8月19日に亡くなっていたとの報道を目にした。
自宅として挙がっていたのは、伊豆の国市?だ。伊豆の国市ってどこの事だ?福岡県飯塚市に住んでいると思っていたが。
僕が最初に就職した会社の『代表』だった人。社長?会長?だったか?
夢の大きな人だったと思う。従業員に夢を見させる人だったと思う。大風呂敷を広げているとか、法螺吹きとか言われていた。出来もしない事を言うのだ。マスコミは面白がって大きく取り上げた。僕が入社した頃、日本の小売業で一番海外の店舗数があった。シンガポール、マレーシア、香港、ブルネイ、台湾、アメリカ、コスタリカあたりにあったはず。
日本では静岡県、神奈川県、愛知県、山梨県くらいのローカル企業なのに、面白い事やるなと僕は思っていた。まさに他と比較のしようのない会社だった。オンリー・ワンだった。当時は日本全国から社員が集まっていた。彼の語る夢を面白がってた人もいただろう。僕はそうだった。
日本の店は堅調で、日本で儲けたお金を海外につぎ込んでいたのだが、海外でうまくいっているところはおそらく無かったのだ。派手にアドバルーンを上げて、マスコミからちやほやされてはいたが。
彼の周りにはイエスマンしかいなかったみたいだった。彼には良い話しか報告しなかったようだ。弟達も社長や副社長になったりしたが、彼に何か言える人はいなかったのだ。あるいは、彼は本当に何もかも上手くいっていると思っていたのだと思う。時代はバブルを迎えようとしていたし。日本にというか、静岡県には強力な競争相手はいなかったのだ。
ブレーンが弱かった?腰巾着みたいな重役も何人もいた。彼本人のチェックが甘かった。長期的な見通しも大いに甘かった。破綻して放漫経営と言われた。
メインバンクを大事にしなかった?という事になるのだろうか?メインバンクって当時の東海銀行だったのだろうか?メインバンクに頼らずにワラント債だか転換社債で市場からお金を集めた。バブルがはじけて株価が落ちた。東海銀行という銀行は取引先を助けるどころか、クレジットカード(ミリオンカード)からの売上金の入金を遅らせて嫌がらせをして揺さぶりをかけたりしてきた。とんでもない銀行だったのだ。結局社債の返還時期にお金を用意できなかった。会社更生法の適用を申請。事実上の倒産。
その頃は売上金を貯めておいて支払いをしたりした。僕たちの夏のボーナスも出なかった。給料も遅れ始めた。店に商品が入って来ないから、何もない陳列棚がいくつもあった。商品を納品してくれる数少ないメーカーの同じ商品が沢山並んでいた。
当時のジャスコ(イオン)の岡田卓也社長は、『雇用を守らなくてはいけないから』と言って、東海地方の数十店舗を破格値で手に入れた。
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