オヤジの弁当箱

日々の手作り弁当だけが生甲斐のしょぼくれオヤジ。弁当メニューと併せて日々の雑感を付記。

平成最後の日に・・・

2019-04-30 | Weblog

平成31年4月30日(火) 今日、今上陛下が退位された。明日、新天皇の即位と新たな元号「令和」となる。その節目の日となるのでBLOGを記すことにした。

我が過ごしし平成の時代を振り返ると、サラリーマンとして管理職となり昭和天皇崩御と平成の時代を迎えた。そしてバブルとその終焉、日本経済の長い低迷を過ごしたことになる。

平成の世の半ば、サラリーマンを辞めて遅まきながらの転職。今上陛下の退位が決まった昨年末に、私も会社人生に終止符を打った。

三十年に渡る平成時代を振り返ると、自身にも様々なことがあるが、とりわけての出来事は平成元年、まだスタートした月に従弟の武本 章を失ったことである。クモ幕下出血で冬の朝に逝った。実の弟のようにしていた彼を亡くしたのが、平成最初の出来事であった。

それからの平成の御代三十年、過ぎてしまえばあっという間のことだが、経済的には興隆から低迷へと転変したこの国が戦もない時代を経たことは慶事と言わざるを得ない。自身にとっても、なんとか山谷を越えて勤め人としての人生を終えた。

そんな平成の時代が終焉したわけだが、そんなことの感慨に浸っていてはこれからの余命を生きるに情けない。さりとて、未だに先行きが定まらず。ただただ、日々の、目先の予定をこなしているのが実態である。

我、行かん。その気概だけは捨てずに「令和」となる明日から、新たに歩めれば好である。

余談ながら、たまたま今日は家族でBQを行う日であった。雨の予報のために屋外への遠出は避けて、結局は我が家に全員(13人)が集合して開催となった。雨を避けて玄関先に焼き台を置いてのBQ、にぎにぎしく一日を終えた。全員が揃うのは、年末のクリスマス会と正月二日ぐらいか。

例年であれば、その二回とも私は郷里で過ごしてきたが、両親が彼岸へと渡りその必要もなくなったことと、連休中に病院でCTを撮ることになった。また、店舗賃貸の行方が不透明なことなどで東京で過ごすことにした。

実家の庭の改修をこの連休でやってくれることになった。任せ放しで恐縮だが、妹夫妻に委ねた。来月の半ばには東京での諸々が見えるであろうから、一週間ばかり帰省の予定である。

 

 

 

 

 

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大型連休に入り・・・

2019-04-30 | Weblog

4/29(月) 世間で十連休と騒ぐ大型連休に入り、今日は三日目となるが素浪人にとっては何日であろうが関知するところではない。さりとて、家人や家族にとってはそうでない。そんなことで、素浪人も些かの関りを持たざるを得ないのだが・・・。

家人の方は日曜も休日もなく仕事に出ている。今日は、家人の処で働くようになった長女も出勤するとのことでサンドイッチの弁当を作ることになった。スタッフも一人、出勤するとのことなので簡単なものだが三人分のサンドを用意した。

貧乏オヤジは食パンの耳を落とさない・・・耳なしホウイチにはしないのだ(昔話を知らなきゃ意味不明、可笑しくないか)。

               

弁当のことはさて置き、夕食の準備も居候のような私が作ることが多い。金曜日や土曜日のように外出した日はに無理だが。昨夕は、筍や茄子を天婦羅にし、筍の土佐煮、筍ご飯と在庫の消費に努め、土曜日の蕎麦打ち会で打った蕎麦を茹で、夕食を用意した。

今朝は根菜の煮物を、今夕は親子丼と鶏唐揚げ焼き魚などを準備し達た。まるで飯屋のオヤジのようだが、こんなことでもしてなければ間が持たないのも事実・・・。

 

連休前夜の金曜日、YOSHIOから連絡があり意見を聞きたいとのことで人形町に行ったのが午後四時。話を聞いてから、五時半前に五反田の居酒屋「蔵や」でUSUI老と落合った。「蔵や」に入るのは何年ぶりか?、それほどの顔だしであった。

この店の店主が狭い厨房の中を動き回って作る摘みの数々が凄い、美味い。美味くて安いときているので狭い店内はすぐに満席となる。我らが席を取った後も、常連さんや予約で席は埋まった。女将さんの仲立ちで隣に座った常連とも会話がはずみ、味よし客よしで、楽しく愉快なひと時を過ごしたのであった。

              

店の手洗に入ると、壁の棚に飾った生花が瑞々しくて綺麗だった。思わず手を触れた、余りにもきれいで瑞々しかったので。女将さんの細やかな心遣いが伝わる。

                 

ほろ酔いで「蔵や」を後にし、二人して人形町に戻り「セイジュ」へ。月例のセイジュ会をママさんが入院して不在ながらも継続であった。何時ものメンバーが揃い、婆さんママの快気が何時のことやらと、勝手な談義をしてカラオケに興じてひと時を。

最後に閉店札の下がった「高松」に行って金魚割を飲み、仕上げの小蕎麦を食して帰宅した次第。

               

 

連休に入った土曜日、NPO・日本橋粉の会が主催する「蕎麦打ち会」のある日であった。ちょっと遅めの11:30に行った。遅めに行くのは私の常だが、早めに行っても一斉に打てるわけじゃなく、最後の人が終わってから始まる懇談会にも参加するので遅く行く次第。

            

捏ねから延ばし、切りから茹で方まで師匠連が丁寧に指導してくれる。ここで作る蕎麦は二八蕎麦と呼ばれる、小麦粉二、蕎麦粉八の蕎麦である。この日は、師匠が打った桜蕎麦も懇談で頂いた。

たまに行っても上達しない!、回数をこなして慣れるしかないようだ。同じ蕎麦粉を使いながらも打ち手によってこれだけ味が違うかと、師匠連の打った蕎麦でも味が違うのが分る。蕎麦を食し、懇談のビールや焼酎を飲みながら、鎌倉から来てると言う隣に座った師匠の話を聞く・・・、これがまた楽しい。

この日は、午後四時半に後片付けを終えてお開きとなった。、丁度いい時間であった。と云うのも、この土曜日はUSUI老の誘いで焼肉を食べに行くことになっていた。五時半に堀切菖蒲園駅で待ち合わせだった。

人形町駅から都営浅草線の青砥駅で乗り換えて堀切菖蒲園駅に着いたのは、待ち合わせ時間の十五分前と頃合いであった。駅に老と、AOKI君が既に居た。彼らは一時間も早く着いたとのことで、駅から至近の菖蒲園に行ってきたとのこと。

             

駅前の通りを渡ってすぐの「牡丹峰」なる焼肉店が老のお勧めの店で、老の案内でこれまでに二度来ている。然し、わざわざここまで来るほどの意味は?ながらも、老の誘いならば如何ともしがたい。

他に二人、老が誘った五反田の整体店のオーナー姉妹が来るとのことだが遅れていた。私とAOKIは先に店に入り、始めた。カルビやハラミなどバンバンと注文し、マッコリを飲みながら・・・。全員が揃う前に満腹。蕎麦打ち会で飲み、摘み、蕎麦まで食し、さらに焼肉までだ。過食だねぇ~。

 

連休の初日から飲&食でスタートとなった。二日目、三日目も自分で作り食事量が増えている。おまけに明日は、家族のBQ会である。雨は間違いないので、我が家か長女の家でやることになったが・・・。明日の雨の状態でどっちにか決めるそうだ。どっちでもいいが、子供達を入れると十三人だぜ!煩いだろうね!。

こっちは、過食に気をつけることにしよう!。

 

 

 

 

 

 

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平成最後の週末・・・

2019-04-26 | Weblog

4/26(金) 四月最後の週末、金曜日。平成と云う年号では最後の金曜日&週末になるが、だからなんなんだ!と、言われりゃそのとうりで何んの意味もないか・・・。昨日は最後の木曜日、明日は最後の土曜日と云う次第だから・・・。

大方の勤め人は明日から大型連休に入り、日頃のプレッシャーや疲れから心身を解き放ちて英気を養うことであろうが、こっちは日々が連休だ。頭も体も解き放ちならぬ溶けたような状態だが、それでも十連休などと聞くと、中小零細の事業者の収支が他人事ながら心配する。零細会社の経営に携わってきた貧乏根性が未だ抜けない由にか!。

斯様なことはさて置き、今朝の貧乏オアヤジの弁当について紹介する。

今朝は牛ステーキ(豪華?じゃなくて安いオージービーフさ)と、ホタテ&ホウレン草・シメジのバターソテー、卵焼きに辛明太子と云う塩梅である。炊き立ての飯に明太子はよく合うが、昼にはどうかなと思いきや、弁当を食す家人と長女からは絶賛された。

          

この辛明太子、四月から取り始めた〒パックのふるさと便で届いたものだが、期待もしていなかったが好評でよかった。田舎の〒局長から勧められて初めて取り始めた次第だが。何しろ〒の局舎は、母が亡くなってからは、僅かな年金しかないであろう妹の名義にしたが賃料を頂いている。出来うる限りの協力は吝かでない。

余談が長くなったが、今日の弁当は旨そうだ!特にホタテ&ホウレン草が良い。ホタテが極上品(頂きものだが)の上に、バターソテーしたホウレン草とシメジにマッチしている。自画自賛!。

          

かくして、二人分の弁当を作り終えて今朝の遊びが終わった。

            

が、今夕は五反田の「蔵屋」なるご亭主と女将さんで切り盛りする居酒屋にてUSUI老と一杯やり、そこから「セイジュ会」のために人形町に行く。今夜は3~4軒廻ることになりそうだ・・・。

「蔵屋」は五反田・有楽街のはずれ角に在る、狭くて小さな古家の店ながら、ご亭主の作る肴が絶品ながら安い。以前は在籍した古巣で取引先でもある某社の面々とこの店でよく飲んだ。USUI老もこの店の常連だったが、先週に久しぶりに顔をだしたら女将から私の話が出たそうだ。となれば顔を出すしかないが、人気店なので予約をしないと危ないと、老が今夕と決めた次第。

明日から十連休みだ?今夜はゆっくりと遊ぼう!。 こんなに顔にならぬ程度に!。

 

 — 思い出酒場 ④ —

このテーマでは、お世話になったり社会人としての在り方を学んだ酒場の思ひでを記している。お店や経営者がなくなり、或るいは音信が途絶えた方との酒場での思い出である。前の三店は年若の頃からの順であったが、そういう点から、今回は、どの店の思い出を記すか迷った・・・。店・人との出会いは前後するが、今回は新橋に在った店「パンドラ」について・・・。

その店の女将(ママ)の名を、私はオタカさんと呼んでいた。未だ新橋・烏森口の西側に戦後まもなく建ったような間口1~2間の小さな居酒屋が林立する一角があった。当時の上司に連れられて、常連らしき一軒の店に行ったのが知り合うきっかけであった。

オタカさんは、その店のオーナーの知り合いとかで手伝いに入っていたと、後に知るが。この辺り一帯を区画整理(地上げ)する話が進んでおり、その保証金目当てで店は続いていた。未だバブル序章の頃であったろう。

当時の上司二人がお酒大好きな方で、飲みにでるのはいいが企画担当であった私は何度か付き合う運命にあった。飲んで帰ってくれればいいが、会社に戻って泊まることが間々。そんなときは私も会社に戻り、上司の布団を用意してから終電かタクシーで帰宅する。最後は馬鹿らしくなって付き合うのを止したが・・・。

初めてその店に行ってから2~3年経っても未だ店みせは残っていた。が、私は遠ざかったままであった。通信局で係長をやり本社に戻ってから辺り一帯の店が立ち退きはじめた頃、近場で飲んだ二次会に、久々に顔を出したら店はオタカさんが一人でYAやっていた。間もなく立ち退き、烏森口でスナックを始めるとのことだった。

その店が「パンドラ」という名のスナックだった。何故か分らぬがオタカさんは私を気に入ってくれていたようだ。当時の上司に私を連れてきてと言ってたそうだが、そんなことは聞いてないし、居酒屋で飲む習慣もなかった頃だ。

「パンドラ」には当時の部下や知り合いを連れて顔を出すようになった。何時も学割?にしてくれていたようだ。在籍した会社の株主総会後の打ち上げに、社長や取り巻きが使ったこともあったようだが、店は繁盛しなかった。結局、烏森小学校の裏手に店を小さくして移った。前の店の半分以下のスペースになっていた。

私の当時の勤務場所は日比谷、日比谷から新橋は指呼の間なので友人や部下を連れて飲みに行くことが多かった。当時の手下たちもお世話になったことだろう。すでにバブルが始まっていたのだろう、こっちは、銀座・赤坂・六本木と飲み歩くに忙しかった。お財布の方も忙しかった時代である。

私は品川に転勤となり、パンドラに顔出す機会が少なくなった。そして間もなく、パンドラは店の幕を下ろした。オタカさんは、店の常連だった客の紹介でデパートの派遣定員になったと連絡を貰い、一度だけそのデパート日本橋・高島屋に訪ねたことがある。元気そうにしていたが、その後、音信は途絶えたままになった 。

店をやるのは難しいものさ、そんな例を幾つもみているが・・・。随分と気にかけてもらい、よくしてもらった。なんの手助けも応援もできなかったことが残念である。元気にして生きていてほしいと願っている。

 客の姿がない折に聞くのは「ARIさんはサラリーマンじゃない方がいいよ、自分で商売やった方がいいよ」の言葉が口癖のように出た。そんな言葉を聞いてから、随分と経って自分で会社をやってみたが大したことはなかった、出来なかったよ・・・。

『オタカさんの眼鏡違いじゃないかい』と、会えば云えるのに・・・。ついぞ、パンドラの箱を開けることはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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豆ご飯

2019-04-25 | Weblog

4/25(木) 今日のご飯は「豆ご販」にした。昨日の午後、郷里の従姉から茹でた筍と茄子・ほうれん草・青豆などが届いた。先日は妹から筍が届き、ここ数日は「筍ご飯&煮」などがつづいている。そこで、今日は「豆ごはん」にした次第。

この時期、筍やグリーンピース、鯛と季節の食材を炊きこんだご飯や、菜を作るのが常である。季節の三部作、筍ご飯、鯛めし、そして豆ご飯の登場である。

食材の好き嫌いが激しい義母も、炊き込みご飯だけは何を作ってもよく食してくれる。

「豆ごはん」を仕掛け、胡瓜の酢物、ホウレン草の胡麻和え、などを作るが、メインの菜は「トンカツ」であった。フライついでに茄子もフライにしたが、義母は茄子もネギも(青魚も)苦手か箸を付けないけれど、そうそう気にもしてられない。食べないことには、頂いた食材を駄目にするだけだから。

           

昨日の夕、外出する前に「筍と若布煮」「茄子の煮びたし」を作ってから外出したが、茄子の方は家人が食しただけであった。

                   

豆ご飯の炊き込みように使った昆布は、砂糖醤油で佃煮風にして弁当に入れた。貧乏オヤジは、捨てることができない質なのだから。ビールの摘みにもするが、今朝はビールを飲むのは控えたから、弁当の口直し用になった。

            

 

昨夕、渋谷「奈加野」に行って生ビールを飲み店主と雑談、従弟が送っているコメ代金を回収してから人形町に向かった。茹でタケノコを食べきれないので、HOYA兄いにお裾分けと云う次第だった。

「ちょっぷく」で合流し、居合わせたマッチャン女史(セイジュのママが入院中で、店を頼まれている)からママさんのことや、店の状況などを聞きながら暫し歓談。ママの復帰は、早くても六月末か?或いは七月になりそうだ。然し、ボランティアで長期に渡り夜の仕事を引き受けるとは、見上げた性根である。『店仕舞いの時間をはやくしなよ。体がもたないよ』と言ったが・・・。

我らは「高松」へと向かったが、途中のラーメン店のカウンターに見かけた顔があった。TAGOッチが相客が居ないカウンターの奥でスマホを弄りながら飲んでいた。兄いと二人して、入り口のガラスドア越しに暫く眺めてると、漸く気付いて「イヤだ~」とか言いながら出てきた。

「俺たちはこれから高松へ行くんだよ。来なよ」と兄いが誘うと、「行きます」との返事が。高松で飲んでいると、TAGOッチは姿を見せた。然し元気がない。彼女はアニメソングの歌手を志し、レッスンなども受けていたが、最近は行けてなと言う。

かつて彼女は、ドトールでチーフをやりながら、夜は高松でバイトをしていた時期がある。が、すぐそばにある会社に転職したのを契機にアルバイトは禁止になった。聞くと、この頃、休日勤務や残業がなくなり、収入がへこんだそうだ。『俺なんか、年金暮らしだぜ!、元気出せよ』と励ますものの・・・・。

「高松」で終いまで飲み、店を出しなに「次は何処へ行くの?セイジュ?」と女将が問う。そうだね、と、応じると「後から行くから」とのこと。てな次第で客の姿がないセイジュで、マッチャンを相手に二人してカラオケ。水曜日は客足が遠いとのことだった。

実は前夜もが短時間ながらセイジュに寄っている(セイジュ会用に4ℓウィスキーを届けに)。ばかりか、高松で後輩のTAKAHASI君の放免祝い(無事に会社を完全退職できた)をUSUI老を交えてやり、ちょっぷくにも行ったのだ。連夜して同じパターンであった。

女将とタゴッチが連れだって姿を見せ、カラオケの続きとなった次第である。マッチャンに店を早く閉めるようにしたらと云った舌の根も乾かぬうちに・・・。帰宅は零時に数分前だった。駅を出ると小雨がつづいていた・・・。

                

 

 

 

 

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筍三昧

2019-04-22 | Weblog

4/22(月)曜日の感覚が薄れてきた。さっきまで今日は日曜日のような気分でいたのだ。素浪人生活も長くなってきた、致し方のないことかもしれない。それでいながら、今度の十連休なんて話をきくと、世の中どうなるんだと心配するのだ。

ただでさえ、勤労時間は短くなる一方でありながら生産性が向上したなんてことは、少なくとも我が身辺では聞かないし、実感がない。それはそれで良しとするならば、インフレにしようなんて政策はお門違いじゃねぇだろうか?。

物価が上がるなんてぇニュースで、マスコミはしのこの書くが、政府のインフレ政策に立てつかないで物価の値上がりで生活が苦しくなるなんてぇことを言っちゃいけないと思うのだが・・・。インフレにしようてんだから、物価が上がるのは当たり前のことだ。

こんな世迷言を記すのも、なんの生産性もない素浪人故かな。零細企業での勤めが長かった挙句の素浪人としちゃ、長い休みも、時短時短の掛け声も、インフレも、入る銭とのバランスが悪くて寒さが身に染みる思ひがする・・・。

世迷言はさておき、今日の弁当の話にしよう。今日の弁当は一つだけであった。家人が早朝から、郷里の実家の後始末に出掛けたので、長女用の弁当だけであった。

ご飯も菜も大方は昨夜の残り物になった。「筍の炊き込みご飯」に「エビフライ」は昨夜の残り物である。今朝作ったのは「ジャーマンポテト」「温サラダ」「卵焼き」である。昨夜の残り物の「筍の土佐煮」は、弁当に収まらなかった。

        

弁当に使う食材は粗、自分で買ってくる。由に、素浪人のお小遣いは減るばかりなのだ。この頃は家に居ることが多くなり、帰宅の遅い家人に代わって晩飯の用意をすることが増えた。この食材も自分で買いに行くのだから私的財政負担は大きく、日本国家の財政と同様に国債ならぬ、素浪人債で賄っている現状だ。

子孫に負の遺産を残さぬよう、健全財政に舵を切りたいが、そのためには長~い休みや、ジタンジタンじゃ収益が伸びない。出を抑えるか、収益策を講じるしかなかろう・・・が、これが難しい。国家の財政に同じく!。

食材で助かっているのが、ここんとこ、田舎から筍がよく届く。筍ご飯に土佐煮、若布煮と、筍が食卓に並ぶことがつづいている。実は、今夕も筍の土佐煮、筍の入りの鯛飯なんぞにした次第。小鯛を二枚買って来たので、鯛めしの他に刺身と潮汁にした。明日あたり、今度は従姉から筍が届く気配である。天ぷらとみそ汁の具、そして煮物か・・・。タケノコ天国で、筍責めか!。

ま、余計なことは考えず寝るとします。前夜も深夜の目覚めで、朝までTVならぬ朝まで本であった。下手な考え休むに如かず、と云う。では、諸君お休みなさい!。

 

 

 

 

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料理教室?

2019-04-20 | Weblog

4/20(土)今日の午後、高輪台の住宅街にあるJIN先生宅にてオヤジ達の料理手習いがあった。今月の参加者は三人が欠席し、唯一の女史である写真家のHANAちゃんを加えて四人。OYAJIは、HOYA兄いにNAKAMURA大将と私である。

今日のメニューは、「豆あじの南蛮漬け」「タコご飯」に「ディップソース&ワカモレ」のソース作りであった。今日は手早くできるレシピで「振り返りの食事会を楽しみましょう」とのご配慮であった。

野菜の微塵切りや豆アジを手開きして揚げるのだが、JINパパも一緒になって応援してくれた。早々と料理が終わり、先生はキッチンで我らの摘みや料理を手早く用意して下さる。

           

テーブルに並んだ料理のうち、半分以上は先生と助手のJINNOさんの手による数々。筍ご飯、フグ皮の酢物、茄子&ミョウガの揚げ浸し、茹で豚のニンニク味噌包み、煮凝りであった。

          

何時ものように和気あいあいと冗談や格言、人生論まで飛び交い話題は尽きない。興に乗ったJINパパはマジックまで披露した。写真を撮る写真家を撮ったり、料理を写したりと大賑わいの宴がつづいた。

          

美味しい料理の数々を食べ過ぎて眠くなったが、これは何時ものパターン。最後はNAKAMURA大将のアリガタヤ音頭で締めとなった。何時もながら面倒を見て下さるJIN先生&パパに感謝です!。

           

 

 

 

 

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池袋に遊ぶ・・・

2019-04-20 | Weblog

4/20(土) 昨夜は、KISHIMOTO大兄のお誘いで池袋でひと時を遊んだ。六時半、墓参をすませてきた大兄と西口交番の前で落ち合う。ロマンス通りなる酒場がひしめき合う通りを歩み、最初に覗いた店では予約で一杯と肘鉄をくらう。雑踏を歩むうちに客引きおやじの笑顔にひかれて居酒屋のカウンターに席を得た。

軽く一杯やりながら近況を語り、衰えゆく心身を嘆きあい、行く末を案じるのであった。優雅なる大兄だが、目が、ゴルフのスコアがと悩みもあるのか・・・・・。

そして、目的の酒場「野武士」に落ち着いた。常連の先客が一人だけで、この夜の野武士は静かであった。大兄の酒場友や、かつての仕事仲間の姿はなかった。炉端風に設えた何時もの席に、先客と相席した。

この日は珍しく、家で遅いランチを取った。そんな次第で摘みもとらず、出されたお通しに箸をつけただけである。喉越しに味わいがある赤ワインを飲み、景気づけにカラオケとなる。

大兄の歌う「国境の町」「お雪」を聞き、一段と渋くかつ深味を感じるのであった。私も古い演歌、森進一の命枯れてもや、冠二郎の「酒場」を歌ってはみたが・・・。

                

そんなひと時を過ごし、少し早めながらお開きとなった。すっかり馳走になり、お土産まで頂戴したのは、何時もながらである。只々、御礼を申しあげるのみだ。

帰りは、池袋から副都心線経由で東急線乗り入れの直通。座ったのはいが、池袋では空いていた車内が、気が付けばいつの間や満杯状態・・・。眠っていたのだ!。

学芸大学駅は早やすぎて、自由ケ丘や田園調布も過ぎた日吉駅になっていた。またしてもやってしまった!。電車車で坐すと、こうなるが常となった。日比谷線なら中目黒で起こされるのだが、直通電車ならではの乗り越しである。それでも車中で眠るのはいい気持ちであるが・・・・。

 

今日の午後は高輪台のJIN先生宅で、料理教室である。最近は教室後の振り返りと称する、飲みタイムでも眠ることが多くなった。眠狂四郎とでも呼んでもらうことにするか。五十年に近い我が労働(?)人生の疲れが、一挙に出てきた?と思うことにしよう・・・。

 

 

 

 

 

 

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鮭まぶしご飯

2019-04-19 | Weblog

4/19(金)今日の弁当ご飯は「鮭まぶし飯」にした。この塩気が効いたご飯は、妙に食が進むのだ。菜の方は「鶏唐揚げ」を少々に「茄子みそ炒め」、冷凍シューマイを温め、アスパラとスナップエンドウを茹でたサラダ、定番の「卵焼き」である。

深夜の三時半に目覚め、眠れぬままに朝を迎えた。そんなことで、弁当作りも早くから始めた。メニューは昨晩のうちに考えていたので、早い仕上がりとなったのである。

            

 

昨日の午後、銀座にてT物産社長のOKAZAKI氏とお茶をした後、男二人で四丁目から一丁目と散策した。そして、品川のNTTビルのOBサロンで理事会に出席して監査報告。引き続いて懇談会に参加した。

                 

会食スタイルなので珍しく食事を頂きながら飲んだ。食べて飲む。これが一番苦手なのだが・・・。二次会にもいかず、21時前に帰宅した。たまには、こんな夜もいいさいと。早く床についた所為で深夜の目覚めか?。

 

先日に取材依頼をした伊藤佳子さんから、取材場所について返事がきた。5/10の午後、ご指定の場所にて取材となったが、その際に私も挨拶かたがた伺うことになった。アポ取りをした手前もあるが、先方も久々に会えたらという。取材の邪魔にならぬよう、冒頭にあいさつをして失礼するつもりだが・・・・。

OKAZAKI氏とお茶をしながらこの件を話すと、なんと彼が伊藤さんのテレホンカードをパス入れから取り出したのだ。N社のロゴが入ったサンバイザーを被っている姿であった。帰宅して、うちにもあるはずと、ケースに入った二百枚近い死蔵品のテレカを調べると、三種類で十枚以上の伊藤プロのテレカがあった。テレホンカード全盛の時代、プロの若かりし頃のものである。

                 

懐かしい!としか云えない時代になった・・・・・。

 

 

 

   

          

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人形町に遊ぶ・・・

2019-04-18 | Weblog

4/18(木)昨日の午後、余りにも暇なので人形町に出掛けた。四時、ドドールにてYOSHIO&マッチャンとコーヒーを飲みながら雑談を交わした。五時近くなりマッチャンと一杯やることになった。

店は何時もの「ちょっぷく」で、開店の十分前に入り、口開け客となった。三千円分のチケットを買ったら、一枚おまけになる赤いチケットが二枚出た。十二枚分のチケットで、なんでも三百円の飲物&摘みを取って雑談する。

                   

話の内容は、パトロール隊の次期旅行であった。奈良・長谷寺や湯河原から真鶴半島散策と色々出た中で、マッチャンは「八丈島」に関心を示した。

一言付け加えたのは「島では悪行はいかんよ!、筏に乗って逃げるしかないからネ」と、フィリピンPUBもロシアのネエチャンが居る店もあるよと教えた。通称、親不孝通りと呼ぶ通りがあり、斯様な店があるのだが、入ったことはない。

そんなことを話しているうちに、広い「ちょっぷく」の店内が満席になっていた。常連は気を利かせて店を変えることにした。二軒目は「高松」、ここでNUMATA氏も合流することになった。

「高松」も団体客がおり、一テーブルだけ空いていた。金魚の湯割りやソーダ割を飲んで雑談したが、何を話したのか記憶は朧である。最後にもう一度「ちょっぷく」に寄り一杯やってから帰路についた。

日比谷線終点の中目黒で駅員に起こされた!眠り込んでいたのだ。中目黒が始・終点になってよかったのは、今夜のような状況になった時だ。乗り越しの心配がなくなった。

駅前の東急ストアに寄り、食材と探していたウイスキー、ニッカ・バレル(51°)があったので買った。このウイスキーを置いてある店が少ない。アルコール度数が高い分、美味いんだが、希少品なのだ。

 

そして朝を迎えたが、左側の鼻から鼻水が止まらない!。風邪・鼻炎か?。そんな状況を押し払って弁当作りだ。

今朝は「チンジャオロース」「カボチャ煮」「メカジキ照り焼き」「スクランブルエッグ」である。食材の大半は、昨夜の帰宅時に買ってきたものだ。

             

目玉焼きは、私の朝ごはん用で、これにサラダが付いて我が朝食となる。

          

 

今日の午後は、銀座で友人のOKAZAKI氏とお茶。その後、品川ビルでOB会の監査報告~懇談会である。鼻水が止まることを願う次第。

 

 

 

 

 

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久々の散歩・・・

2019-04-16 | Weblog

4/16(火)今日は午後から予定なし。余りにも暇なので、散歩に出掛けることにした。膝を痛める前には日々一時間~二時間程も歩いていたが、歩けなくなり歩かなくなって何年が経つか・・・。

前によく歩いたコースを辿ることにして、先ずは碑文谷公園から日大プールの脇を抜けて駒沢通に出て柿木坂を目指すことにした。碑文谷グランドの裏手に、柿木坂のゴルフ練習場で一緒になり、そこのゴルフコンペでは車に何度か同乗させて頂いたお宅がある。

そのお宅を目の当たりにして、ゴルフ練習場を訪ねてみる気になった。環七を渡り、柿木坂から八雲へと向かうすがら呑川緑道の緑に誘われて緑道を少し歩いた。ソメイヨシノは葉桜ながら散り遅し花びらがチラチラと舞、八重の桜が盛りを迎えていた。

               

緑道の植え込みには白や青の山野草が咲き、ツツジは一週間もすれば咲き揃いそうに蕾の中から赤や桃色の花弁を覗かせている。爛漫の春、仕事もない私は陽光を浴びながらゆっくりと歩むのであった。川岸を渡るときを待つ人、そのもののように。

目指したゴルフ練習場のあたりに着いたが、懐かしきネットは見当たらない。暫く行き来したら、その場所には高級なマンションが建っていた。無理もないか、この辺りは八雲・柿木坂の高級な邸宅街の一角を占めているのだ。ゴルフ場のオーナーのENOさんは、外人向けの高級賃貸なども手掛けていたほどだし、相続などを考えれば・・・だ。

周辺は十年ほど前に比べても、さらに高級感が漂う街になっていた。時間の流れに感慨を覚えながら、谷地になっている吞川緑道に下りて都立大学駅方面と歩く。目黒通りを越えて、平町の昔住んだ社宅の在った方向へと歩く。歩きなれた懐かしい道を進み、環七に出て信号を渡り、未だに通う理髪店の前に行ったが、残念なことに休みだった。やっていれば散髪、と思ってコースにしたのだが。

桜道と名付けられた床屋のある前の通りを下ると「すずめのお宿公園」がある。ここに立ち寄りひと休みすることにした。公園の入り口に、黄色い花が咲き誇っていた。園内に半分ほどが竹林で、すずめのお宿の由来である。個人が持っていた二千坪?はある敷地を寄付してできた公園である。「死んだらこの土地は国に返したい」と云うのが、ここに住んでいた故人の遺志であったと記されている。

         

 

竹林の地面には筍が顔を出し、大根花か紫の花が一面に咲いている区画があった。ベンチと灰皿があったので、ここでひと息ついた。家を出てから一時間以上が経っていたが、歩みの遅さか?。

 ひと休みして帰路に着いたが、途中に有る尾大スーパー「イオン」に寄り在庫切れの品と夕食用の食材を数点購入した。帰宅すると四時を回っていた。二時間の散歩になった。

早めに夕食の準備をと、すぐに取り掛かった。そんなタイミングで長女から電話が入ったので、夕食に来るように伝えた。

筍ご飯に鯵フライ、手羽元の唐揚げ、筍煮、小ジャガイモの煮つけ、九条ネギの酢味噌和え、てんこ盛りのサラダ、なめこの味噌汁、以上が夕食のメニューであった。飯つくりに始まり、飯つくりで終えた、暇OYAJIのかくも優雅なる一日である。

           

 他にやること、なすべきことが有るだろう!と、言われそうだ・・・。

 

 

 

 

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