オヤジの弁当箱

日々の手作り弁当だけが生甲斐のしょぼくれオヤジ。弁当メニューと併せて日々の雑感を付記。

去りゆく夏に・・・

2015-08-31 | Weblog

8/31(月) 2015年の8月も今日で終わる。一年後の夏を迎えられるか、そんなことは誰も判りゃしない。土曜日、一月前に検査を受けた腫瘍マーカーと脳MRIの結果を聞きに、恵比寿のクリニックへ行った。

待たされること、一時間。説明を受けたのは7~8分と、効率的なお仕事をするクリニックである。このことは、クリニックを教えてくれたOKAZAKIさんから聴いていたので驚かない。待たされるのも覚悟の上だった。とはいえ、あと十分長く待たされたら『冗談じゃねぇや』と、とっとと帰っていたろう。

難しい検査じゃない、血液を採って検査機関に廻し、その結果を伝える。MRIは20~30分か、蒲鉾型の蓋をされて、ガーガーギリギリと煩い音に耐えていれば済む、画像の撮影だ。

たったそれだけの結果を、聞かされるのは一月後だ。散々待って、十分足らずの脳の画像説明。血圧を測り、自動の体重計に乗って終わりだ。

腫瘍マーカーの方は全て基準値内だったが、脳の方は「病院で詳しい検査を受けた方がいい」と言われた。「頭の血管は白くなってきている処があるね、ここの部分。食事は食べ過ぎないように・・・。家族や親族に脳梗塞などに罹った人はいますか?」 おりません・・・・。

右側(実際は左)に腫れている処があるね、ここ・・・」と、画像を指しての説明。次いで耳の後ろ辺りを触診されるが・・・。「どうも分からないね・・・」「病院で精密検査を受け下さい。何処の病院がいいですか?紹介状を書きますから」。

そんなことで、馴染?の五反田の病院を指定した。この病院はサラリーマン時代の職域病院。若い時に扁桃腺を腫らして三日入院。昨年のことか、背中にできた脂肪瘤の切除で二回通った。馴染と云えば、家人はこの病院付属の看護学校卒、十年勤務をしていた。友人・知人の見舞いでは何度行ったことか・・・・。

てっなことで、今日、今週末に受診予約を取った。なんの心配もしていない。『なるようにしかならない、ナセルはアラブの大統領だ』。半世紀も前の駄洒落だ、誰も笑わねえか・・・・。

週末の土曜日、そんなことがあった後、渋谷「奈加野」へ。店で、”古賀物語出版企画”の為に、古賀さんの弟子だったOSHIMA君のインタビューである。彼と会うのは七年ぶりか。相変わらず元気一杯、生涯のテーマである環境ビジネスに関っていた。古賀さんの話半分、彼の人生・思ひが半分のインタビューに、ライターのHASHIMOTO氏もタジタジか・・・。

                      

                  午後9時過ぎ、渋谷センター街の人波は半端じゃない

そして昨日の午後、横浜・シェラトンホテルにて、古賀さんの息子たちYASUTAKE&YUDAI兄弟から話を聴く。頃合いを見計らって、西口地下の「ライオン」に移動、一杯交わしながら話がつづいた。若い兄弟を前に、ついつい説教めいた話をしてしまった・・・。亡父に代わっての言葉だ、と赦されよ。

土・日と、取材の為に上京したHASHIMOTO氏。今頃は、函館からバスに揺られて鄙びた町へと帰っていることだろう。東京を午前に立って、帰り着くのは夜だという。何しろ一日2本のバス、それすら途中の町で乗り換えるそうだ。北海道が広すぎるのか、それとも田舎過ぎるのか?おいらの田舎でさえ、1日4本もバスがあるのに・・・・。お疲れ様でした!

 

で、今朝の起床は7時10分。昨夜の眠りは浅く、目覚めの前まで夢を見ていた。昔やっていた剣道のこと、或る大会のシーン。や、バスで入り組んだ道をガンガンと進んでいる夢。私は乗客で『いいから行け!』なんて、檄をを飛ばしていた。目覚めがスッキリしないわけだ。

それでも一応、弁当を作ることにした。今朝ばかりは、残り飯タップリで助かった。それに、家人が昨夜作った菜が「根菜の鶏肉巻煮」と「鯖の竜田揚げ」が在った。これを使うことにした。

                          

とは云いながら、これだけじゃ趣旨に反する、面白味に欠ける。私のメニューは「アスパラの豚バラ巻」「ペンネと人参・ジャガイモのサラダ」、鮭を焼き、鯖竜田は中華風野菜餡かけにする。卵2個を炒り卵にしてお仕舞。

                  

手抜き、間に合せの弁当になっちまったが・・・・。よく有ることさ・・・  。

                        

 

 

 

 

 

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拒否反応・・・

2015-08-29 | Weblog

8/29(土) 昨夕、在る案件の打ち合わせにライターのOGURA氏が来社。海の物とも山のものとも分からぬ企画について相談した。案件が進むようなら、氏にひと肌脱いでもらうことになるが、快諾を頂いた。

打ち合わせ後「高松」にて一献交わし、過去の付き合いの中で知り合った、弘前の面々のことなどを聞いた。弘前の面々とは、既に解散した「ばっけ」と云う、NTTのメンバーで構成されていた劇団のことである。殆どのメンバーがOBとなり解散してしまったが、津軽弁の芝居を四十年に渡り施設などで演じてきた。

演劇青年であったと云うOGURA氏は、取材でその劇団と出会って以来、サポートをつづけていた。かつて、私もその芝居を取材したことから、氏とも昵懇となった。それ以来交流がつづいている。

久しぶりの懇談であったが、私の方のグラスは一向に進まなかった。金魚割と、ハイボールを一杯づつで、それ以上はアルコールが入らなくなったのだ。時折こんなこともあるが、時間を置くと又進む。然し、昨夜だけは最後まで飲めなかった。原因は、飯の喰い過ぎかな?

一昨夜は、郷里の中学で一緒だったOGAWA君が会社に寄ってくれた。故郷の安田川の鮎が妹から届いたので、それを彼にお裾分けした後、「ローカーボ」「セイジュ」「ちょっぷく」と廻って、昔話などに花が咲いた。一夜置いただけで、こうも飲めなくなるとは情けない・・・・。

 

昨日の弁当は「炒飯」となった。最近、家人が炊く夕飯がやたら多いのだ。大飯食いの、次女の亭主が現れたりするので大目に炊いているだろうが・・・。朝、釜に沢山のご飯が有ると困るのだ。混ぜご飯、オムライス、炒飯にするくらいしか、技がない。

具沢山の炒飯と、南瓜煮、茄子味噌炒め、焼き鮭・明太子、豚小間生姜焼きが菜となった。

                      

家人は例によって白いご飯を所望する。救いは、長女の「あっ炒飯だ。美味しそう!」の一言であった。

                            

 

今夜は、「古賀武夫物語」(仮称)の取材で、ライターの橋本君と一緒に人に会う。明日の夕方は、横浜で古賀さんの子息にあって取材である。平和島のボートレースも休みだし、これまた平穏な週末か?(取材の前に、恵比寿のクリニックで、一月前に受診した、MRIと腫瘍マーカーの検査結果を聴く。それ次第だな・・・・・)。

 

 

 

 

 

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お宝が・・・

2015-08-27 | Weblog

8/27(木) 今日は少し夏の陽射し戻った感がある。夕方には雨の予報だが、郷里の中学校で同級生だったOGAWA君と会う予定。彼は長く紳士服の職人としてデパートのオーダー服売り場に勤めてきた。現在は、第二の職場である東京駅・大丸で仕事をしている。三十代半ばから、スーツを作る時は彼に頼んできた。

そんなことから、我が体型の変遷史に詳しい。が、ここ数年新しいオーダー服と縁がない。既成品のジャケットなどを買うのが精々の暮らし、愈々貧乏も極まったり、と云う処か・・・・。

そんな貧乏オヤジが、昨晩は大事なお宝を置き忘れたようだ。確証はないが、ほろ酔いでの帰途、ポケットをまさぐると在るはずの札が、所在不明。どう探しても出てこない。今月末までを凌ぐべき、ささやかな資金が不明であったのだ。

「ローカーボ」に入ったのは七時半頃か、なけなしの札を一枚、カウンターに置いて飲んだ。一枚の札が分解されて、数枚になってカウンターでヒラヒラしていた。ハイボールを飲み、最後に飲んだのは久々のギムレットだった。カウンターに残っていたのは、小さくなって元の半分になった札が一枚と、百円玉。であったはずだ。それが、ポケットに納まってなかったのだ。

証拠として官憲の前で用を足すかどうかは不明だが、一枚の写真が残っている。これが最後のシーンだと、強弁はできないが・・・・。昨夜、一緒になったのは、証人として採用されないであろう会社の人間は置いて、HOYA兄さんと、M氏である。余談ながら、ご両人が居ると座の盛り上がりは半端じゃない

                          

                           手前にお宝が・・・

盛り上がり過ぎて、私の月末までの軍資金が胡散霧消してしまったのか?つまびらかでないが・・・・・。 Oh my God!

              

                       H兄とM氏(パンニ・ハムハサムニダ?)

こうして記すと、夜毎グダ愚ダと飲んでいるだけのように思われそうだが・・・。決してそんなことはないのだ。昨夜も、我が入居するビルの競売問題への対処法や保証金の取り戻し方等々、有益な方法・手法を悪徳チャンと呼ばれる人形町不動産界のドン、M氏から教授して貰ったのだ。そしてH兄さんからは、女性の口説き方を!(今更必要ないのだが・・・)。

愛しき札よ、何処に!今夕、OGAWA君が来るので、一緒に探索してもらうしかないか?

 

そんなことで、昨夜の帰宅は23時半と、程々の時間に帰り着いた。昨夜の失敗を反省しつつ、今朝は六時から弁当の用意に入る。

「掻揚げ」「チンジャオロースー」「オムレツ」「焼き鮭」が、今朝のラインアップだが、実は隠し球があるのだ・・・・・。『混ぜご飯』と云うやつだ。

                        

今朝の目覚めは五時半頃か、それから弁当のメニューをあれこれと思案六峰だった。昨晩に帰宅し、電気釜のご飯の残り量をチェックしたのだ。すると結構な量が在ったのだ。これをどうすれば、美味く上手に使うか・・・・。

                  

その結果が『混ぜご飯』、鶏と牛蒡・人参・筍・薄揚げを甘目に煮付けて、ご飯と混ぜる。簡単ながら食が進む、美味しいご飯に変身するのだ。

                          

こうした私の涙ぐましい努力、それなのに家人は「白いご飯がいい」と、のたまう。長女と次女は、素直に「美味しそうだ・・・」と、大喜びした。この一言に、台所に立ちっ放しで痛む膝も報われるのであった。

                       

 

 

 

 

 

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またしても、東急が・・・

2015-08-26 | Weblog

8/26(水) 今朝は寒いくらいの夜明けとなった。あの暑~い夏が、嘘のようだ。然し、この涼しさも何時までなのか?何れまた暑さがぶり返すことであろう。

蒲団も掛けずに寝ていたようで、寒くて目が覚めたのは五時半。昨夜も、矢沢栄吉のCDを聴きながら本を手に蒲団に横たわったのだが…、目覚めて見ると、本は体の下敷きになっていた。

昨夕は、サラリーマン時代の上司であったTACHIBANAさんと、研修ビジネス会社の代表KAWASHIMA氏が人形町まで来てくれた。他にも二人のメンバーが来る予定であったが、ゴルフと仕事と云うことで、不参加となった。三人で「高松」で一献交わした。

Tさんは現役を退いた後、故郷の仙台に戻ったが、この日は、仙台からの遠征である。この日不参加だった二人に、我等三人は「八丈会」なる、八丈島で遊ぶ会を作っている。年に二・三度、飲み会を持ち、八丈島等への遊び企てる。

会の名称どおりに、元々は八丈島行きが目的であったが、島は島でも済州島に行ったり、沖縄の島へと云う計画もあるが、これは実現していない。三年前になるか、青森の「ねぶた祭り」に行ったのが、一緒の旅の最後だ。今年、新春に集まりがあったが、私は葬儀が出来て田舎に帰った。仙台に暮らすようになったTさんに会うのは、一年ぶりとなるか。

現役時代と変わらず、Tさんは飄々淡々と、町内会活動の様子など語る。K氏も変わらづに、その道?を探究されている様子が伺える。今夜、仙台に戻ると云う、Tさんの時間が許す二時間半ほどを愉しんだ。「高松」名物の金魚割を試飲して貰い、カツ煮などに舌鼓を、最後は蕎麦屋らしく小ソバで打ち上げとなった。

会がお開きになったのが八時前。駅に向かうすがら、「ローカーボ」の店内を横目に見ると、HOYA兄さんの後ろ姿が在った。ちょいとご挨拶をとばかりに、一杯だけ飲んで帰ることにした。兄さんの元気な声を聞きながら、ハイボールを啜る。何時の間にや、店の常連たちがカウンターを占めていた。

ちょいとご挨拶の一杯だけで切り上げ、早い帰宅で本でも読もうと、メトロの駅へ。間もなく電車が来たが、途中で「この電車は霞ヶ関止まりです」とかのアナウンス。更に、「次の電車は恵比寿止まりとなります」なんて言ってやがる。どうなってんだ?

漸く判明したのは、東急東横線の信号故障で、六時半から東急線が止まったままだとのこと。なんだよ、 乗車前にアナウンスがあれば、もう二・三軒廻って時間を潰したものを・・・・。

霞ヶ関駅で後続の電車を待ち、恵比寿までは何とか辿り着いた。駅を出ると、通勤帰りの人でごった返し。バスを見ると超満員。下り方向の駒沢通りは徒歩で帰る人の群れがつづいている。

膝を悪くする前なら、ここから家まで歩いても三十分ぐらいだ。散歩を兼ねて歩くところだが・・・。タクシー待ちの人々は、歩道から車道まで出て頑張っている。たまに早く帰宅しようと思えば、この有様だ。しょうがねえや、奥の手だ・・・・。人通りの少ない目黒駅方面に4・500m程向かった処で、タクシーを捕まえることにしたのだ。

これで思い出すのが、あのバブルの頃のタクシー争奪戦だ。深夜の二時三時になっても車が拾えない、空車の赤い表示で走っているのに止まらない。そんな時代がつづいた。

バブルがはじけてタクシ―業界も不況になった・・・、その時に思ったのは「あの深夜のタクシー横暴時代のことだ」。絶対にタクシーなんか乗ってやるかと、本気でタクシーを使うのは止めていた時期があったのだ。

この夜は、十分ほどタクシーがやってきた。ラッキーであったが、今度は、道路が大混雑。渋滞なのだ・・・・。ここいらは地元みたいなものだから、迂回ルートを指示し、遠回りながら何とか帰宅できたのである。

そのタクシーの中でのドライバーとの会話・・・・・・。
 『東急は渋谷駅をリニューアルしてから、全く駄目だね!最低・最悪だぜ。事故は多いし、電車の遅延は頻回。そりゃそうだ、あれだけ相互乗り入れで路線が伸びれば、あっちこっちのトラブルの影響を受けるし、回復までに長引くわだ。おまけに渋谷駅は、地下に潜って遠くなる、挙句にホームは狭くて大混雑・・・、あれりゃぁどうしょうないぜ』

と、こんな文句を言ったのはドライバーか、乗客か? その辺りの判断は、お任せするしかない。小言とお説教をする年寄りは、嫌われるらしいが・・・・。

 

何時の間にや、昨晩の電車トラブルの話になっていた。脱線と迂遠が多いのは、電車のことではなくてOYAJIの話か・・・・。

 

で、五時半に目覚めたその後のOYAJIは、当然の如く弁当だ。

今朝は、揚げ物でも掻揚げではなくて「トンカツ」になった。家人が食材を仕込んで在ったので、その中から「豚ヒレのトンカツ」をメインにした。

                          

他に「カボチャ煮」と「パスタ&ジャガイモのサラダ」、定番の卵焼きであるが、卵焼きはホーレンソウ巻と、ちょっと趣向を凝らしてみた。

                    

仕上に、ご飯の上に汐昆布を散らして完成となった。

                   

 

 

 

 

 

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漸く朝顔が・・・・

2015-08-25 | Weblog

8/25(金) 駅前の小さな〒のATMに、人の列ができていた。そうか、今日は25日で給料日なんだと気付く。最近は何処も振り込みになったからな・・・。僕が新入社員で、給与事務の担当をしていた頃、現金で手渡しだった。

給料日前、給与明細書から必要な金種(万札~一円玉まで)を銀行に渡し、給料日の午前に現金を持ってきてもらう。それを、会議室で個人別に給与袋に詰め、課単位に仕分けして昼前に渡していた。今思い出すと懐かしい気がする。あの頃は、給料日から一週間もすると、もう金が無かった。

それは今も、変わりはねぇか・・・・。当時と違うのは、クレジットカードがあり、それを使うのが当たり前の時代だ。

そんなカード全盛の時代にも関らず、昨晩飲んだ店はカード決済なしの店ばかり。美味いハイボールの店「ローカーボ」は、キャッシュオンが原則の店だ。次いで寄った「セイジュ」も現金払い。この店でつけにでもしたら、ママさんは帰りの電車代に窮すか?(こんなこと書いてるのがバレルと、大事か)。

最後に寄った「ちょっぷく」は、チケットを買わないと、飲み食いができない。現金払いで済ませる程度しか、銭を要しない店と云うことだ。

昨夜は19時過ぎから三軒の店を覗いたことになるが、最初の二軒は、N氏とM氏が一緒だった。三軒目は、N氏と二人だったが、店仕舞の処に割り込んだようなものだ。そんなことで、帰宅は24時を廻ってしまった。

昨夜一緒だったN氏は、佐賀市でソフト開発の会社を経営している。月に何度か、東京での営業や打ち合わせで上京する。今回は、二週間ほど居るとのことだが、人形町にマンションを持っているとかで、そこに滞在している。

N氏とは、「ローカーボ」のカウンターで隣り合って以来、話をするようになった。そんな中で判ったのが、地球市民の会を創った「故 古賀武夫」と、同級生だったと云うこと。更に、地球市民の会の草創期に手伝いをしていたとのことであった。いろんな処で、ご縁が繋がっていたのだ。

零時過ぎに駅の改札を出て、目の前に在る「東急ストア」に入った。営業時間は25時迄である。「ローカーボ-」でハイボールを啜っている最中に携帯が鳴った。誰かと思いきや、家人から「明日のお弁当の食材が何にもないよ」とのことであったのだ。それを忘れもせずにいたのだ。

然し、足元は覚束ないのだ・・・・。ふらふらとしながら、鶏肉と明太子だけ買った。そんな物を買いながら、『冷凍小エビは残ってるはずだ。タマネギと人参も有るはずだし、これで掻揚げは作れる。鮭の切り身も沢山ある…』なんて、明日の弁当メニューを思い浮かべるだけの思慮はあった。

帰り着いたのは零時半か。止せばいいのに、テーブルの上に残っていた、一皿のパスタと、味付きパンを喰ってしまったのだ。これをやると、翌朝は体調がよくない・・・・。

 

案の定、今朝の寝起きは最低。おまけに目覚めた時間は七時だぜ。これでも弁当作りは諦めない。電気釜に残り飯は無かった。大急ぎで鍋飯を炊く。

菜の方は、掻揚げなんかは無理だ。鶏肉と野菜の香草焼き、大根と人参・蒟蒻、油揚げの煮物。他は、鮭と明太焼きである。小松菜とベーコンの炒め焼きを追加。以上である。

                    

長女が現れた時に、丁度、弁当箱に詰めはじめた。間一髪でセーフ! まあぁ、私の綱渡り人生そのものだ。何があってもセーフ、それもギリギリのセーフと云う処が泣かせるが・・・・。

                          

 

今度から「崖っぷちを行く男」を、キャッチフレーズにしようかな・・・。塀の上を歩く男よりは、安心感があるだろうよ。こっちだとまかり間違えて内側に落ちると「ムショ暮らし」だからネ!崖っぷちの方が緊迫感があるもんネ!

朝からバカなことを書いてちゃいかんよな。人生は真面目に、正直に、真っ直ぐに、王道を・・・・、オイラには縁のねえ言葉ばかりだ。そんなオイラでも、漸く咲きほこってきた「朝顔」を見ると嬉しい。 「善人すら愛でる花、ましてや悪人なればこそ・・・」 意味不明?

                           

昨年の種を植えたのだが、この種も三年前の朝顔をから採っている。花が小ぶりは致し方ないのか?

 

 

 

 

 

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去りゆく夏に

2015-08-24 | Weblog

8/24(月) 昨日の午後から涼しくなった。冷房の効いた、平和島競艇場の室内観覧席に居ると、寒くて鳥肌立ちクシャミが出た。最後の11・12レースと水面に近い外の観覧席でレースを眺めた。

                

           スタート前→   スタート・ライン直前→   第1コーナー廻り正面に→ 第2コナーを廻ると粗勝負あり

最終の12レース、思い切って注ぎ込んだお小遣い千円。これで買った舟券は1-3-6の三連単で勝負を掛けたが・・・・、何と6号艇は途中のコーナーで撃沈してしまった。これで今日の収支決算はマイナス、乏しいお小遣いは競艇場の藻屑と消えたのであった。

 未だ、我が人生に運命の女神は微笑まず、束の間の幸せすらも訪れない・・・・・。無常なるかな、我が人生!

「奈加野」さんの車に同乗し、六時過ぎに競艇場を出た。曇り空の所為もあろうが、何時の間にや夕闇が迫っている。「おい、暮れるのが早くなったな。先月は、あんなに明るかったのになあ」と、NAKANOオヤジ。『俺たちの人生も、あっと云う間に黄昏るよ』と、応えた。いやっ、もう十分に黄昏てるか・・・・。

と、云うことだが。日曜日の午後はいい気分転換になった。気分転換といっても、本読んで部屋に垂れ込めつづける時間に対してであるが。

 

月曜日の今朝も涼しい。起床は6時前であったか。予定では、今月末までが弁当休暇の届をしているが・・・・。何もすることがなきゃ、弁当でも作るしかないと、台所に向かった。

冷蔵庫の中を見ても、碌な食材がない。出来合のチキンカツと、一つだけ残っているシューマイ、冷凍秋刀魚を焼くことにした。手作りをしたのは、「卵焼き」「ホウレンソウお浸し」「茄子と豚肉の味噌炒め」、以上であった。

               

ご飯の方は、昨夜家人が炊いた「鶏炊き込みご飯」が残っていたので、これは長女の弁当に使うことにし、家人用は鍋で白飯を二合ほど炊いた。

土・日は、我が家で晩飯を食べるのが習いの長女だが。今週は、旦那の実家が在る調布の花火大会だと、一家で泊まりに出掛けた。で、昨晩の「鶏飯」は喰っていないので、長女の弁当はこれにした次第。其々の好みを考えたご飯にする。なんとも、良く出来たOYAJIじゃないか?オイラもこれぐらい気働きする、女房があればなぁ・・・・。

                          

手抜きながら、一応は形が整った弁当になった(てる、はず?)。今朝は、出産で里帰り中の次女のご飯に加え、その旦那も泊まっていた。これがまあ大飯ぐらいの亭主なんだよ。この分まで気を使ってしまった。

 

 

 

 

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お祝い

2015-08-22 | Weblog

8/22(土) 昨夜は九時前と早目の帰宅。次女の誕生日だと云うので、用があった「奈加野」に立ち寄ったが、生ビール一杯だけで引き上げたのだ。奈加野は、八月の日照り月にも関らず繁盛していた。どうりで店主の鼻息が荒い。その鼻息の荒さで、明日の平和島競艇では大勝をしてほしいものだ。明日の午後は、三週間ぶりとなるボートレースだ

「KAYO&RURI」と、七月の末に生まれた赤ちゃんと、次女とのお祝いケーキになっていた。子供の名前をRURIなんて付けるもんだから『バカか』と言ったが、こればかりは私に命名権がないので如何ともし難い。

                       

『なんでそんな名前にしたんだ』訊くと、瑠璃はガラスの古称だし、青をさすからと言う。次女はガラス細工の作品を作っているので、こじ付けたんだろうが。私は気に入らないので『小僧』と呼んでいる。嫌みなOYAJIである。

最近の子供は名前は読めないし、意味不迷。そんなのが流行りのようだが、理解できない。名は体を表す、そんな理屈からすると、訳の分からん大人が増えることだろうな・・・。

それはともあれ、長女と娘のSORAもやってきて、賑やかなお祝いができた。家族とすごす、俺だって偶にはそんな日があるのだ。とは云いながら、早々に部屋に籠ったが・・・・。

部屋に籠って本を読もうとする、SORAが来て邪魔をする。幼子がいると、ゆっくりと本の世界にも浸れない。精々、後三・四年のことであろうが・・・・。

 

読み始めた本は「二十世紀最大の謀略 -ケネディ暗殺の真実-」落合信彦・小学館 である。二十年余も前に出版された本のリメイク版文庫だが、これが面白い。

                            

これを読んでいると、アメリカと云う国の暗部、薄汚さがつまびらやかになる。友人のMATUMO君が「石油ネット」に最近書いた、戦争は最大の公共事業であるが、如実になる。

こんな国に70年も尻尾を振り、飼いならされてきたわけだが・・・・・。集団安保の行く末が思いやられる。根底から国家の在り方を考え、どうするかを示さない限り、この国かたちは定まらない。国家感が明確でない国は、人口減の前に滅びて行くであろう。存在意義がないか?・・・・。

この不良OYAJIでさえ、そんな心配をしなければならん時代になっちまったぜ! 

それでも明日はボートレース、とは、なんとも締らない話であるが・・・・・・。

 

 

 

 

 

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暇にあかせて・・・

2015-08-21 | Weblog

8/21(金) お盆明けから初めて会社に顔を出した昨日。八時ごろから近所の飲み屋に顔出しとなった。先ずは「ローカーボ」さんでハイボール、相方はTOKIOさん。彼の信州・安曇野の施設に居る母親の様子などを聞きながら一杯、もう一杯とハイボールの美味さを味わった。

次いで「SEIJU」を覘いたが、珍しいことにサラリーマンでカウンター席が埋まっている。そっとドアを閉めて「ちょっぷく」に向かった。丁度、店の前でYAMAちゃん店長が客を見送っていた。その姿はバニーちゃん、ピンクの兎の耳を被っていた。余りの暇さに、やけくそになったのか?

                        

店内に客の姿は疎ら、これじゃやけくそでバニーちゃんごっこでもしてなきゃ間が待たねえか。またしても、売れ残るからと摘みをじゃかじゃか、ワインをグラスになみなみと注ぐ。閉店間際まで居たら、すっかり酔いが廻ってしまった。帰宅は零時前であったか?

今朝は、妙に胃もたれしている。昨日の昼の「半チャン・ラーメン&生ビール」か、「ちょっぷく」での― 摘み攻め&ワイン攻撃― の所為か、判然としないが・・・・。

今日は休みの予定だった。そんなことで出社午後からだと、落ち着かぬ胃をなだめようと、朝飯を食しながらビールを飲むことにした。朝飯は、弁当用に作った「オムライス」だが、これは昨日の昼飯で、半チャン・ラーメンかオムライスかと迷ったことが尾を引いたようだ。

今日の弁当は残り飯でオムライスと考え準備をした。念の為に白飯も炊いたのだが・・・・。長女は今日は休みとのことで、弁当要らずと判明。家人は、普通のご飯がいいと、これまたオムライスを拒否しやがった。そんな次第で、オムライスはオイラと小僧の朝飯になった。

家人の弁当が白飯となると、何か菜が必要だ。急遽、南瓜を煮ることにした。今朝のカボチャは、家人の友達で函南町在住のNAO&MAKI夫妻が送ってくれたもので、大量の紫蘇ジュースや胡瓜などと一緒に頂いた。心して煮なくては・・・・。

カボチャを煮ると、往々にして焦してしまうのだが、今朝は上手くいった。まあ焦さなかったというだけのことだが。なかなか、美味しい南瓜だった『NAOちゃん、美味い南瓜だぜ』。

                            

他の菜は、小松菜のお浸し、出来合のシューマイに焼き鮭、卵焼き、以上である。「今日は忙しいので、弁当をゆっくり食べる時間がないよ」と、作り手からすると張り合いのないことを聞き、手抜きの作りになっていた。と、云う次第。胃もたれも影響してるか?

                     

 

昼過ぎ、会社に出ようとすると次女が「今日はアタシの誕生日よ」と言う。『そうか?すっかり忘れてたよ。オメデトウ・・・。じゃあ特別に、俺がいなくてもカニを一匹喰っていいことにしよう』と、今朝札幌のT女史から届いたばかりの、大きな浜茹で毛ガニを食べる許可を与えた。次女は魚は好きじゃないが、カニ好きなのだ。

 

そう云えば、前日の8月20日が誕生日だった姐さんがいた。いたというのは、その姐さんは十六年前の初秋に亡くなった。六本木のクラブで働いていた。昔一緒に飲み歩いたKOSAIが連れて行った、防衛庁脇の通りに在った店、六本木クラブで会ったのが初見だった。そこから、六本木のクラブを何軒移たろうか。最後の店は、防衛庁前の通りを入った横丁にオープンした、シュールと云うミニクラブだった。

その姐さんの気性が気に入ったので、飲み行くと呼んでいた。何度か店がはねた後も飲みに行ったが、深酔いをすると荒れた。胸の奥に深い傷でもあったのか、単に酒癖がよくなかったか。前者ではなかろかと思っていたが・・・・。

誕生日が二十日と聞き、覚えていた。「よく覚えているわね」と言われたが、答は簡単なことだ。サリーマン時代の給料日が二十日だった。給料日と同じだから忘れようもない。しかし、そんな答えは明かさなかった。知らない方が夢がある。

それと同じように、その姐さん― 源氏名はAYAで通していたが、本名はAKIKOと聞いた、同じ店に明子と云う姐さんがおりAYAにしたとか― のことで知っているのは、世田谷の水道屋が実家で、実家に息子を預けている。そんなことを聞いたが覚えがある。そして本名は、木偏に日が二つのSUGIMOTOと云うことぐらいだった。

毎年八月の声を聴くと、窓の鍵に紐を掛けて、深夜の部屋で(店がハネて、帰宅してからだったとか)首を括った姐さんのことを思い出す。
AYAさんが逝ったのを知ったのは、三月も経った師走。雪交じりの霙が降ってきた晩のことだった。当時、横須賀に勤務しており六本木の巷を彷徨うこととはすっかり縁遠くなっていた。店に寄った友人からの知らせであった。只々驚いた。

あれから十六年、なんの手助けもしてやれなかった。そんな思いだけは拭えない。

 

お盆、終戦記念日、沈黙の八月。

 

 

 

 

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盆明け

2015-08-20 | Weblog

8/20(木) 一週間にわたる帰省&夏休みから、今日の昼に帰京。一週間の内、お盆明けまで上天気であった。が、盆明けで愈々畑仕事に掛かろうとした月曜日から、雨となった。その結果、四日続けて実家でのんびりと過ごすことになった。これはこれでよしだが、畑が気掛かりだ。池の掃除だけは雨の間隙をぬって済ませた。

十三日(木)の夜に帰宅し、廻り灯篭を組み立てた。十四日の土曜日は、墓の掃除。もっと早くにしなければならないのだが、墓石そのものは妹夫妻が済ませてくれていた。 私は、黒ずみが出始めた墓地の敷石をデッキブラシでブラッシングする。暑い中、汗を垂らしながらブラシを掛けた。遅まきながら、花を墓前に飾る。

掃除の後、隣接する畑からスイカとカボチャを二・三個収穫して持ち帰った。スイカは、二つ三つ、烏に喰われていた。ハクビシンや烏の襲撃は、茶飯事になっている。芋の畝が、またしても無残な姿になっていた。

                        

火曜日、朝から曇り空ながら天気予報では雨マークがついていた。降ってなければ畑の草刈とばかりに、出掛けた。上手い具合に、午後三時頃まで、天気が持った。草刈を終え、またしても動物(猪と云う説あり)に荒らされた芋の畝を戻し、カボチャやスイカを幾つか収穫して一服。その頃から雨となった。

何とか作業を終えることができ、ホットする。スイカやカボチャを植えてある一帯は草刈をしていない。その草の中に埋まって、実が隠れている。

                         

スイカは児玉なので、玉は小さいがそれなりに熟していた。が、甘味に掛ける。肥料が少ない所為であろう。南瓜の方は、上々の味である。都合、スイカを五個、カボチャは六個の収穫。

                       

問題は栗の木とミカンの木だ。栗は沢山実を付けていたが、未だ青いうちから落下が凄かった。樹の下一面に毬栗が散乱していた。虫でもついたのか?熊手でかき集め、幾つかの小山をにしたのだが・・・、翌日に畑に行くと、前日と同じぐらいに毬栗が落ちていた。

                       

蜜柑の方は、文旦もネーブルも小夏も、温州も殆ど果実を付けていない。花は咲いていたのだが・・・、昨年は稔りが良かったので今年は裏年かな。それにしても少ない、少なすぎる。実り過ぎても始末に負えないが、余りにも少ないのは興ざめだ。程々が一番なのだが・・・・・。

                          

安田川の水は、すっかり渇水していた。先月の洪水の所為か、川相がすっかり変わっていた。以前、淵になぅていた処が砂利に埋まって河原になっている。変れば変るものだ・・・・。水量が少なすぎて鮎漁にも影響しているとか。もう少し水量が欲しいようだ。先月の台風時の川と比べてみよう・・・・。

                    

 

今回も飯作りと、老母のボヤキを聞き、畑で遊ぶ日々。某夕食で料理(煮物)した、金目をお目に掛けて今回の帰省の締めくくりとする。

                            

                           俎板からはみ出す大きさ!

 

 

 

 

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休日のような・・・

2015-08-13 | Weblog

8/13(木) 今日から月遅れ盆か! 通勤電車のすいているのは勿論だが、最寄駅の小伝馬ちょうから会社に向かう通りにも、人の姿はまばら。休日のような静けさであった。世の中の7~8割は休んでいるようだ。

何時もの酒場「ローカーボ」は、週始めから休みのようだし、「高松」も「ちょっぷく」も、今日から休みだ。昨晩、九時前に「ちょっぷく」に顔を出したが、店内には客の姿が疎らだった。店主のYAMAちゃんも暇そうにしていた。が、ポツリポツリと客は来る。早仕舞いをしようにもできない様子だ。

会社に残っていたYOSHIOに連絡をし、呼んだ。すると、暇なYAMAちゃんと競馬談義で盛り上がった。残った摘みをテーブルに並べて「喰ってってくれよ」と煩い。『俺やぁ安い肴は要らないんだよ』と云うが、YOSHIOは、この際とばかりにパクついていた。

                     

暇な所為か、YAMAちゃんはスマホで演歌を流し、唄い始めた。そろそろ店仕舞いの時刻、とうとうスピーカーに繋いで唄いだした。それも古~い歌「べサメムーチョ」だ。唄っているのは、薬で何度目かの御用になった桂銀淑だ。つづいて流れたのは、数か月前まで彼がテーマソングにしていた「故郷の話をしよう」(北原けんじ)だ。こっちまで、一緒に声を出してしまった。「きみ~の知らない、僕の故郷 ふるーさとの はなーしをしよう・・・」こんな歌詞だぜ。

可笑しいのは、この詩の故郷と云うのは港町なんだ。「鰹船入る港に・・・」ってあるぐらい。処が、YAMAちゃんの故郷は、岩手の山奥の村(街灯も信号もない、山間を谷川が流れているらしい)なんだ。だから、俺は云うのさ『お前さんの故郷とは、大違いの詩じゃねえか』って。すると、顔を赤らめて恥ずかしそうにするんだょ。

『夜の十時過ぎは、昭和演歌専門の店にしたらどうだ』、そんなことを言ったら、マジな顔をして頷いた。店は、明日から盆休みだ。少しはゆっくりするかと思いきや、土曜日は「深川八幡の大祭」なので神輿を担ぎに行くと張り切っている。

『深川八幡の大祭と云えば、サラリーマン時代に、えらく寄付を取られたぜ。ふざけやがって』と、昔のことを思いだして、腹が立った当時のことを思いだしたのである。

十数年も前になるサラリーマン時代。深川八幡の在る森下町に、当時勤めていた会社の研修センターがあり、そこの責任者も兼務していた。そんなことから、町会長だか祭りの肝いりだかが来て、「大祭なんで、企業は十万円の寄付が最低となります」と、押しつけ寄付をさせられたことがあるのだ(決め決めのようだと、センターの課長からの報告)。

本店の所在地でもないし、たかが研修センターで常駐している人数も6~7人だ。随分無体なことを言いやがる、と思ったし腹が立った。普通ならそんな金額は断り、応分の寄付を落とし処とするのだが、お人好しで押しが弱い課長は、取り敢えず頷いてしまったようだ。

寄付の要請に来た世話役が、二軒隣で商売をしているオッサンというのも気にしたようだが・・・。その報告を受けて腹が立ったよ、お願いじゃなく、強要だから。一旦受けた話を、出て行って壊すのも大人気ないかと、不満ながら稟議をとおしたのだが・・・・・。

祭りの寄付なんぞは、地元に根付いているものが、その気風で出すものさ。それを、偶々出先の事務所があるからといって、金目を一律にどうこうと言ってくるのは筋がとおらねェ、と今で思っている。

たかだか江戸以来の伝統だろう、ニギニギしく祭りをするようになったのは?と云いたくなるぜ。

ここ人形町も江戸以来の伝統がある町で、今年は大祭だった。が、企業だから一律にナンボの金子を寄付をお願いします。なんてことは言ってこないよ。「ちょっぷく」の安酒が脳に廻ったのか、古い話、それも手前の銭でもないのに、妙に腹が立つことを思いだしてしまったのだ。

企業も大手になれば、出先だけでも何十ヶ所~数百ヶ所ある。寄付のお付き合いも祭りだけじゃないさ、となれば自ずとバランスと云うもんが求められる・・・。

つまんねぇことを書いてしまったが、あの件だけは妙に生なましく残っていた。思い返せば、伝統や習慣、それも自分たちの流儀を、押し付けられたことに対する反発が強かったのであろう。若いね、それともアホか!

 

余談がすっかり長くなってしまったが、今朝もちょろちょろっと弁当を作ってしまった。今朝の目覚めは、七時。夜が涼しかった所為かな?帰宅は零時前、蒲団に入ったのは25時前だろうが、随分寝たようだが・・・夢を見てたね。

七時過ぎスタートの弁当作りは、内容が限定される。所要時間三十分以内の制約があるのだ。

そこで、冷凍の出来合品「チキンカツとシューマイ」が登場し、レンジで温める。そして、冷凍の鶏肉と万願寺・オクラの煮物。豚バラニクとピーマン・シメジの炒め物。冷凍秋刀魚の焼き物。

                          

最後に、「茄子・シメジと挽肉の味噌炒め」が出来上がり、お仕舞となった。

                          

 

今夕、18:50分発にて帰省。どう足掻いても、弁当は明日から休みなのだ。明日からは、母の飯と仏壇にお供えする膳の当番兵だ。喰いもしない、母の食事で、私の腹回りは更に成長することだろう・・・。帰京は、20日の予定だ。

 

 

 

 

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