12/31(木) 後、三時間弱で令和二年が終わる。新しき年に向けての希望も夢も語るべくもない身である。で、今年を振り返れば山里での穏やかん日々しかない。
この一年、コロナ騒動で帰京の予定などが全て潰えた。親しき友人・後輩のみならず、先輩の葬儀も墓参も叶わずに幕が下りる。せめて今宵、逝きし友人たちの在りし日々を思い浮かべ偲ぶ宵にしたい。
ゴルフや酒場(彼は下戸であったが)、ジュニアバレーボールのことと深い交流をした、地元・学芸大学の山田正明さんと最後に顔を合わせたのは東京去る晩夏であった。隣駅の銀行まで行こうと一駅を歩き、駅に近い路上で偶然に出会った。肺ガンで闘病しており暫くぶりであった。駅前で奥様ともどもお茶をして暫し話を聞いた。既に覚悟はされていたのであろう。家族会議をして段取りをしたとのことであった。弱弱しくも笑みを浮かべながら語っている、彼の最後の姿が残っている。
土田征雄君とはサラリーマン時代に知り合ったが、偶々大学の後輩でもあった。若い頃はバトミントン選手として世界で戦ってきた彼が、サラリーマンとして通常の業務に戻り、私が出向していたグループ会社に来たのはスポーツマンとしての経験を期待してのことであろう。そんな彼も慣れぬ世界で苦労は絶えなかった。ユーバ杯と云うバトミントンの世界大会が東京で開催されることになり、バトのことは無知な私が営業部長、ディレクターは彼でが当であった。彼の知名度とネットワークで協会のお歴々訪問、会議で援けられた。酒席を共にすることは稀であったが、ゴルフだけは随分一緒した。
その彼は、すい臓がんを患いながらも職場復帰した。が、肝臓への転移もあって入退院を繰り返した。そんな中でも弱音を吐かなかった。
彼のことが気なり電話をしたら「ゴルフの帰りで車の中ですよ。元気にしてなくちゃとゴルフやってます」と応え、運転は私の旧知の方とのことであった。自分を鼓舞するためか、ゴルフは最後まで止めなかった。この時が彼との最後の会話となった。
今朝、朝食の準前にTVをつけていた。すると島倉千代子の「東京だョおっ母さん」の紹介とともに宮城前から二重橋の映像が流れた。その映像を見て、在りし母の手を取って二重橋前を歩いたことを思い出した。あれは十年程前のことになるか、その頃既に母の足はおぼつかなかった。耳は遠くなり、足は覚束ないながらも出歩くのが好きな母であった。
本を読んでも映像をみても、行ったことがるとそのシーンに自分の姿を写してしまう。そしてその時の景色が甦るのだ。過去に生きる、そんな年齢になったと云うことか、・・・。「悲しむことなかれ 過ぎ去りし日あればこそ 今在りし」か!。
では諸兄姉、来る年が好き年となりますように。