オヤジの弁当箱

日々の手作り弁当だけが生甲斐のしょぼくれオヤジ。弁当メニューと併せて日々の雑感を付記。

チキンライス・・・

2017-10-31 | Weblog

10/31(火) 今日で十月もお仕舞か・・・、早いな~。後、二ヶ月経てば新年を迎えることになる。昨日、年末始に帰省するチケットを取ったが、結構なお値段だ。一人帰省なので未だいいが、これが家族四人や五人、うちの場合だと子供たちの連合いや孫まで加わると十人を超すことになる。せっせと五百円玉貯金をしたぐらいじゃ足りゃしないな・・・・。

などと、師走が近づくと余計なことをが浮かぶのであった。そんなことはさておき、今朝の弁当に移ろう・・・・・。

電気釜の中に、昨日の残り飯があった。冷凍するには多すぎる、加えて冷凍庫の中が飯だらけになっちまうと、残り飯を使って「チキンライス」にすることとした。

冷凍の鶏肉を解凍するついでに、「鶏唐揚げ」もやることにした。中々イージーな発想をするオヤジだが、夜毎の酒場巡りで脳味噌が殆ど壊死しているので致し方ない。今日は二人分だが、残余がでないように気を付ける。残るとついつい過食に走るオヤジ故。

解凍した鶏をチキンライス用は小口切りに、唐揚げ用は出汁と刻み生姜・醤油などで揉みこむ。ジャガイモを一つ、乱切りにして素揚げすることにした。唐揚げが少ないので、鶏の変りにイモでカバーしようという算段、じゃあねぇよ。ちょいと目先を変えたかったのさ。

「チキンライス」そのものが菜の塊のようなものなので、他に菜を添える必要もないが、小松菜の胡麻炒めを追加し、ギンダラの糀漬けを焼いた。甚だ簡略だが以上でる。因みにチキンライスには、タマネギ・ピーマン・人参・シメジの刻んだものが入っている。

                 

最後に卵を溶いてフライパンで焼き、これをチキンライスの上にのっけて「オムライス風」になった。オヤジ流の目くらまし戦法だ。

弁当の準備が整ったが、時間になっても長女が姿を見せない。心配した家人が電話をすると、なんと休みと判明した。弁当が有るよと伝えると、娘を学校に送りついでに取に来た。こいつは中々のお調子もんで「あらっ!、美味しそうね!」なんて戯れ言葉を常々発する。

                    

この調子ヤロウー、なんて思いながらも悪い気はしないオヤジである・・・・。俺も本当に馬鹿だね~。

 

昨夜の帰宅も零時前、平日の帰宅時間の平均だが。スタッフのAOKIが「茸」を知人から貰ったと云う。三種類の茸だったが、問題はこれをどのように、何処で食すかであった。社内で食すのが一番だが、量が少なくて皆に行きわたらない。それに、仕事の終わりが一定じゃない・・・。

思案六方で、行き着いたのはマッチャンの事務所「ゆかり企画」で鍋を囲もうであった。今年の冬だったか、パトロール隊の面々で鍋を囲んだ実績がある。

てなことで、マッチャンに連絡して今夜の予定と企画を伝えた。こっちからは茸を貰ったAOKIと、小生。部屋根名主のマッチャンにHOYA兄いと、手頃な人数であった。

事務所の一階にあるマイバスで白菜と缶ビール・ロックアイスを調達し、酒と焼酎は祭りの残りを持ちこんだ。ゆかり企画は社から100mの至近距離。ちなみに「ローカーボ」は反対方向へ100mで、そこから10mが、兄いの居る事務所である。皆、ご近所さんなのだ。

マッチャンの事務所に行くと、掃除を済ませテーブル・椅子も整ていた。土鍋もスタンバイしており、キノコと飲み物を待つばかりの体制&準備ができていた。

鍋に水を張って沸くまでの間に、AOKIが野菜を切り、キノコの準備をする。一人暮らしの男は手慣れたものだ、それにJINN先生の料理教室のメンバーでもある。任せておけばいいのだ・・・。

茸の方は、天然ナメコを大きくしたようなもの(出汁が出るとのことだったが、結果は?だった)と、エリンギを大きくしたような白くて太いキノコ、そしてシメジのようなキノコだったかな?。

               

歯応へや味はエリンギもどきが一番よかった。白菜もよかったね?。汁に醤油&柚子酢を入れて味をスープの味を調えた。一味を入れると引き締まって、食味が増した。 最後にウドンを入れて、〆となった。

さあ~これから「セイジュ」だと、カラオケになだれ込んだ四人であった。演歌縛りだぜと、マイクを順繰りにまわして高歌放吟、十時過ぎにグループ客が来たのを汐に、私は『お先に失礼するよ』と三人を残して店を後にした。

                          

                        ママさんは、奥のテーブル客の酒を・・・

最後に「ちょっぷく」に立ち寄って白ワインを飲みながら、YAMAちゃん店長や、常連とバカっ話となった。店仕舞いの時間が来たので店を出ると、なんとセイジュから出てきたAOKIとバッタリ 。メトロの車中、なにやらかにやらと話し込んだが・・・、その話は改めて。と、言った記憶はあるが、一体なんのことやら、話やら・・・・

 

 

 

 

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

悪天候をついて・・・

2017-10-30 | Weblog

10/30(火) 東京も二週連続して台風の接近で悪天候となった。先週の日・月と会津でも暴雨風。そして、今回の土日における平和島ボートレース嬢でのSG戦ボートレースダービーも雨風に祟られた。一夜明けた今朝の、風強しなれど天気晴朗とは大違いだったのだ。

ボートレースダービーは優勝賞金が3500万円、優勝戦に出場するだけでも賞金が600万円と高額。但し、全国のボートレーサー千数百名の中から選ばれた(勝率上位)の五十名のレーサーしか出場できないのだ。そのレーサーたちが六日間闘い、土曜日が準優勝戦、日曜の十二レース目が優勝戦となる。この優勝戦に勝利すると3500万円、二位は1350万円で、ドンケツの六位でも600万円の賞金となっている。

そんな大レースで、ボートレースファンのお祭りのようなものなのでNAKANOオヤジの車に拾ってもらい、雨中の出撃となった。出撃する以上は選手達の戦績や、今節の成績などの把握は欠かせない。それなりに準備をして臨んだことは云うまでもないが・・・・・。

流石、大レースだけのことはある。悪天候ながら施設の中は大混雑、TV撮影の櫓が建っち観戦場にもカメラが並んでいた。そんな中、我等は第七レースから参戦した。会場に入るとNAKANOオヤジと別れ、別々にレースに臨む。これが常である。

十レース目が終わり、何時ものようにレストラン(食堂か)でビールを飲む。それからOYAJIの様子を探ると、元気なし。芽がでないようで「駄目だ!」と、ショボクレオヤジそのもの。『未だ二レースあるぜ、チャンスはあるさ』と慰めともつかぬ言葉でその場を離れた。

そして準優勝戦の最終レースになって再び合流し、この日の最終戦を観戦した。結果、二人とも外れ、。「今日はどうだったんだ?」と訊かれ、『ボチボチだね、少しプラスかな』と応へた。帰りの車中、『天気も悪いから、明日は止めようかな?』と言うと、「電話するよ」との答えが返った。

日曜日、最終日だが大雨の予想どおりに雨は激しくなっていた。午前中に届く宅配便が、何時もの昼前と違って十時過ぎに届いた。外は雨、やることもなし。面倒だが、昨日頂戴したお宝を少し返しに行くかと、ボートレースの予想をした・・・。俄然、やるる気になりNAKANOオヤジに電話を入れた。

「寝てたよ、こんな天気の日はよく寝れるんだ」と寝惚けた声で応える。『行かないの?最終日だぜ!』と、昨日の帰り道とは裏腹な檄を飛ばした。そんなやり取りがあり、じゃあ行くかとなって激しい雨の中を平和島へ。昨日と同じく、七レースから参戦となった。

この日の展開と買い目は検討していたが、最初のレースを取った(涙程度を)だけで、後がつづかない。事前に考えていたとおりの目を買っておけばウハウハだったのに、現場に来るとそのとおり買へない。それが良い時もあるが、この日は裏目となった。

そんな中で愈々最終の十二レース、優勝戦となった。順当にいけば、1~3番辺りまでが勝率が高い。人気も髙くその分、配当は少なくなる。泣いても笑ってもこのレースが最終だ。このレースに夢と?希望をどう託すか?、である。悩んだ結果、順目・逆目の双方から幅広に買うことにした。結果が悪くても、どうせ前日に預かった(?)ものを返すだけのことだ(本音は、これまでに預けたのを返せよ!だが)と・・・・。

上手い具合に小降りになっていた。タバコでも吸って外で見ようよと、オヤジを誘って一番の端でスタートを待った。お互いの買い目は明かしていない。結果が出てから手の内を明かすのだ。

不利な外枠の六号艇が強引に内に入って一号艇の隣のコースを取った。満員の場内がざわついた・・・・。時計の針が廻り始めた、スタートだ!・・・

一斉にスターラインを突破し、第一マークに殺到する。一号艇と六号艇がせめぎ合い、六号艇が鼻の差で先に抜ける。一号艇が猛追して並び掛け、急襲するも抜ききれない。二マークを廻り僅かに六号艇が優位に立った。三番手争いも、激しせめぎあっているがこの両艇とも舟券は押さえてある。

問題は一着争いだ・・・・、六号艇が先頭であれば、高配当が望める。6-1、は買っているが、1-6、は持っていない。ここは六号艇に踏ん張って欲しいのだ・・・・。二週目に入り、六号艇が有利になってきた・・・。一・二着が見えてきた、三着争いは最後まで激しかったが、二号艇が競り勝った。

6-1-2、の順ででゴール。着順が決まった。優勝3500万円、二着1350万円、三着900万円の行先が決まった。それに比べると、こっちの獲得(預けてある)した金額は微々たるものだが・・・・。

選手たちは、年末のグランプリ戦(一着賞金一億円)まで凌ぎを削って賞金王を争う。こっちは財布を削るのであろうか・・・。否、預けてあるお宝を戻して貰うことに勤しむのだ。

隣のNAKANOオヤジが力なく訊く「買ってるのか?」と。『買ってるようだよ・・・・』と言うと、舟券見せろよとつつくのであった・・・・。

俄然、激しくなった雨の車中「焼肉奢れよ」と言う。『今日は日曜なので、今度ね!、店に行くから』と、応える・・・・。負けているオヤジに気の毒で言ってなかったが、土曜日も預けた金を戻してもらっている。努力するものは報われる、そう信じて検討した結果だが。

然し、今度店に行くと「ボトル入れろ、ノド黒くえ、ヒラメ喰えの挙句に、焼肉へ行こう」となるは、請け負いか・・・。致し方ないか、毎回車で送り迎えしてもらっている身だ、身を削るのは。

自治の処、今回のレース参戦は乗り気でなかった、全国の超一流の選手ばかりから、どう買えばいいか、皆目?だったから。それを何とか凌げてよかった、と云うのが本音だ。されど、この二日間で会津の旅、芸者の花代に費やした資金の回収ができたと思えば幸いか・・・・・。

 

台風接近の終末を、かくの如く過ごし、青空の週明けを迎えた。さあ~弁当作り、ながら、今日も一つだけでいいのだ。

買い置いた「豚肉」を、ソテーとトンカツにすることにした。一つの食材尾二種にする、見上げたものだ。後は、シメジと九条ネギのソテー。冷凍シューマイを温め、卵焼きを作る。以上である。

                         

ご飯の上に「山椒ジャコ」を振り掛けてお仕舞にした。明日は何にが出来るやら・・・・・。

                            

弁当事を終え、風呂に入ってから家を出た。隣の八百屋の小母さんから「風が強いから気を付けてネ」と声を掛けられて。

駅に向かいながら、左足の甲の痛みが一向に取れにないことを認識させられた。歩き方が変だし、歩幅が狭く足を着くと痛い。こうなってから、もう一月になる・・・・。とうとう、近所の整形外科医に立ち寄ることを決した。

行ってみると、整形外科は診察待ちの患者で一杯だった。一時間以上待たされ、漸く診察となった。症状を伝えると「痛風じゃないね、甲の骨が悪いんでしょう。レントゲン撮ると直ぐに分ります」と、たった三分でレントゲン室へ。暫くして診察室に『呼ばれ「この写真を見てください。ここの骨と骨のつなぎ目が磨り減って変形してるでしょう」と言う。が、こっちはそんなことは判りゃしない。

『で、どうなんですか?治るんですか?』と訊くと。「これは治らないですよ。靴屋でアーチサポート付のインソールを買って靴に入れて下さい。後は、痛み止めの薬と湿布だけですね」の診断だった。

薬の処方は断ったが、もらっときゃよかったと後の祭り。三割負担で済めば、薬局で買うより安いはずだからネ・・・・セコッ

右の膝関節、左足の甲と、満身創痍だな・・・・。これじゃボートレースも車椅子、YOSHIOに押して貰って行くことになるか。冗談で言ってきたのが、愈々現実になりそうだぜ。

これまでの悪行非道の数々を思えば、我が運命も致し方ないか・・・・・。否、心を入れ替えて「達磨大師」の道を歩むのもありか?。

 

 

 

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

獺祭&「まき貝のうた」

2017-10-27 | Weblog

10/27(金) 昨日の午後、予定どおりにTUGAWA&HANAOKAさんのお宅を訪ねた。鮎とともに「南」の冷おろしを一本携えて・・・・。

借家の小さな庭に、隣の屋根越しに柔らかな日差しが届く小春日和の穏やかな午後となった。今年一房、昨年も一房実ったと聞いている、数年前に持っていた実生葡萄の木が枝を伸ばし、未だ青い葉を残していた。HANAOKAさんが試作を経て準備したという手料理でもてなしてくれた。

年にい一度か二度、この家を訪れてご馳走になり、過ぎ去りし日々の思い出など語り合う。昨日は、行ってきたばかりの会津のことなど話した。そして、ユーチューブから白虎隊の歌など流してもらい去りし日のことを偲んだ。HANAOKA女史は会津に行ったことがないという。是非行ってきたらと薦め、春に三人で行けたらいいね、と言った。

三人での旅、湯ヶ島から河津へと抜けた旅。そして、伊豆半島の突端にある入り江の小さな町・子浦、真夏の白浜海岸。一番最初は、満開の吉野の桜を観に行った時であったあろう。昨晩もその時の桜の見事だったことや、宿の部屋を譲ってくれたINOUEさんのことなどが話題になった。

テーブルの上が獺祭の如くになり、宴も潮時を迎えた頃。女史がHIROさんの亡くなった姉、郁美さんが書いた本のことを言った。本は、一家が一時住んだ、神戸・長田であろう地での暮らしを郁美さんの視点で描いたものだと云う。

                        

HIROさんが学齢に達していない年令で、その中で、HIROさんはジロウという名で出てくるとか・・・。時代的には、昭和二十年代の半ばから後半の頃か。HIROさんは照れたのか「誰かに貸したんじゃない」と言うが・・・・・。

二階から一階と、女史が探してくれ「あったわよ」と、古い単行本を手にしてきた。それが「まき貝のうた」で、著者は坪井郁美とあった(1985年初版、発行所は福音館書店)。お借りして読ませてもらうことにした。

                           

辞去しての帰り、車中で少し読み。帰宅してから、半分ほどまで読み進めたが、未だ読了していない。戦後から間もない、昭和のレトロ感いっぱいの空気と風景。病気の母親と健気に生きる兄弟姉妹、三女で小学低学年ながら、意志・生命力旺盛な少女(郁美さんであろう)から見える、時代と家族と暮らし、心情が活写されている。

懐かしく思えるのは、さほど年代が違わない時代を生きてきたからであろうか・・・・。

辞去し、玄関先から見上げた夜空に三日月が、くっきりと浮かんでいた。「上弦の月ネ!」と、女史の声がかぶさってくる。HIROさんに見送られ、武蔵小金井の駅へと向かった。

吉祥寺で井の頭線に乗り、渋谷へ。井の頭線渋谷席の周辺の店も、随分と変わっている。そんな町並みを目にし「奈加野」の看板の長さが偉く思えてきた。あのオヤジが、奈加野の看板を掲げてから四十年余となるのだから・・・・。

木曜日の奈加野は、暇そうであった。オヤジに『これだけ長く看板を掲げているとは、たいしたもんだね~』と言うと、「家賃が安いからやってられるんだよ」と応えた。店が入っているビルは、奥さんのお父さんが建てたビルなのだ。オヤジが「オレは養子だよ」と言う気分も分らんでもないか・・・・。          

                          

腹が減ったと云うオヤジに付き合って、河岸を変えて酎ハイを飲み、博多ラーメンを喰ってからの帰宅となった。

 

さて今朝の弁当だが、昨晩お土産に頂いた女史手作りの「中華ちまき」をご飯代わりに使った。加えて、残りご飯で「鮭炒飯」を作る。

                         

ズッキーニとオクラ・蒲鉾の煮物、ジャーマンポテト、胡瓜・茗荷・若布の酢物、オムレツ風卵焼き、以上で、二人分の弁当を作ってお仕舞である。

              

 

今夕はサラリーマン時代の後輩が二人、人形町まで来るとか。酔っ払った俺は、余計な講釈を垂れなきゃいいのだが・・・・。若い人が遊びに来てくれるのは、嬉しいもんだ。

 

 

 

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鮎寿司と甘露煮

2017-10-26 | Weblog

10/26(木) 昨晩は品川の居酒屋にて、横須賀研究所に勤務した時の単身寮メンバーと、入寮者あての荷物を預かって下さった隣のすし店「埼玉家」(現在は四代目が、てん丸という天麩羅を営む)のご夫妻を招いての、年に一度の懇談会であった。OB四名と現役が二人、ご夫妻を合わせて八名の和気あいあいの会である。

二次会でカラオケに行きたがる、埼玉家のご亭主だったが、賛同者が少なくそのままお開き、品川駅にて散会となった。来年の幹事は、不肖ARISAWAが指名され、横須賀で開くことを宣言した。

二次会が消えたことを勿怪の幸いに、真っ直ぐ帰宅した。実は、今日に備えて早く帰り、やりたいことがあったのだ。と云うのも、鮎すし&鮎甘露煮を作る計画があったのだ。

今日の午後、盟友、TUGAWA&HANAOKA宅を訪問する予定があり、その手土産に自家製鮎開き・寿司・甘露煮・冷凍鮎の鮎尽くし四点セットにプラスして清酒「南」の、安田川物語(勝手に命名)を持参する所存つもりなのだ。

帰宅後の十時頃から準備を始めた。先ずはご飯を炊き(祭りの時に、神先生に頂いた富山のコシヒカリ新米を使用)、甘露煮用の出汁を作る。甘露煮の鮎を素焼きしながら、寿司用の鮎を開く。開いた鮎に塩、米酢で〆て小骨を取り、最後に柚子酢で〆る。

寿司飯用の具は、刻み生姜と炒り胡麻だけがよさそうだが、大葉と茗荷も少々刻んだ(これは無い方がよかったかな)。炊き上がったご飯に、「てまいら酢」と柚子酢、塩&砂糖を少々加えた。そんなことをしている内に、甘露煮の汁が減って、少々焦げ付き気味になっていた。同時並行ができない小生の、よくやる失敗であるが。

あれこれやっている内に、時刻は早や零時になってしまった。手際が悪い男の仕事は、時間ばかり喰うのだ・・・・。時間喰わずに、寿司喰いねぇ~だよね

                         

で、出来上がったのが写真の品だ。鮎すしを、冷蔵庫に仕舞ったのも失敗だな、出掛けに取りだしたら酢飯が固くなっていた。

 

今朝の弁当は二つながら、昨晩眠りに就いたのは二時過ぎになった。その所為か、今朝の起床は七時となってしまったのだ。三十分で弁当を作らねばならないが、幸いにも昨晩炊いたご飯がある。菜の方は、ちゃっちゃと出来るものにした。

先ずは「肉じゃが」で、豚バラ肉と人参・タマネギ・ジャガイモだ。他には、塩鮭を焼き、冷凍シューマイを温め、卵焼きである。小エビとパプリカ・ズッキーニ・シメジの炒め物を仕上た処でタイムリミットとなった。肉じゃがは、旨かったよ。

                      

大急ぎ、大慌ての弁当作りであった。弁当は一つしか映ってないが、長女の弁当はさっさと持って行かれたのだ。

 

午後からは小金井・TUGAWAさん宅を訪問、帰に渋谷「奈加野」に寄りたいと思っているが・・・・、どうなるか?。

 

 

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長雨・・・

2017-10-25 | Weblog

10/25(水) 秋の長雨とは云うものの、ほんまによう降りまんねぇ~。大雨じゃないが、シトシトと今日も朝から降っているのだ。午前中、目黒の某社に立ち寄って、カフェラテを飲みながら後輩のTAKAHASHI君と雑談。彼が作っている自家版ニュースペーパー(写真入りで、これが大いに笑いを誘うのだ)を貰い、最近の状況などを訊いた。

さて、今朝の弁当は一つだけながら「野菜天麩羅」や「ピーマン肉詰め」「稲荷寿司」等と、盛り沢山になった。五時前から目が覚め、暇なので台所で遊ぶ仕儀となりメニューが増えた。

野菜天は、茄子・ズッキーニ・オクラ・菰ダケ・安納芋と少量多品種である。衣は薄くして上品に?。稲荷寿司は、出来合の煮付稲荷に酢飯(柚子のてまいら酢)を作って詰めるだけ。ピーマンの肉詰めは云うまでもない作り方。冷凍シューマイを温め、塩秋刀魚をカットして焼き、小松菜&オクラの煮浸し、最後に定番の卵焼きである。

          

以上のラインナップだが、これだけ品数があると弁当に詰めるのがひと苦労する。何時もながらのことだが、往々にして詰め忘れが出るぐらいなのだ。

 

昨夜は20時頃から「ローカーボ」にて会津旅行の決算報告と打ち上げに参加。五千円近く残金が出たとのことで、これで皆でハイボールなど飲んだ。最後に「ちょっぷく」に顔出してからの帰還だが、連日の奮闘で疲れているのか、23時には学芸大駅に着いた。

 

会津旅の最終章を記しておくが、芸者さんを交えた宴会は21時にお開きとなった。宴会場の使用時間が21時までと、制限されていたのが幸いした?。延々とつづけば、花代が嵩みつづけるところだからネ。小人だね俺は!。

外は台風襲来で、強風が吹き荒れ、雨が叩く悪天候。ながら、旅館の温泉に早朝からゆったりと浸かり、優雅な気分だ。ビール飲もうぜとと、うち揃って朝食会場に降りるとバイキングだ。たっぷりと料理を取ってテーブルに着いたが・・・・。なんと停電だ、十分ほどであったが。

                     

宿のチェックアウト時間は11時だった。この天候じゃ動けないと、様子見をしながら部屋でゆっくりする。最後はロビーの隅にあった卓球台で、ピンポンパンとなったが、思うように球をさばけない。空振りするわ、腕は伸びないと、一様に衰えたな~と実感するのであった。元卓球部だと豪語したNAKAMURA大将であったがマッチャンに連敗を喫し「汚い手を使いやがって」と、悔しがる。

雨は小康状態になるが、風は強まる一方だ。そんな中を、白虎隊自刃の飯盛山へと向かった。ここも三度ばかり来ているが、この台風の所為か剣舞や音楽は流れていなかった。碑文を読み墓に参拝する。

                            

すぐ下にある「サザエ堂」を横目にタバコを一服。強風なれど、雨は上がった。サザエ堂は、不思議な建物で、階段は無くスロープで上まで上がり、下りもスロープだが、上り下りがクロスしないのだ。相当前になるが、某社のPR誌でこの建物を取材しているが、担当したのは亡くなった黒田君であった。

                            

最後に「白虎隊記念館」と云うのに入り、戊辰戦争時の展示物を見た。近藤勇から土方、土佐の板垣退助や山県有朋など数多の展示物があり、総数一万二千点とあった。前夜、感動を新たにした女白虎隊の正式名称は「娘子軍(じょうしぐん)」とあった。銃弾に倒れた中野竹子隊長の下、二十名だったそうだ。因みに、白虎隊は343名で編成されていたとか。

此処から、会津藩校であった日新館の復元施設へと向かう。タクシーの運転手さんに交通状況を聞いてもらった処、電車は動いていないとのことだが、高速バスは運行しているとの情報。東京を発つ前から、午後から夕方には交通機関も動くだろうと想定していたが・・・・。

強風の中、日新館に入ると広い広い・・・。昔の藩校をそのまま再現した観光施設だが、敷地は八千坪もあるとか。儒学、武術、砲術、天文学から水練場の池まであり、教科ごとに施設が連なる。有に一時間は要するとのことだが、気の急く面々は四十分ほどの駆け足見学。武士の子弟教育の充実ぶりに驚かされた。

会津駅に着いたのは午後二時前、駅中の蕎麦処で昼食を摂ることになった。動いていると云う高速バスの営業所は駅ロータリーの向こう側だ。マッチャンが時間とチケットの手配に走り、手配が整った。安心して、天麩羅蕎麦を肴に、利き酒セットやらを飲む。

駅のアナウンスが聞こえるが、運転再開の声がないな~。と、暫くして「15:05分発、郡山行から運転を再開します」のアナウンスが流れた。またしてもマッチャンが走り、バスチケットの払い戻しと、JRのチケットを手配した。これで一安心、一抹の不安を抱きながらもバスより電車の方が間違いなかろうとホームに入った。

 入線した電車の座席を確保し、発車を待つばかりだ。が、安全確認をしておりますの放送があり、一向に発車の気配がない。発車時間を五分、十分と過ぎていく。「阿武隈川の水位上昇で、行政から避難指示があり、解除まで発車できません」とのアナウンスが・・・・。更に、運航のめどが立たない状況ですときた。

バカヤロウ~なんて下品な言葉を吐きながら電車から降りる。マッチャンが「3時50分の高速バスがあります。急いで並びましょう・・・」と云う。満席になっちゃ乗れない。バス停へと急いだのであった。吹きっ晒しの中、バスを待った・・・・。定刻より三分遅れてやってきたバスに乗り込み、漸くホットした次第。

途中の遅れを心配したが、粗時間通りに郡山駅前に到着。新幹線ホームに上がると、上手い具合に上りが五分程で入って来た。上野駅着は六時半頃、ホームタウンの人形町着は午後七時と、当初計画より一時間程度の遅れであった。

お世話になっているお店に、ささやかな土産を配りながら、旅の終わりを祝す乾杯の声が響いたのは言うまでもない。東山温泉で唄えなかったストレスを「セイジュ」のカウンターに陣取って一気に解き放ったのであった。白虎隊の歌が出たのは云うまでもない・・・・。

                   

旅の教訓は「一気呵成、初心貫徹、為せば成る」あたりになるかな?。総員の結論は、決行して良かったと云うことであった。それにしても、マッチャンの活躍は見事。八面六臂の活躍とはマッチャンのことであろう。お疲れ様でした

人形町パトロール隊、次は何処への旅となろうか・・・・・。

              

 

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

吉田多津夫さんを偲ぶ

2017-10-24 | Weblog

10/24(火) 私にとっての会津への旅は、故・吉田多津夫さんを偲ぶとともに、東山温泉で一夕を愉しませてくれた姐さん芸者のその後を訊ねる旅であった。旅の幹事役を務めてくれたマッチャンに、手数を掛けさせたが『芸者を手配すること、それは女白虎隊を踊れる芸者であること』を念押しした。

早いもので、吉田さん他と東山温泉で一夕を共にした宴会があってから三十年以上も経つ。仕事がらであろう、吉田さんは東山温泉の原瀧旅館と何人かの芸者さんと懇意だった。私たちが行った時もその旅館に宿泊し、馴染の芸者衆を呼んでくれた。

白虎隊を踊る姐さんと、客扱いの上手な年増と大年増の姐さんだった。初めて見た女白虎隊の踊りと唄に酔った。この地の武士(老若男女を問わない)たちの戊辰の戦での無念が、踊りと唄から伝わり、胸が熱くなったことは未だ忘れようもない・・・・。

強烈な印象は刻み込まれたままであるし、吉田さんの行き届いた配慮はそれ以降も何度もあった。東山温泉には以降、三度宿をとったが、最後はサリーマンを辞めた年の四月か五月だったので十五年も経った。吉田さんが動脈瘤で急逝してから二十年以上になるが、十五年前の東山温泉は吉田多津夫さんを弔う旅であった。

盟友のTUGAWAさんに同行を願って東山温泉の、その旅館に泊まって芸者を頼んだ。その時の芸者は多分、女白虎隊を披露してくれた芸者だったはずだ。昔のことを、火傷のある芸者とカルタ姐さんのことを伝えると連絡をとってくれた。

火傷のある姐さんは既に芸者を廃業、大年増のカルタ姐さんは家で寛いでいたそうだ。が、二人とも駆け付けてくれた。杯を交わしながら、吉田さんを偲び、在りし日のヨッチャンのことを語り合った。

今回の会津は、東山温泉はそれ以来であった。吉田さんを偲び、それ以来の姐さん達のその後について尋ねたかったのだ。東山温泉といっても芸者衆の数は知れているだろうし、狭い土地だ。訊ねれば分るだろうと。大姐さんは年齢から考えても逝去してる可能性が高い、火傷の姐さんは存命だろう。元気に暮らしていればいいがと、そんなことを思っていた。

                             

                       宴会場には「人形町パトロール隊」の文字

我等が宴会を始めて暫く経し、宿を通して頼んであった姐さんが来た。年増の姐さんと、踊りを舞う姐さんの二人が。酒を注いで貰い、杯を重ねる。頃合いになって踊りの準備をとなった。処が「白虎隊の踊りは聞いていたが、女白虎隊のことは聞いてない」となった。何処かで手違いが生じていた。

『踊れるが小道具の薙刀がない」と、・・・・。大急ぎで手配をし、自宅なのか置屋なのかしれぬが、急遽、取り寄せた。

                          

白虎隊の踊りにつづいて、女白虎隊を踊ってくれた。三味線と唄の大姐さんは、あの時のカルタ姐さんのように客あしらいが上手で、我等を上手く乗せてくれる。マッチャンも、HOYA兄いも、NAKAMUAR大将も楽しげであった。

                   

頃合いを見計らって、私が気になっていることを訊いた。すると・・・・。

「火傷あったといえば、トモエさんだね。亡くなってから十年近く経つかな」との言葉が・・・。亡くなるような歳ではなかろうに・・・、と思いながらもそれ以上のことは聞けなかった。

「カルタ姐さんは、亡くなってから三年近いかも。体調が悪いからと病院に行った翌日に亡くなったの」とのことだ。丸々した、踊りを見せてくれたこの姐さんは、殊の外、カルタ姐さんに可愛がってもらったと目頭を濡らしながら、亡くなった前後のことを語った。

「姐さんは、ぽっくり逝きたいと言ってたの。お腹が痛い、黒い便が出ると言ってたけど、風呂に入って温まると治ったとか言ってたけど。また痛くなって、病院に入った翌日に亡くなったの。」

「姐さんは卵焼きが好きで、作ってやったの。私も姐さんが作る、小豆餅が好きで作ってってお願いしたのよ。亡くなったて聞いて家にいったけど、人前で涙流すのもと・・・・台所さ行ったの。そしたら小豆が水に浸けてあって、姐さん約束を守って作ってくれようとしたんだ・・・、そしたら涙、止まんなくなって大泣きしたんだ」

人の生き死には辛いものがある・・・・。消息を尋ねた姐さんも、二人とも亡くなっていた。会うが別れの始めと云うが、吉田さん、そして姐さん二人と、会津の灯が消えたことを知る夜となった。

カルタ姐さんは、初めて会った時は五十代末だったのか、享年八十六歳だったそうだから。席を同じくしていたKATUTAは、オカルト婆さんとか言ったが・・・・。十五年前、風呂上りだと駆け付けてくれた姐さんの律義さが甦るよ。

トモエさんが色恋沙汰から油を被ったこと、男と女の出来事。杯を重ねながらそんな話を聞いたのはついこの前のことのようだが。吉田さんはそんなことを承知で、座敷の声を掛ける。そんな優しい漢だった。外は、台風とともに雨が風が、強よくなってきたようだ・・・・。

 

 

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

風雨をついて会津・鶴ヶ城攻め

2017-10-24 | Weblog

10/24(火) 日・月と人形町パトロール隊のオジサンたちは会津攻めの旅を決行した。決行と云う、決意・悲壮な言葉には意味があるのだ。秋雨前線と台風の影響で降りつづく雨は、出発当日も明け方からザアザア降り。挙句に台風が両日に渡って直撃北進の予報だった。

そんなことから、幹事のマッチャンはキャンセルして延期を画策するも「決行すべし」の声に押されて、慌てて再予約の連絡と、大慌ての目にあったのだ。宴会・芸者、但し「女白虎隊」を踊れる芸者が条件と、面倒な手配であった。

そしてメンバーのNAKAMUARA大将は、戊辰戦争の西軍側(官軍なんて言葉は使わないのだ)、肥前鍋島藩を本拠とする佐賀出身ときている。それを出撃前から気にしていた。一方の小生は、土佐の出身であるが、百五十年も昔のことなんぞは些かも気にしない。

午前八時、それぞれの思い ― マッチャンは初芸者遊びへの期待だろう ― を胸に、東武特急「きぬ107号」鬼怒川温泉行のコンパ―トメントに陣取ったわれらの電車は、雨降りしきる浅草駅を発ったのである。二時間ばかりの乗車ながら、個室をとっていたのだ。終着駅となる鬼怒川温泉で会津鉄道に乗り換え、会津若松12:02分着の四時間の電車行である。

マッチャンの保冷バックには、缶ビール・酎ハイ・ハイボールがぎっしりと詰まっており、発車早々から宴会気分満開となったのは云うまでもない。加えて、HOYA兄いは百均で探してきたという、スマホの増幅置台を取り出し、ユーチューブから白虎隊の歌を流して旅情を盛り上げる・・・・。

会津鉄道に乗り換え、暫くすると「大内宿」に寄ろうと言い出したのはHOYA兄い。この旅の計画が持ち上がって以来、言い続けていたようだが、『藁屋根の観光宿場で、土産物と蕎麦屋だけの、あんなつまんないとこないぜ』と否定してきたが、どうしても行きたいようだ。カミさんと喰った、一本ネギで食すネギソバの味が忘れがたいようだ。

兄いの要望なら致し方ないと、湯の上駅(この駅も藁ぶき屋根なのだ)だかで途中下車、雨の中を十五分程タクシーを走らせたのである。駅舎の横に「足湯」が設えてあり、数人が足を浸していた。

                            

                          オヤジがお嬢さんに…誰だ! 

すっかり寂れていた宿場を観光用によみがえらせたと、見え見えのこの家並と、土産物と食い物屋だけで、生活の匂いがしないのが面白くない。私にとっては!。以前、昔の職場仲間と芦ノ牧温泉に遊び、帰路ここに寄ったことがある。トッツキに在る神社?だかの高みから家並を眺めたが、面白味を感じなかった。

                     

とは云いながら、蕎麦と摘みは旨かった。ネギを箸代わりにソバを掬い喰いして、ネギを齧った。燗酒は甘ったるくて不味かったが・・・・。

             

車窓から見える木立は、紅葉には少し早い時期と思えた。

                         

 雨中の会津若松駅に着き、まちなか周遊のバスとやらで鶴ヶ城に向かう。台風接近ながらも、観光客が大勢いた。昭和四十年に再築したと云う、五層の城中を歴代の城主・藩主の歴史を辿りながら天守の展望層まで上がった。街は雨に煙っていた。

                   

城から「武家屋敷」を見物の予定だったが、疲れたから旅館に行こうの声が・・・・。雨中行軍はオヤジにはきついらしい・・・。東山温泉「くつろぎの宿 新滝」に入ったのである。このつづきは、明日

 

で、今朝の弁当となるが、今日は一つだけ。

鶏肉と筍の「炊き込みご飯」にした。筍は今が時分の四方竹である。これを使いたいがために、四方竹と鶏肉の炊き込みご飯にした次第だ。具は、四方竹と鶏肉、笹掻牛蒡・人参・薄揚げ、昆布を敷き、酒・塩・醤油・白出汁を少々加えた。

菜は簡略し、鮭焼きと四方竹・エリンギ・ベーコンの炒め物、板蒲鉾、小松菜の胡麻炒め、卵焼きであった。出来栄えは・・・程々だったとしておこうか・・・・。

                      

 

 

 

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

草臥れた・・・

2017-10-21 | Weblog

10/21(土) 17日から、ベッタラ市が終わった昨日20日まで、流石に草臥れた。草臥れたと云うより、疲れ果てたの方がピッタリかも・・・。

何故これほど疲れたかというと、左足の甲部の痛みと、前々からの右膝の関節痛に原因があろうだろう。買い出しや仕込みで立ちっ放しがつづき、足への負担が増えた。短足ながら具合が悪い我が両足は、、腰や体のバランスをとれずに疲労を蓄積するばかりでだったのであろう。

ベッタラ市の終わった昨夜の撤収は、友人からの誘いを口実にスタッフに任せてエスケープした。帰宅が連夜、零時と云うのも披露の一因であろうが・・・・。

兎も角、疲れに疲れた今年の「ベッタラ市」だった。初日は雨が降りつづき、昨日は午後から上がった喜んだのもつかの間、人出の最盛期を迎えた七時ごろから雨が・・・・。そんな祭りだったが、今年も参加できてよかった。これも、頑張ってくれたスタッフ、AOKI/YOSHIO/FUJIKURAのお蔭であろう。

                       

安田川の鮎は、両日で80本ほども焼いたか。猪汁・鍋も相当用意した鮎も猪も、食した方々からは好評であった。清酒「南」に「安納芋」も大いに掃けた(売り上げに繫がるかは?、ながら)。食材を整えてくれた妹夫妻や知人に感謝である。

                        

友人・知人にパトロール隊、娘たち家族も遊びにきたので、疲れたとは云えよしとすべきの二日間であった。

 

斯様な日々、お疲れお日々であったが、弁当作りだけはつづけていた。執念のようなものだな・・・。メニューは省略するが、その弁当の姿だけでも紹介しておこう。

                     

 

明日から会津への小旅行だが、雨と台風の接近で難儀するだろうと思われる。それも、オヤジ達の旅には一興かと、決行するように進言した。

浅草から東武線で日光を経由して会津に入り、東山温泉で一泊。帰りは、JRで東京駅まで戻る予定になっている。パトロール隊・四人オヤジの珍道中や如何に!、である。

 

 

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夏から冬に・・・

2017-10-17 | Weblog

10/17(火) 帰郷した先週の木曜日は、気温が28度もあった。汗を掻いて羽田に向かい、「こりゃ~堪らんぜよ!」と、高知言葉がでたほどだった。帰京する昨日の月曜日は、東京の気温が10度以上も下がる予報が出ていた。されど、行きと返り、どっちを考量した服装にするか?それが問題だった。

冬場にワイハに遊ぶ、そんなことがあればだが。同じように悩むことだろう・・・・・。悩んでみても仕方がない、軽快な服装を選んだ。半袖のシャツに、裏地なしの麻のジャケットと云う格好だ。郷里に着けば、夏・冬いづれの服も置いてある。軽装を旨とするので、往復にはショルダーバックと土産の入った紙袋しか持たないのだ。

昨日の帰路、行きはよいよい、帰り怖いの言葉通り寒かった!。実家から空港までは、妹夫妻が送ってくれる。高知も土曜日の夕刻から雨、機窓から見る景色は雲と霧ばかりで、羽田空港も霧と雨に煙ぶっていた。電車から降りると寒~い、震えちまった。分っちゃいたが、身軽を選んだツケがいっきに来たのであった。

退社後、ローカーボからちょっぷくと、何時ものコースを辿ったが。寒かったねぇ~、数日前から風邪気味だったが、咳が酷くなったようだ。されど、かぜをひいている暇はないのだ。今日から「ベッタラ市」の準備と本番。つづいて日・月と、人形町オヤジ面々との会津旅が待っている。ここは「気合だ!気合だ!』で、乗り切るしかない。と、我がボロボロの体と精神に言い聞かせた・・・・・。果たして結果や如何に!。

そして今朝、睡眠不足の目を、赤い目―日曜日の朝、目覚めて冴えない顔を鏡に映すと、右目の半分、濁った白目が真っ赤か。夜中に血管が切れたのか、見事な真っ赤に。未だ赤いままだ。― をこすりながら起床した。

今朝は築地市場で、ベッタラ市で使う食材を買うことにしていた。スタッフのAOKIを同伴して、やっちゃ場で笹掻牛蒡・人参・四方竹などを仕入れる。その前に弁当を作り、何時もより早く家を出なくちゃならないのだ。

弁当メニューは全くの白紙。台所に入って冷蔵庫を物色してから決めた。「牛切落としとタマネギ&シメジの炒物」、鮭ハラス焼き、野菜系は「茄子・オクラ・菰ダケを湯通ししてからソテー」、蒲鉾、以上となった。

             

取り急ぎ、月曜から今朝にかけてのレポートを簡単ながらした次第。郷里の様子は別稿にて、お知らせする予定。

一つ報告すると、あの安田川の「天然鮎」を、沢山貰ってきた。妹の亭主、同級生でもあるHIROKATUが、日々シャクリ漁で獲ったものが大半だ。ベッタラ市で焼きますよ・・・・・。

 

 

 

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

モナリザ会

2017-10-11 | Weblog

10/11(水) 昨日の夜、月例の異業種交流会「モナリザ会」が銀座のカフェ・モナリザであり出席した。この夜は、何時もより参加者が少なく、且つ女性メンバーが皆無だった。何度か会には参加しているが、小人数と女性がいないのも初めてであった。

参加者が少ないと云うことは、ゆっくり話が出来る。男同士であればかなりきわどい会話も遠慮なく出る。そんな雰囲気で、某会員からは資産形成に至った極めつけの話が出たが、その内容に触れるのは止そう。品のない商売のこと由。

国政選挙の公示があった日なので、当然選挙のことに及ぶ。主催者のTAKAHASHIさんは、議員秘書から区議に転出して長く務めた。区長選に出馬して敗れたが、政治絡みのことは詳しい。当人によれば、今回も女性党首の某政治団体から出馬の打診があったとか・・・・。

                    

そんなことも含め、今般の選挙の動向や地元中央区から出馬した鳩山家惣領の出陣演説など話した。日本橋からスタートした集会には、女性党首も壇上に立ち、聴衆は二千人に及び、その人気に陰りがないと感じたそうだ。然し、素人同然の新人や寄せ集め集団で本当の政治が出来るのか、些か不安や疑問を持つのは小生だけでなかろう・・・・?。

TAKAHASHIさんは、故鳩山邦夫代議士の秘書だったので、その惣領を応援するのは理解できる。が、遠慮なく『政治家の資質はあるの?』と、訊いてしまった。これ以上の会話は、差し障りがあるといけないので省略する。

九時過ぎに会はお開きとなり、人形町に舞い戻った。銀座に出掛ける前に「ちょっぷく」に寄り、佐賀から上京したNAKAMURA大将に忘れ物のカバンを渡し、一杯だけ気付にワインを飲んだ。出掛ける菜に、YAMAちゃん店長から「戻って来るんだろう~」と、言われていたのだ。とはいえ、最初に向かったのは「ローカーボ」だった。

「ローカーボ」の窓越しに店内を覗くと、AOKIとHOYA兄い、マッチャンの姿があった。止り木の店が暫く開けるとと云うので、何時ものメンバーが勢揃いしていた。ハイボールを飲りながら、次週に迫った会津行のことや、ベッタラ市の話題となる。

会津・東山温泉の旅館の手配や、足のことでマッチャンが奮闘した。宿も芸者も、行き帰りのルートも漸く固まり「ご苦労様」である。

HOYA兄いと二人、先に失礼をして「ちょっぷく」に寄る。白ワインをやりながら、いつもの与太話で〆た。帰宅は零時前であったが、車中では本を開いたまま眠りこけていたようだ。何時ものことながら・・・・・。中目黒駅が終着なので、必ず起こされる。起こしてくれるので安心して眠れる次第

 

さて、今朝は弁当を一つ作ってから築地市場へと出掛けた。明日から帰省するので、鮭を欲しがる従姉の為に送る。鮎や猪の手配を頼んでいることもあり、バーターのようなものだ。今年のベッタラ市でも「猪汁、猪鍋、鹿串焼」と、ジビエと銘打った品を出す。今回の帰省で、冷凍保存してあるその品を送り、清酒「南」を注文してくる。そして、今年最後であろう畑の草刈を予定している。天気の方が心配されるが・・・・。

今日の弁当は、「焼き肉」にソテーした野菜を添えたものがメイン。そして「茄子と茗荷の酢味噌和え」「ブリの照り焼き」「刻みネギ入りの出汁巻卵」となった。

                   

残った菜をホッカホカのご飯で頂く。旨いが、これじゃ体重が落ちない。痛む膝への負担がのしかかる・・・・・、悪循環と云うのは、このことかだ。田舎に帰って、またまた飯を喰う日々だ。男はつらいよ

と云うことで、明日から月例の帰省となる。帰京は月曜日の夕刻を予定。帰京の翌日から、ベッタラ市に向けた仕込みがスタートする。何が本業やら?????だぜ。本業は、夜の酒場廻りかもネ・・・

 

 

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする