オヤジの弁当箱

日々の手作り弁当だけが生甲斐のしょぼくれオヤジ。弁当メニューと併せて日々の雑感を付記。

メダカ稚魚全滅

2011-06-30 | Weblog

6/30(木) 今朝は悲しい知らせがひとつ。犬の散歩から帰宅し家人が「メダカの稚魚が全滅している」と伝えた。弁当作りに専念していた私はガックリ・・・。

親の魔手から逃れるために、バケツの中に隔離してあったがこれが仇となった。ここ何日か暑い日が続き日向に置いたバケツの水温が熱湯のようになったのだろう。ドジナ買主である。

ここの処、成長著しくてもう少ししたら水鉢に入れようかと思っていた矢先の出来事であった。先日、厚みのない金魚鉢を割り半分ほどを死なせ、バケツに入れて育てようとしたが、気の廻らぬ男であった。以前にもこんなことが在りながら・・・。

水鉢のメダカが三匹卵を抱えている、kれを何とか孵化させて育てたいものである。

さて今朝の弁当だが、家人が夏バテか疲れ果て「今朝は弁当をやめよう」などと云う。ここが出番と、「任せなさい」となった。

食材は、生協の配達で昨日届いた「豚肉ステーキニンニク風味味付け」と「冷凍小エビとイカのバター炒め」にシメジとアスパラのオリーブ炒めを添える。煮物がほしいと「インゲンと人参煮」、そして仕上げが定番「卵焼き」。以上となった。

                   

ご飯が炊きあがる40分でお菜が出来上がり完成。何時もながらの三人前の弁当である。娘とK君用には、鳥ソボロをご飯に載せた。

                         

 

 「忘れられた日本人」(宮本常一著:岩波文庫)

この本は、著者の宮本さんが大正~昭和・戦後と日本の各地(僻地の山村漁村)歩いて、古老からの聞き書きをしたものである。その中で明らかにされる村の成り立ち、人々の暮らし、外社会との交流・文化の吸収、地域社会の風土の成立、新集落の成立・・・実に面白い。

地域社会での物事の決まり方、発展への窓の開き方、家族制度と個の関わり、問題解決の方法、東と西の違い、農と魚の違いと実に細部に亘る知恵を含んでいる。

民俗学と云うものは、人間の英知を知る学問であると云うことを「忘れられた日本人」を手にして、初めて知った次第であった。それと、効率性やスピードだけを追う今の世相とは別世界の、物事の決まり方・決め方が新鮮に映る。一読ならぬ、ニ読・三読に価する。

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揚物&煮物

2011-06-28 | Weblog

6/28(火)朝に雨が降ったことを口実に散歩に出ず。弁当を作ることとした。

昨夜、渋谷は宇田川町の名店「奈加野」にて珍しい組み合わせの会となった。顔を合わせた趣旨は「バッハの曲をシンセサイザーで演奏」した音楽家、或はそのCDの売り出しがテーマであった。

残念ながら、こちらは全くの門外漢。音楽と云えばド演歌の世界にしか関心がない。取敢えずはCDを預かり、帰宅してから布団の中で聞いてみた。何時の間にやら眠っていた。眠りの妨げにはならなかったようだ・・・。

誰かこの世界に詳しい、音楽とやらが判る人間に聞いてもらい、第三者評価か意見を聞くしかあるまい。それにしても、この話を相棒の宏さんに持ち込んだ方も?この話に抜け抜けと同席した私も?と云う感じ・・・。音楽の話はさて置き、顔合わせての懇談は面白かった。

さて、今朝の弁当。「小エビの揚物、人参とイカの切れ端」、煮物はこれも冷凍してあった「グリーンピースの旨煮を卵とじ」「冷凍の鯖とタラコ焼」であった。

                     

以上、何の工夫も趣向もない、面白くもない作業となってしまった。夏となり弁当休止宣言をしたが、これが半端な弁当作りとなる一因か・・・。

                       

何時もと変わらず、三人分の弁当にK用にオムスビをおまけにつける。海苔は酢が入った、手巻き用の酢海苔。ちょっと変な味がする。

                         

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散歩と弁当

2011-06-27 | Weblog

6/27(月)今朝は、散歩を済ませてから弁当つくりと大いに充実した(?)朝となった。と云うのも、週末の土・日とも歩いていない、今月の目標kmの達成は覚束ないし、体は重し・・・。

もう一つ、弁当の方だが。昨日の日曜日家人と久々に銀座へと出た。松坂屋の地下の野菜売り場に行くと相変わらず野菜が安い。安さに引かれ弁当用にと、野菜と牛小間を買ってしまったのだ。そんな所為で、気弱なオヤジは責任を感じて弁当作りに興じたと云う次第。

何しろ、今朝は四時ぐらいから目が醒めていた。何だか歯切れの悪い夢でも見ていたようだった。五時前から散歩に出た。コースは洗足池コース、環七から大岡山を抜けて洗足池へ。池の遊歩道を亀が歩いていた。池から出てきたようだ・・・.

 

オイ、大丈夫か?と訊くと「カメへん、カメへん」と応えたようだった。若し、池に戻してやったら、池の竜宮に連れて行ってくれたかも?

小雨がパラツキ池の向うも霞むような天候。しかし散歩には、これぐらいが凌ぎ易くていい。と、まあ此処までは良かったが池をひと回りして東工大の裏から緑が丘駅を経由して呑川緑道~都立大学経由のルートを戻るはずが、裏道で方向を間違った。

ここからがもうめちゃくちゃ、あっちに行きこっちにとすっかり迷子状態。当初予定の散歩時間、一時間半目安が大幅にオーバーして二時間近くの散歩?となってしまった。

漸く帰り着いて、弁当に着手。

今朝は、牛小間と野菜(ピーマン・シメジ・アスパラ・タマネギ)の炒め物。小松菜のお浸しすり胡麻和え。定番の卵焼き刻みネギ入りを大急ぎで作った。それに、家人が作った鳥ソボロをご飯の上に載せる。

             

今日も弁当は三人前、自分の分は持たない。以上、慌ただしい朝ではあったが、それなりに充実した朝でもあった。

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本のことでも・・・

2011-06-25 | Weblog

6/25(土)今日の午前中は殆どグロッキー状態で元気なし。昨夜、K大兄・N大先輩が人形町まで足を延ばしてくれた。隣の「高松」で景気をつけ、「seiju」になだれ込んで”演歌”な宴となった・・・。後から来た客はマイクの順番をとうとう諦めて帰り、我等の独壇場であった。

そこで終わって帰ればいいものを、一人、高松へと戻り知らぬ客と店主夫妻で深夜まで飲んでしまった。大兄・大先輩お二方との酒が愉しかった所為か、飛ばしに飛ばした夜となり、明けてからは反省・・・。

早めに出社し、デザイナーのTと情報誌の原稿量チェックなどの予定でいたが、すっかり遅い出社となってしまった。反省の意をこめて、トイレ掃除で気分を変えた。

さて、本のことだが「忘れられた日本人」と云う文庫本がある。最近読んだ本ではベストな本であった。著者は、宮本常一(つねかず)さんと云う民俗学の大家(であろう)。

古い本なので、読まれた方は多いと思うが。岩波文庫で60数版を重ねている名著であろう。先ずは読まれることを・・・強くお奨めします。

 

Tが帰ると迎えに来た、飯でも共にしなくては申し訳ないので本のことは、また改めて。

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弁当を作る

2011-06-24 | Weblog

6/24(金) 梅雨の最中なれど、連日の猛暑と云うところ。だが、節電の声高な波が押し寄せている。会社のエアコンが故障となったことを幸にと云いたいところだが、働くスタッフには耐え難いだろう・・・。そんなこともあり、連夜水分の補給に勤しむ・・・色着き水だが。

今朝は久々に皆の弁当を作った。気紛れであるが・・・。家人・長女・K君用である、依然として自分の分は持たない。

お菜は、「鶏肉と人参・牛蒡の煮物」「豚バラ肉炒めとピーマン・タマネギ・シメジのソテー」。これに定番の「卵焼き」であった。

              

早い早い、あっと云う間に出来上がった。       

                     

今朝、弁当に着手したのは「さんぽ」に出る気力が湧かず、何かをしようと「弁当」となった。ストレッチ、筋トレもお休み中。困ったことに、暫くはこの状態が続きそうである・・・。

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オムスビ

2011-06-22 | Weblog

6/22(水) 今朝はK君用のオムスビを作ることとした。家人が作ったサンドイッチを横目に、鮭・タラコを焼き筋子を切る。ま~暇なオヤジだと我乍ら・・・。

ついでだとばかりに卵焼きを準備。チリメンジャコと刻みネギ入りの卵焼きとなった。そしてオムスビは四個、何時もよりは少し小ぶりである。

                     

以上でお終い。

それにしても今日は真夏日、暑いね~。事務所の4階のクーラが故障とか、四階には働き手のスタッフが頑張っている。この暑いときに気の毒、我々の居るフロア―も四階の苦労を分かち合えとばかり冷房を切ったが・・・。

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ウルトラな夜と震災余話

2011-06-21 | Weblog

6/21(火) 昨夜は飲みすぎたようだ・・・。昨夕、立川にてウルトラマラソンの第一人者「沖山健司」氏に会った。氏から、四月に行われた”さくら道・2011ネイチャーラン”(名古屋~金沢間250kmレース)のことや今後の予定について話を聞こうと云う趣旨であった。

6時に立川駅にて待ち合わせ、居酒屋「弁慶」にて懇親。同行は相棒のHiroさん、これに旧友で立川に勤務しているAjiro氏も加わった。

沖山氏からネイチャーランレースのポイント、某製造メーカの工場施設を利用するラン・イベントのこと、3月の伊豆大島(沖山氏はここの観光大使でもある)で開催するマラソンレースのことなど聞きながら、Ajiro氏との会話や酒が進むこと果て無し。

                       

                       さくら道:レース後の沖山さん

酔っ払う前にと、程ほどに切り上げたが、帰路三鷹にて途中下車。Hiroさん行きつけのワインBar「ストーリーズ」へと足を向けた。この店の常連であるフラメンコダンサーの「齊藤克巳」さんに会えるといいな、と思いながら・・・。

すると、折りよく齊藤氏が居合わせた。この店は常連が大半でフレンドリーな雰囲気である。それにカウンターの中を仕切る、若いDaisuke君が人当たり・あしらいが好い。齊藤氏のステージ予定を訊いたり、Daisukeの剣道稽古の少なさをなじったと気分良く飲む。安ワインのグラスの空きが早い・・・。

そんなことで帰宅は零時前。ホッピーとハイボール、ワインの赤・白の酔いが廻ってシャワーの後、居間の椅子に座り込んで寝ていた。こりゃいかんと、頭では分かっていたが体が云うことをきかない。漸う布団に入れた時は4時となっていた・・・。大失敗であった。

そんな夜を過してしまい、今朝は体調不良。Kの弁当も散歩(幸に雨だった)もできず、会社に出るのがようような体たらくで一日がスタートした。

 「震災余話」

東日本大震災の取材で6月7日、盛岡に行った。この日、盛岡は真夏日となった。N社の支店にて取材目的の当事者にインタビューした。

岩手支店では、震災の直後から避難所に避難した人たちが発信したい「伝言」を収集。被災者に代わって、社員が電話でメッセージを伝える活動を行った。震災直後の週明けから、ドコモの携帯が通じるようになるまでの間の取り組みであったそうな。

本業としての特設公衆電話の設置は勿論であるが、これらが間に合わない間の情報伝達手段として、大きな力となった。この活動について産経新聞・週刊ダイヤモンドやインターネットでも取り上げられて大きな評価を得ている。

非常時に安否を気遣う人々への情報伝達の取り組みとして、「ライフアシスト誌・防災特集号」(9月1日発行予定)に掲載される予定である。この伝言取次が支店オールとしての取り組みとなるきっかけを、提言をしたのが今回取材に応じていただいたK氏であった。

K氏は色白ながらも線路マンらしい体格と風貌、メリハリの利いた熱血漢と云う印象であった。そのK氏は、大船渡市細浦地区(大船渡の港に入る手前の小さな湾)で育ち、年老いた両親は其処に住んで居られた。地震があった後、震源地が三陸沖と流れた瞬間に津波が来ると予測する。

地震発生の30分後には車に水を積み込んで生まれ在所にへと向かった。が、一時間程で着ける距離ながら、途中気仙沼に入ったところで津波出会い、山越えのルートへと変更、海沿いに出るとまたも道路がなくなっていた。勝手を知ったる地域ならばこそ、また山越えのルートへと繰り返して進むうちに車がパンク。歩いて行くうちに偶然にも親戚の人の車に出会い同乗させてもらうことができた。細浦に着いた時は、夜8時となっていた。

「三日月の明かりを頼りに家の在った辺りを見ると、何もかもが消えていた。嗚呼これで父も母も死んだと思った」処が、小高い山の方に小さな公民館があり、地区の60人ばかりが避難していた。その中に両親も混じって避難していた。

耳が遠くなっている母と体が不自由な父は、近所の人たちの力で避難していた。

寒い夜をまんじりもとしないで夜明けを待った。一夜明け、眼前に広がる部落を見下ろすと、其処は一面の瓦礫と化し面影はなかった。一段高い土手となっていた線路も駅舎も消滅していた。避難所には、通信手段も途絶えて何処へも連絡がつかない被災者がいた。

                   

 瓦礫が残る細浦地区 

その夜、一旦勤務地へと戻ることにしたK氏は避難している人たちから連絡先のメモを預り、代りに連絡することを約した。そして明日また来るので、連絡のメモを書いておくように話す。翌日曜日、再び避難所を訪れたK氏は、前夜に連絡をした相手からのメッセージを伝え、新たな連絡先のメモを預かって帰った。

連絡手段が絶たれた被災者の姿に接し、通信事業に携わる者・会社としてやるべきことを痛感する。K氏の訴えは、組織的な活動として岩手支店全体が動くこととなった。

人と人とのコミュニケーションをつなぐ手段として「伝言メモ」を様式化。チームを組み、朝に各避難所に届け、夕方にはそれを回収して連絡をする。翌朝には、その結果と先方からの伝言を避難所に伝える。

本社の報道担当の協力で、NHKや岩手放送でも被災者情報として、NTTのポータルサイトgooでのインターネット発信へと広がる。

夕方、持ち帰った伝言を伝える。時には深夜に及ぶこともあったそうだが、被災地からの局番をみた相手先は、飛びつくように電話を取ったようだと云う。時には辛い知らせもある。

何時しか、伝言を伝える担当者はタオルを手にして受話器を持つようになったそうだ。思わず、もらい泣きをするから・・・。

「山梨から、細浦の実家にお産で帰郷中の妊婦さんの安否を心配していたご主人との連絡がつき、避難先を訪れることができた」「実家の安否が確認できた」「避難所を知ることができ連れに行けた」など、大いに感謝されることとなった。

非常時に情報を伝える。人手によるアナログな方法しかない中で、伝えることの大切さを知る熱い人たちがいて、できる方法でやり遂げた組織。OBとしても嬉しい限りであった。

 14日、気仙沼での取材を終えた私は陸前高田・大船渡、そして細浦、石巻と被災地を廻ることができた。震災から三ヶ月が経ち、被災地では瓦礫の撤去が進んでいた。

                 

                                       駅舎も線路も流れた大船渡駅前

陸前高田の一面の空き地となった道路際に、新しい電柱だけが立っている姿が虚しかった。

                         

 遥か山裾まで続く陸前高田の惨状

 

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米寿の祝い

2011-06-20 | Weblog

6/20(月) 今朝は清水池公園から鬼子母神、平和通り商店街から武蔵小山へと約一時間の散歩。散歩後、メダカと金魚の餌をやる。今月初め、孵化したメダカを硝子の鉢に移して地面に下ろした処、硝子鉢が割れるという大失態を犯した。

そんなことで子メダカは現在、15~6匹しか居ない。が、大鉢の水槽には卵を付けたメダカが2~3匹泳いでいる。藻に卵を産み付けたらバケツに移して孵化を待とう・・・。さて、何匹が育ってくれるものやら。

一風呂浴びた後、家人が自分用と長女の弁当を準備している傍らで、K君用のオムスビを二つ作った。流石に家人には、Kの分まで用意しろとは云えない。家に身の置き場のない、養子のようなものとしては・・・。因みに、私の今日のランチは「掛けウドン」(スタンディングの「びっくりウドン」で220円也)、この店の讃岐風の味と値段が好きなのだ。

 「 米 寿 」

土・日と高知に帰省した。土曜の夜、父母の米寿祝いを地元の小さなホテル(一軒しかないが)で行った。集まったメンバーは、近所の従兄弟と妹夫妻・姪など、身内20人ばかりで内々の会であった。宴が盛り上がり、最後は唄好きな従兄弟達のカラオケまで出た。(勿論、私も声張り上げて・・・)

二人兄妹の長男の努めと、皆にはご迷惑を掛けたが、、両親は喜んでくれたようなので良しとしよう・・・。

高知空港に着いた時から雨。その雨が翌日になっても止まずに小雨。日曜日、朝6時に広域放送のスピーカーから鳴り渡る音楽とともに小雨の畑に出た。(何しろ、5時にはサイレンが鳴る田舎なのだ)

一応カッパの上着を身に着けて草刈である。先々週に刈ったのでそれ程は伸びていない。一時間半ほどで粗方けりをつけて終えた。雨の所為で、採る予定の梅は諦めた。

東京の自宅にてタネを播き、実生で芽吹いた果樹の苗「文旦・柿・枇杷・葡萄」を持参した。これを畑や庭の鉢に移植する。育ったとしても大きな期待はできないだろうが・・・どうなることやら。

庭のコスモスが一輪だけ花をつけていた。チョッと早いのも気候のせいか?紫陽花が雨にうたれて儚げ・・・。

                   

親父が自慢の金魚は、一時は200匹近くいたが、飼いかたが下手な所為か50~60匹に減った。カラスや五位鷺が来るので網を掛けて守っている。

                        

越中の「熟年ライダー」氏に、飼い方を請わねばならぬか・・・?

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震災取材

2011-06-17 | Weblog

6/17(金) 今朝も昨夕からの雨が続いている。今日は、散歩も弁当もお休みした。昨夜は、久々に老舗野菜卸業の”海老屋本店”の店主Aさんと会った。webサイト用のお中元商品のリストが出来たとの連絡を貰い、宇田川町の「奈加野」にて待ち合わせた次第。

最近の情勢を訊くと、震災や原発事故の影響が大とのことであった。先ず、これからのイチゴの産地であった宮城県亘理町が壊滅的な被害を受けたこと、スナックエンドウの産地福島では生産がストップしている事など・・・何処も大変である。

偶々、取材で亘理町を訪れたばかり。デジカメの写真を見せながら見聞したことを伝えた。

遅れて、大学で教えているM氏も加わり原発の話などが続いた。M氏、若い頃からライタ―稼業を続けており専門分野は国際問題。それも紛争・戦争が得意分野であった。本も出し、TVなどでも評論・解説で出演していた。それが今や、大学で先生稼業に転じている。

二人とは若い頃からの付き合いで、お互い気兼ねなく何でも云い合う仲間でもある。これに奈加野のオヤジも加わり賑やかな一夜となった。

奈加野のオヤジとの話で、今朝は築地市場に出没することとなった。オヤジの買い物を見た後、珈琲店「愛養」に立ち寄る。築地に行けば、この店に立ち寄りコーヒーを飲むのが愉しみである。

何と云っても、ここのコーヒーは絶品。私的には、日本一旨いコーヒーを飲ませてくれる。彼の池波正太郎さんや山本一力氏も通った店なそうな。

この店で45年に亘りコーヒーを淹れてきたのが、カウンターに入っている通称「ケンちゃん」である。高校生の時にアルバイトで入り、以来この道が本業になったとか。昔の築地の賑わいからすると、今の築地は寂しい限りと云う・・・。

そんな今昔を、市場を生活の場としながらも、魚・野菜の商いとは異なる生業から観た築地のことをじっくりと聞いてみたいものである。出来れば物語として文字で残したいものだ。(相棒の宏さんに云ってみよう)

 「気仙沼」

さて、14日(火)は気仙沼にてOBの取材、10時からの取材アポイントであった。ホテルが気仙沼や一関で取れず、仙台に泊まってからの訪問となった。6時半、レンタカーで仙台を出て、9時半に気仙沼に着く。時間が早いので港の辺りを見て廻る。

国道45号線から街の方に入ると、港へと続く緩やかな下りの道である。両側の建物を眺めながら「此処までは津波は来ていないようだ・・・」など、勝手に思いながら進んだ。

道路を下りきって港近くなると、建物は残っているが一階は破れ・壊れてボロボロの家並みとなっていた。船着場のある小さな湾をひと回りする。この辺りの建物は未だ撤去されていない。火事で焼けただれた船が岸壁に二艘。綺麗な船も何艘か係留されていた。

湾の入り口に広がる工場や町家が在ったはずの街に入る。と、手前側は壊れた残骸の建物が並ぶ廃墟、奥に入ると残った瓦礫と撤去された跡も生々しい凸凹の一面の広場となっていた。その間の、舗装道路があったはずのじゃり道をダンプが行き交い瓦礫を運んで行く。

この光景を見て、あらためて津波の凄さを実感した。後で聞くと、気仙沼の四分の三は津波の被害があったのではないかとのことであった。我々が下ってきた道路の両側に在った建物も、一階は1m程は水を被っていたそうだ。

OBのYさんが身を寄せている義姉のお宅に伺った。Yさんは湾口に面して広がる平地に自宅が在った。息子さん夫妻と孫二人の五人家族。

地震があったとき、揺れが激しいので庭にある大きく根を張った木にすがり付いていた。6mの津波が来ると警報が流れたが、小学一年生の孫が学校から帰ってくるのをひたすら待った。

不思議と、隣近所からも道路を行き交う人の声も、避難しようと云う呼びかけも聞かなかった。聞こえなかった、しずかだった。そうこうするうちに、息子さん夫妻が孫の小学生を連れて車で迎えにきた。その時、第一波の津波が押し寄せた。

戸口を空けたまま家族は二階へと逃れた。通りかかった人が二人、入れて下さいと避難してきた。二階に逃れたが、怖くて外が見えかったそうだが、家々の屋根や物が流れて行くのは分かったそうだ。

まさか家が流されようとは思わなかったが、何時の間にか家が浮き、流れていた。家は近くを流れる大川に出ていた。

普通なら川下へ、海へと向かうのが津波に押されて川上へと流されていった。湾口から入って大川に流れ込んだ津波と、港から入ってきた津波、二つの作用であろうか。大川から支流の神山川へと押上げられて1km程も流された。

「怖くて何も見たくなかった、分からない。ただ灰色の水が怖かった」

大川の本流、支流の流れの中でどこかにぶつかることもなく、流されたのが幸したであろう。家は壊れなかった。小さな神山川に入っていったのも幸して、神山橋の欄干に支え道路の上で流されるのが停まった。六人は道路際の焼肉屋の屋根に上がって津波の引くのを待った。こうして九死に一生を得た。

しかしまた、それからの避難所での暮らし、向後のことを思うとと眠れない、考えることが辛い、そんな日々が続いた。義姉のお宅に身を寄せてからは少し落ち着いてきたそうだ。

被災後一度も自宅のあった辺りには行っていない。怖くて行けなかったというYさんを誘って、自宅の跡に向かった。

辺りは瓦礫が取り除かれ、自宅跡辺りからは海が見えた。トラックがダンプが走り、騒音と臭いが体に響いた。顔を覆いながらも、自宅の辺りを教えて貰ったが、足場が悪くて近づくことはできなかった。

 

これからは「いちにち一日を精一杯生きていく」「自分の家で、家族五人で暮らせる日を待っている」と言う。

 

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今日も弁当を・・・

2011-06-16 | Weblog

6/16(木) 今朝も弁当を作ることとした。夜明け頃に目覚めるが、暫くは布団の中で過す。考え事はしない、やることと云えば散歩か弁当作りの軽い人生である。時間はたっぷりとある、今朝は散歩と弁当の二兎を追うこととした。

先ずは弁当メニューを考える。そこで浮んだのが、夏・食欲不振・傷み易いのワード、これに対応できるメニューと云うことで、久々に「土佐風五目すし」の登場となった。

散歩前に「干し椎茸・桜エビ」を水に浸けて準備を調えた。それから散歩へ・・・。おっとその前にやることがあった。メダカの孵ったばかりのオチビちゃん達が居るバケツの水を減らす。そして、金魚とメダカの餌遣りを済ませ、漸く出発となった。

今朝の散歩は一時間弱。目黒郵便局から清水公園~桜並木、雀のお宿をひと回りして環七へ。環七から東急線の線路沿いに学芸大学に戻る。清水池では既に15~6人の太公望達が釣り糸を垂れ、碑文谷公園ではラジオ体操が始まった。

さて、次は弁当だ。人参・筍・油揚げ・椎茸を刻み煮る、鯖の干物を焼く。卵焼きを作る、錦糸卵を作る。炊き上がったご飯に「てまいら酢」を振り、炒り胡麻を混ぜる。生姜と大葉を刻む。

と、まあ~こんな具合で出来上がった。今日も三人分だが、Kの弁当箱はデカ弁なので二人前は入った。私は、今日も弁当を持たない・・・。

                   

台所の蛍光灯が切れたままで、写真に影が出てしまった。

 「続:仙台取材」

13日(月)の午後。二軒目の取材訪問先は、89歳と86歳になられた高齢のOBご夫妻であった。震災前は、仙台市若林区荒浜(深沼地区)に30年前に住まいを構え、広い敷地内で畑仕事、野菜作りを楽しんでおられた。

ここは海岸から500mほどの距離。チリ津波では、近くの小学校に避難したことはあったそうだが被害は受けていない。ご主人は10年程前から震災・津波のことに関心を持ち、勉強をされた。何度か車で高速道路の先まで避難したことがある、だが津波は来なかった。ちょっとばつが悪かった・・・と云う。

地震発生時は自宅内に居たが、神棚の物が落ちたぐらいで特段の被害はなかった。奥様の方は、これまでの地震で津波がくるくると言われながら大したことはなかった。今回も大した事はないだろうと思っていた・・・。

警報があり、二階に置いてあった非常用の袋だけを持ち車で避難する。何処に避難するか迷ったが、遠くに在る小学校まで避難する。結果的にこれが良かった。(車で逃げては駄目だと分かっていたが、老人はそうそう歩けない。ましてや延々と続く平野部のこと、車を使うのは正解であった。近くの小学校、建物は残ったが殆ど津波を被った)

思い出の品、これまで収集した謡曲の本、全て流されてしまった。鉄筋の家だけは残るだろうと思っていたが、残ったのは門柱と基礎のコンクリートだけであった。後日、孫が基礎の部分に引っかかっていた小さな牛の置物(因みに奥さんは牛年)と古いパスポートを拾ってきた。残った物はこれだけであった。(写真はYさんの自宅が在った辺り。瓦礫は除かれていた)

荒浜海岸から仙台平野を望む

それでもご夫妻は言う。「物に執着しないで出たから助かった。持出したのは薬と保険証・免許証ぐらいだが、これがあったのでその後の手続きができた」と。

特に高齢者としては、避難所の環境に適応するのが大変だったそうだ。
ご主人に”こんな思いをされたのは初めてでしょう”と訊くと、「軍隊時代にアンダマン島の沖で、乗船していた潜水艦が沈没して以来ですよ」と、大変なことを体験していたのだった。

何ものにも替え難い、その時代の思い出の品々も全て津波に攫われてしまった。そして大好きで生き甲斐でもあった野菜作りもマンション暮らしとなり出来なくなった。


奥さまがしみじみと「ジャガイモを買いにいったら、一つ43円もしたんですよ。これからは、自宅の畑でジャガイモが沢山採れるのに」と。失われしものへの切なさを物語っていた。

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