オヤジの弁当箱

日々の手作り弁当だけが生甲斐のしょぼくれオヤジ。弁当メニューと併せて日々の雑感を付記。

大晦日

2011-12-31 | Weblog

2011/12/31(土) 愈々大晦日、12月31日となった。今年も今日でお仕舞い。あっと云う間の一年が終わろうとしている。

暇なオヤジは、大晦日の一日をどう過すかと迷った挙句、昼から会社に出ることとした。誰も居ないはずの会社に灯りが点いている。誰かと思いきや、バイトのK君が帰り支度をしていた。そう云えば、Kは365日、滞在時間の短さを別にしても必ず会社に来ている。

Kを送り出して、今年最後のトイレ掃除に掛かった。掃除をお願いしていたOさんは、娘さんが出産し「放射能が怖い」というので、京都に転居したのである。

それが、一月ほど前のことか。メールに添付されていた孫の写真は、目がクリクリとして可愛かった。引越しの挨拶に見えたとき、『馬鹿じゃネエか』と親ばかと婆ばか振りを笑ったが、無理もないか・・・。

29日、会社から帰り軍鶏を煮た。すき焼風煮である。土佐風にプランターに植えておいた「ニンニク葉」を入れる。他には大根・蒟蒻・椎茸ぐらいであったか。軍鶏にしては身が柔らかく旨味があった。味付けは日本酒・砂糖・醤油だけである。

                         

究極の親子丼をと、軍鶏肉を取り分けて親子丼を作った。大きな丼にタップリと親子煮を載せ、がっがっと食べてしまったのである。極楽極楽・・・と、軍鶏鍋をつつきビールを流し込む。

                         

昨日の30日は、予定どおりに「鮎甘露煮」を朝から仕込んだ。夕方、相棒のヒロさんは暇してるだろうと、吉祥寺で会った。オヤジ特製の鮎甘露煮を渡し、ハーモニカ横丁の焼き鳥屋で「今年最後の酒だ」と、飲んだ。熱燗のコップ酒2杯・焼酎湯割を3~4杯だったか。

                     

処が、店を出る時、ほんの僅かな段差に転びそうになりタタラを踏む始末。酔っている気は更々なかったのに・・・。

渋谷に着くと携帯が鳴った、奈加野の店主からである。「魚を取りにこないのか」とi煩い。魚を貰うこととなっていた。

客も少なくなった店で、店主や郷里の先輩と生ビールを飲みながら「景気悪いね~」などと、田舎から送ってきたと云う軍鶏鍋を突付きながら、今年を振り返った。持ち帰りにマグロ・ブリ・イカなどを用意してくれた。

真っ直ぐに帰ろうと電車に乗った。処が、気が付けば自由が丘駅であった。二駅も乗り越していた。戻ろうと向こう側のホームに向かう為に階段を下りた。と、ここで事件勃発。なんと、最後の階段を踏み外し転んでしまった~、のであった。

寄る年波には勝てないということか、酒は程ほどに、控えろと云うことなのか・・・。周りの人から「大丈夫ですか?」と声を掛けられる始末。嗚呼・・・カッコ悪!

大晦日の今夜は、失敗なきように気を付けようではないか、諸君!

それでは、皆さん良い年をお迎え下さい。後、八時間で新年となります・・・。

 

 

 

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年末始休暇

2011-12-29 | Weblog

12/29(木) 愈々今日から年末始休暇となった。午後に会社に顔を出し、隣の「高松」にて蕎麦を食して一年の礼を述べた。NoboruとYoshioが出勤しているが、早めに切り上げるとか・・・。

2011年も明日・明後日と二日を残すのみとなった。二日間でやることといえば、掃除・鮎甘露煮作りと軍鶏鍋ぐらいか・・・。そうだった、明日の夜は渋谷・奈加野に顔を出して、頼んである正月用の「ナマコ・水ダコ」を取ってこなくては。

そうなれば、やっぱり飲むんだろうな・・・。最後まで、強くもない・好きでもない酒と縁がきれぬか・・・。

この一年、過ぎ去ればあっと云うまのこと、無為に日々を過してきたに過ぎぬ。それにしても、ちょこまかと小さな旅が多かった。

月例の高知への帰省は置いても、1月、釜山での日韓交流会・佐賀での古賀道場30周年祝賀会から始まり、福岡・金沢の「2011さくら道ネイチャーラン」、長野・隠岐島・佐賀・弘前・仙台~岩手・高知・弘前・仙台・那須・札幌・延岡・斎州島・吉野~那智勝浦となるか。番外が、先週の叔母の葬儀での帰省となる。

旅をしたとて、土地土地での感動はなくなった。ただ、行く先々での人との出会い、ふれあいがある。人の話を聞き、聴く、訊くことの面白さはある。だからこそ、旅をしようと思う・・・尤も、取材旅行が殆どでありで当然ではあるが。

今年の反省ねぇ~、残念ながら反省すらしようと思わなくなった。感覚・感性、すっかり鈍くなったようだ。さりとて、ビジネスの世界で生きる以上は、そうも云ってられぬが・・・。

短い年末始の休暇であるが、少しは考えてみるか・・・。

諸兄姉、良い新年を迎えられますように。それでは、来春一月三日に御目文字あれ・・・。

 

 

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牛焼

2011-12-28 | Weblog

12/28(水) 愈々今年の仕事納め、と云うことは弁当納めの日でもある。その納めの日に相応しく「牛焼」となった。

牛は、過日にO君が弁当用に持参した代物、漸く出番が来た。旨そうな上々の肉である。

シンプルに塩胡椒で焼くだけ。肉の旨味だけで美味しく焼けた。付け合せに長ネギ・ピーマンなどをオリーブオイル炒め。

                   

広島からMがまた牡蠣(殻つき)を送ってきた。最後に残っていた二つをバター焼きにする。そして、イタドリ(関東ではスカンポと呼ぶか)の煮物があったので、これも菜にする。それに竹輪やゆで卵も入った。

以上が、今年を締めくくる弁当である。何時もの三人前の他、お菓子が入っていた箱でオムスビ弁当を作る・・・しかし、これを誰が食するのか?大した量なのだ。

              

海苔を巻いた俵型のオムスビが四個と牛焼・イタドリ・竹輪・牡蠣バター・蒲鉾にゆで卵が付いた特製弁当。果たして誰の手に渡るやら・・・。

 

 「深夜まで・・・」

 昨夜はメールの誘いにのって赤坂・一つ木通りに在るピアノラウンジ『禅』に顔を出した。正しくは、カフェラウンジ禅となっているが、どうみてもカフェじゃない。ここのホームページを作ったが、基本的にはボランティアだが、私的には出来に満足していない・・・。(試しに見て頂戴)

店のオーナー葉子さんは、明日から老いた母が居る秋田へと向かうそうな。昨夜が今年最後の営業であった。葉子さんとの付き合いも四半世紀を過ぎた。お互い、それだけ年老いた分けだ。

彼女が映画の主題歌として歌った「あなたは旅人」(東宝映画の東京湾炎上の主題歌、古い話だが)を久し振りに唄って貰った。ベースギターのKASAI君を構いながらハイボールを飲る。

                   

話の中で、先日亡くなった竹脇無我さんのことから、氏がよく飲んでいた店「ニュー春」のママ・春駒さんが先日来店し、無我さんのことでさめざめと泣いたと云う・・・。

春駒姐さんは、戦後のゲイ脳界を生き抜いてきた正真正銘、正統のゲイである。先輩の姐さん方が逝き、「長老よ!」と威張っていたとか・・・。

春の店には長らく顔を出していない。一時は、深夜まで飲んで騒いだものだが・・・。久々に顔を出すことにした。この店を紹介した友人のHを呼ぶ。彼は私以上に顔を出していない、渋っていたが・・・。

婆さんと呼べばいいのか、はたまた爺さんなのか、どっちでもいいか?相当に酔いが廻っているので言ってることも、態度も滅茶苦茶。私らしいと云えば、私らしいが・・・。それ以上に態度がでかいのが春さんだが・・・。

四半世紀も前はゲイの店で飲んだ呉れていたが、近頃はそんな元気もネーや。六本木の゛ママ髭゛ニューハーフの゛プチシャトー゛、渋谷の゛お化けクラブ゛と、よくまあ遅くまで飲んでいたものだ。

それが昔日の面影なく、早寝早起きの規則正しい弁当オヤジに成り下がった。が、昨夜は遅くなった、酔いました。それでも夜半の風の冷たさだけは覚えている。

 

 

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オムスビ

2011-12-27 | Weblog

12/27(火) 年末になり本格的な冬の到来を覚えるようになった。昨夜の終電前の帰宅でも、駅からとぼとぼと歩く身に風が凍みた。折角の酔いも醒めようと云うもの・・・。

そんな所為か、今朝の寝覚めは良くなかった。旧な言い方では「看護婦の親玉、婦長」=不調というところ。

そんな所為か、弁当も作る気分にならない。が、弁当オヤジとしては何かしないことには示しがつかない。

そこで、安易ではあるが「オムスビ」の登場となった。時鮭を焼き、梅干を取り出す。飯は一応、三合ほどを炊いた。

今朝の飯だが、昨日Tokioが持ってきてくれた信州産コシヒカリ。何でも、Tokioの友人が無農薬・天日干しで作っているとか。値段の方も、生産者からの直仕入ながら4000円/10kgもすると零していた代物・・・。

「そんな凄い米なら、是非食したいものだ」と、所望していた。そんなことはすっかり忘れていたが、昨日一升ほど持参してきたのである。そんな次第で、信州産の新米を炊くこととしたのだ。

炊き上がりはチョッと水分が多い感じであった。水は少なめにしたのだが、電気干しよりは水分保有が多いのかな?明日は、もっと水を減らして炊いてみよう・・・。

新米・炊き上がり特有の、ご飯の香りを余り感じない。こっちの体調不良の所為かもしれない、最終評価は明日にしよう。

そんな訳で、今朝は鮭と梅干のオムスビ。そして、刻みネギ入りの卵焼きであった。

                   

実に簡単かつ手抜きな、今朝の弁当であった。

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炒飯

2011-12-26 | Weblog

12/26(月) 今年の仕事も余すところ三日となった。月並みではあるが、時の流れは早い。

昨夜、高知から帰京。

通夜・葬儀と慌ただしく済ませて、最終便にて羽田空港に降り立った。夜の便に乗ることは滅多にない。

機が東京湾に入り、滑走路へのアプローチに入ると、左の窓側に座る私の眼に、湾岸沿いのビル・建物を彩るイルミネーションの煌めきが入ってきた。

これほど、光のページェントが艶やかに映ったのは初めてであった。スワロスキーの硝子細工かクリスタルの反射か、スターダストのキラメキの如くに、凍てつく夜空に映えていた。

そうか、今夜はクリスカスだったか、と気がついた。綺麗だった。

土曜日の早朝に羽田を発ち、慌ただしく葬儀の手伝いや叔母の弔いに参列した。

しかし、図ったように三連休の初日に河岸へと渡るとは。叔母からの最後の贈り物か・・・。私的には、珍しく何の予定もなかった。(24日は家族のクリスマス会があったか)

告別式のあった昨日、高知も殊のほか冷え込んだ。霜が降り、鉢の水は厚く氷を張っていた。葬儀には、凛と冷え込んだ朝が似つかわしいと思った。

 

さて、明けて今朝の弁当だが「炒飯」となった。冷や飯が沢山残っていたので、先ずはこれを整理するメニューとなった次第。

具を何にするか迷ったが、海鮮炒飯とした。ホタテとエビを刻み、シメジ・ピーマン・パプリカ・タマネギが入る。その前に、菜を何か作ろう・・・。

                         

中々定まらない、残り物の食材を漁る。先日、O君が弁当用にと持ってきてくれた牛肉が在ったが、炒飯弁当にはそぐわぬ。結局、椎茸・蒟蒻・土佐天・インゲンの煮付けと小松菜・ハム炒め卵とじ、となった。

                        

大慌てで、廻らぬ頭のまま調理となったが、失敗・ヘマ・ドジの連続。詳しくは述べぬが、手順を全く間違えていた。料理が旨い分けはない・・・。

それでも何とか、三人分の弁当を仕上げたが?

                     

長女の分は、炒飯にするのが間に合わず白飯となったのである・・・。

 

 

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山賊の酒盛り

2011-12-23 | Weblog

12/23(祝日) 今日から三連休となる。昨日の忘年会用の「猪鍋&五目すし」作りが堪えたのか、昨夜の宴会後はグッタリとしていた。

猪肉は、今の時期にしては脂がのった上々の肉であった。

そういや、昨夕「奈加野」の店主から電話があり「、高知から猪肉が届いたから要らないか?」であった。重なる時は重なるものだが、こっちは手配済みでそろそろ煮始めようかという時刻、ぞんざいに『要らない!」と断った・・・。(オヤジのムッとした顔が浮ぶようであった)

トキオの打ったソバを食し、自分が煮た猪を喰らいと鱈腹となってしまった。おまけに隣の蕎麦店「高松」から蕎麦の差し入れまで届いた。

最後は大余りの「五目すし」を折に詰めて希望者に配布、更に残っていた米まで分けた。まるで、10月のベッタラ市での屋台の続きをしている気分であった。

遅くまで残っているメンバーを尻目に、仕上げに「高松」で焼酎を飲み、帰ろうと駅に向かった。が、U老が「最後に唄って帰ろうよ」と言いだした。

結局、Aoki・Akagiの適齢期オーバー独り組み(アラ五十路)と、後期高齢者入りまじかのU老で、鄙びたスナック「seiju」にて歌となったのである・・・。またしても午前様の帰還となった。

 「叔母逝去」

今朝、田舎より電話が入る。長く入院をしていた叔母が亡くなったとの知らせであった。12月初旬、危篤との連絡があったが、何とか持ち直していたが、時間の問題だと云われていた。

長い間、意識のない状態で点滴だけで生きていた。これで本人が一番楽になったのではなかろうか?息子の章(アキラ)がいる河岸に渡った。安らかに眠り給えと祈る。

章は、平成と年号が変った年の初め、突然に逝った。隣同士の家で、私とは兄弟同然に育ってきた。一人息子を早くに亡くした叔父や叔母の心中を思うと、言葉もない。

明日、帰郷する。幸に、この休み中は何の予定もなかった・・・。

 

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唐揚と焼肉

2011-12-22 | Weblog

12/22(木) 今日は12月22日、という事は年末ジャンボ宝くじの販売が終わる日である。昨夜、広島から上京して家に泊まったM君が、同僚から年末ジャンボ購入を依頼されたとのことで、「何処で買っても、当らないものは当らないのに」とボヤイていた。

さて今朝の弁当は、鶏の唐揚と焼肉とした。そして小松菜の煮物である。弁当は二人前、それにK君用にはオムスビとする。

年末となり、今宵は会社の忘年会。貧乏人らしく社内で山賊の酒盛りである。そんな次第で、Kに弁当が無くても食料はタップリと残るであろう。

それに今朝は、酒盛り用の猪肉や土佐風五目すし用の具を持参しなくてはならぬ。混み合うメトロに乗車する身には、弁当箱まで持つと邪魔なのだ。

唐揚は鶏肉と牛蒡、ピーマン・パプリカ・インゲンを素揚げにする。焼肉はタマネギとで炒める。オリーブオイルで、ピーマン・マイタケ・牛蒡の千切りを炒めて付け合せる。

                   

小松菜と薄揚げで煮浸しを作る。最後にオムスビ用の紅鮭カマを焼く。後は、弁当に詰めてご飯を握ってお仕舞いである。オムスビは鮭と辛子味噌の二種類とした。

                   

かくして本日も、実に旨そうな弁当が出来上がった。

              

今夜の山賊の酒盛りでは、「猪鍋」と「土佐風五目すし(手まいら酢を使用)」を作るのが、私の役目。Tokioは、「手打ちそば」を準備し、U老は「牛肉時雨れ」を作ってきた。ある意味、社内での酒盛りはオジサン達の遊び場でもあるのだ・・・。(猪は、私の郷里の山・畑を先日まで荒らしていたが、我輩の従弟に捕らわれた・・・嗚呼!無情也)

 

 『チョッと善い話・・・?』

昨夜の独身寮時代メンバーとの飲み会は、Y君が通夜があるとのことで欠席となり五人での会となった。私を除いて、同じグループ会社なれど、それぞれに一家を構え、其々の生き方となっている。

話を聴けば、それぞれの日常が垣間見えて面白い。今夏、再婚したという通知があったYから話を訊こうと、皆待ち構えていたようだが、肩透かしを喰った感あり。

一番面白くもあり、身にもつまされ、かつ『あんたは偉い』と喝采だったのが、H君の最近の暮らし振りであった。

                         

                         

                         左手前M・奥S 右手前H・奥E

 話題の中で、皆の小遣いのことに及んだ・・・。(条件は異なれど、全員が再雇用である)

H君曰く、『かあちゃんが呉れるのは、一日ワンコインの500円だけ』と呟いた。全員が、えっ!と驚く。

「それで、やっていけるの?昼飯はどうしているの?」と、いうと。『やるしかないのよ、やってますよ』と、言い放った。

それから、彼の、涙ぐましくも努力の数々が語られた・・・。

『昼は、98円のカップラーメンと105円のオムスビとか。オムスビ二個とか・・・』『朝は、食パン一枚、半斤で75円の八枚切りを買っておくのよ。冬場はカビも生えないし・・』

何?朝も自分で賄うの?
『もっといい、かあちゃんのパンがあるけど、それを食べると怒るのよ。それなもんだから、自分で買ってくるのよ』と言う。

酒は家で飲まないの?タバコ吸ってるよな?

『酒は飲んでますよ、ワインとかウィスキーとか。毎晩二・三杯はやりますよ。』

『3l㍑で680円のワインとか、スコッチまで有るのよ。焼酎だって、箱入りの安いのがあるし。まあ・・ビールは、発泡酒とか雑穀ビールだけど。下町なので、結構安い物が有るのよ』

『タバコは一箱400円だけど、このタバコは長いでしょう。だから半分吸うと、取っといて後で残りを吸うの。だから、二日を一箱で持たすの』

『何処が一番安いか、何が安いかは、チラシを見て無くても俺が一番詳しいんじゃないか。かみさんよりは、絶対に詳しいね。暇な時は、何時も店を覗いてリサーチしてるから』ときた。

下着から洋服と、あらゆる物が徹底したリサイクル、省資源の暮らし振りを聴き、我等は唖然・房然自失の体であった。

若い頃はお洒落で、何にでもこだわり派であったHは、すっかり耐乏生活・省エネ生活の実践者になっていた(貧乏生活とは敢えて云わない)。暫く会わないうちに大変身をしていたのだ。

 淡々と事実を語るHに、最後は皆で拍手喝采。「あんたは偉い」となった。

其処までやる分けは聴くまい、言うまい。やれば出来ると云うこと、実行することが何よりである。

何があっても生きて行ける、と云う勇気を頂戴した・・・そんな感じ。(帰宅しても、流石に家人にはこのことは云えなかった)

 

 

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三色丼ならぬ・・・

2011-12-21 | Weblog

12/21(水) 今朝弁当のことを考えた時、脳裡をよぎったのがご飯の上を彩る三色。ソボロ・炒り卵・デンブの三色丼であった。そういや、暫く作ってない。

そんな次第で、ありあわせの挽肉と卵焼で三色ならぬ二色丼風の弁当を作ることとなった。このポイントは、挽肉の味付けである。無い知恵を絞り(?)、相応の味となったはずだが・・・。

これで今日のメニューが終わるはずも無く、メインの菜はホタテのフライとした。このホタテは、先日北海道の友人T女史が贈ってくれた代物。ホタテ不良の今季、肉厚の実に立派なホタテである。本音のところ、弁当には勿体無いが・・・。

揚物ついでに、小エビの天ぷらと人参・蓮根の素揚げを作る。エビはフライの方が旨いだろうが、ホタテと同じじゃ芸がないと云うところ。

                       

煮物は加賀小芋とインゲン・油揚げの炊合せ。焼き物は時鮭とした。フライで使ったパン粉・小麦粉・溶き卵の残りで、モヤシ入りのチジミにして焼いた。

             

以上が今日のメニューである。揚物に意外と時間を取られ、弁当作りに一時間を要した。今日も三人分であったが、残り物を食して味見となった・・・上々でした。

                   

 

さて、今宵も渋谷「奈加野」に古い仲間が集う。今宵のメンバーは、津田沼(千葉県)の独身寮「前原寮」時代の後輩達である。当時一番の若手は高校を出て入社したM君、一年前の入社のY君。共に剣道部であった。

そして、テニス部のC君と四国香川出身のEが年長組みで、その間がヨット教室で偶然一緒になったH君、後からS君が加わった。C君は、今春に卒業して郷里の岩手・一関市に暮らしている。

広島に勤務するM君が出張してくるとのことで、久々に仲間が集まることとなった。何しろ三十数年前からのメンバー、段々と原型を留めなくなってきた・・・。一緒に海に、スキーにと飛び跳ねていたのは、遥か彼方・・・。

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焼肉と鶏煮

2011-12-20 | Weblog

12/20(火) 今日は焼肉と煮物、それに小松菜の炒め物となった。焼肉は昨夕、SさんやO君と人形町を散策したおりに「日山」にて弁当用のタレ漬けを購った。

焼肉は簡単なうえにボリユーム感・旨味ともに申し分ない菜である。今日は、下仁田ネギを付け合せに炒めた。下味は付いているが、味付けにプルコギのタレを使用した。

                           

煮物は鶏肉と大根・椎茸の煮物。小松菜は軽めに下茹で、胡麻油とスリ胡麻、仕上げに卵を絡めた炒め物風にする。

                      

ご飯を仕掛けて炊き上がるまでの40分で全てが完了。珍しく早い時間で弁当作りが終わった。今朝は三人分の弁当、ご飯の上に辛みそを乗っけてお仕舞いとなった。

                            

 

昨夕、三越前にてSさんとO君に落ち合った。三年ぶりに会うSさんは、近頃膝が痛むとかで出歩くことがないとのこと。長歩きは出来ないとのことだったが、三越前から日本橋、人形町・甘酒横丁へと、ゆっくりゆっくりと三十分ほどの散策。

Sさんは、四年前に奥さんを亡くしてからは一人暮らし。一番困るのが食事とのことだった、私とは異なり「男子厨房に入らず」を通していたそうで『今になっては遅いわ』と、出前や近所のコンビニ弁当とのこと。

                            

O君は、二年ほど手が掛かりっきりだった母を見送り、奥さんと二人の安穏な日々を送っているとのこと。そのO君は、30年も前になるが、茅場兜の局で二年ほど厚生係長をやったとのことで、周囲の景色や店を仕切に懐かしがっていた。

早くから開いている居酒屋に入り、昔話に花が咲いた。Sさんは84歳になったとか、膝の具合を除けばお元気である。昔と余り変っていない。O君はすっかり脱毛し?紅顔の美青年の面影は残しながらも寒いおつむ。「何だ、俺より本数が少ないぜ」とからかう。

                            

仕上げにチャリンチャリンの「ちょっぷく」に案内し、当社の老分、Uさんに引き合わせた。話が弾み飲みすぎたが、お二人とも元気で何より。いい宵であった。

 

 

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豚&ブタ・・・

2011-12-19 | Weblog

12/19(月) 今日のメニューは豚肉となった。豚ヒレ肉の香草焼と肩ロース肉と根菜の煮付け。これに付け合せの野菜たちである。

香草焼はローズマリーとレモンハーブにワインで、下仁田ネギ・エノキの炒め物を添える。煮物は、大根と人参・インゲンがお供で酒・醤油に味醂とウェイユーで味付けする。そして、最後は、定番の卵焼きであった。

                    

今日は、淋しくも弁当は二人前である。長女は弁当が要らないそうだ。Kと家人の二人前だが、一人分の菜が余った。小僧が朝飯で喰っていた・・・。

                         

其々、一口づつ味見だけはした。中々の弁当の菜であった・・・?

 

 「古い人たちと・・・」

今週は二晩ほど、若い頃の知り合いと会う。今日と、明後日である。

そう云えば、昨日懐かしい唄(民謡)がラジオから流れてきた。

「白浜音頭」である。『房州白~浜 ヨーホエ住みよ~いところョ、真冬菜種の・・・花盛りヨー・・』なんて云う詩の、千葉県民謡。

この唄は、入社四年目にご一緒し、三年前に亡くなった小宮係長から教わった。当時は、墨田区横網の墨田地区管理部に勤務していた。震災記念堂の横の建物が勤務先で、釣の好きだった小宮さんから、投げ釣を教えて貰い、練習をしたのは震災記念堂の脇の空き地であった。

お酒も大好きな好々爺然とした方であったが、今思えば未だ四十半ばの年齢であったはず。担当業務は、小宮さんと私の二人だけの係りであった。飲みに行く店は居酒屋、「偶には姐さんがいる店に行きましょうよ」と、云ったものだった。

その小宮さんが、酔っ払って行く先が「民謡酒場」であった。亀戸や錦糸町辺りの小さな民謡酒場、そこで「白浜音頭」をよく歌っていた。

そんな民謡酒場って、未だあるのか?時代の時がゆたったりと流れていたような気がする、昭和四十年代後半の頃であった。

先週金曜日にもある方と会ったが、この方も墨田地区管理部時代に仕事上で付き合いがあった社内の方。職場を訪問し、その後、暫し杯を交わした。来春には完全にリタイアするとのことであった。

今日会うのは、サラリーマンになった最初の職場でお世話になったSさんとO君である。遥か四十年を越えた時代のことである。江東区の外れ、東陽町にあった電話局に勤務した時のことで、都電がまだ走っていた。

当時、Sさんは労厚係長、O君は資材担当で入社二年目であったか。新入りながら態度だけがでかい私は、O君から社長と呼ばれてからかわれていたものだ。庶務係りであった私は、給与事務等を担当していたが、算盤が全く駄目でO君の応援で凌いでいた。

O君の算盤術は、私からすると神業であった。労厚係長だったSさんは、組合対応などでご苦労をされていたが、若い人たちへの配慮には並々ならぬものがあった。

最初にゴルフのクラブを振ったのはこの当時。O君と二人で、Sさんに連れられての赤羽の河川敷練習場であった。この時、Sさんの東十条の自宅でカッドンなどをご馳走になった記憶がある。

最初の師匠が悪い所為で、ゴルフが上達しない。と、その後にゴルを始めた私はSさんに云うのが常であった。そのSさんも、奥さんに先立たれて一人暮らしが長い。

O君は西尾久に自宅が在り、何度か立ち寄った。既にお父さんは亡くなっており、母親との二人暮しであった。ここでも何度か飯を馳走になった。

スポーツマンのO君は、我が電話局のエースであったが、体力不足からか後半になると打ち込まれたようだ。当時大流行だったボーリングでは、300点近いスコアを出していた。

野球の電話局対抗戦の翌日、線路課のメンバーやSさんから冷やかされていたのを思い出す。そのO君の結婚式で、司会を努めたのは私であった。サラリーマン人生も順調であったが、或る時厭なことでもあったのだろう、サッパリと退社した。

介護で苦労されたようであるO君の母親は、今春九十一歳で亡くなったとのこと。

働き始めた頃に出会った人たちと、今も会えるのは嬉しいものだ。会いたい人たちは沢山いるが、大半は会へないままに終わる。そして亡くなっていく・・・。人は皆、死ぬ運命にある。か、・・・。

 

 

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