オヤジの弁当箱

日々の手作り弁当だけが生甲斐のしょぼくれオヤジ。弁当メニューと併せて日々の雑感を付記。

大飯喰らいの休日

2014-01-27 | Weblog

1/27(月) 土・日や休日は、朝飯を大喰いする癖が抜けない。散歩を日課としていた頃は、1~2時間のぶらり歩きをしながら帰宅後の飯メニューを考えていたが、近頃は明け方に目覚めてから食い物のを考えている。出てくる結果は同じようなメニューで、下手な考え休むににたりだが。

この週末も同様、日曜日のメニューと云えば精々が自然薯入りの味噌汁が登場した程度のことだ。冷凍の鮎の開きと丸を焼き、卵焼きを作り、味噌汁は油揚げと大根の千切り、自然薯を擂りおろして団子にして味噌汁の中へ、ホウレンソウを加えてお仕舞。昨夜のポトフの残りと海苔、冷奴、ご飯を一膳、缶ビールが一本。朝からよう喰えると、吾ながら感心する・・・。

焼の物が鮭になったり、卵が目玉焼きのベーコン添えや、タマネギ入りの炒り卵になることもあるが・・・。チリメンジャコの美味いのが在るとこれが登場したり、納豆を付けることも間々ある。缶ビールは必需品、菜加野のオヤジなどに言わすと「朝からよう飲めるな」だが。休日や旅に出れば、これが最高のリラックスなのだ。

                    

朝の食事をしっかり摂ると、昼は抜きと云うのがパターンだ。これじゃまあ、お相撲さんのような暮らしか。

日曜日の夕食に、土曜日の朝に漬け込んだ「猪肉」が登場した。香味野菜と酒・醤油で漬け込んだリブはオーブンで焼き、スライスした味噌漬け・粕漬けはチョット早いが、各々を何切れかフライパンで試食焼。リブ肉は、骨を持って齧りついたが、肉は少々硬かった。試食した漬け肉は柔らかくて最高の味であった。

 

こんな暮らしだが、美味いものを食べたいと云う気は起きないし喰っていない。世間一般的に思われている、フレンチとかイタリアン、中華のフカヒレやツバメの巣のスープなどと云うやつのことだが。私が好むのは子供の頃に食べた味、田舎にありふれていた自然の食と、味である。安い男なのだ。

 

土曜日に急逝した従弟の葬儀の日取りが決まった。28日(火)が通夜、29日(水)が告別式とのことである。手伝いをすることもあろうかと、火曜日の午後には帰郷する。それにしても、高齢の伯母のことが心配である。

従弟の直広は土曜日の朝、車で家を出て100m ほど走った地点で心臓に異常をきたしたようだ。車は歩道にぶつかったそうだが損傷は少なく、ほぼその時点で死亡したのでは、というのは従姉の話であった。前日に体調がよくないようであったが、大したことはなかったと云う。人それぞれ、何がおきても、あってもおかしくはないが、残念である。

 

明日帰省し、通夜・告別式に。金曜日、別の従姉のご主人の七回忌法要に出て日曜日に帰京の予定でいる。

 

 

 

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訃報ありて

2014-01-25 | Weblog

1/25(土) 今朝、母からの電話があった。甲高く切迫した声が、電話の向こうから聴こえた。またしても、何事がおこったのかと思う。従兄弟の直広が、今朝心臓麻痺で亡くなったとの泣き声であった。

直広は、私と一つ違いの歳下であった。中学から野球を始め高校・大学、そして高知の銀行に勤めてからも暫くは野球を続けていた。出場した甲子園では、ランニングホームランを打ちベースを駆け抜けた姿が未だ残っている。銀行を退職した後、関連会社に勤務しており、専らの趣味はゴルフだと言っていた。体格にも恵まれた優しい男であったが。

直広は、亡父の長兄の長男。我がARISAWA一族の墳墓を守っていた。高知市内に住居を構えていたが、安芸市入河内の実家には九十四歳になる母が居り、農繁期には頻繁に戻って仕事をしていたと聞く。突然の逝去に、高齢の母に何と伝えればいいのか・・・。

普段は余り会う機会がなかったが、この一年余りは亡父の葬儀や法事等で顔を合わして話をする機会が増えたばかりだった。余りにも早く、あっけない旅立ちを残念と思うばかり。

人は、命あるもの形あるものは、何時か無くなり消えてゆくばかりだが・・・、身近な者が旅立行くのを見送る方は切ないばかり。

葬儀は何時になるのか、月曜日は友引。とすると、月曜日はお通夜、葬儀は火曜日となるか?何れにせよ帰郷し、直広の野辺送りをしなくてはならない。残された者の、淋しくも哀しいばかりの勤めであろう。

31日の金曜日は、従姉の連れ合いの七回忌がある。これに出席するつもりで帰省の予定を立てていた。葬儀と法事が、同じ週に出来しようとは思いもしなかった。とは云いながらも、もういつ何があってもおかしくない年令だ。惜しい命ではないが、母だけは先に見送りたいものだ・・・。

                      

 

- 冷凍庫の整理 -

母からの電話の暫く前、私は冷凍庫に眠っていた猪肉の始末を付けようと包丁を握っていた。脂身の厚い肉を薄切りにして、味噌漬けと粕漬けにしようと奮闘していた。

                     

猪汁や鍋物には飽きたので、趣向を変えてみることにした次第。半解凍ぐらいが一番切りやすいのだが、不十分で硬い。包丁の背を強く押し切りにする、と人差し指の付け根に水蛸が出来てしまった。骨付きの胸は、タレに漬け込んでオーブンで焼こう。

                       

どんな味になるやら分からんが、明日には少し味見をしよう。炭火焼にする心算だが、フライパンで焼いた方がいいかな?

 

 ー 前日は、焼き物を -

焼き物と云っても肉ではない、陶器である。昔一緒に仕事をした、後輩のKURIKEN君のフェイスブックを見ると、陶芸教室仲間の展覧会が紹介されていた。彼も作品を出展しているとのことである。

金曜日、午後の某社でのコンペ企画のプレゼン(私は居るだけのこと)が終わり、田町の某財団を廻った後に、青山ベルコモンズで開催中の陶芸展を覗いた。夕方近くでお客さんの姿はなく、受付のご婦人二人の姿があるだけであった。

陶芸教室の生徒たちの作品展とのことであるが、いずれの作品も素人離れをした焼き物ばかり。とは、云いながらもこっちや何の目利きもできないが。それでもよくできた作品と感心した。KURIKEN 君の作品は「茶香炉」という珍しい焼き物。ビー玉を廻りに埋め込んだ面白い作品で、珍しい手工ではなかろうか。

              

ランプにもなる香炉とか、お茶を焙じる香炉と三作品が展示されていた。購入できればしたかったが、非売品とあった。

 

 

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飲み過ぎ・・・

2014-01-23 | Weblog

1/23(木) 昨夜は、知人のソフト開発会社の代表との懇談会。渋谷・宇田川町の「奈加野」に三夜連投での登板となった。何時ものように私は、摘みには殆ど触れなかった。ひたすらお勧めするばかり。

相方の会社は忙しくて忙しくて・・・とのこと。人手が足りず、人集めに苦労をされているとのことである。内から何人か廻してやれればそうしたいが「要らん」と云われるのが落ちか・・・。インドネシア人のスタッも抱えているとのことだった、事のついでに中国人のシステム開発者は要りませんか?と聞いたが返事がなかった。

そんなことを訊ねたのも、昨秋にHIROさんの知人である中国人のチャンさんが会社を離れて、職探しをしていると聞いていたからだ。チャン君は東京のシステム会社会社で20年のキャリを持つと聞いていた。何かの足しになればと訊いてみたが、外れた。

菜加野から、婆さんママのスナック「しみず」でカラオケ。二組の先客がいたが、一人は大酔っぱらいでマイクを放さない。そこをやんわりと、マイクを回してもらい客人に唄ってもらった。お付き合いで、私も一曲ご相伴したが、どうにも歌が駄目になった。

焼酎飲みっぱなしで、ウイスキーが欲しくなった。このスナックで、またウイスキーボトルを入れると・・・勘定が心配なので、河岸を変える。客人も未だ一緒に来たそうなので、mr.kansoという缶詰BARに案内した。長~い階段を登り店に入ると、客人は一人だけ、女性であった。

こっちはかなり飲んでいるので恥知らず、先客はどうやらN社関係に勤める方であった。店のオーナーのUSUIさんと、先客を私達のテーブルに招き(無理にか)ご一緒した。諸々話を訊いていると、上司の総務部長と云うのは剣道部の後輩H氏であった。私の先輩や、知人の名が出てくる、止せばいいものを、そこでまた、よからぬ人物評価などを開陳していた。

大いに酔い、帰り着いたときは日付変更線を越していたのであった。それでも駅まで、客人の腕をとり転ばぬよに気遣いをしていたことは覚えている。

今夜は、少しだけ抑え目にしたい・・・。だが、今宵の相手は酒が強いからな~。

 

 

 

 

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ゆりかもめ

2014-01-22 | Weblog

1/22(水) 昨夕は桐ケ谷斎場でのお通夜の後、一緒に参列した奈加野の店主の車で渋谷に戻った。当然「店に寄れよ」と強要をされるわけだ。これも浮世の義理と二日続けて奈加野のカウンターに腰を落ち着けた次第。

L字になっている角の席にはほぼ毎日顔を出しているSASAKI氏が陣取り“いいちこ”の水割りをすすっている。岩手・釜石市の港近くにあった氏の実家は津波で流された。何時ものように子供時代に口にした故郷の食い物のこと、独り者の氏の作る料理の話などを聞きながら、私は“伊佐美”の湯割りからソーダ割り飲っていた。

暫くして氏の知人が姿を見せ、お土産だと房州産の「クジラたれ」なる食い物を置いた。氏はこれが大好きだと、大喜び。このクジラの身を延ばして干したやつを、子供の頃によく食べていたそうだ。包装紙を見るとクジラは、沿岸で捕れるイルカを大型にした種類で、以前に刺身で喰ったことがあるが味は?だった。

処がこれを炙って口に入れると、ビーフジャーキーより旨味があり噛み応えも申し分なし。旨かった。味付けは醤油・塩などと記してあった。珍味と云えよう。

そんな夜を過ごして店を出ると、ポツリポツリと雨粒が落ちていた。傘も差さずに駅に向かった。

今日は午後一番に豊洲の某社を訪問、ラジオ番組の営業であった。とは云え、私はプレゼンをする放送局の営業担当の脇で聴いているだけのこと、何とも締まらない限りだ。偶々この会社の広報室長が懇意なので、時間を貰ったわけだ。

                          

                        ビルの左奥にスカイツリーが

帰り、久々に「ゆりかもめ」に乗って帰社することとした。メトロを乗り継いだ方が早いのだが、海の色とモノレールから望む景色を見たくなった。西に傾いた冬の柔らかな陽を受けながら、ひと時車窓の景色を楽しんだ。

             

 

今夜も渋谷、某ソフト開発会社の代表と新年の懇談をする約束がある。三夜つづけて「奈加野」に顔だしとなる。

 

 

 

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あなご料理を・・・

2014-01-21 | Weblog

1/21(火) 昨夜、銀座に昨年オープンしたアナゴ料理の店「銀座 ひらい」にて、三遊亭大王ことWATANABE KAZUOさんとご一緒した。相棒のHIROMIKI氏も一緒であった。年末、大王さんから「銀座に手ごろな値段で、旨い店を見つけたので如何ですか」と、お誘いを受けたが、時間のやりくりが着かず昨晩となった次第。

WATANABEさんを知ったのは平成五年なので二十年も前になるが、社会貢献推進の仕事に就いていた時である。当時、経団連の社会貢献部の定例会合で講師役の存在であったのが菱形マークの電気会社に勤務されていたWさん。アメリカでの体験をベースに、日本にボランティアやヒィランソロピーを根付かそうと奔走されていた。

Wさんには社内セミナーなどで何度かお出ましを願った。今の会社に移ったところ、この会社とWさんは福祉囲碁と云う、また違った形で関わりがあった。人間の縁と云うやつは不思議なものである。こうして二十年を超えるご厚誼を頂いてきた。

Wさんもサラリーマンを退いた後、大学の先生や福祉法人の理事や施設長、全国を又にかけた講演会活動と大活躍をされている。最近は社会人落語家・三遊亭大王として高座に上がることが多いとか。囲碁にカラオケ、落語に話芸と、豊富な体験を生かした語り口は、熟年から老人層へと幅広く元気を注入する。来月で78歳だと言われたが、色艶のよさ、声の張り、話題の豊富さ、健啖ぶりと二十年前の姿と些かも変わりがない。

昨晩アナゴ料理をご馳走になったからと、よいしょをしている訳じゃありませんぜ。本当にお元気なんだ。その健康の秘訣は散歩にありと仰る。

アナゴの話が出ず、Wさんのことに終止しているが・・・・、紹介した内容は昨晩に出た話のおさらいである。宵闇迫る銀座三越前で、私たちは落ち合った。日曜日、昼間の銀座につづく銀座であった。

               

                         何れも、銀座四丁目交差点。

ここで漸くアナゴの話だが、この「銀座 ひらい」は日本橋と室町にあるアナゴ料理店「玉井ゐ」の分家のようである。本家の両店も日本家屋の仕舞屋を店としているが、この銀座も三原橋の三原小路の奥に在る仕舞屋であった。二十人も入れば満杯と、小体な店造りながら調理場が覗けるようにガラスで仕切ってあるので、席数よりは広く感じた。

昨晩頂戴したのは、アナゴ串焼き、アナゴのシャブシャブ、アナゴ箱飯などであった。珍しくハイボールばかり飲むHIROさんを尻目に、私とWさんは日本酒のぬる燗を飲った。燗酒の器は志野焼き?お湯の入った器に酒のお銚子がすっぽりと収まった酒器、これは中々の趣向であると感心した。

昨年、イブの夜の馬車道での小料理屋のカウンターに設えられていた酒燗方法もも面白かったが、こっちの方が簡単で便利だろう。こう云うのは、写真で見せるが一番だが、飲んでいるときにカメラは無粋と撮らなかった。

室町の「玉ゐ」を教えてくれたのもWさんであった。それをご縁に知人を何度か案内し、アナゴの美味しさに大いに喜んでもらったことがある。銀座に店ができたのは、案内状が来ていたので承知してはいた。が、またしてもWさんにご案内を頂くとは・・・。

懇談の後、唄が上手なWさんを銀座の店に誘うのが筋だが。生憎この日、昼に渋谷の先輩から「高知からTOSAOがきちゅうぞ、先輩を遊んじゃれ」と電話を貰っていた。TOSAOさんは、高校の先輩で、母校の校長を退職後、郷里の町会議員をしている。また竹内慕雪という書家であり、書道組織の理事会などで、ちょくちょく上京する。

明日は帰高されると云うので、銀座から渋谷に向かった。渋谷と云えば「菜加野」、前述の電話を寄越した先輩とは奈加野の店主のこと。二人は同級生なんだが、この日で滞在三日目となり付き合うのが疲れたと、相手役に私を呼び出した次第だ。菜加野でグダグダと一杯やり、お好み焼き屋で更に一杯となった。

 

昨晩、菜加野のオヤジから山商のカミさんが亡くなり、明日がお通夜だと知らされた。知った以上は知らん顔はできない。桐ケ谷斎場でのお通夜に参列することとした。山商こと、YAMADAさんとは、仕事を通じてのお付き合いもあった。主にカレンダーであったが当方のミスで、長続きをしなかったのが残念である。それ以来、うちのカレンダービジネスは低迷したままだ。

今週唯一空いていた今宵は、お通夜で埋まった。

 

 

 

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寒いね~

2014-01-19 | Weblog

1/19(日) 今日は風が強く寒い。暇なオヤジは、午後から本屋に立ち寄りがてら会社に出ることとした。高架になっている駅のホームに立つと寒風が吹き寄せて老体を苛む。昨日あたりから膝の具合が良くない。右膝が諤々とする。

学芸大学や人形町には大型の書店がなく、手に入れようとした本が見当たらない。そんなことで、会社に向かう途中となる銀座・コアビルに在る書店に立ち寄ることとしたのだ。銀座通りが見とおせるコアビルのエレベーターから外を眺めると、この寒空の下に大勢が歩いていた。日曜日なので歩行者天国と云うやつだ。世の中景気がいいのかな?なんてことを思う。

予定の本を見つけ、会社に出た。NOBORUが、昨日につづいて出社しているかと思ったが、今日はいない。出来簿を見ると、昨夜遅くまで居残って仕事を片付けたようだ。それにして人気のない事務所は寒いね~。寒い中を、寒い寒い数字のチェックなどをしたものだから、ここは北極か南極かという心情だ。

今週の訪問予定や、アポイントのメールをだしてお仕舞にした。昨日、函館のHASHIMOTOI君から届いたメールを改めて読む。

今年の私のテーマである、「故古賀武夫氏(地球市民の会 創設者)の物語」を残す、出版企画になくてはならないのが、HASHIMOTO君である。彼に執筆をしてもらうことを前提に、企画を進めようとしている。その彼からのメールには、「体調を崩し、実家の方に戻ります。古賀さんの本はやる気満々ですので、もう少し暖かくなってから打ち合わせをさせて下さい」とあった。

実は今月末か来月初めには、彼が住んでいる函館へと打ち合わせに出掛けるつもりでいた。その矢先に体調を崩したとのメールが届いたのだ。急な病気の発症で、郷里の北海道に居ることを余儀なくされていたのだが、またしても体調を崩したとのことで心配になる。なるが、彼の自助回復力を待つしかない。

正月明け早々のYASUO先輩の手術につづいて気になる出来事であるが、待つしかない・・・・。相棒のHIROさんも、二月下旬には手術の予定がある。今は待つ、全てがいい方向に転がり始める時を。それしかないようだ。

正月明け、ANAの機内誌で見た私の運勢は、春から良くなるとあった。正月号に毎年掲載されている風水占いだが、昨年とうって変わり『八白土星』の運勢は、干支の中でも上位三本に入り、今年は良いとあった。そんなことでも信じつつ、誰彼の健康とともに我が運命の春を待とう(頭の中は何時でも春なんだが・・・)。

さあ、席を立ち電気を消してドアを閉めよう。「ローカーボ-」で、ウイスキーの湯割りの二・三杯を流し込み、体と心をあっためて、メトロに揺られながら本のページを捲ろうではないか。至福のひと時が待っている・・・昨夜とおんなじか。

 

 

 

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神田明神

2014-01-16 | Weblog

1/16(木) 昼前、江戸総鎮守を謳う神田明神へ参拝した。神頼かと問われると頭を垂れるしかないが、神だろうが仏だろうが鬼神・閻魔大王なんでもありだ。実は、神田明神のお守り『勝守り』を昨年知人から頂戴した。その頂いたお守りの納経と、併せて今年のお守りを贖ったのである。

 

              

正月、15日を過ぎた昼前の時刻ながら境内は結構な参拝人であった。外人さんも盛んに写真を撮っていたし、年配のご婦人グループは着物姿と、晴れやかである。

昨年のお守りのご利益は如何にと申せば、膝は痛めるし売り上げは低迷と薄いご利益と思う次第だが・・・。それでもお守りのお蔭で、この程度で済んだと思えば、ご利益は大きい。今年は、倍返しのご利益があるかもしれない。

お参り、新お守りの入手、昨年のお守りの納経と、そくさくと済ませて帰社する。今日の風も冷たいが、参拝の後は清々しい気分であった。

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年賀状

2014-01-15 | Weblog

1/15(水) 今日は小正月というやつか。どおりで寒い、雪が舞うとの予報もあるが・・・。午後から二か所ほど出掛けなくてはならぬが室内に居ても寒い、くしゃみを連発した。

私的なものや社名入りと、年賀状は比較的に出している方だと思う。現役で仕事をしているという思いと「未だ生きてますよ」の証明として袖触れ合った方に出すように努めている。

年末に賀状をポストに入れ、それから浮ぶのは『元旦までの間に死んじゃうと洒落にならないな~』である。「年賀状もらったけど、届く前に亡くなったらしいよ」と言われているシーンが浮かぶ・・・、なるべくこの間にはあっち側に行かないように気を付けたいものだが。

 

さて、頂いた賀状の中からトッピクスを一つ紹介したい。此の方はN社のOB、OBといっても比較的に早くに退職し、退職金と都内の自宅を売却した資金でセカンドステージをスタートしている。KABUKIさんと云う方だが、彼のことは若い時から知っていた。然し、私が出向した広告会社でも入れ違いで、一緒に仕事はしていないが、真面目、逃げない、チャレンジ精神旺盛、そんな評価を聴いていた。

そのKさんは携帯会社の管理職であった五十代早々に退職、奥様と二人でカフェレストランを始めた。レストランの名前は「ターニップ」と云う。苗字のカブから、西洋蕪名「ターニップ」を店名にしたとのことである。そのターニップの店主、KABUKIさんからの年賀状「昨年の我が家の重大ニュース」である。

・鹿・・・・車に激突した鹿が当店の看板二枚を大破

・TV・・・「アド街ック天国」(テレビ東京、土曜日・21時からの番組)で当店が放映された翌日は、開店即満席。

 添え書きに「おかげさまで、OBの方も来てくださっつております」と、あった。

鹿が出るとは、八王子から飯能市に至る名栗川、名栗海道沿いの山間の店らしい。店は、飯能市上名栗にあり平日は近所の方が中心とか。休日には、街道をツーリングするバイク乗りのメッカ的な存在と聞いた。

四年前の師走、情報誌・ライフアシスト誌の取材で訪問して邂逅。果敢でありながらも、着実な人生設計と生き方に敬服した。冬枯れの山あいの里、迫りくる杉木立と谷川の風景が懐かしく浮かぶ。彼の充実の日々に、今夜は乾杯だ!

 

今日の午後、某社を訪問。後輩のY君が責任者の案件で、チョットした仕事の打ち合わせ。尤も、私は同席するだけで、プレゼンをし話を訊くのはスタッフのY&Iの両女史である。打ち合わせ後、両女史との確認、今後の進め方について話をしたく渋谷・ヒカリエ内のカフェに入った。ケーキとコーヒーを注文。

                      

ここのミルヒィーユは中々の味であったが、何時もながらこのケーキを食べるのは一苦労する。席を立つとき、I女史がバックにグラスをひっか掛けて割るという、おまけがついた。ボーンチャイナのカップでなくてよかったネ、とは犯人の言である。寒い外出であったが、名栗川沿いの寒さは半端ではなかろう・・・。

 

 

 

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三連休

2014-01-14 | Weblog

1/14(火) この三連休は年末始で酷使した胃腸の休養に充てた。暮れの江戸での暴飲暴食、年始郷里での田舎料理三昧と内臓の休む間が無かった。休みになると喰うと云う習慣から抜け出せない。若かった頃はストレス発散で深夜まで飲んだくれ、齢を重ねてからは喰う方に走ってきた。そんな習慣から抜け出せないでいる。

長い長いトンネルの中を未だ彷徨い、彼方に仄かな灯りさえも見いだせない。流石に、脳は食い気で気晴らしをするのにも飽き飽きとしているが、細胞の方は未だ許容範囲を思っているようだ。

それにしても金曜日はしんどかった、と体が云う。五時過ぎから田町にて某社の監査役と一献交わしたが冷酒をやった。その後、会社に戻り隣の「高松」(今年初めての顔出し、新年あいさつと云うところ)にて、何人かのスタッフと懇談。それからローカーボに流れ、最後は独りで「ちょっぷく」で仕上げをして帰宅した。この日の午後、最重要顧客の挨拶などを済ませたので一安心?三連休前で気の緩み?だったか。

 

休みの日も一日は会社に顔を出すのが習慣であるが、この三連休だけは部屋に籠っておれと体が云っていた。江戸に戻り、風の冷たさに風邪を引いた所為もある。ただ土曜日は、高校の先輩、YASUOさんのお見舞いに聖マリアンナ病院まで出向いた。

YASUOさんは昨晩秋から体調を崩し、週三日の手伝いをしていた「奈加野」の仕事も休んでいる。奈加野の店主、HOUMEIさんとYASUOさんは同級生なので、土曜日に一緒に見舞いに行くことになった次第。

病室を訪ねると、八日に心臓弁膜の手術をして集中治療室に入っているとのこと。家族以外は面会できないと云われる。処がこの日、三時過ぎにはCT撮影後、一般病室に移るので、それからは面会可能だとエレベーター待ちのDrが教えてくれた。

一時間ほど待っと面会が叶いそうなので、病棟の待合椅子に座して待つこととなった。夜遅くまでの商売の疲れか、同級生の店主は居眠りを始めた・・・。看護師の「Nさん、CTを撮りに行きます」の声が聞こえた。暫くしてベットに伏せり体中に管を纏ったYASUOさんが、看護師に運ばれて目の前を過ぎた。それから、三十分ほどして同じ姿で戻ってきた。

夏、会社のスタッフのYOSHIOが胃部出血で倒れて運びこまれた先を尋ねた折も、病院ではICUに入っていた。この時も家族以外は面会禁止と云われて、出直したことがあった。殊の外暑かった、昨年の夏のことが思い出された。

 一般病室に移った頃合いを見計らい、病室を探して奥へ奥へと進んだ。一番奥の部屋の入り口に「NISHIOKA YASUO」の名札が在った。カーテンが締められた窓際のベッドから看護師の声が聞こえた。そのベッドに、酸素やリンゲルやなにやかやの管に繋がれたYASUOさんが横たわり目を閉じていた。

「おい、YASUO」と、HOUMEIさんが声を掛けると、薄く眼を開けた。僕たちのことは直ぐに理解したようだ。弱々しく「嗚呼」と呟く。「顔色は良いようだ、直ぐよくなるよ」とつづけると、目頭から、ひとすじ二筋と伝わるものがあった。ベットに臥したままの己の体が情けなかったのか・・・、感極まるものがあったろう。

話すことも辛そうな病人を相手だ。短い時間の見舞いを済ませ、そこそこに病室を後にした。「しかし、心臓弁膜の手術をしてICUに入っていたとは意外だったな」「どうしたんだろうかねぇ」と言いながら、帰路についた。

翌朝、YASUOさんの奥様から見舞い御礼の電話があった。その電話で病状が伝えられた。「当初は頸椎の損傷と言われた。が、入院して詳しい検査の結果、虫歯の菌が体に廻り、それが心臓の弁膜に付着して大きかったので手術をすることになりました」とのことであった。思い掛けないことであったそうだ。

医療関係者によると、間々あるケースとのことだそうだ。私のように健康診断も歯の手入れも、何もしない輩の行く末はどうなることやら・・・。

こうして唯一の外出らしきことをした帰り、渋谷にて文庫本を七冊買い込んで帰宅した。ひたすら部屋に垂れこんで読書三昧で過ごした。この間、駅前までの買い物が一回、公園をひと回りと、半径400mの中をチッシュを片手に僅かな時間を歩いたのみ。随分と休養したしたようだが、何のなんの。最後の一冊を読了できたのは、今朝の深夜3時となっていた・・・疲れたぜ。

これだけ部屋にいたのでは、飯など喰っちゃいけないぐらいだが、抑え目ながらも・・・・。だが、アルコールの摂取は少ない。三日間で缶ビールが7本だけであった。

 

 

 

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新年らしく

2014-01-10 | Weblog

1/10(金) 新年の仕事がスタートし、一週目が今日で終わる。日頃を顔を合わす機会が稀な方々と会うには、新年あいさつは口実としては使いやすい。かといって時期を逸しては、何とも間の抜けたことになる。そんなことから、今日は四社ほどにお邪魔の予定。

時間を取っていただいても難しい話やややこしいことは抜き。世間話をし『未だ生きてまっせ』と、元気ぶるのが関の山だが。昔からのお付き合いがある方とはは差しで会えるが、これが初対面に近い方だとややこしい。関係者がぞろぞろと同席することがあるので、畏まった話に終始しがちだ。これをどう切り分けてフレンドリーな雰囲気を作るか・・・。こっちには、そんな技量も懐の深さもない浅薄さだ。

昨夜は、渋谷・奈加野にて高松から上京された某印刷会社社長との懇談。社内の打ち合わせが長引き、相当にお待たせした。尤も、遅れることは伝えてあったし、奈加野の店主に連絡して先に始めて貰うように手配だけはしておいた。

メトロ渋谷駅からセンター街を抜けて宇田川町に向かったが、寒さの所為か正月疲れか街の人出は少なく静かであった。この時間帯の何時もの雑踏に比べると半分以下の人出であった。これじゃ、奈加野のオヤジも客入りが悪くて渋いだろうと余計なことを考えながら店に向かった次第。

                      

客人は、ビールとボトルの一升瓶(伊佐美)を前に、刺身盛り合わせでほんのりと顔を赤らめていた。

「渋谷は人が多いですね・・・、びっくりしましたよ」と仰る。『いやあ、今日の人出は何時もの半分ですよ。こんなもんじゃないですよ』と応えると、びっくりしていたが・・・。

あべノミクスと最近の業界の動向などを訊き、四国の景況などをヒヤリングする。私の出身をご存じなので、郷里の県のことは殊の他お褒め頂く。然し高知県の経済が良いとは思えない、人柄はおおらか、悪く言えば大雑把が多いだろうから付き合いやすいとは思う。

御社の情勢は如何ですか?と水を向けると「おかげさまで、順調にいってますわ。あれから6年になりますが、皆さんのおかげで盛り返してます」とのことであった。6年前のこととは、客人の会社は大型の設備投資を行い、これが仇となって資金繰りが悪化して自主再建の道を辿ることとなったことを指す。

それでも、周りの理解を得て経営は軌道に乗ってきたとのこと。社長の顔、表情に余裕と自信が戻っている。「取引先からも継続して受注がありましたので、人に助けられました。現金商売が一番ですね、社員の給与も振込から現金払いに変えたんですが、家族から感謝されると言うとります」とのこと。手形決済が出来なくなり、仕入れも現金決済を余儀なくされたわけだが、かえっていいことばかりと云う。

頑張ってきた社長や、会社の面々の努力が稔ったわけだ。六年前か、社長自ら上京してこられ、状況説明と今後の取引継続の依頼があったのは、早いものである。助けられているのは私達の方である。協力して下さる会社があればこそ、喰っていいけるのだと実感した夜であった。

 

 

 

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