あの場所は、夢とうつつの境界であった。
そして、そこを通り過ぎると、もう迷宮なのである。
サスペンスとも、ホラーとも違う、不思議な作品である。
山本亜紀子原作の「真木栗ノ穴」(原作長編小説「穴」)は、作品自体異色の小説だ。
当然、深川栄洋監督のこの映画も大変面白い。
原作小説の世界に鮮烈さとユーモア、匂い立つようなエロティシズムを加えて、一種不思議な物語世界をつくりあげた。
昭和モダンの香りもする。
しかし、何やら妖しげな、ミステリアスな雰囲気が漂ってくる。
思わず引き込まれていく。
古都・鎌倉のひっそりとした一角、緑と水に濡れた釈迦堂切通し・・・。
そこを過ぎたところに、おそろしく古いアパートがある。
そのアパートの一室で、一人の男が小説を書いている。
売れない作家、真木栗(西島秀俊)だ。
彼は、作品が書けないで悩んでいた。
その彼に、書ける筈もない官能小説の依頼が舞い込む。
真木栗は、ひょんなことから、自分の部屋の壁に小さな穴を見つける。
そして、穴の発見にあわせるように、隣の部屋に白い日傘をさした女(粟田麗)が引っ越して来た。
これが、夢とも現実ともつかない、幻想の始まりであった・・・。
真木栗は、取り憑かれたように、その穴から自分がのぞき見たことを小説に書き始めた。
彼は、知らないうちに、壁の穴の向こうの女の虜になっていった。
そして、いつしか彼は、妖しい世界にのめりこんでいくのだった・・・。
観客が、まるで真木栗とともに、穴から隣の部屋をのぞきこんでいるいるかのように・・・。
物語が進むにつれて、信じられないような、意外な展開が待っていた。
妄想は、やがて怖ろしい幻想となる・・・。
これは、深川監督が新たに挑んだ幻想の世界だ。
・・・その場所を過ぎると、懐かしくて、恐いところだった。
ここからが夢とかうつつとか、いろいろな解釈が出来る仕掛けである。
原作は、額縁のない絵のようなもので、原作の中に何かを付け加えるとすれば、‘額縁’だろうと深川監督は言う。
幻想だから、向こう側からは、壁の穴を通してこちらは見えないのか。
何か、摩訶不思議な世界である。
迷宮に入ってしまったような錯覚にとらわれる。
切通しを過ぎたあのアパートは、幻想の世界だったのか・・・?
他人の生活の内情とか、心理の奥底をのぞき見たかのように、作品は描かれる。
このドラマのように、作家によって空想して書かれた虚構でも、それをなぞったように似た事件が起きることもある。
誰にも知られずに一方的にぞいていた自分が、はかりしれない存在から逆にのぞかれ、大きな罠に誘い込まれていくという、不気味な怖さを思い知らされるようだ
深川栄洋監督の映画「真木栗ノ穴」は、風変わりで、まことに奇妙な雰囲気に溢れた作品なのだ。
いかにも映画的な、魅力的な小品である。
そこには、ある種の‘切なさ’が潜んでいて、観る者に、とらえどころのない、どきどきするような余韻を与える。
人は誰も見えているものがすべてだと思って生きているが、実際にはすぐ背中合わせに見えない世界が存在しているのかもしれない。
もしかすると、見えていない世界こそが現実であり、私たちが見ているこの世界は幻なのかもしれない。
なぜなら私たちの命は、幻のように刹那的で、儚いものだから。 (原作・最終章より)
一口で言うと、ドキュメンタリーアートのような作品である。
これは、今年90歳になる新人監督・木村威夫の長編劇映画デビュー作だ。
これまでも、数々の作品で美術監督を担当した木村監督が、彼自身の美学の集大成とも言える作品を創り上げた。
それは、過去、現在、未来をつなぐ人間模様だ。
最初のシーンで、空襲の中を逃げまどう男(永瀬正敏)と女(上原多香子)の姿が映し出される。
二人は、ごつごつしたコブの沢山ある一本の木の根っこ辺りに寄り添って助け合う。
空襲の炎の下で、頼りなくうずくまる人間たちの不安・・・。
・・・これは、主人公の老人の六十数年前の悪夢なのだ。
この木は、あの時助け合った、のちに画家となる女が描いた絵になったりして、この映画の中で繰り返し象徴的に現れる。
木室創(長門裕之)は、映画を専門とする学院の院長に就任した。
その中で、村上大輔(井上芳雄)という、一人の学生を気にかけていた。
大輔は、60年前の戦時中に、自分たちのような若者が、たくさん死んでいったことの不条理さに苛立ちを感じていた。
そして、戦時中を生きた木室に、その思いをぶつけていた。
また、木室の妻エミ子(有馬稲子)も、60年前に大切な人を亡くし、生き残ってしまったという思いから、いまだに抜け出せずにいたのだった。
木室自身も、また過去を背負ったまま、老いて死を迎えようとしていた。
しかし、大輔は精神病を患い、学院を中退した。
彼は、その後木室と交わした手紙の中で、自殺をほのめかしていた。
木室は、大輔の生への魂の叫びを感じ、何とか思いとどまらせようと手をつくすのだが、そうこうしているうちに、小室夫妻にもある変化が訪れはじめていたのだった・・・。
木室と村上の世代を超えた交流、そこに浮き彫りにされる木室と妻、老夫婦の過去・・・。
木村威夫監督自身の、決定的な体験となった戦争を見すえながら、老いと若さ、男と女、生と死を、象徴的に独自の映像美でアートのように表現する。
創り方も、かなり凝っているし、映画美術に対する、感性の確かさはさすがに優れているものがある。
木室と、病をかかえて苦悩する青年村上大輔との出会いに、かつて戦争で散っていった若者たちの命を重ね、失われた青春の慟哭が綴られる。
この作品には、面白いストーリーがあるわけではなく、様々なものの考え方を代表する人物の組み合わせによって、ドラマを展開するというのでもない。
そんなことは、木村監督にはおかまいなしなのだ。
戦中、戦後の暗い谷間を生きた、木村監督自身の思い入れたっぷりの回想録の趣きをなしている。
出演はほかに、観世栄夫、浅野忠信、宮沢りえ、桃井かおりら、かなりの俳優陣が揃っている。
ただ映画「夢のまにまに」は、木村監督の独自の美学へのこだわりが強く感じられ、回想シーンや場面の切り替えも多く、作品の期待のわりには、退屈な部分もあって、観ていていささか重たい。
暮れるのが早い街に、夕闇が降りて、火ともし頃の伊勢佐木町を歩いた。
伊勢佐木モールは、華やかな☆イルミネーション☆に溢れ、控えめに♪クリスマスソング♪が流れていた。
JR の関内駅に急いでいた。
いつもは地上の交差点を横断するのだが、この日は地下道を通ってみた。
そこには、数人のホームレスがいて、寒そうに身をかがめていた。
夏の暑い頃には、駅裏の高架下で、ダンボールで組み立てた‘小屋’に寝泊りしていた人たちだ。
何故か見知ったホームレスが一人いた。
といっても、こちらが見覚えがあるだけのことだが・・・。
彼は、顔が隠れるほどひげをいっぱいに生やしていた。
見ると、ほの暗い灯りの下で文庫本を開いていた。
何と、夏目漱石を読んでいたのだった。(!)
(それは、小さな、しかし嬉しい驚きであった。)
ほかのホームレスたちは、寝ている者もいたし、何処から仕入れてきたのか、パンのかけらをほおばっている者もいた。
これから、寒さも一段と厳しくなる。
暖房も何もないこんな地下道では、冷たい風が何処からともなく吹き抜けてくる。
こうして、年の瀬、新年を迎えるのだろうか。
寒いだろうなあ。
風邪をひかないだろうか。
地上では、街には♪クリスマスソング♪が流れ、人々はせわしく行き来している。
今年も、残り少なくなってきた。
いま、日本全国で16000人以上ものホームレスがいると言われる。
神奈川県で、目視確認されているだけでも2000人以上だそうだ。
しかし、この数字は、こうした「路上生活者」だけのことで、最近増え続けている、若者を中心とした「ネット難民」を加えると、大変な数字になるだろう。
これを、格差社会(貧困)の落とし子といって、済ませることができるだろうか。
(以前、大船にも、いつも大きな荷物を背負った、小母さんのホームレスがいたが、あの女性は何処へ行ったのだろう?)
ここにきて、企業の倒産、そしてとどまることを知らないリストラが相次ぎ、庶民の懐は底をつき、年を越せない家庭もゾロゾロと出始めている。
本当に、先の見えない世の中になってきそうだ。
通りがかった家電販売店の大型テレビに、麻生総理の肌ツヤのいい笑顔がデカデカと映っていた。
「家計を支え、中小企業を守り、地方を元気にする!」
「麻生、実行中」とナレーションの入った、何とも品のない(!?)コマーシャルが大音量で聞こえてきた・・・。
「・・・この国のために、すべての人のために、アナタのために、動き続けます!」
へえ~っ、そうですか。
本当にそうですか。
何やら、♪♪聞けば聞くほど、空しさばかりがつのります・・・。♪♪
いままで、麻生政権は何をやってきたのか。
何もやらないから、国民は苦しんでいるのではないのか。
まるで、政治サギのような・・・。(いや、まったく)
すべてが、空疎である。
それで、政府首脳は「まだ2ヶ月だ、これからがよくなる」なんて言って、威張っている。
とんだ、おためごかしではないか。
死んだふりをしたかのような、この国の無能政治は、かくして来年もまた続くのか。
何でも、‘100年に一度’の大恐慌がやってくるというではないか。
師走の木枯らしが、ひときわ身に沁みる・・・。
公園のベンチに、若い母親と幼い男の子が腰かけていた。
人のよさそうな小母さんが通りかかった。
「あら、可愛いお坊っちゃまだこと!」
その声に、母親は、小母さんの方ではなく、息子の顔を見た。
「色が白いのね。ハンサムだわ」
「・・・」
「そうだわ。これをあげるわ」
そう言って、小母さんは子供に飴玉を手渡そうとした。
若い母親は、それを制した。
「あ、結構です。・・・すみません、この子、甘いもの駄目なんです!」
「は?」
「甘いものは駄目なんです。ごめんなさい」
その言葉で、小母さんはすべてを了解したようだった。
「あら、そうでしたか。ごめんなさいね」
「いいえ、どうも」
男の子は、残念そうな顔をして母親を見つめた。
小母さんは言った。
「おいくつですか?」
「まだ二歳です」
「そうですか。あなたも、とってもいいお母様ね。元気な子に育つとよろしいわね」
「はい」
「じゃあ、ごめんください。失礼しました」
小母さんはそう言うと、立ち去っていった。
若い母親は、ほっと胸をなでおろした・・・。
母親の気持ちは理解できる。
この母親の家では、日ごろから、子供に甘いものを与えないようにしていた。
ジュース類や果物はもちろん、クッキーなども禁じていた。
父親は、そこまで徹底している彼女を見ても、何も口には出さなかった。
彼女は、育ちゆく子供に、甘いものの取りすぎはタブーだと決めつけていた。
健康のことを考えるあまり、それは当然のことだった。
虫歯にならないようにとの配慮もあった。
親心であった。
母親は、自分自身も甘いものはひかえていた。
子供の嗜好は、母親に似るとも言われる。
親が甘いものを好きだと、子供までが甘いものを好きになるそうだ。
つまり、親の嗜好が子に影響を与える。
このことは、あながち見当違いなことではない。
親は、だから気をつけなくてはいけない。
幼い頃から甘いものばかり与えていると、虫歯も増えるし、肥満も心配だ。
食事にしても、親の好き嫌いで調理される食べ物を、子供は口に入れるわけだ。
親は、自分の好きなものを調理しがちだ。
人間は万能ではないのだから、好き嫌いはある。
母親が、自分の好きなものばかり作って子供に与えていたら、子供はその食べ物以外の食べ物を知らないままに年をとっていくのだ。
よそで口にした料理の味を知って、はじめてこんなに美味しいもの(?)があったのかと知らされることだってある。
親は、自分の好き嫌いを早いうちになくした方がいい。
そうしないと、子供たちは偏食がちになる。
偏食は、いずれ多くのリスクを負うことになる。いいことはない。
それが怖い。
年をとってからでは遅い。
生活習慣病の予備軍にならないためにも、子供のときの食生活はおろそかにできない。
好き嫌いのない子に育てるには、親が好き嫌いをなくすことだ。
直木賞作家・重松清の原作を得て、中西健二監督が、いまこの国に顕在する中高生のいじめ問題に真正面から取り組んだ作品である。
前学期、いじめられた一人の男子生徒、野口が起こした自殺未遂で、その中学校は大きく揺れていた。
新学期の初日、そんな二年一組に、一人の臨時教師・村内(阿部寛)が着任してくる。
教師の挨拶に、生徒たちは驚く。
彼は吃音だったのだ。
上手に喋ることの出来ない村内は寡黙だが、そのぶん“本気の言葉”で、生徒と向かい合う。
そんな彼が、初めて生徒たちに命じたのは、野口の机と椅子を、教室の元の位置に戻すことだった。
そして、毎朝彼はその席に向かって、「野口君、おはよう」と声をかけ続けた・・・。
それを見て、凍りつく生徒たち・・・。
一刻も早く、「事件」を「解決」にしようとする教師たちの「指導」で、ひたすら反省を作文にし、野口のことを忘れようとしていた彼らは、動揺し、反発する。
村内教師の行為は、二年一組のクラスだけでなく、職員や保護者たちの間にも大きな波紋を広げていった。
だが、村内はそれを止めようとはしなかった・・・。
この作品は、単なる学園ものではない。
登場する中学生は、まさに現在の自分かもしれない。
そういう気持ちで観たとき、いろいろなことが観えてくるだろう。
人の心を傷つけるとは、どういうことなのか。
傷つけてしまったら、その後どうしなければいけないのか。
村内教師を通じて、人の気持ちを想うとはどういうことなのか、感じられるものは何か。
そして、人と真剣に向き合うということはどういうことなのか、ということも・・・。
人の話を真剣に聞く・・・、ということはどういうことなのか。
ついつい本音を隠して、建前でやり過ごしてはいないだろうか。
自分の状況に行き詰まったり、気持ちに余裕がないと、他人への気配りもできなくなる。
そういうことって、誰でもよくあることだ。
その答えが、このドラマにはほの見えているような気もする。
彼らは真剣だ。
「嫌いな奴に、どう接したらいいのか」
「大人だって、嫌いな人、嫌な奴っているでしょ?そういうのってどうしたらいいのさ?」
「誰かを嫌うのも、いじめになるんですか?」
もし、もしそうだとしたら・・・。
まわりから疎まれて、誰からも相手にされず、孤立している生徒がいるとしたら、周囲の生徒や先生はどうしていけばよいのだろうか。
国語や算数を教えるだけが、教師の務めではない。
相手を思いやる心を教えるとは・・・?
「人生哲学」を持った教育って何だろう。
どうすれば、いじめはなくなるのだろう。
考えさせられることは多い。
いじめを苦にした生徒の、自殺未遂という事例を発端とするこの物語は、被害者の生徒でも、直接の加害者でもなく、その周囲にいたごく普通の生徒の心の動きによって描かれ、進行していく。
静かな間があって、説明的なセリフは一切ないのがいい。
そのかわりに、心に残るセリフ、グサッと来るセリフが沢山あって、うまいことを言うなあと感心する次第・・・。
この年代の子供たちにとって、事件に対する悩みは繊細で純粋だ。
彼らはそれを持て余し、いらつき、無言のうちに自分と向き合い、手を差し伸べてくれる誰かを待ち続けているのだ。
村内教師と、生徒たちが一緒に過ごした時間はたったの1ヶ月である。
その不思議な存在感で、生徒に向き合う一人の臨時教師と、まだ14歳の感じやすい孤独な子供たちの戸惑いや反発は、どこかお互いの心の深い部分で通じ合ってゆくものだろうか。
中西健二監督の映画 「青い鳥」からは、そんな問いかけを強く感じとることが出来る。
この作品が、劇映画監督デビューとなる中西健二は、灘高、東大卒という俊英だそうで、今後の活躍が期待される。