オヤジの弁当箱

日々の手作り弁当だけが生甲斐のしょぼくれオヤジ。弁当メニューと併せて日々の雑感を付記。

掻揚げ弁当

2014-09-30 | Weblog

9/30(火) 平成26年度上半期も今日で終わる。明日からは下期となり、充実の秋を迎える。その前になるべく人に会っておこうと、昨日は午後からで五人に面会してきた。残念ながら今日は、午前中の一件に止まってしまった。早くも油切れか・・?

今朝の夜明け前、午前4時前に目覚めたのが響いたか?目が覚めて、時間も分からずにいたが、点けっぱなしで眠ったラジオから、微かに歌が聴こえた。なんとなんと、松島アキラが唄う「湖愁」であった。懐かしいというか、よくまあと云うべきか・・・。この歌を作った作詞家の特集で、次の曲は幸夫だと云うので直ぐにラジオの音を消した。が、眠れない、眠れないものはねむれないのだ。

眠れぬままに目が覚める、眠れぬ理由を考えてしまった。結論は当たらずとも遠からず「酒の酒精がカラだから抜ける、すると目が覚める」であった。元々酒は体質に合わない。それを無理に飲み続けてきたのだが、寄る年波には逆らえず、体が拒否反応を起こしているのか、きっといるのだろう。結果、夜中に目覚め、更に眠れなくなるという次第だ。

眠れないと翌日は疲れる、その疲れた体でまた飲む。また夜中に目覚める、眠れない・・・と云う、循環なのだろう。バカは死ななきゃなおら~ない。と来たもんだ。

昨夜の酒は「ローカーボ」でハイボールだった。20時30分に会社を出て、真っ直ぐにローカーボのカウンターめがけて出動した。先客は、不動産業と後から聞かされた、頭の涼しげな(多分、私よりも)ニイサン、弊社のTOKIO兄さんの二人。

                          

カウンターの中にIWASE大マスター、そしてカウンターに腰を落ち着けているチイママならぬ、チイマスター(小学四年生か?)。大マスターの長男である。この稚イマスがよく気が利く。大マスにいっているのが、『チイマスが後十年もすれば、店を仕切って若い娘がわんさか来るぜ』だ。

                          

                           大マスター&チイマスター

さて今朝の弁当だが表題のとおり「掻揚げ」だ。冷凍庫の中で、我が安田川の”川えび”が凍えていた。夏にHIROKATUが獲ったのを持ち帰えり、そのままにしてあった。これを掻揚げにしようと考えたのだが・・・。

解凍すると、意外や大きい。これじゃ掻揚げは難しいと、小さいのを5.6匹掻揚げにし、後は甘辛煮にすることとした。掻揚げの方は、牛蒡・人参・タマネギと云うことになった。

                          

他には、「豚肉の白菜巻煮」に、牛蒡と茄子・人参を炊き合わせた。最後は例によって「卵焼き」である。

                     

以上で今日のお弁当が仕上がった。

                

 

話は変わるが、昨日最後に立ち寄ったのが大手町。ここにNTTの展示ホール「NOTE」という施設があった。あったというのは、チョット気が早いが、今日で閉館となる。この施設の親玉のような立場で、友人のMITUHASHI君がいる。愈々最後となるので、ご苦労様を言いに立ち寄った。

MITUHASHI君と云うよりは、みっちゃんと呼んでいるが、夏に胡瓜やトマト・スイカとどっさり持ってきた彼である。彼とは、かれこれ一五・六年程前に横須賀の研究所に勤務した折に一緒だった。そんな縁で、私が転職後も世話になった。

彼は研究所の展示施設の管理に長く携わっていたので、大手町の施設がオープンした時にその経歴を見込まれたのであろう。その施設も今日でお仕舞だ。最後に一枚写真を撮り、「ベッタラ市」では屋台を出すので遊びに来てくれと、別れた。『ミっちゃん、御苦労さまでした』。

                       

余談ながら、ミっちゃんの眉毛は面白いぜ。ちょっと眉を寄せると、こち亀の両さんのような、くの字眉になる。まあ、両さんそのものだな。今日はそんな眉を見せず、なんだか澄まして写真に納まった。ドアの奥の受付カウンターに座る女性アテンダントが、立ち上がって敬意を表した。

 

そして、五時前に人形町に戻った。祭りの準備が着々と進んでいる様子だ。写真は「椙の森神社」への入り口となる提灯。ここから、小伝馬町・江戸通りまで屋台が並ぶ。我らの屋台は椙の森神社の先、昨年と同じ場所になるとか。さっき申し込み用紙と寺銭を町会の世話役に収めてきた。

                             

この入口直ぐの右側に「ちょっぷく」の屋台が出る予定だ。月曜日の人手が足りないと、YAMAちゃんがぼやいている。USUI老とAKAGIの、ナチュラル退団組を呼び出して守備にあたらすか?

七月に移転した事務所は、この神社の裏手右に当り、神社の屋根を見下ろせる。ベッタラ市では、酒や焼き鳥の匂いが漂ってくるのは必定の位置関係に在る。事務所移転の挨拶を予ねて、ビルに入居している各社に生ビールでもふるまおうかと思っているが・・・。

                

屋台は、この先辺りに出る。事務所は、神社の右後方となる。ガラスの見えるビルの隣だ。「べったら市」まで、余すところ二十日。十月十九日(日)と二十日(月)の二日間である。

 

 

 

 

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海苔弁が・・・

2014-09-29 | Weblog

9/29(月) 今月も明日で終わるか・・・、世間では上半期の決算〆と云うことになる。世間とは大ズレの我らは、第一コーナーに差し掛かる状況である。

さて、昨晩も涼しくて快適な眠りと云うか、惰眠を貪れる季節ながら、老犬MIXの臨終が近いのか深夜の鳴き声で眠らせてくれない。で以って、今朝の起床は6時45分であった。大急ぎで飯を炊く。今日の米は週末に妹が送ってくれた高知の新米(日の光)を使うことにした。

菜の方は、米が美味いので凝らないでシンプルに「海苔弁当」で行こうとした。鮭とタラコの海苔を敷き、卵焼きで〆る。たまにゃこんな弁当もいいじゃないか・・・。

台所に立っと、何かしたくなる。これは貧乏OYAJIの性か。取り敢えず、茄子と茗荷の味噌炒め、小松菜のお浸し、ピーマン&ベーコン炒め、おまけに冷凍水餃子を温めた。純和風にとソーメン&野菜の付け合せ。以上を作ってしまった。

               

シンプル弁当どころか、満艦飾の弁当になってしまったのだ。

               

 

土曜・日曜と午後から出社し、懸案の取材原稿の一稿を作ったので何となくほっとしている。これから、WEB版の原稿に着手して、本誌の原稿と比べたうえで二稿を書く予定だ。だが、秋の陣を迎えて、クライアント訪問を集中的にこなそうとしている。加えて、木曜日から八丈島での取材に行く。今週中に原稿をアップといきたいのだが・・・。

爽やかな風を受けて、午後からは出陣だ!

 

 

 

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土曜日

2014-09-28 | Weblog

9/28(日) 昨日の土曜日、午後に出社するとYOSHIOが一人作業に勤しんでいた。こっは邪魔をしないように、先週の取材原稿なんぞに、もそもそグズグズと着手した。暇なOYAJIは行くところもなく、相手をしてくれ姐さんもおらずで、会社で遊んでいると云う次第だ。

日も暮れて、飲み始めるにはいい頃合いとなったので『YOSHIOちゃん、そろそろ軽く一杯やりに引き揚げじゃないか』と誘い水を掛けた。二つ返事が返ってきた「一杯だけ行きますか」と。

と云う分けで、6時半過ぎに事務所を後にした。向かったのは「ローカーボ」。先週の金曜日、YOSHIOは会社の某氏に誘われ、某氏行きつけの近所の酒場で飲んだそうだ。処が薄いハイボールで、少々飲んで酔わない。あれじゃ「ちょっぷく」のハイボールが濃く感じた。と云うほどの酷さだったとか。挙句に、割り勘が三千数百円だったと

そんな話を聞かされていたので、ローカーボで美味いハイボールを飲ませてやろうと云うことだった。嗚呼美味いと言いながら、野郎は本当に一杯しか飲まないのだ。こっちゃ焦って、グラスを倒してしまい股クラ水浸しでビショビショにしてしまった。俺がこうも濡れちゃったんじゃあしょうがなかっぺと云うもんだ。

そんなことで、30~40分で引き揚げ、駅に向かった。処が、もう既に消えているはずの「ちょっぷく」の灯りが点っていた。覗くと、掃除を終えた助っ人隊のOOSAWAちゃんが一人、店のYAMAちゃんとYOUちゃんでランチ残り物とCOCO一番の10カレーや京樽の寿しで食事&一杯中であった。

「まあおいでよ」と誘われちゃ、帰るわけにもいかん。一杯馳走に預かった。YOHIOと他の三人は、今日の競馬のことで盛り上がっていた。どうせ当たりゃしねえのに・・・。

「ローカーボ」で飲んだハイボールが利いて来たのか、疲れてしまった。写真を撮って、早々に引き揚げた。

                       

「上手く撮ってくれ~」と、YAMAちゃんがせがむが、モデルが悪くちゃあ、カメラマンが上手でもアキマヘンで・・・・。と云う次第の、土曜日の午後だった。

 

 

 

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鮎を開く

2014-09-27 | Weblog

9/27(土) 今朝も早くから目覚めた。五時を少々過ぎた頃であったか。肌寒い思いをしながら蒲団の中にいたが、夏掛けの蒲団では駄目だと身に染みた。

煙草と本を持ってリビングに向かった。昨夜の段階では、天気予報は晴れ。天気がいいなら「鮎開き」でも作ろうと、冷凍庫の鮎を取り出し、本を読んで暫し解凍を待った。半解凍ぐらいが、開きを作るには丁度いいのだ。

10匹程の鮎を開いたが、万事が粗雑な私だが、この開きを作る時だけは丁重である。開きはすべて背開きである。先ず、頭に包丁を入れて嘴まで断ち割る。そして中骨に沿って尾ヒレまで切提げて行く。ここを綺麗に開かないと、出来上がりが見苦しくなる。

そして、背から開いた鮎の内臓を取り除く。丁寧に丁寧に・・・最後にエラをとり、水洗い。塩水に暫く漬けるのだが、この塩水の塩梅が微妙な処である。雨の日に作るのは愚の骨頂。乾かないので旨味がでない。今日は晴れとのことなので、塩加減は中くらいの加減(感覚だが)の塩水にしてある。

平素の仕事も、これくらい丁寧にやるといいのだが・・・。

出来上がった頃に、点けっぱなしにしたTVから、天気予報が流れた。どうも雲行きが怪しいそうだ。最後に更に塩を足した。風が有り、天気が良ければ半日で美味い具合に干し上がるが、今日は夕方まで置く必要がありそうだ。これが雨にでもなれば最悪だぜ・・・。

白子や子持ちの鮎があった。もう秋だ、安田川の今年の鮎漁は10月15日で終わる。夏、大雨に祟られ、一月も漁ができず、挙句に川石の苔がなくなり鮎もひもじい思いをしたろう。脂の乗りが良くない。獲る方も、喰う方も困っているのだ・・・。

                       

                         今回、開きにした鮎は、ちょっと大きめであった。

昨夜の帰宅は、何時になく早かった。と云うのも、豊洲の某社を訪問したのは夕方の五時。それから、訪問先の広報室長YAMAKI氏と軽く飲むこととなり有楽町に出た。飲み始めたのが5:45分と早いスタート。

居酒屋がいいなと、有楽町JRガード下の店を物色した。敢えて、くすんだような店を探し、年配者が独りでやっている小さな店に入った。先客は二人だけ、TVは大相撲を映していた。カウンターの端っこに陣取り、相撲を見ながらハイボールをやった。摘みは、先ずは「冷奴」と「鶏の燻製」。

横綱が新入幕力士に負けた。『なんだよ、大関がやられた同じ手で負けちゃったぜ』と、云うしかない。

YAMAKI氏は、私と相前後して同じ職場に在籍している。その当時の話や、先般の副社長慰労会のことなどサラリーマン時代の話をして酒を傾ける。日本酒になった、店主のお奨めがあり、一番人気と云う長野の「十九」と云う酒をオーダした。これまでに飲んだことも、聞いたこともない日本酒だ・・・。

                           

店主の話によると、この「十九」と云う生酒のネーミングは、酒の酒度とのことであった。確かに19の娘らしい生々しさ、甘味とねっとり感を感じる酒だ。面白いことに、この酒のラベルが往々にして変わるとか。「これが前のラベルですよ、比べてみて下さい」と、年配の店主が一升瓶をカウンター越しに渡してよこした。確かにそうのとうりである。

                           

店の名は「味小屋」と、あったか。味を誇るほどのメニューは見当たらなかったが。店は五十年前から在るそうだが、今の店主は五年前からやっていると言う。「天井で廻っている扇風機は、五十年前からですよ」といったが、『アンタ、その時からいないじゃ。それ、受け売りだろう』とは、私の胸内の独り言。

ワイシャツにネクタイ、帽子にベスト姿でカウンターの中にいる姿は人の歴史を彷彿させる店主であった。酒も摘みも、オール500円とは分かり易い。然し、「ちょっぷく」の300円が、もっと分かり易いかな・・・・。

一時間半ほどで切り上げた。人形町に戻ろうかと、チラリト過ぎるものもあったが、銀座から真直ぐに帰路に就いたのであった。

 

 

 

 

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五目ちらし

2014-09-26 | Weblog

9/26(金) 昨夜の退社は21時前であったか。真l直ぐに帰宅するのも大人げないと、「ちょっぷく」に、ちらりと立ち寄ることにした。木曜日、21時過ぎの大衆酒場にしては、客の姿はちらほら。店内には、店主のYAMAちゃんのボヤキが聴こえてきそうな雰囲気を醸していた・・・。

ハイボールを軽く飲って帰るつもりで席に座した。間もなく、YAMAちゃんがやってきた。案の定、ボヤく、泣く、ショゲルの一幕があって「店長ビール」と、俺のチケット持っていった。病が怖くてノンアルコールの缶ビヤーを飲むYAMAちゃんである。まあそれも致し方ない、脳梗塞と脳出血をやったのだから。

来月に迫った「べったら市」、昨年の市の時は、我が出展する屋台に現われて、「南」や「芋焼酎」を散々に飲んで行ったが、今やその姿も昔語りだ。例年どおり、今年も10月19日(日)・20日(月)の二日が”べったら市”だ。出店の申込書を昨日貰ってきた。今年も屋台を出すぜ!み~んな、いらっしゃい!(出店場所は昨年と同じだそうだ)

さて、YAMAちゃんボヤキを聞きながらハイボールを飲み、やおら「弁当箱」を取り出した。昼、クライアント周りをしたので、弁当を喰ってなかった。重い弁当を、そのまま持ち帰るのもしゃくなので、ここで喰うことにした。USUI老が会社にいた頃には、同じシーンが何度かあり菜を分け合って摘みにしたものだ。

YAMAちゃんが弁当を見て、「愛妻弁当か?」と云う。『愛妻なんかいやしねよ、my弁当さ』と、店にオーナーを前にして図々しくも弁当を喰らう私であった。ハイボールと弁当、意外にもマッチした。

                      

そうこうするうちに、人形町酒場巡察使を自他共に認める(?)HOYAさんが姿を現して、目の前に座した。訊くと、「ローカーボで軽くやり、SEIJUを覗い大姉さんママの様子を伺ってきた」とのこと。マメと云おうか、不死身と云うか、何時もながらの元気である。暫く一緒に雑談をし、十時を過ぎたようだと腰を上げた次第。

店の方は、一組が帰ると一組が入りと、だらだらとながらも客足が途絶えることはなかった。その様子を見て、「まるで切れの悪いYAMAちゃんのション便のようだな」と誰かは言った。そんな下品な例えを言う人を、私は知らぬが・・・。客が入ればYAMAちゃん元気、目出度しめでたし。

 

で、漸く今朝の弁当に話が辿り着く。その前に、夢見の話を披歴したい処だが・・・三歩、歩いて忘却とは情けない。でもいい夢だったよ、それだけは確かだ。

五時半に目覚めた、いい夢を見ていたので暫く蒲団の中(目覚めると蒲団を掛けてなかった、寒くて蒲団を引き寄せて被った)で余韻に浸りながら、弁当のメニューを考えていた・・・。

浮かんだのは、久々に「五目チラシすし」である。勿論、土佐風に柚子酢を使う。そして「肉jジャガ」であった。ジャガイモと豚肉の肉ジャガだが。

                         

                          伝家の宝刀「てまいら酢」

先ずは昨日につづき越前の新米を四合炊く。チラシ寿し用の具(人参・油揚げ・タケノコだけだ)を煮る。肉ジャガのジャガイモと人参・タマネギを準備した。鮭と鯖を一切れづつ焼く。これは、主にちらしずしの具に使う。

              

インゲンを茹で、錦糸卵に取り掛かったが・・・錦糸ならぬキシメンのようになった。追加で茄子と豚小間の炒めを、寿司飯を炊いた昆布を刻み、甘辛煮付けで佃煮に。

                    

インゲンを削ぎ切り、茗荷を刻んでチラシ弁当に載せて完成となった。今日は、四人分の弁当である。

                     

 

 

 

 

 

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一週間ぶりに・・・

2014-09-25 | Weblog

9/25(木) 今朝は、先週の木曜日以来の弁当作りとなった。一週間のご無沙汰ですは「ロッテ歌のアルバム」玉置宏のセリフだったか、今の若い人には理解できないセリフだ。それだけこっちも齢を重ねたと云うことだ。

今朝は四時半前に目覚めたが、例によって夢駆ら覚めてであった。夢は、初めて係長になった折の部長MIYOSHIさんと、総括調査役HIKAWAさんが登場していた。昔のメンバーとの飲み会をいつやるかと、その相談をしていた。実はこれは、今春以来の私の肩にのしかかっていながら実現していないテーマなのだ。そのことかが夢になって現れたようだ。つづきの夢があったが、これは楽しい話であった。

枕もとのスタンドを灯し、暫く本を捲り、また寝入った。次に目覚めた時は、6時45分。急いで床を離れて台所に立った。家人の従姉から届いていた、福井のコシヒカリの新米を炊いた。そして、冷蔵庫の品を取り出して菜を作る。

今日のメニューは、「茄子と茗荷の味噌炒め」茗荷は、郷里の畑の傍らに生えてくる秋茗荷である。そして「豚肉とタマネギ・シメジの炒め焼き」、「鶏団子・ウインナーと人参・インゲンの煮物」、最後に定番の卵焼きとなった。

           

 

昨晩、高知での束の間の田舎暮らしの後、明石~京都泊~豊川での取材を終えて帰京した。先週木曜日からの動きを簡単に紹介する。

金曜日、朝一番の便で帰郷したが、これが大変だった。と云うのも前夜の酒が祟って、寝坊をしてしまったのだ。前日に調べた処、二便以降は席が殆ど埋まっていた。飛び石連休で満席状態のようだ。辛うじて朝の一便に空を見出していた。

本来は、木曜日の深夜バスに初めて乗車して帰高する計画でいた。が、膝は痛むし、夜の一杯会も生じた。そんな事態でバスはキャンセルした。安心して夜の酒が過ぎたのか、朝目覚めてから二度寝をしてしまった。次に目覚めると、家を出る予定の6時であった。それから準備をし、一時間遅れで家を後にした。

                 

                前夜「ローカーボ」での一コマ。この後「ちょっぷく」となった。

タクシーを拾えば何とか間に合うだろうと、目黒通りまで歩き漸く空港に向かったが、週末で道路は混んでいた・・・。それでも、7時40分に空港着。だが、搭乗券発売のカウンターは長蛇であった。自動発券機が空いていたので、ここで搭乗券をゲットできた。何時ものことながら、私の行動は綱渡り、危険が一杯なのだ。が、不思議と何とかなってきた。これも日頃の善行の積み重ねのご利益か?

と、危ない橋をわたりながらも機上の人となった。8:05分初の一番機は、ほぼ満席の状態であった。

19日から22日まで、郷里で過ごす。何時もながらの蜜柑畑でのひと時や、従姉達との酒盛りである。従姉の旦那が獲った鮎を貰い、喰い、開きを作る。今年は、洪水で8月が全く鮎漁が出来ず、その後も川が荒れて苔が無いために、鮎の生育ばかりか味にも影響しているようだ。

              

小さな鮎ながら、それでも子を持ち始めていた。腹の黄色い処が、卵である。小さいのを開きにするのは一苦労だぜ。挙句、天気が悪いと旨い開きにならないのだ・・・、天候は余りよくなかった。

                        

草刈りがないと、隣の叔父が「お~い、何処かへ行こう」と、呼びに来る。亡父の弟だが、七人兄姉の末子だが、一人だけ残っている。免許証没収で何処絵hの行けないので、私が帰ると出掛けたがるのだ。その叔父が彼岸花を見に行こうと言う・・・。『うちの畑の周りに幾らでも有るよ』と云うが、車で出掛けたいのだ・・・・。

                    

そんな相手をしたり、庭の草取り、池の掃除、母の飯作りであっと云う間に日が過ぎるのであった。帰省した日、一輪だけ蕾が出ていたコスモスが、22日には一株が咲いた。コスモスが咲くのを楽しみにしていた・・・。例え一株だけでも咲いてくれて良かった。

                         

                      安田駅ホームから・・、山裾辺りが生家か?  

23日、7:47分安田駅発、一両だけだが、列車という「土佐くろしを鉄道、ごめん~奈半利線」に乗って田舎を離れた。ここから、土讃線・山陽新幹線と乗り継いで、姫路で山陽本線に乗り「西明石駅」へと。乗り換えの姫路駅ホームに、ここから姫路城が見えますと記されていた。のんびりと写真を撮っていたら、乗り換え電車の発車が迫り大慌てであった。

                         

16時半、此処で取材を済ませ、一路京都へと向かった。この夜の泊まりは京都であるが、明日の取材「豊川市」との中間点。京都の安酒場を覗く魂胆が、なかったとは言えないな。夜の祇園を散策し「かっぱ」なる、貧乏外人も、懐淋しのOYAJも喜ぶ店を見つけて、ここで一杯となった。

                      

宿は、旧「祇園ホテル」だが、今はなんとアパホテルになっている。八坂神社の前にあり気にいっていたが、昔の面影は今やなし。ベットだけ大きく、寝心地悪し、部屋狭しで眠れなかったなあ・・・。

                      

 

24日、豊川市へと向かう。ご承知のように豊川と云えば「豊川稲荷」だ。それに今川義元の首なし墓がある大聖寺を取材前の情報収集で訪れた。隣り合う、JR豊川・名鉄線豊川稲荷駅前からの表参道は、連休明けの所為か、産しい限りであった。初詣の参拝客で一年を稼ぐ、と云うのも頷けた。

                      

生憎の雨となった。豊川稲荷は「妙厳寺」と云う広大な境内を有する寺院の境内に祀られていた。

         

 

この後、「さぬき路」と云う、讃岐うどん店の店主、N社のOBの方を訪ねて取材である。雨が激しくなってきた・・・。誰だ、行いの悪いのは?

                    

ここは、セルフスタイルの讃岐うどんだが、出前も注文もできる。この地で創業37年迎える、この店の二代目店主、が今回の主人公である。

                

乞う、情報誌11号であります。

 

以上、慌ただしくも優雅なる一週間でありました。

 

 

 

 

 

 

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稲荷すし

2014-09-18 | Weblog

9/18(木) 今朝も目覚めは、深夜であった。昨晩と違いラジオからの歌は聴へてこなかった。暫くぼんやりとしていると、四時の時報があった。考えるでもなく浮かんできたのは、十七・八年前のサラリーマン時代に勤務した現場での思い出であった。

『販売部門と工事・保守部門があったが、みなそれぞれに頑張ってたよな。市場が下町だったし、芳しい成果とは云えなかったが其々のスタイル・知恵というかやり方をもってたな・・・。保守稼働の生産性の向上と、無償保守の改善を頼んだが、結果をだしてくれた、とか。交通無事故3000日、達成目前に事故に遭ったが、貰い事故で軽いんじゃ、なかったことにしよう・・・・祝い酒を飲む機会を潰すな、とか。』いいメンバーに恵まれて、面白い職場だった・・・。

そんなことが浮かんだのは、この日にOB会の理事会があった。その後の懇親会で、副会長の某氏に「ARIさんは現場にいたことがないだろ?」と云われ、『いやいや、上野通営支店長をやりましたよ。芳しい成果はなかったけど・・・』と、暫く上野の話で盛り上がった。きっと、こんな会話をした所為であろう。

昨日は、午後から外出。行先は池袋であった。10月某日、女子ソフトボール界を牽引したUTUGI 前監督をインタビューする。その会場を押さえようと下見である。見込みをしたホテルに、内の担当が電話予約したところ満室と断られた。そこで、この暇なオッサンが直々に出向き、会場を押さえようと云う次第。

あれは、アテネでオリンピックが開催された年のことだ。我が相棒のTUGAWAさんをアテネに送り出した。私からの願いいは二つ、一つは塩野さんの小説で読んだ「ロードス島戦記」で知ったエーゲ海の島・ロードス島を訪ねて欲しいと云うこと。そして、もう一つが女子ソフトボールの試合を観戦してくる。という事であった。

女子ソフトボールの宇津木監督が何故か気になっていた。アマゾネス軍団を率いる、監督に刻まれた皴の一つ一つに物語があるように思った。何時か、この人を取材して、その物語を書いてほしい。そんな思いをTUGAWAさんに託した。その願いが漸く叶うことになった。OYAJIの想いに「千に一つの無駄もなし」と、云いたいぐらいである。

アフガンの地で、水路掘るペシャワール会の中村 哲ドクター然り、刻まれた皴の一つひとつに物語がある。そんな物語をひも解いてみたいと思うのは、単なる好奇心であろうか?。誰にも刻まれた皴がある、だから人間が好きだ、関心がある。その皴に刻まれた、ひだの底を溶きほぐし放ちたい。陽をあてる物語として・・・。

ホテルの広報担当に会い、事情を話すと、幸いにも早速に手配をしてくれた。万事めでたしめでたし。で、この後にOB会理事会に臨んだ分けだ。
思うに、何事も理を尽くし伝えること。どう伝えれば伝わるかを、考えてから伝えること。そして、顔を合せ、膝を交えることが大事だ。電話にメールと、便利なものに頼りすぎるのも善し悪しと、肝に銘ぜよ。

 

さて今朝の弁当は「稲荷すし」である。来週、稲荷神社で有名な豊川市を取材で訪れるからと云う訳じゃない。とはいいながらも、胸の奥で囁くものがあったかもしれない。

          

稲荷は出来合のものなので、暖めるだけ。飯を炊いて少しばかりの具煮たり、生姜を刻んだりだ。菜の方は「茄子&豚肉味噌炒め」「鶏団子と蒟蒻・人参・万願寺・オクラの煮物」「卵焼き」であった。何と、生姜に芽が出ていたぜ!このまま植えた方がいいかも。OYAJに芽が出ないので生姜が頑張ったか・・・生姜よアンタは偉い!。

                    

早朝ならぬ深夜からお目覚めだ、時間はたっぷりあると、五時から台所で遊んでいた。

           

久々にスムージーが飲みたくなり、冷蔵庫で凍えていたマンゴーと葡萄、トマトのスムージーを作った。美味かったね~、ほんのり甘く、実に清々しい味がした。

                   

今頃になって、玄関先の朝顔(ちょっと種類が異なるが)が満開、繚乱の如くになった。

                          

明日から帰省、そして週明けてから明石市、豊川市で情報誌の取材。帰京は24日の夜の予定。では、それまで、ご機嫌よう・・・。

 

 

 

 

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南松院と東光寺

2014-09-16 | Weblog

9/17(水) 昨夜の退社は八時過ぎ。それから「ローカーボ」で久々のフローズンダイキリを飲み、ハイボールを頂く。この日、情報誌の取材スケジュールが全て決まった。ホットした気分が、カクテルを飲む気にさせたか・・・。

                    

其処から、「ちょっぷく」に立ち寄った。奥で常連の助っ人隊の面々が賑わっていた。九月・二人の誕生日とかで、そのお祝いの最中であった。私もその場に拉致され、祝い酒の吟醸酒と焼酎(魔王)をふるまわれた。何時も元気なメンバーである。魔王は、SEIJUのママからのお祝いだとか・・・。

                    

 

  -南松院と東光寺―

故・小澤先生の奥様より「新生 10月号」(倫理研究所発行)と、致知の日めくりが、古い刊行物に紹介されている『南松院』の記事が届いた。奥様も九十歳に届こうと云う年令だがお元気のご様子である。

 出会いは、今を去る四十年余も遡る、古いこととなる。もうすぐ半世紀が経とうと云う頃のことだ。私自身は、そんなに月日が経ったとは思わないが、数へてみればそんな年月を経ている。それが『南松院』、臨済宗妙心寺派で、山梨県身延町下山にある寺を訪れた最初である。

と云っても、訪れたのは都合三度だけだ。最初は下見で、後の二回は夏の合宿でお世話になった。当時、私は剣道部のリーダーをしており合宿先を探していると、当地出身の部員(望月君だったか)から、この寺の住職が剣道家で寺の境内に道場が有ると聞かされた。それで、一度目は下見に来ている。それから二年連続してここで夏の合宿を行った。

『南松院』の住職は小澤常敏先生といい、学校の先生をされていた。気性のさっぱりした先生で、胸襟をひらき我々を快く受け入れてくださった。三十数名の部員とともに、地元の剣道愛好家を交えて稽古をしたのは、つい先のことのようである。

その後、私は転勤となりチームを離れ、合宿場所も変わった。が、小澤先生との年賀の挨拶状だけは先生が逝去されるまでつづいた。先生は、学校を退職された後、生家の寺『東光寺』(富士市南松野)を継がれ、南松院住職も兼務されていた。先生からは毎年、南松院へ東光寺へ、立ち寄るようにとお誘いを受け続けていた。

漸く腰を上げて、富士市の『東光寺』を訪れたのは、先生の葬儀の日となっていた。大勢の坊さんが居並んだ、住職らしい荘厳な葬儀の後、合間を縫って奥様に挨拶をした。驚いたような表情は多分、四十年ぶりに見る私の顔であったろう。確かに、あの頃の精悍で、ふさふさとした黒髪は跡形もないのだから・・・。そんな時代を誰も知らねえだろうから、なんとでも言えるが。

若かりし頃の合宿で、奥様にもお会いしてるし、お世話を掛けた。その頃の面影を探そうたって、お互いどこに有るやらだ・・・・。が、先生が亡くなってからは、奥様から賀状を頂き、時折、本山の冊子なども送って下さる。小澤先生は、私の亡父と同じ年頃であろう。先生は、お寺の修行で入った大学から、学徒兵として従軍しておられた。

そんなことを知ったのも、先生が亡くなれた後に奥様から贈られた本「辻参謀と七人の僧」と云う本で知った次第。それだけ先生と話をする、聞く機会がなかったということだが。

未だ奥様から、「奥さんも連れて、富士に遊びにいらっしゃい」と誘って頂くが、腰が重い(私の家人も当時の剣道部員であり、よく覚えておられる)。多分、私より先に逝かれれば、そっと葬儀の場の片隅に座らせて頂くことであろう。その折が、東光寺を再び訪れる日になろう。

  ―思い出は連鎖し―

昨日そんなことを、頂いた冊子などを見ながら思っていた所為か、深夜に目覚めた時「みんな夢の中」という懐かしい歌が聴こえてきた。ラジオを点けたまま寝入り、深夜の三時半に目覚めたのだ。そこで蘇ってきたのが、三島市本町の「バー・リラ」のマスターだった田村勝利さんのことであった。

「みんな夢の中」は、高田恭子さんが唄いヒットした。その高田さんをゲストに招いて、三島市の飲食業組合の創立何十周年かの祝賀会が催されたのは、私が未だ二十歳代の頃であったろう。当時、田村さんは、その飲食業組合の代表を当時されていた。

学生時代からバー・リラに出入りして昵懇となり、三島を離れる前の数ヵ月をリラのカウンターの中で過ごした。そんな縁で、サラリーマンになってからも度々三島を、リラを訪ねていた。何時も一緒に遊んでいたHOSOKAWAがTV業界に居たことから、マスターから相談を受けたのが、飲食組合の記念パーティの目玉として芸能人を呼びたいが・・・予算が限られている。であった。

TV業界でADやディレクターをしている業界人HOSOKAWAに話をし、無理が利く芸能人で名が知られている高田恭子さんに出て貰うことになった。勿論、表からではなく、裏からの出演であろうが。当日は、私もHOSOKAWAも会場に詰めたのは云うまでもない。かつてのヒット曲「みんな夢の中」を唄った。

深夜のラジオから流れるこの歌を聴きながら(唄は山崎ハコだったが)、あの日の三島のこと、マスター田村さんを思い出していた。それから十年程で、マスターは声を無くし、そして亡くなった。私が墓前を訪れたのは、更に十年程経った後のことであった。

 

 眠れないままに夜明けを迎えた。今朝は簡単に「オムスビ」と決めてあった。鮭とタラコを焼、梅干しを用意した。三種のオムスビを握った。小さいものを含めて都合九個。これを海苔で包んで完成だ。そして、卵焼きとゆで卵を作る。長女は、今日も休みだとかで弁当不要。

                

 

会社のベランダに置いた朝顔が、そろそろお仕舞の時期だが咲き誇って綺麗だ。例年になく、次世代に残す種も大きく膨らんでいる。

                           

 

 

 

 

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手抜き弁当

2014-09-16 | Weblog

9/16(火) 三連休は明けたが、天候の方は上日和がつづいている。その所為か、身も軽く財布も軽い?。朝夕もめっきり過ごし易くなり、愈々秋の陣の到来だ。アロハ姿でのんびりとしていた夏は去り、これからは鎧ならぬスーツに身を固めて出陣となる。が、何時までつづくやら・・・・。

さて、今朝の弁当だが・・・。またしても寝坊、起床は6時55分であった。なにやら、愉しげな夢をみていたようだ。この時間に起きると手間の掛かる菜は作れない。予定では、牛時雨煮を作るつもりでいたが、単なる「牛煮」になってしまった。飯は、手早く仕上がるガスに鍋を掛けた。

                         

他には、あまり美味そうでもない「サワラの西京漬け焼」と、パスタと人参・ジャガイモ・アスパラを茹でたサラダ。定番の卵焼きを、出汁巻きに仕立てた。口直しにと、万願寺とピーマンをオリーブオイルで焼いたものを添える。以上で、今日の弁当が完成となった。

処が、時間を過ぎても長女が弁当を受け取りに現れない。一向に現われないので、家人に電話をさせたところ「今日まで尾瀬に遊びに来てるよ~。昨日は、ソラ(四歳になった孫)が3kmの遊歩道を歩いたよ」と、ノー天気な返事だったとか。『ばかやろう~、居ないと、ちゃんと言って出掛けろ』と、私は毒づく。

               

私の場合、子供たちが小さい頃も何処へも連れていかなかった。否、一度だけ鎌倉に在った「ゆかり荘」という、職員クラブに行った覚えがあるか。そう云う意味からすると、長女一家はマメにお出かけするので、自分が子供のときへの反動か?

私の弁当も含め、三個の弁当が出来た次第だが・・・さて、一つをどうするかだ。新たな思案の種が生まれてしまった。右膝の具合が良くない、痛むのだ。体重を落として、膝への負担を減らさなくちゃ・・・。そう考えると、弁当二つは喰えないよな?

こんなことを書いている最中、地震の大揺れが来た。でかいぜ!震度四はあるな。とか、震源は茨城だ福島だと騒いでいる。今度の事務所が九階なので、余計に揺れを感じるのかもしれない。

揺れも治まったようだ・・・。飯にするか?

 

 

 

 

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久々に・・・

2014-09-15 | Weblog

9/15(月) 今日は月曜日なれど、祝日でお休み。敬老の日だが、田舎の老母には電話でのご機嫌伺いだけで済ませてしまった。そもそも、三連休も最後の今日が敬老の日だなんてことすら忘れていたのだ。それでも虫の知らせか、何気に朝の内に電話ができて良かった・・・。

先週は小忙しくて、毎日バタバタしていた。情報誌の企画が固まり、その取材依頼書作成、アポやスケジュール調整等々。挙句に急遽11日に取材を組んだりと落ち着かなかった。また10日には、従姉が娘婿の見舞いに郷里から上京、私もそれに同行してのお見舞い。11日は急遽決めた取材で沼津市へ、大急ぎで帰京した夕方には、WATANABEさんの退任慰労会の幹事・・・。

翌日12日の午後は、軽井沢で静養中のKIYOTAさんのお見舞い兼飲み会で軽井沢へと向った。ここでは、KIYOTAさんの知人ご夫妻を交えてのバーベキューパーティー。翌朝は、嬬恋村のキャベツ畑と「愛妻の丘」とやらへドライブ。13日、土曜日の夕方に東京に戻った。

この間、取材先の変更や候補探しなども発生。落ち着かぬ一週間であった。それでも、毎晩酒場には顔を出し、月曜日~金曜日の弁当だけは忘れなかった。が、寝坊もあったりで手抜き弁当、レトルト食品利用弁当も出現した。

では、先週の火曜日から、土曜日までの出来事を、写真で簡単に紹介しようではないか・・・。

 

先ずは9/9(火)だが、この日は確か満月だった。昼前に某社でHIROKIさんの慰労会の最終打ち合わせ、昼はNAKAJIMAさんとランチをしながら、慰労会への出席を依頼。午後は柏駅で、情報誌の取材打ち合わせでIWAMOTOさんと待ち合わせ。夜は、衆議院議員SAKAI・MANABUのパーティが横浜シェラトンホテル。と、予定が目白押しだった。

それに、前日が会社の30周年記念日だったので、近隣で長く世話になっている店に「紅白饅頭」を届けることを考えていた。取材依頼の処理などで、結局事務所を出れたのは、18:30過ぎとなった。「高松」へ顔を出し、「ローカーボ」でハイボールを一杯やり「ちょっぷく」でワインを一杯と、顔を出すと何も飲まないで帰るのも・・・、で横浜のパーティーに顔を出すのは諦めた。ここから、渋谷「奈加野」へ廻った。それから今夜オープンと案内があった元・缶詰BARに顔出しした。

想定外だったのは「奈加野」のカウンターに、大先輩のような面構えながら剣道部後輩のKEISUKEが酔っ払って一人飲んでいたことだ。こいつは昔からこんな面だし、酔うとしつこい(皆同様か)。暫く彼を相手にして、先に返した。或る仕事のことで、彼の処理の拙さに腹を立てていた時期もあったが、今更である。

それでも渋谷で二軒の店を廻って家路に就いたのは23時頃でなかったろうか。夜空には中秋の満月が、薄雲の上に輝いていた。

                      

               「美味いね」饅頭を頬張るヤマチャン        見上げてご覧、満月よ!

10日、寝坊をして起床は7時であった。残り飯があったので、これを弁当に使う。菜は、掻揚げを作り「掻揚げ丼」にしてお茶を濁す。

               

この夕片は雷雨、豪雨となった。以前から約束の某社のMAEDA部長が人形町に。激しい雨のため暫く足止めとなった。一緒に懇談のTUGAWAさんはずぶ濡れになって会社に現われた。会社の傍の居酒屋で二時間ほど懇談。一旦会社に戻り、翌日の取材の準備をし、AOKIと「ちょっぷく」にて更にもう一杯となった。

11日、午後から沼津市で取材。取材相手は、御年80歳になるフラダンスのお師匠さん。待ち合わせの支所に現われたピンクのムームー姿に圧倒される。この日集まった12人のメンバーを指導するときは衣装が変わり、赤のムームー。踊る姿は流石に様になっている。明るくて元気、乳がんで苦しんだと云う五年前の姿は想像できなかった。

               

                   手で歌詞やシーンを表現するとか、その様は優美である。

そして、夜。麻布のクラブノックスにかつてのメンバー26名が集まって、HIROKIさんの副社長退任を労う会であった。この夜の最高齢者はTANAKAさん、御年84歳になったそうだが、退職された26年前と全く変わらない。私も26年ぶりに会ったが、驚きであった。先ずは主賓のご挨拶・・・。宴もたけなわになり、それぞれに想いでを語ってもらう。

             

この会で失敗したのは、進行役(司会)を早く振っておけばよかったのが、振り忘れていたこと。結局、言語不明瞭・意味不明の私がやる羽目になったことだ・・・。  二次会は、NAKAJIMAさん、IKEGUCHI、IYOKU、TOMOKO、KUNIEDA君で、麻布十番の居酒屋であった。何故か、疲れていた。

 

12日、疲れていたが先ずは弁当を作った。「チンジャオロースー」「根菜煮」「小松菜・シメジの卵炒め」「焼き鯖」であった。この日は、全休にすることにした。が、一旦は会社に顔を出して、何件かの用を済ます。OKAZAKI氏から電話を貰い、人形町「ベローチェ」にてコーヒー。

                

 

軽井沢のKIYAOTA別荘では、バーベキューをやることになっていた。午前中に、人形町「日山」で食材を買い込んだ。昼、迎えに来てくれたTAKAHASHI君の車で軽井沢へ向かった。都内は混んでいたが、高速に入ると快調。到着は、三時半頃であったか。迎えてくれたKIYOTAさんと、別荘地の管理事務所のカエヘで、コヒータイム。流石に軽井沢、涼しい・・・。夜のテラスでのバーベキューは肌寒いぐらいだった。

                   

頸椎損傷で寝たきりだったKIYOTAさんも、杖が無くても歩けるまでに回復していた。「リハビリあるのみ、頑張る」と云う。この調子なら、来春にはゴルフも出来るようになりそうだ。今回の訪問は、お見舞いと激励、久々に顔をみて懇談であった。ところがKIYOTAさんは、私の仕事のプラスになればと、ゴルフ仲間の某社・社長さん夫妻を呼んでくれていた。お気遣いに深謝であった。

翌日の13日、別荘裏の蕎麦畑を散策し、嬬恋村のキャベツ畑を見にドライブ。三時間ほど浅間山の周りを周遊した。帰路、軽井沢に向かう長蛇の列の車を尻目に、スイスイと走り東京へ帰ったのは、午後三時過ぎであった。

                

         蕎麦畑の向こう、雲を被った浅間山                        愛妻の丘から野反湖方向を

 

 

 

 

 

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