開高であったりするが、文学と云うやつは重い、この齢になって読んでも重く圧し掛かる。彼らが書き、没した年齢を凌駕しながらも、彼らの思考に僅かながらも接することが叶わない。

「開高 健」を読みながら、ふと思った。開高も、少年時代の貧乏や喰えなかった時代の後遺症か?こんなにも貪欲に食い物を語り、しゃぶり尽くそうとするのはと。喰い物も然りだが、人間と云う者をしゃぶり尽くして、骨の髄まで舌で脳で感得したかったに違いない?その先に何を感じ、見えてくるのか訊きたいところだが、余りにも早く逝きすぎたと思う。

私の過食は単なる喰い過ぎ、せめて開高の百分の一でもその思索と透徹を持ち合わせておれば・・・。致し方なし、喰い撒くって至高の鉄人の足下に歩み寄らんと為すか・・・。

 

毎度のことながら過食の週末を過ごし、今週は抑え目にと、今朝はスムージーにした。「バナナ・ミカン・メロン・人参・小松菜」の結果となったが、これに生ウコンが入る予定であった。呆けオヤジは、出来上がったスムージーが喉を通った時に漸く気が付くお粗末ぶりである。

                       

小松菜の鮮やかすぎる青々に、周りは侵され、浸され、浸食されて抹茶色に染まりきったが、味わいは甘い。これにウコンの苦さが混じると最高だろうにと、口惜しい。

 

 

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