オヤジの弁当箱

日々の手作り弁当だけが生甲斐のしょぼくれオヤジ。弁当メニューと併せて日々の雑感を付記。

稲荷すし

2011-04-28 | Weblog

4/28(木) 愈々明日からゴールデンウェイ―クとやら。初夏の陽気になったことだし、世間では少しは遊びの気分か・・・。

今朝は予定どおりに「稲荷すし」となった。簡単・シンプルな稲荷寿しである。稲荷は出来合いのもの、お酢は秘伝の「てまいら酢」、後は手抜きで金胡麻を振るだけ。一応ご飯は炊きましたが・・・。

ネズミ族の長女、昨夜の帰りに「これ私の弁当箱」とか言ってデカイ弁当箱を置いて行ったそうな。夜遅くに次女が泊まりにきた。そんな事で、今朝の弁当必要数は五人分となった。

お菜が無いのも淋しいと、豚肉とピーマン・アスパラ・シメジの炒め物。ジャガイモ・人参とゆで卵の乱きりサラダ。それに、昨日頂戴し今朝炊き上がったばかりの筍をK君ように入れることとした。

              

大飯ぐらいの長女・次女には、おまけのオムスビ(酢飯・普通飯)も入れて帳尻を合わした。

              

今月の弁当も今日でお仕舞い。連休明けには新趣向で行きたいものであるが・・・。

5月2日まで高知へ、5日から7日まで隠岐島(島根県)で取材となる。帰路、未だ見ぬ出雲大社に廻りたいのだが・・・。

皆さま、好き休暇をお過ごしの程を・・・。

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ネズミ出没

2011-04-27 | Weblog

4/27(水) 今日は「牛カルビ」と、作り置き冷凍の「ミニハンバーグ」「キクラゲとシメジの卵とじ」、残った溶き卵で卵焼きがおまけとなった。(後から写真見ると、カジキの照焼も付いていた・・・ボケ)

しっかりとご飯を炊き、ハンバーグソースを作り、カルビ肉を焼き付き合わせのタマネギ・ピーマンを炒め、キクラゲとシメジを卵とじし、概ね完了と云うところで我が家の電話が鳴った。

     

何事かと思えば、今週から仕事に復帰した長女であった。「今、家の前だけど、弁当のサンドイッチとか余ってない?」などとほざいていた。恐れていたことが現実となってきたか・・・。

近所に家を構えたのは善いが、子守や、仕事に復帰した暁には「弁当」を狙ってくるだろうと睨んでいたが、早速に現実となったか・・・。

まあ、これまで殆どほったらかしで育ってきた所為もあるし、ほったらかしにした所為もある。ここはぐっと堪え「弁当用意してやるよ!」と云ってしまった。

急いで娘の分を弁当に詰めて渡した。曰く「毎朝、7時半にここを通るから」ときた。すっかり一食分を浮かすつもりか?三人分も四人分も大した変わりはない(実は大有りだが)、一つでも多く作れる喜を優先しようと、私は胸に誓い、自分を納得させたのであった・・・。

かくして、結果的に四人分の弁当を作った朝となった。

                     

悲劇はこれだけで終わらなかった。もう一匹のネズミが存在していた。

午前中、渋谷の某社にて情報誌「防災ガイド」の打ち合わせがあった。昼過ぎに家の近所で所用があり、会議が終われば一度帰宅するつもりで「私とKの弁当」は、弁当袋に入れて置いて出かけた。

会議が早めに終り、先方の副社長と話をして帰宅した。さて弁当は、と思っていたら・・・。
なんと、今度は末娘が「お弁当食べちゃったよ!」「弁当忘れて行って、ドジだな・・・と思って」バキャロ~と、云うしかなかったのだ。

朝、昼と、二度にわたり頭の黒いネズミに襲撃された、ドジな一日であった。

明日、夕方の便にて帰省する。明後日、母が退院となるのでお迎え。そして過日逝去されたOkamune先輩の墓参、蜜柑畑の草刈、野菜の植付けもあろうか。弁当の代わりに、老親の飯作りとなるが、老人は食が細い、作り甲斐がないのだが・・・。

明日の弁当は『稲荷寿し』、絶対的にその予定。

 

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煮たり炒めたり・・・

2011-04-26 | Weblog

4/26(火) 夜中に起こされてしまった。家人の仕事用の携帯が鳴り、呼び出しがあった所為だが・・・。目が醒め、寝つつどこか覚醒し、覚醒しながら眠っているような現実と非現実、あっちとこっちを行きつ戻りつしながら朝となった。

布団の中で、今朝は「稲荷寿し」にしようと思っていた。台所に立ち炊飯器を見ると昨夜の残りご飯が相当に在る。残り飯で稲荷寿しも味気ないと取り止めた。

結局、鶏肉と人参・筍の「煮物」となった。これにピーマン・セロリ・シメジと豚肉の炒め物、ジャガイモ・人参・ゆで卵の根菜温サラダを用意した。

炒めものは、唐辛子・ニンニクをオリーブオイルで熱し、塩胡椒と中華スープの素(ウェイユー)を少しで味付け。サラダはお酢とマヨに胡椒である。

               

飯を炊く必要も無く、早々と弁当が完成した。ご飯の上は海苔佃煮であるが、この味がいまひとつであった。

                    

子供の頃に食べなかった人参を使う事が多い。嗜好の変化と常備されていることによるが、タマネギ・長ネギなども好むようになったのは年の所為か?

タバコだけは同じ銘柄を学生時代から愛用してきた、時にはピースなども吸ったし、一時期パイプタバコに慣れ親しんだこともある。が、ベースはショートホープである。

大人にはタバコが似合う、はずである。唱の台詞にもある「男はふりむき暗い空を見上げ、点けたタバコにふるさとを想う・・・」とか、或は「つけたタバコの吸殻で、貴方の嘘がわかるのよ」なんて、ちょっとヤバイ台詞まで含め、煙に巻いたり巻かれたりと、大人にはタバコが必需のはずなのに・・・。

はずだが、切り札のタバコが品切れとは様にならぬ。日本も愈々こどもの国となったか?

 

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タバコがない・・・

2011-04-25 | Weblog

4/25(月)  本当に、本格的に、絶対的にタバコがない。ないのだ。いや、正確に云うと私が吸っているタバコが店頭から、あの憎き自販機からも消えた・・・。

先週の金沢では、駅の売店で買えた。週末の長野では、駅下のコンビで最後の四箱を買うことができた。後は、何処にもなし・・・。仕様がないので他人のタバコをせびる、一年以上前に貰って忘れていた「葉巻」を探し出して吸ったりと、愈々末期的になってきた。

4月下旬になれば、私が愛用するタバコも生産できるだろうと踏んでいたのが思惑違い。こんなことなら、タバコより害が少ないと巷間云えられる、マリファナを解禁しろと、言いたくなるぜ!

どうも自分の嗜好品のこととなると過激になるが、そう云うぐらいに腹立たしい現象である。これが、本格的な停電ともなると何を言い出すか分からん・・・。

人生を煙に巻くより、現実の弁当のことでも考えよう。

で、今朝は残り飯で「焼飯」となった。人参・ピーマン・シメジを刻み、小エビを炒めたオーソドックスな「焼飯」である。

                        

菜もシンプルに干し鯖焼、小松菜とウィンナーの卵とじ炒めである。ちょっと趣向を変えて「タマネギ・シメジ・人参」で「カレー煮」を作る。普段でもカレーを食すことは希だが、どう云う風の吹き回しか、絶対作らないと思っていた物が登場した。これも遊び心か・・・タバコに対してもそれぐらいの鷹揚さがほしいものだが・・・。

              

タバコが愈々、一箱のみ。弁当つくりを終えても、一服するのを躊躇する始末。この弁当、俺のタバコと誰かチェンジしてくれんかいな・・・。私のタバコ、伝統的「ショートホープ」でありんすが・・・。

              

 

 「金沢にて・・・Ⅲ」 

さて、愈々「2011 さくら道 ネイチャーラン」の大詰め。沖山さんとNO44エイド「道の駅福光」で分れた。沖山さんの順位は7番目か、本人は順位のことは全く気にしておらず、目標タイムでゴールすることだけの様子。(因みに、エイドはスタートからゴールまでの間で48ヶ所設けられているようだ)

沖山さんが「五箇山の坂道や、長いトンネルを見てきて」と示唆をくれたことに拠る。田舎町、田舎道や宿場町の跡らしい街を過ぎ、五箇山からの下り坂(こっちは登り)に差し掛かる。下り道を漸う走ってくるランナーと行き交う。

足は伸びず、辛うじて自分の体を膝が支えているようだ。誰も顔を上げようとせず、只ひたすら足元だけを見ている。急な下り坂、勾配の所為、勾配によって体が運ばれているようだ。それに膝がじっと耐えているのか・・・。

やがてトンネルに入った。長い・長い、暗いくらいトンネルであった。車の中、ライトを付けての走行ながら暗い。ようやく出口が近づいた頃、ランナーの姿が壁際に浮んだ。側道は50~60cmか、安全柵も無い暗い中、ゆっくりと歩むが如くに進んでいた。

車中、義妹が云うには「この山は昔、人食い谷と呼ばれた。険しい山道に谷が深く切れ込み、狭い道で人を呑込んだと言われてます。「里人はこの山を越えて年貢を運び、山を越えて安堵したと云います。この険しい山の奥里故に、加賀・前田家の火薬製造所が置かれたそうです」と。

奥山を越えた里が五箇山か。トンネルを抜けると、合掌作りの里は遥か谷の底。九十九折の急峻な下り坂となった。坂道の折れ曲がった辺りには何軒かの集落。丁度、部落総出の清掃日であろうか、ゴミ袋を手にした老男女、いや老人と子供達が目に付いた。

この坂道がランナーを苦しめていた。進もうにも足が上がらない、走ることなど論外、歩むのさえも絶え絶えの有様。前日、午前6時に名古屋城をスタート。既に24時間、いや27時間となるか。高度800mの「ひるがの分水嶺」を越え、零度の夜道を駈けてきた。胸を衝く五箇山の急峻な坂は、精魂尽けとばかりにランナーを遮り立ちはだかっていた。

更に進む、五箇山から白川郷に至る道は歩道がないばかりか、ダム沿いの暗渠、工事中の道。「人は何故走るのか?」この過酷な条件の中。ランナーに、沖山さんに訊きたいと切実に思った。

高々50~60kmであろう、ルートを逆走しただけであったが感歎・驚愕・呆然し、沈黙するのみとなった。

                       

                        白川郷より白山を望む

11:07分、沖山さんがゴールした時間である。このネイチャーランにおける彼のベストは、22時間程ではなかったろうか。それに比べると時間を要したこととなるが・・・彼は云う「予定どおりでした」と。

ランナー達を追いながら、義妹の言った言葉にウルトラマラソンのハードさが凝縮されるのではないか?。『走っているのは、みんなお爺さんばかりだね!』

                       
精魂尽き果て、生気が蒸発・霧消したランナーの姿は、確かにそう映るかもしれない。

ゴール後、メディカルチェック中の沖山さんに「体調は如何ですか?」と、訊く。『走る前より心拍数は安定しています。スタート前は興奮していますから』と、穏かな声が返ってきた。

                               

250km、この全コースを知りたい。桜並木にしたいと積み重ねながら、道半ばで逝った「佐藤良二」さんの想い、昼夜を分かたず駆け抜ける「沖山健司」さん達の思い・・・。

                      

この道を辿らない限り、見えもしない、分かりもしない。その一片の匂いさえも感知できないであろう。

 

                      

 兼六園下の通りに「佐藤桜」と命名された桜木あり。氏の遺徳を偲ぶ表示と塚が建てられている。この日、花びらは惜しげなく空高く舞った。

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金沢にて・・・

2011-04-21 | Weblog

4月17日、日曜日。前日の土曜日にスタートした「2011さくら道 国際ネイチャーラン」のランナー達がゴールをする朝を迎えた。今回の金沢行の三番目の目的が、この大会に出場している「沖山健司」氏の応援と激励、大会の状況視察であった。

このウルトラマラソンは、故佐藤良二氏の遺徳を偲んだ大会。佐藤さんが乗務していた名古屋~金沢間のバスルート、250kmを走破するという大変なマラソンである。土曜日の午前6時に名古屋城をスタート、一昼夜かけて金沢兼六園の佐藤桜の前がゴールである。

             

沖山氏はこの大会で、過去数度トップとなっているウルトラマラソンの第一人者である。前々日に貰った電話では「今回は昼頃に着く予定」と云っていたが、過去のタイムで一番いいのは22時間程でゴールをしている。逆算をすると、明け方前のゴールとなるが・・・。

義妹(暫く家に滞在していたkeikoの母)に車を出して貰い、6時にゴールの兼六園に行った。大会の関係者に訊くと未だゴールをしたランナーはいないとのこと。途中棄権も相当出ているようだった。コースを逆走して探しに出かけた。

義妹は金沢在住なので道路に詳しく、大助かりである。行けども行けどもランナーに会わない。相当遅れているようだ。6:37分トップのランナーの姿を捉えた、ゴールまで10Km程の地点。苦しそうだが、足取りは確かな様子、NO15の鍵選手であった。

更に逆走する、何人かのランナーを目にする。苦しそうな表情、上がらない足。「頑張れ!もう少しだ」など声を掛けるが、返って来ない。そんな元気も失せて必死の様相である。

五番目ぐらいに女性ランナーの姿が見えた。比較的安定した走り、手を上げて去って行った。

我が沖山選手の姿は見えない、途中のエイド道の駅福光で運営スタッフに確認すると、未だ通過していないとのこと。更に逆走するが、不味い事にコースガイドを此処までしか持参しなかった。名古屋~郡上八幡~荘川~白川~五箇山~福光~金沢の幹線ルートは分かっているが、町中を抜けるルートが分からない。

次のエイドに着き確認すると、既に通過していた。引き返す、エイド福光の手前で発見。二人で並走している。追い越して先で待つ、声を掛ける。手を上げ、返事が返ってきたが頬は虚仮、顔色がよくない。一緒に走っている若いランナーは初出場とのこと、サポートしながら走って来たに違いない。

                 

福光エイドに入り、小休止のようだ。小さなオムスビを食べている。(ブルーが沖山さん)7:35分頃であった。

                      

少し話しをする。「予定どおりです。コースを見てきてください」と云う。此処からゴールまで2~3時間を要するだろう。その言葉に従い、コースを見に行くこととした。

20~30分走ると五箇山の下り坂(こちらからは登り)に差し掛かる。ランナーに何人か出会う、声を掛ける。誰も顔を上げず、手も上げず、笑う膝を必死に保ち、耐えているのが分かる。

 -この項続くー

 

 

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根菜煮など

2011-04-21 | Weblog

4/21(木) 陽気がよくなった所為か、この頃は明け方に目覚める。今朝も5時前ぐらいには目覚めたが、布団の中で「さて今日は何を作ろうか」などとボンヤリしながら考えていた。が、纏まらない。昨夜の事柄などが浮かんでいた。

そう云えば昨夜の帰り、古本BAR「ひらいし」に立ち寄りワインなどを啜っていた。水曜日の店長、電撃ネットワークの「三五十五」氏が、南相馬市でボランティア炊き出しをやったと話している。

「まるで映画で見るゴーストタウンですよ。その中に残っている若者はジャージ姿、自衛隊員はゴーグルに完全防護服。どうなっちゃってるのか、諦めているのか不感症になっているのか・・・、政府がもっとはっきりした方針を出さないと後で大変なことになるかも・・・」

相当に酷い状況だったようだ。そんな処で、要請があったバーベキューをやり「肉喰うの久し振り、美味い旨い」と喜んで貰ったそうだが、「こんな事でいいのか、と叫びたかった」そうだ。

さて、今朝の弁当だが先ずは「里芋と人参、油揚げ」の簡単煮物。そしてジャガイモ・ピーマン・人参・セロリとベーコンを千切りにした炒め物となった。定番卵焼き刻みアサツキ入り。
何だか淋しいと、追加でウィンナーを炒める。

                     

と云う次第で三人分の弁当の用意ができた。が、健康志向で澱粉系を減らしている私の菜を一品追加した。レタスをちぎりオリーブオイル・バルサミコと胡椒の野菜サラダである。残っていたミニトマトも加える。

                     

久々に「曲げワッパ弁当箱」にもお出ましを願った。ちょっと、量多くないか?

                    

 

明日は、長野市において「うどん店」の取材。弁当は休みとなろう・・・。そして、24日の日曜には横須賀市武山にてバードウォッチングの取材立会い。遥々と熊本からMita氏に上京して頂き、横須賀市長沢に在住するAbe氏との野鳥観察の対談である。天候が心配な処であるが・・・。

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金沢にて・・・

2011-04-20 | Weblog

4/16(土)大澤さんの墓参を終えた後、奥様とM氏の三人で昼食を摂りながら往時のこと、最近の様子などを語り合った。その中で一つ、とても嬉しい言葉が奥様から出た。

午後の予定に話が及び、M氏の案内で和倉へ向かうこと、それが情報誌の取材対象の予備調査であること等を伝えた。情報誌の内容を話すと、その情報誌「ライフアシスト」が奥様にも届いており「とてもいい内容で、デザイン・紙もよく。愉しく読んでおります」と云って下さった。

その言葉を聞き、嬉しいこと限りなし・・・。実は、情報誌の発案者でクライアントであるLA社の副社長W氏も大澤さんの元部下。一緒に仕事をしたメンバーであり、27年前の葬儀にも参列している・・・。

午前中の雨も上がり、青空が見え始めた頃、M氏の車で和倉温泉駅前へと向かった。大よそ二時間弱のドライブとなった。

車中、昨夜一献傾けながらの話の続きとなった。M氏の出身は富山・立山町である。昨年から立山町の実家に戻り、母親との二人暮しを始め、金沢市内の会社まで通勤している。

彼が東京住まいの頃から、田舎で一人暮らしの母親を気に掛けていることは再三聞かされていた。また母親も「何時になったら戻るんだ」と心待ちにしていた。

東京に自宅を構え、仕事を持ち、家族を養う身にとっては選択に迷う事、著しい。彼れは長いこと、その選択に悩み・躊躇し、苦しんでいた。

その彼が、とうとう決断に至った小さな出来事。或は大きな出来事を話してくれた。

多分、一昨年の夏のことではないだろうか。彼は家族と帰省したそうな。何故か、何時も下りる駅の一つ手前、小さな駅に降り立ったと云う。

見知らぬ一人のオバサンが駅前を掃除しており、その方が、帰省者らしい彼に言ったそうな。
「ずう~っと向うの畑にいるお婆さんが、息子が東京から帰って来るって喜んでいたよ」と。
勿論、彼はそのオバサンのことも、向うに居るというお婆さんのことも知る由もない。

処が歩いて行くと、畑にいるお婆さんというのは、彼の母親だった。その時、母親がどれだけ自分を待っているのか、見知らぬオバサンにまで息子の帰省を話、首を長くしていることが痛いほど分かったと云う。

そのことがきっかけで踏ん切りがつき、とうとう収入や地位よりも、老いた母と暮らし安心させる人生を選択できたと云う。

「まあ、一緒に暮らすと、それはそれで腹立つこともあるけど」と屈託がない。これからの彼は、田舎暮らしの充実と「かっこいい熟年・老人」になることだと云う。私などは真似ようもない生き方をしている。

そんな話のあれこれの内に、和倉温泉駅前に着いた。目指す店は、駅前の「はいだるい」と云うカフェ&洋食店である。小さな駅、西部劇の洋画に出てくるような街並み・・・。

                  

店には折りよく店主が(ご本人は手伝いですよと、仰る)居られた。コーヒーを飲みながら暫く話を伺った。処で、店名の意味分かりますか?友人も金沢住まいの方も分からなかった。

何でも「下らない、だらしない」と云うような意味の中能登地方の方言だそうです。店名の由来を訊ねると、他所にない名前にしたかったと応えられた。

店を辞し、折角此処まで来たからと「能登島大橋」を見て帰ることとした。駅前から車で3~4分程で着いた。橋を渡り、直ぐにUターンした。思った以上に大きな島、水族館があるそうだが、其処まで12Kmと表示があった。

                        

帰路は富山湾沿いと云うか、能登半島の東側を七尾、寒ブリで有名な氷見と海を眺めながら高岡へと至った。既に夕刻となっていた。

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ハンバーグ&豚巻き

2011-04-20 | Weblog

4/20(水) 昨日は夕刻より雨となった。降りだすとは思ってもいなかったので以外、雨と共に気温も下がり寒くなった。

今朝の弁当はレギュラーメンバーの三人分である。起き出す前、布団の中であれこれと思案をするが・・・結局、造り置きの「冷凍ハンバーグ」と「インゲン・エノキの豚肉巻き」をメインに据えることとした。

脇を固めるのは茸炒めとほうれん草の卵とじ、冷凍シューマイに決定。茸は、彼の福島産「椎茸」と「マイタケ」である。インゲンを茹で、エノキを炒めて下拵えをする。ハンバーグを解凍し、赤ワイン・ソース・塩胡椒でハンバーグ用ソースを作る。

                     

薄切り豚肉でインゲン・エノキを巻き、フライパンで炒め焼。味付けは塩胡椒だが、仕上げに醤油をひと垂らし。ホーレン草の茎部分をさっと湯通しし適当な長さにカット、胡麻油で炒め煎り胡麻を振る。

以上で完成となるところだが、自分用にセロリ・キュウリの生野菜を少しだけ用意した。そしてご飯は、俵オムスビ風の小さめを二つ。相当に気遣っているつもりだが・・・。

                    

昨日の「カツ丼弁当」、ご飯はK君の半分程度にしたが、それでも腹にもたれた。リハビリしながらの食事量を摂るよう心掛けなくてはならぬ。

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金沢にて・・・

2011-04-19 | Weblog

先週末、金沢に滞在した。金曜日から土曜日にかけて、友人のMurai氏がサポートをしてくれた。金沢行の目的は幾つかあったが、その一つに「野田山墓苑」に眠る、かつての上司大澤さんの墓参があった。

土曜日、6時頃から一時間程、市内を散歩する。冬の北陸を思わすように空が垂れ込めて、今にも雨粒が落ちてきそうな気配であった。駅前のホテルから片町方面に向かい、其処から浅野川方面へと転じる。二・三日前に満開となったと云う桜も色褪せて見え、風に揺らいでいた。

当ても無いまま、小さな通りを抜けて行くと見覚えのあるお寺があった。金沢は寺の多い町、それにどのお寺も立派な山門と本殿構えであるが、この寺は一際大きな作りであった。

見覚えのあるお寺である。若しや此処が、大澤さんの葬儀が執り行われた寺でなかったろうかと、暫し門前に佇む。東本願寺別院と記されていた。何となく気掛りな思いがし、写真を撮る。

                        

大澤さんは昭和59年5月、現役の金沢電話局長として逝去された。私やM氏は本社時代に部下として仕えた。大澤さんの眠る墓に参るのが九年目となることは、後ほど判明する。

浅野川沿いを歩き、橋上から上流を眺めると卯辰山がまじかに見えた。若い頃、この山の中腹にあるレストランBARに遊んだことが思い出された。これが旅情と云うやつか・・・。

                        

7時、ホテルに帰り着く直前に雨が落ちてきた。糸を引いたような雨から瞬く間に本振りとなった。駅の中に逃げ込んだ。駅からホテルへとは雨を避けて通じている。

それにしても金沢の駅前は変わった。東も西も様変わりと言える。それだけ町に勢いが有ると云うことか。駅も一際立派。流石、加賀百万石の玄関口と思わす重厚さと、現代性を併せ持つ造りである。

                        

暫くしてM氏より連絡があり、二人で野田山に向かうのだ。先ずはホテルで傘を借りる。やたらと派手な色、ワインレッドな傘であった。M氏はお墓の場所は不明とか、墓地に行けば私に任せろと向かったが・・・。

以前訪れた折、丘の上の一番高い処へとお墓は移転していた。見晴らしがよく、陽光が注いでいた。周りの墓石も少であった。

が、ここと思しき場所に着くと、お墓の大団地と化していた。下も、横も上もお墓、お墓である。偶々居合わせた人に尋ねると、下の方に大きな道路が出来てお墓の大移動があったと云う。

M氏と雨の中ではあるが、大澤家の墓石を探し始めた。下から上に、横にと墓石群の中を歩く、歩いた。一時間程探すが、見つけられない。昼に奥様と食事の約束をしている。余り遅くなれないので、未だ自宅かもしれないと電話をして訊く嵌めとなった。

「墓地が広がり分かりづらいから」と、程なくして来てくださった。真に面目無い次第。

一度探した処の近くにそのお墓は在った。周囲はすっかり様変わりをし、墓石の波の中に立っていた。漸く、花と線香を供えることができた。

近くのホテルで食事を共にしながら、近況などを御聞きする。
奥様のご母堂が96歳で亡くなり、先般四十九日の法要を済ませたとのこと。私もM氏も以前にご自宅に伺ったおり、ご母堂手作りの綺麗な「鞠」を頂戴している。

そんな話のあれこれの中で、私が訪れのは九年ぶりであることが判明した。「会社を辞めたので、その区切りに訪れた」と、奥様は覚えておられた。(2002年5月24日、確かご命日の日であったか)


大澤さん葬儀の寺をお尋ねすると、やはり今朝行き遭わしたお寺であった。初夏であったが、陽射しが強く、金沢特有のじっとりと汗ばんでくる日であった。

この後、私はM氏の案内により二つ目の目的地である「和倉温泉駅」前にあるカフェレストラン「はいだるい」へと向かった。(「はいだるい」の意味を、金沢勤務のM氏も、在住の義妹も知らなかった)

 余 談 ・・・

雨中のお墓探しで、思わぬ方の名を見つけた。「真竹 芳樹」さんと云われる方である。真竹家の墓が目に付いた。その墓所には祖先の由来が記された石板があった。その名が気になり、墓石の横を見ると、「平成3年〇月 真竹芳樹 建立」と刻まれていた。

私には、思いで深いお一人の方である。
「真竹芳樹(さなたけ よしたつ)さんは、昭和47年、東京江東電話局長」として着任された。当時、私は庶務課庶務係の末席であったか。先輩から教わったルーチーンの業務を機械的にやっていた。事務処理方法・計算方程式があり、その通りにやり、疑問・問いかけ・苦悩・苦悶もない作業を続けていた。

着任間もない局長に、私は決裁印を貰うために部屋に入り書類をデスクの上に出した。
局長の一言「何故こうなってるの?」その言葉が胸にグサリと刺さった。その瞬間に地に潜り、天井に潜み、局舎から脱走したい気持ちでなかったろうか、・・・古い出来ごとなので粒さか不明ではあるが。

恥じ入り、恐れ入ったと云うことである。その案件は、局管内の電柱をトラックだかがぶつけて折損させたが故、その賠所金額を算出したもであった。事務処理の方程式に則り出した金額である。

私は至らなさに恥じ入り、部屋を出るだけであった。何故、どうのようにしてこの方程式が出来ているのか。物事の原理・成り立ち、意味合いを知らず、考えずに作業ををしていた。

真竹局長は書類を見ず、私の本質を見て問いかけ、気付きを与えたくれた。それ以来、少しは私の仕事に対する考え方やり方に変化があったかもしれない・・・。恩人のお一人と思っている。

私は何年か経て、本社に勤務するようになっていた。真竹さんが同じ局の課長として着任された。「久し振りだな、元気か」と、一夕酒を振舞って下さった。その時、何を話したのか、記憶に無い。ただ一つ、私を誘い出す時、私の課長に「arisawa君を借ります」と断りを言ったことである。何年か前、OB会報誌において真竹さんがご逝去されたことは知った。

大澤さんと真竹さん何れも加賀の人であった。体型も容貌も異なるが、その気分・気風は同じであったと私は感じている。本質を貫いた大人の男とでも云うべきか・・・。

加賀・金沢は野田山の墓地に、奇遇と奇縁があった。

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カツ丼etc

2011-04-19 | Weblog

4/19(火) 昨日から自分の弁当も作り始めた。4/18(月)きのうはオムスビと煮物(大根・厚揚げ・鶏肉)、卵焼き・ゆで卵・ほうれん草お浸し・ミニトマト・焼き魚、其々少々を弁当箱に詰めた。次女とK君にはオムスビ(鮭・タラコ・オカカ・エビ天むす)を用意した。

              

家人から、おかずが多すぎたとお叱りを受けてしまった。私も食べすぎか?

                        

                                                     昨日のmy弁当

               

そして今朝、次女が連泊していたのでトンカツオムスビとオカカオムスビを用意。弁当組は、トンカツがメインであるが、私とK君はカツ丼弁当に。家人はトンカツ弁当である。他のお菜は、シメジと玉ネギ・ベーコン入りのオムレツ、ほうれん草お浸しである。                                        

先日、Sさんから「麺つゆ・丼つゆ・鍋つゆ」と云う、汁の素三兄弟が届いた。商売用に使っても一年以上は持つぐらいの量である。せっせと弁当にお使いなさい、との思し召しであろうか・・・。

今朝はこの丼汁を使っtw「カツ丼」にした次第。タマネギと長ネギ、トンカツだけである。超デカの卵を溶いて掛け廻して出来上がりであった。

            

オムレツを焼く二回目が失敗。手抜きをしてフライパンに油を引きなさずに溶き卵を入れたのだ。オムレツ写真の右側の如くになってしまった・・・。

Kの弁当には、カレイの干物焼の身を少々付ける。

                            

ラマダンが明けたら何を食そうかと思案をしていた。カツ丼・寿し・ラーメン・鰻・親子丼と来たが、一辺に喰うわけには行かない。週代わりで一つづつこなす予定、トップバッターがカツ丼となった次第である。

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